探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

保科正直君の生涯・・・物語風6

2013-07-30 23:03:17 | 歴史

前節で、保科正直の病気のことを嘘くさい、と書いた。

・・・長篠の合戦で、勝頼が大敗北を喫したことを、病気の隔離牢で伝え聞いて、正直はこの牢を周りの協力で破って出ます。幽閉の牢を出てから、食事をし、馬を用意させ、鎧をみにまとい、そのまま乗馬して、主人勝のもと根羽へ駆けつけます。正直につづく家臣は少数でした。・・この様子を考えると、正直の病気(労咳=結核)は何とも嘘くさい。・・・
これが前回の記述です。

ウィキペディアによれば、結核とは、マイコバクテリウム属の細菌、主に結核菌により引き起こされる感染症にあたる。結核菌は1882年に細菌学者コッホによって発見された。日本では、明治初期まで肺結核は労咳と呼ばれていた、とある。また症状は、当初は全身倦怠感、食欲不振、体重減少、37℃前後の微熱が長期間にわたって続く、就寝中に大量の汗をかく等、非特異的であり、咳嗽が疾患の進行にしたがって発症してくる。昔は「不治の病」「難病」と呼ばれていた。 現在でも、多くの人がなる病気である。との記述がある。
この労咳の症状を踏まえ、さらに”うつる”という伝染性の特徴を考えると、保科正直は牢を破り、勝のもとに駆けつける体力があったのだろうか、かなりの疑いがある。更に言えば、幽閉までされて隔離されている様を見る時、正直を助けた家中のものや勝及び勝の周りのものに”うつる”危険を考慮しなかったのか、これも大いに疑問である。

つまり、保科正直は、どう見ても仮病を偽り、敗戦を予測する長篠の合戦を回避したとしか思えない。またこの仮病は、家族のみならず、保科党の家中の了解の事項でもあり、父正俊も関与ししていた可能性がある。
同様ではないが、内藤昌秀の事例がある。内藤昌秀は、正直の弟の昌月の養父である。信玄が死んで、武田勝が相続し、武田家の盟主になると、勝は、家臣に、信玄同様の忠誠を誓わせる誓詞を出させた。しかし内藤昌秀は、なかなか誓詞を出そうとしなかった。じれた勝は、盟主の方から昌秀に誓詞を出そうとまで言ったそうである。
また、保科正俊は、信玄が死んで、高遠城主代に武田信綱がなると、病気と言ってさっさと引退してしまう。
この保科正俊と内藤昌秀の間でなにがあったのか資料が見いだせないが、どうも武田の将来を見限って、二人とも引退を決意していた節がある。関係があるとすれば、内藤が工藤を名乗っていた時の、深志城の改築のあたりだが、今のところ不明・・・どの程度かは想像できないが、重臣の一部が、勝の能力を疑い、かつ統率力やカリスマ性に不信を抱き、長篠戦の敗北を予測しており、事実そのようになった。勿論保科正直も、予想した敗戦を回避する、仮病という方法をとったのだと思う。


保科正直君の生涯・・・物語風5

2013-07-25 04:46:47 | 歴史

この戦いで、保科家の面々はどうしていたのでしょうか。
保科正直は飯田城の城守として、、坂西織部とともに守っていました。嫡子正光は新府(韮崎)に人質に出し、正妻の跡部の女は、最初高遠城近くの保科居城の藤沢城におり、後に高遠城に詰めます。
隠居した正俊は、正直の弟たちの喜兵衛と正勝とともに、最初は藤沢城に、織田が迫った時は、正直の正妻に喜兵衛を付けて高遠城に詰めさせた、と思われます。
 
この稿は、織田信忠の高遠城攻めの前後を記述します。記述は、保科正直の事ですから当然「赤羽記」を基本にします。その為に、この頃の記載の赤羽記の現代語訳を7/27に追記してあります。そちらも参考にして下さい。多少時系列で重複しますが、ご容赦を・・

上林彦三郎
まず、高遠頼継時代、頼継の家老として、保科正俊と同僚であった上林入道は、信玄に頼継謀反を讒言して、一時は信玄の信頼を得るが、主人を売った男として周囲から冷たく見られるようになり、死んだ後、息子の彦三郎が後を継ぐ。彦三郎は、正俊の娘婿で正直の従兄弟でもあった。勝の時代になっても、主人を売った家系として、彦三郎に冷たい視線は刺さった。そんな折、長篠の合戦が起こった。彦三郎はこの戦いに期するものがあったようだ。戦いに臨む前、彦三郎は身を清めた。体を洗い、清潔な衣服に着替え、香を焚き、爪までも切りそろえた。戦いの最中、彦三郎は旗指物を抱えて小高い丘に飛び出し、丘の上に旗指物を突き立てた。当然孤立無援の無謀な戦闘で、無残に彦三郎は討ち死にする。この旗指物に、辞世の歌が書かれていた。覚悟の死であったようだ。
・・・咲く時は花の数にはあらねども、散るにはもれぬ山桜かな

