前節で、保科正直の病気のことを嘘くさい、と書いた。
・・・長篠の合戦で、勝頼が大敗北を喫したことを、病気の隔離牢で伝え聞いて、正直はこの牢を周りの協力で破って出ます。幽閉の牢を出てから、食事をし、馬を用意させ、鎧をみにまとい、そのまま乗馬して、主人勝のもと根羽へ駆けつけます。正直につづく家臣は少数でした。・・この様子を考えると、正直の病気(労咳=結核)は何とも嘘くさい。・・・
これが前回の記述です。
ウィキペディアによれば、結核とは、マイコバクテリウム属の細菌、主に結核菌により引き起こされる感染症にあたる。結核菌は1882年に細菌学者コッホによって発見された。日本では、明治初期まで肺結核は労咳と呼ばれていた、とある。また症状は、当初は全身倦怠感、食欲不振、体重減少、37℃前後の微熱が長期間にわたって続く、就寝中に大量の汗をかく等、非特異的であり、咳嗽が疾患の進行にしたがって発症してくる。昔は「不治の病」「難病」と呼ばれていた。 現在でも、多くの人がなる病気である。との記述がある。
この労咳の症状を踏まえ、さらに”うつる”という伝染性の特徴を考えると、保科正直は牢を破り、勝のもとに駆けつける体力があったのだろうか、かなりの疑いがある。更に言えば、幽閉までされて隔離されている様を見る時、正直を助けた家中のものや勝及び勝の周りのものに”うつる”危険を考慮しなかったのか、これも大いに疑問である。
つまり、保科正直は、どう見ても仮病を偽り、敗戦を予測する長篠の合戦を回避したとしか思えない。またこの仮病は、家族のみならず、保科党の家中の了解の事項でもあり、父正俊も関与ししていた可能性がある。
同様ではないが、内藤昌秀の事例がある。内藤昌秀は、正直の弟の昌月の養父である。信玄が死んで、武田勝が相続し、武田家の盟主になると、勝は、家臣に、信玄同様の忠誠を誓わせる誓詞を出させた。しかし内藤昌秀は、なかなか誓詞を出そうとしなかった。じれた勝は、盟主の方から昌秀に誓詞を出そうとまで言ったそうである。
また、保科正俊は、信玄が死んで、高遠城主代に武田信綱がなると、病気と言ってさっさと引退してしまう。
この保科正俊と内藤昌秀の間でなにがあったのか資料が見いだせないが、どうも武田の将来を見限って、二人とも引退を決意していた節がある。関係があるとすれば、内藤が工藤を名乗っていた時の、深志城の改築のあたりだが、今のところ不明・・・どの程度かは想像できないが、重臣の一部が、勝の能力を疑い、かつ統率力やカリスマ性に不信を抱き、長篠戦の敗北を予測しており、事実そのようになった。勿論保科正直も、予想した敗戦を回避する、仮病という方法をとったのだと思う。