探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

豊丘村「神稲」と「佐原諏訪神社」について

2016-08-24 14:55:30 | 歴史

豊丘村「神稲」と「佐原諏訪神社」について

 参照:「再び、伊奈忠次の出自を追う。易次を熊城(蔵)の里へ。神稲。」 押すとコーナーが参照できます


佐原諏訪神社(借用)

以下の文章は、頂いたコメントに対しての私の考え方です。
長くなったので、ブログ本文に掲載します。

 
くましろ=神稲代、神稲の意味は、どこかで読んだ覚えがあります。
明治五年、付近の数村が合併し、「神稲」の村名が選ばれたときの由来が気になっていました。
 ・田村,林,伴野,福島,壬生沢の5つの村が合併してできた村名です。
 ・しかしその中にもともとに江戸以前から使われていた「神稲」の名前はありませんでした。
 ・「神稲」という意味深な名前が突然出てくるとは思えません。
 ・なにか、その地方に伝わる呼び名があるのではないかと疑っておりましたのですが・
 
 ・その一つが、神社の神領(荘園)です。ただこの場合は小さな疑問が残ります。
  >神社自体が大きな社格をもち、かつ神官が常駐していること。
  >この場合は、官製の意味があり、通常は記録が残っている場合が多い。
  >神社の神領は、神社の”神聖”から、当時の習わし・”まかない”・”経営”を直接自ら行うという例が少ないこと。つまり領主とか地頭とかの役割を自らは行わない。
  ・そこは、付属する寺に経営を任せる・別当寺ないし神宮寺がある場合とか。
  ・上記がない場合は、別当ないしは代官が経営する場合。
   --(伊勢神宮の荘園(御厨)代官)(諏訪上社の神領の代官)など。
  ・「佐原諏訪神社」は、それらの条件を充足する規模だったのでしょうか?
 ・「神稲」の神領の規模が大きくなくても、公に認められていなくても、その地域の内々で神領としてそう呼んでいた可能性も否定するつもりはありません。
 ・豊丘村の郷土史「豊丘村誌」を借りて読んだことがあります。しかし、「手形」の記載はあるものの詳しい記述はなかったと記憶しております。(見落としていることがあったらごめんなさい)。
 
 ・今一つが、壬生沢あたりに、いくつか古城がありますが、
 ・その一つを俗称で”熊城”・・・呼び名が”くまじょう”とも”くましろ”とも呼ばれており、
 ・地域名を”熊城”とするにはあまりに直接的なので、
 ・博識の古老がひねって”神稲”としたのではないかと・・・
  ・・・そうすれば、壬生沢に残る”逸話”とつながりストーリーができる、
  と勝手な想像を掻き立てたのは事実であります。
   
  ・可能性はありますが、証拠立てる史実を見つけることはできませんでした。
  
 ・三つめは、この地域には”垣外(=ガイト)”という地名が散在します。たぶん”柿外土”も垣外の文字崩れ、別名と読めます。
 ・中宮という地名も見えます。
 ・垣内と垣外は、”聖なる地”の内部と外部の区分の場合が多い。”聖なる地”は通例は、仏閣よりも社格(神社)の方が多いそうです。一般人は、垣外にしか住めません。
 ・それと、中宮との関係も見えてこない、のですが、かつて、この地方の何処かに、信仰を集めた規模の大きい神社(あるいはそれに類するもの)が存在したのではないか、と暗示させます。
 ・これについての、歴史的考察を目にした覚えがありませんので、歴史研究されなかったのでしょう。 ・・・地名に残るということは、”かって存在した可能性”は、かなり高いと思えます。
 ・歴史から消えたのは、武田・知久の戦乱以前の、戦乱で焼失(消失)したのかもしれません。
 ・「武田・知久の戦乱」は、記録がかなり残っているので、古文書の焼失は否定できませんが、建物の焼失の中にはそれらしきはありません。
  
・とにかく、「神稲」という意味深な名前が突然出てくるとは思えません。
・ここらへんの事情は、地元の古老はご存知かも、と思いましたが、なにやと忙しく過ごし、失念しておりました。
・もしご存知なら、あるいはご存知の方とお知り合いなら、是非に教えて、と願うものです。

 ・・・いただいたコメントに対して


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