内藤昌月
昌月は内藤修理の養子になっていました。経緯は内藤修理が長篠に出征する前夜、勝頼を訪ね、昌月を養子に迎えたい旨を直訴します。この時から正直の弟の昌月は大和守と呼ばれるようになりました。
昌月は、勝の小姓でした。かなり才気があったようで、勝からの信頼も厚く周囲からの人気もあったようです。この内藤昌月が、勝の側近として長篠の戦いに出陣したかどうかは、可能性がありますが、定かではありません。
また、保科正俊は、この頃病気になり、内藤の箕輪城に療養で赴いています。
ここには幾つかの解けない疑問があります。
ひとつは、内藤修理は自身の嫡男がおりました。それなのに何故正俊の子の昌月を養子に迎えたのでしょうか?
二つ目は、保科正俊が何故、養子になったばかりの内藤家の箕輪(高崎)に行ったのでしょうか?それも、どうも内藤修理も内諾のもとでの様に思えます。
これを解く鍵は、資料が見つからないので、すべて仮説になります。
・保科正俊も内藤修理も、ともに武田勝の能力に疑問を抱いていたのではないか。
・・これは、修理が勝への臣下を拒んでいたこと
・・正俊も、勝が主人になる時、さっさと病気を理由に引退し、正直に相続したこと
・この勝への評価が共通の認識であるならば、二人には接点がありそうだ。戦場での接点もありそうだが、寄り深く接するには・・・内藤修理がまだ工藤のとき、信玄から深志城の改築を命じられたことがあったはず、その時保科正俊は工藤(後に内藤)を手つっだったのではないか・・この接点は、資料が見つかるかも知れない。
・この二人の共通認識の勝の能力の評価は低いもので、長篠の合戦はかなり危うく見えました。保科正俊を、ずっと読んでいて思うのは、時代への洞察力と危機的状況での対応力です。内藤修理も戦い方を見れば、状況判断の優れた武将に見えます。この二人が接点があったとしてお互いが情報を交換し話し合えば、次の手が見えてきます。それは保科家と内藤家の家系の存続です。この様に見れば、謎は解けてきます。正俊の病気は、どうも方便ぽいが、それはさておき、この長篠の合戦から、子孫係累を待避させる方策を模索します。

保科正直
勝頼の長篠合戦には、保科正直の出陣はありませんでした。勝頼の昌月贔屓で、出陣に呼ばれない正直は、こんな気持ちでは奉公できないと思って子の甚四郎(正光)を連れて信州の居城に引き籠もっておりました。甚四郎はこの時は勝頼の子の小姓で、九歳より奉公していました。少し前、保科正直は労咳を患い、幽閉されます。この幽閉は3年間。正直の面倒は當雪という医者だけでした。
そんな折、長篠の合戦で、勝頼が大敗北を喫したことを、病気の隔離牢で伝え聞いて、正直はこの牢を周りの協力で破って出ます。幽閉の牢を出てから、食事をし、馬を用意させ、鎧をみにまとい、そのまま乗馬して、主人勝のもと根羽へ駆けつけます。正直につづく家臣は少数でした。・・この様子を考えると、正直の病気(労咳=結核)は何とも嘘くさい。
長く馬を走らせた正直は、勝の存在を眼で確認すると、道の傍らに馬を下りて勝に接見します。勝は保科を確認し、勝も馬から下りて、長篠の合戦は大敗北を喫してしまい、山形や馬場や内藤をはじめ、当家の勇者や重臣がほとんど討ち死した。もはや運命かと思うところに正直が来て、頼もしく思える。そこで、飯田の城へ入り、織田への防衛戦を戦ってくれ、と指示をだした。弾正公はこの命令で直ぐに飯田の城に入り、戦闘態勢を作った。伊那衆の中の阪西(萬才)が勝に背き、一族とも織田に寝返ろうとして、一瀬というところで籠城する。弾正公はこれを聞いて、直ぐに追いかけて坂西を成敗する。これは正直の今回の武功の一つになった。正直は信忠軍を暫く防戦していたが、大河のような大軍には叶わず、ひとまず高遠に退くことになる。正直はこの時別名を越前公とも呼ばれた。

別書で、この時一日早く織田に降参した松尾小笠原信嶺のことが書かれている。小笠原信嶺は、保科正直に、戦況分析をから戦況に利あらずとして、信長に寝返ることを勧めていたという。また、織田の副将の森勝蔵に、保科正直も寝返る意思があることを伝えたという。小笠原信嶺は、高遠城攻めのとき、案内役を務めたという。

正直 高遠城籠城

高遠城は、仁科五郎が城主であった。仁科五郎は信玄の子で勝の弟であった。城内へは、裏切りや逃走がないように人質を入れており、弾正の奥方も城内に取り込んでいた。この時正直の子の甚四郎(正光)は、勝の居城の新府(韮崎)に、やはり人質であった。
織田信忠は、数万の兵力で高遠城を幾重にも取り囲み、落城は目前の状態であった。

森長可(勝蔵)の戦略
織田軍の森勝蔵は、高遠城の戦いに勝利を確信して、次の一手を模索する。勝蔵は信忠へこんな提案をする。”高遠城の籠城の中の保科弾正を、何とか工夫して殺さずに城外に脱出させ、味方に付けたい”と。信忠が、何故かと問うた時、”弾正が欠ける方が高遠の戦力が弱まり、当方の損害も少なく、さらに上州箕輪の内藤昌月は弾正の弟でもあり、弾正を味方にして弾正から箕輪を誘えば箕輪も味方になる””そうすれば小田原北条への手引きは大成功となる”これで信忠は納得し、和議の状を飯島民部に託してこの旨を申し入れる。民部と上島川兵衛は保科の親戚であり、この和睦は保科弾正が城外に出ることを条件にし、成功の後に信忠に仕えようにすると言うものだった。

高遠城内の強硬派と和戦派
高遠城内では、色々な議論が交わされていた。強硬派の中心は渡辺金太夫と小菅五郎兵衛であった。小山田備中守は全体の取り纏め役でもあった。赤羽記の文脈を辿ると、強硬派の方が城内の空気を代表しているように見えるが、途中で城外へ落ち行く顔ぶれを見ると、本音は厭戦気分が蔓延していたと思われる。渡辺金太夫と小菅五郎兵衛は、飯島民部の様子を怪しみ、民部を問い詰めながら長刀で殴り倒す。特に、渡辺金太夫は、織田側からの下工作があって、裏切りが出ることを予想していた節がある。また小菅五郎兵衛はついに城から逃げだし、渡辺は言葉をかけるが、小菅は顧みずついに何処かへと落ちていった。

保科正直の対応
この時弾正へは、北原彦右衛門、上島川兵衛、田畑善右衛門、文明寺和尚の四人が付き添っていた。この四人は二の曲輪へ出て、後を塞ぎ、弾正が城内に戻ろうとしても入れなくした。
この赤羽記の書き方だと、保科正直が城を抜け出して落ちる意思がなかったかのような記述だが、実際はどうだったんだろうか?

籠城の半数の討ち死に、そして弾正の奥方も
渡辺金太夫は小和田出羽守に従って討ち死。仁科城主をを始めとする大勢が死に、その死者は籠城の半数を超えたという。この時、籠城を強いられていた弾正の奥方は、跡部越中守の娘。奥方とともに籠城していたのが、春日(今野)戸左右衛門と母方の祖父の伊藤清左右衛門でありました。奥方らは火を避けて櫓の下へ逃げてきたが、ついに逃げ場もなくなり切腹した模様です。その後満光寺の住職の牛王和尚がご遺体の素性を知り、ご遺体を葬り、御戒名を柏心妙貞と名付けたという。後に道儀公(保科正光の法名)は母上のことを手厚く弔ったという。

正光は真田へ
この落城は天正十年(1582)3月2日の事である。このことが新府(韮崎)の甚四郎(正光)にまで伝わった。そんな折、小山田将監から使いが来て、父正直は城から落ち延びた。甚四郎(正光)と奥方は親の真田安芸守のもとに逃げよという。

暫く経ってから・・昌月と正直
勝が亡くなってから、内藤昌月は小田原北条に臣下して時を過ごし、保科正直はしばらく浪人の身となる。
これは森勝蔵は、保科正直に、自分に従って上方に来いというが、文明寺和尚が弾正に聞いたところ、上方は言葉使いも異なり、幼い頃より育ち、慣れ親しんだこの地を棄てて、他国に行っても成功は覚束ないだろう。それならば、こちらにいて、高遠の城主になるというのが希望だという。文明寺和尚はこれを聞いて、正直の希望に自身も掛け、正直を高遠城の城主にさせることを誓い、この意に違える時は差し違えるといい、この思いが大事だと確認する。この実現に向けて正直が浪人の内は、正直の側から離れないと言う思いの北原彦左衛門、上島川兵衛、田畑善右衛門、文明寺の四人であった。この時は動乱の時で何があってもおかしくない時なので、この四人は弾正の側を片時も離れなかった。
正俊は、松本の大日向源太左衛門と言って、妹の婿の大日向家に居候することになる。

この辺りの時、保科正俊は、一体何処で何をしていたのでしょうか。この辺りの後からの正俊の活躍からは、病に伏せり、老衰で衰えた正俊の姿を想像することは出来ません。元気に、洞察鋭く情勢を読み、一族のとるべき道を探っていたのではないでしょうか。後日、鉾持除けの戦いで矍鑠と再登場するまで、資料から姿を消しています。・・謎です。






保科正直君の生涯・・・物語風4

2013-07-23 20:09:59 | 歴史
保科正直君の生涯・・・物語風4


長篠合戦の後の七年間の保科家の面々の動向の前に、武田家臣の間に急速に空気が変わり始めます。このことを理解しないと、あんなに強固な武田軍団が、いとも簡単に、雪崩のように織田の進軍を許してしまう原因が理解不能になります。

武田家の膨張の版図拡大の都度に、新地(新しい領土)の治安者として登場する人物がいます。秋山信友といって、信玄子飼いの武将です。信友は 虎繁とも晴近とも呼ばれています。信玄が上伊那を制した時は高遠城主を、下伊那を制した時は飯田城主を、さらに美濃に進出した時は岩村城主をまかされた武将です。岩村城は岐阜県恵那市岩村町にある中世の山城で、長く遠山景任の居城で、夫人は信長の叔母にあたる女性でした。秋山信友は、武田家が戦いに勝ち、領土を拡大する度に、新地の「橋頭堡」を任される人物で、信玄や勝頼、そして武田家の重臣からも信頼の厚い武将だったようです。
絶えず最前線で、信長の脅威を一番強く感じていた信友は、信長とは対決でなく、和平同盟を望んで強く主張して、実際も同盟に関与しております。長篠の戦いで武田が敗れた後も、岩村城で信長の攻撃に耐えていた秋山信友でしたが、孤立無援を悟り、ついに無血開城を決意します。それで開城(降参)すると、信長は秋山信友と座光寺、大島氏を捕らえて、特に信友には「逆さ磔」、座光寺氏と大島氏は打ち首の刑を処します。

これを伝え聞いた武田家臣団、とりわけ南信濃の先付衆に、驚愕と恐怖の激震が走ります。戦闘指揮の判断ミス、更に過酷な軍費の重税に加えて、戦っても支援にこないこと、信長の残虐な行為、これらが恐怖と厭戦気分を伴って一挙に蔓延し始めます。こうして、武田支配下の家臣団の空気が変わってきます。この頃の、下伊那の領主のリーダー的存在は、松尾小笠原家の小笠原信嶺と下条家の下条信氏でした。小笠原家も下条家ももともとは甲斐の出身で、時期は違うけれど、武田の同族で、別家的存在でした。下条家は信玄の勢力拡大期に、先兵的な役割を果たし、特に三河地方侵攻の時に、奥三河の足助の城代を勤め、東三河の旗頭の酒井忠次とは姻戚関係を持ち、徳川家と武田家の取次役を担う家系でありました。今川義元が滅んだ時、駿河を徳川と武田で領分した時の約定の担当でもありました。下条家は武田寄りの信氏を追放して、織田軍に寝返ります。また小笠原家は、長く信濃守護けとして存在し、朝廷や将軍家への武家の儀礼の「弓馬の儀」を奉じて指導的な家柄で、兄弟家の弟家でありながら、格式では武田家の上に位置づけられた家柄であります。平成の、いまでも小笠原流作法は存続します。その系譜の小笠原信嶺も、織田に寝返ります。

歴史書の多くは、武田の敗因を分析して、新兵器(新型鉄砲)に偏って評価している書を見かけますが、事実は、武田対徳川・奥平の戦いに矮小化して、一向宗と毛利との戦いに手こずっている織田の戦闘参加・支援を甘く見た判断ミスと、戦費のための重税を課しながら、秋山等を見殺しにして、人心が勝頼から離れてしまったためと思われます。勿論新兵器(鉄砲)も、原因のひとつとしては、確実にありますが。
この考えのベースは、武田の領分を計算すると、投入兵力の差が、言われているほどでるはずがないという、物理的な能力差の検証からです。これが現実に起こったとすれば、明かにミスジャッジからであろうと思われます。


保科正直君の生涯・・・物語風3

2013-07-23 16:04:40 | 歴史
いよいよ、保科正直が主人公になります。
・・保科正直は病気で引退した正俊に替わり、保科家の総帥になります・・・
・・・武田家も信玄が死に、勝頼が相続し、武田軍団を率いるようになりました。勝頼は信玄亡き後、武田軍団を維持出来るのでしょうか。

武田勝頼は本来嫡子順位は二番でした。だが、嫡子順位一位の武田義信は、正室が今川義元の娘で、今川寄りの同盟に加担し、政策の違う信玄の謀殺を側近と計画して露見したため、嫡子を外されうえ処分される経緯があり、勝頼の相続が決定されました。勝頼の母は、諏訪御寮人(湖衣姫・新田次郎、由布姫・井上靖・・資料には名前が残っていません)といわれ、信玄に滅ぼされた諏訪頼茂の娘です。そんなこんなで、勝頼は諏訪四郎とも言われ、諏訪神党の惣領の立場でもあります。保科正直も、諏訪神党の甚四郎を名乗り、武田の臣下とともに諏訪神党の配下でもありました。

長篠の戦い
勝頼は、天正3年(1575)信玄の西進の志を継いで、三河に進軍を決意します。直接の原因は、奥平信昌が、武田側から徳川側へ寝返ったことの成敗です。奥平信昌は、秘匿されていた信玄の死を確信するに到り、家康側に付くことを決意します。このことで長篠の戦いは始まりました。その戦いの規模の想定は、「奥平+徳川」対「武田」でした。従って、勝頼が率いた兵力は、「奥平+徳川」に多少上回る程度でした。だが、読みが甘かったのか、織田信長が家康に一万の兵力で援軍を送ってきます。これで、物理的兵力差は歴然の上に、信長は新兵器(火縄銃ではない鉄砲)を持ち込みます。この戦いで武田軍は、壊滅的な敗北を喫し、歴戦の勇士、重臣を数多く失います。
この戦死の中に、正直の弟昌月の養父、内藤昌豊も含まれています。保科正直の弟昌月は、勝頼の小姓だったこともあり、側近として勝頼と行動をともにしていたと思われます。何故か保科正直の出陣の記録はありません。

天正十年(1582)に、織田信長の甲州征伐が始まります。長篠の合戦からの七年間は、保科家は歴史書に記録があまりありません。信長は一向宗との戦い(石山の戦い)と長州征伐の毛利家との戦いに明け暮れしています。家康は、遠州の武田勢力の高天神城を攻め落としています。勝頼は、大敗してから立ち直り、勢力の立て直しに懸命になり、周囲の脅威を除くべく後北条や上杉家と同盟を結んでいきます。天敵の織田家とも和睦を図るべく、人質の返還を行い、同盟を模索します。そんな中、武田の重臣の木曽義昌は、領地が織田家と隣接して絶えず脅かされる状態から、武田から織田へ寝返りします。これに怒った勝頼は、木曽征伐に踏切ります。引き続く戦乱から戦費がかさみ、領民への過酷な重税は限度を超したと言われ、各地で農民の逃散が始まり、民意は勝頼から離れます。木曽征伐は、結局失敗し、押し返されて武田軍は撤退となります。

木曽義昌が武田に攻められた事がきっかけで、織田の甲州征伐が本格的に始まります。織田本隊は織田信忠を大将に伊那口から、美濃からは金森長近が、家康は駿河口の三方から武田の領域に攻め上っていきます。








保科正直君の生涯・・・物語風2

2013-07-17 23:07:28 | 歴史

保科正直君生涯・・兄弟の系譜・ -小日向と昌月-

ここで、この頃に生まれたとされる保科正俊の子供達を確認すると、正慶、正直を除き、次の様になります。・・赤羽記(徳川諸家系譜 3:も同じ)

-喜兵衛君 ・高遠城で戦死
-昌月君  ・内藤昌月、内藤大和守、幼名千次郎
-正勝君  ・参河守、始隼人、一正秀
-女  ・小山田将監貞政室

小日向源太左衛門室
不思議なことに、松本、小日向家に嫁いだ正直の妹が記載されていません。小日向家は、保科家が危機的な情況に陥った時二度登場し、史実的に確認されています。
一度目は、織田の高遠攻めで、仁科五郎が討ち死にした高遠落城の後、正俊正直親子が逃避隠棲した処。少し疑問符がつきますが・・
二度目は、正光の子がなくて嫡子問題で不安の時、正之を養子にする前、嫡子予定で養子に貰っていた保科左源太は、正直の妹夫婦小日向源太左衛門の子であった。
・・史実的に、かなり明白な系譜が、何故か、保科家の家系譜から抹消されています。溝口正慶の抹消は保科正俊がやったとして、恐らくこちらは、正光が、正之を養子に迎えるに当たって、将軍家への遠慮から、「左源太」ともども小日向家との関係を抹消したものと想像します。
・小日向家の位置を調べたことがあります。昔は松本・佐久往還道で、松本方面からだと、浅間温泉郷の脇を通り山道を行くと、右手の山は三才山でその峠を越すと佐久に降ります。その三才山の手前辺りが小日向と記憶しています。三才山は”みさやま”と読み、まるでキリスト教の霊山のようだ、と変な記憶が残っています。現在は国道(R254)で整備され有料の三才山トンネルも出来ていると聞きます。小日向は三才山トンネルの松本側の出口付近です。
・・この国道(R254)はドライブ好きには、味わいのある三桁国道で、首都圏付近を「川越街道」、群馬付近を「富岡街道」、県境から佐久辺りを「佐久街道」と名前を変え、佐久街道はコスモス街道の異名も持ちます。・・・道草が多くて、どうも・・・

-喜兵衛君 ・高遠城で戦死
資料がなく、ほとんど分かりません。武田攻め高遠城の時は、兄の正直が四才ですから弟の喜兵衛は生まれていても乳飲み子で、戦死の表現は似合いません。すると、織田攻め高遠城の時となります。喜兵衛の名前も幼名には思えず、元服後の名前に思えます。正直の飯田城守城の時の武田軍の人質的な高遠城籠城で、正直の正妻とともに籠城したのでしょうか。委細不明に付き、勝手な想像ですが・・・

-昌月君  ・内藤昌月、内藤大和守、千次郎
昌月・・ まさあき・と読む。・戦国時代の武将。
武田氏の家臣の内藤昌秀(昌豊)に養子に行き内藤を名乗り相続する。
誕生;天文19年(1550年)、保科正俊の四男(三男説あり)として生まれる。幼名は千次郎、元服後昌月を名乗る。(注)幼名を源助とする書を見かけるが、これは内藤家の伝統の幼名であり、昌月は違う。昌月の子は内藤家に従い、幼名に源助を呼称する。千次郎の生誕は、まさに頼継の高遠城が落城し、正俊が武田の家来になったばかりの頃だった。
保科千次郎が内藤家に養子に入った経緯も謎めいている。
・・内藤昌秀は前の名を工藤源左衛門(祐長)と言った頃、深志城の普請を工藤の名で命じられている。翌1569年三増峠の戦いで勝利し、箕輪城代に、内藤の名で抜擢されている。この時一挙に三百騎の大身になっている。その頃に千次郎が名を改め、昌月として内藤家に養子に入る・・が時期は明確でない。だが内藤家には既に男児があったという。ここが確かに謎めいている。内藤昌秀の戦い方は、常に自兵をほとんど損なわずに城を落として勝利し、信玄から激賞され信頼を勝ち得ている。優れて、全体を見る洞察力に長けた武将であったらしい。信玄が死に、勝頼が武田の盟主になる時、信玄の部下はこぞって勝頼に誓詞を差し出したが、内藤昌秀は勝頼へ誓詞の提出を拒んだ。昌秀の将たる才能を信頼し惜しんだ勝頼は、盟主から逆に昌秀に、誓詞を出して部下に留めようとしたという興味深い逸話がある。・・
内藤昌月は養父昌秀が長篠の合戦(1575)で戦死した後、内藤家を相続している。
保科正俊は、高遠城主が武田信廉と代わった時、体調を崩した保科正俊は、家督を息子の保科正直に譲って一旦隠居した。信玄の三河侵攻の折は、病気で伏せており、内藤昌月の元で隠棲しようとしていた。
その頃、保科正直は跡部氏の娘を正妻に迎え、長男正光が永禄4年(1561)に誕生していた。保科を継いだ正直は、新府(韮崎)に甚四郎(正光)を質に置き、長篠合戦では、後詰めの飯田城の守城を坂西とともに命じられていた。
昌月は、その後、織田信長、北条氏直につき、天正16年(1588)享年39で死去した。子に直矩、信矩がいるが、後北条亡き後は浪人し、一族の一部は帰農し、また一部は、正之の会津藩に係累を頼り、会津九家老のひとつ、内藤家となった。会津では「高遠以来」の家臣ではなく、主家に関わる親族の扱いであったという。

-正勝君  ・参河守、始隼人、一正秀
保科正勝は、保科与次郎(昌月)の弟の説と、兄の説のふたつが存在するが、弟説の方おおい。その真偽は別として、兄の正直に家臣として仕えたようだ。その子正近は正光と正之に仕え、会津では西郷家と名字を替えて、会津藩家老として会津藩の支柱となる。
保科正勝の生没:1545年~1605年の資料が存在するところから、謎めいた正慶との混乱とか喜兵衛との混乱があるのかもしれない。資料が少なく不詳。

-女  ・小山田将監貞政室
薙刀の名手の剣豪に小山田将監貞政を見るが、同一人かどうか?委細不詳。


保科正直君の生涯・・・物語風1

2013-07-13 23:36:29 | 歴史
保科正直君生涯・誕生・幼少 -保科正俊を中心として-

保科正直は、父を正俊の子として生まれ、子に正光、養子の孫に正之を持った。近年正直を有名にしているのは、養子正之が三代将軍の弟であり、会津に移封して会津松平家という親藩筆頭の家系の祖となり、その正之の祖父にあたるからである。

赤羽記付録によると、
・父正俊母小河内美作女、生死年月法名不詳、武田家之○下信州高遠城主、武田家亡後正光奉仕東照宮之摂州、大阪役後賜禄三万石主信州伊奈郡高遠城・
中村元恒の記述と思われるが、何故か、”生死年月法名不詳”とある。元恒は、疑問を持った時、この様な書きようになる。
幼年の正直については、父正俊の立ち位置とともに考察するのが良さそうだ。
保科正直は、天文11年(1542年)に高遠に生まれた。この時父保科正俊は、家老として高遠頼継に仕えていた。正直が生まれた所は、高遠城内より藤沢城内の方が可能性がある。母は、笠原に近い小河内の豪族の娘であった。
天文12年(1543)、武田晴信と高遠頼継は同盟のもと、諏訪頼茂を攻めて滅ぼし、諏訪を両分しようとしていた。父正俊は頼継の家老として、武田との交渉と軍役を兼ねていたと思われる。天文十四年(1545)は、諏訪頼茂が晴信に騙されて殺される。

天文14年(1545)さらに晴信は伊那と筑摩をも手に入れようと機会を覗い始める。・・蕗原拾葉などの信濃側の見方。甲陽軍艦では、晴信と高遠頼継で両分した諏訪を、頼継が諏訪家の棟梁を自認して晴信の分の諏訪を手に入れようとしたとの記述だが、結局領土争いとしては同じ事で、互いに都合のいい言い分を述べているに過ぎない。天文十四年(1545)、晴信は伊那を手に入れようと進軍する。この時に高遠側は落城し、福与城の藤沢頼親は、木曽と松尾と府中(松本)の小笠原長時が、高遠城と福与城を守るべく参戦し、総数の軍力で劣る晴信は和睦して退却する。しかし和睦の条件等見ると実質武田の勝利であった。
この時、幼年保科正直は三歳、危険の迫る保科の藤沢城に居たのか、叔父の北村家か母方の小河内家に避難していたのかは不明。

この頃、晴信は、伊那攻略、信濃攻略に着々と準備に怠りがなかった。個別の戦闘力で勝っていても、甲斐と信濃とでは経済力で劣り、その経済力を背景にする信濃国人衆が団結して武田軍に向かえば、不利とみた晴信は、信濃国人衆に凋落を試みる戦略を立てた。つまり、武田と高遠・藤沢の戦いに味方すれば加増、不戦であれば領地安堵の回文である。この回文は、保科家に、いみじくも残されている。さらに、次の武田と高遠・藤沢の戦いに不参加を決め込み、櫛の歯が欠けるように援軍は減っていた現象は、回文が不忠の思いから、大方処分されたのにもかかわらず、情況証拠として残されている。
輪をかけたように、この回文で疑心暗鬼に陥った木曽殿(木曽義昌?)は配下の宮田某を真実を糾すことなく処分するに至って、信濃国人衆の団結は崩壊する。そして・・
保科正俊の元にもこの回文は来ていた。正俊は、この案件について、”非持三郎、春日淡路、小原某を呼んで密かに相談に及んだ”とある。この三人の内二人は、後の調べで、正俊の父正則の娘婿、正俊とは「従兄弟」の関係の親戚のようだ。
・・春日淡路は後に「伊那部城城主」
・・小原某は、以後も保科家を支えて、保科正之の時ともに会津移封に付き添い、会津保科・松平藩の家老を歴任した小原家の祖と思われる   ・・が証左足りず。

この時の高遠頼継と武田晴信の戦いの様子・・・
すでに、武田への見方を決意していた保科正俊は、先日の密談の三人の他、市瀬入道親子、林式部、山田と家来衆で杖突峠の守りに出陣する。
この戦闘の武田軍の指揮は秋山晴近であった。戦闘の旗色が相半ばする最中、突然に保科軍が、武田味方の旗色を鮮明にする。市瀬入道親子は保科に同調せずに暴れたが、武田の秋山勢は、これで勢力を加えて、高遠城を落とす。高遠城の主戦派は城を落ちていく。
この戦いで、高遠頼継、保科正俊、上林入道などは、晴信に臣下して武田の先方衆になっていく。この秋山晴近は、別名を信友、虎繁ともいう。

高遠頼継は武田に臣下したあと甲府に出仕していた記録があり、その後。天文17年(1548年)に高遠城に戻ったという記録もある。のち高遠頼継、天文21年(1552年)8月16日には死去、・・・自殺か殺害か不明。
この様にして、実質的に天文17年(1548)から、公式的には弘治二年(1556)高遠城は、秋山信友(晴近)の管理する城となった。もう一つの意味は、武田家の世子、四郎勝頼の養育の城でもあった。しかし父正俊は、苦難が待っていた。高遠頼継の同僚の家老である上林入道が、”頼継に謀反あり”と信玄に讒言したことにより、頼継が誅され、上林入道の同僚で、しかも入道の子の彦三郎が娘婿の関係から、知っていながら報告をしなかったことを疑われて、約一年の寺への謹慎の状態になった。やがて、頼継の謀反の事実が確認されず、入道の領土欲しさの為の讒言が顕かになるに連れ、保科正俊は四賀の戦いの案内役に指名されます。

志賀城の合戦、武田信玄と笠原清繁、天文十六年(1547)
保科正俊が信玄に信頼を勝ち得たのが、信州佐久の志賀城の戦いです。・戦いの最中、物陰に潜んで居った家来の北原彦右衛門が、志賀平六左衛門の栗毛の馬の太っ腹に長刀を突きだすと、馬は倒れた。そこを、筑前殿は走り寄って平六左衛門の首を打ち落としました。首を打ち落とすところに大髭があったが髭もごっそりそぎ落としてしまいました・。
この戦いで、保科正俊は、信玄からの感状と討ち取った刀の銘に「髭切り」と名付けて貰いました。家来の北原彦右衛門の働きにも感状を貰いました。
・・この北原彦右衛門の北原家は、以後保科家を支え続け、家光の弟「正之」を養子に迎えた時正之の教育係となり、正之の会津移封に伴い会津に行きました。会津藩筆頭家老の北原采女の北原家の祖になった人です。北原采女は当代随一の家老と、時の老中土井からも、黄門様からも評され、いまだに「会津の誉れ」とされていると聞きます。
この様にして信玄から信頼を得た正俊は、信玄の直参になります。この時正俊は三十七歳で、壮年のエネルギッシュな頃合いです。以後、信玄の戦いで軍功を重ねます。都合三十七回の軍功には、頼継時代を数えません。信玄時代は、刀ではなく槍を使っています。槍による軍功で「槍弾正」のあだ名、異名を貰います。
武田氏に所属することとなった保科正俊は、第一回川中島の戦い(1553)において記録が残っています。・「甲州と越後の軍兵は、ともに名乗りあって、火花を散す戦をしました。其中に真田弾正幸隆が怪我を負い、もに陰に潜もうとするところを、上杉方の高梨源五郎頼治が名乗り出て、真田を組み伏せ、鎧の脇板の透間を刀で二刺しようとしたところに、保科弾正が取って返し、”真田を討たすな”と辺りの兵と戦ったという、真田家の細谷彦介側に来て、高梨源五郎の草摺のはつれ、膝の上より打ち落とし、主の敵を執ったという。これより保科槍弾正と呼ばれる」・と。
・・保科家と真田家は、この時以来親戚のような関係が生まれます。武田進軍の時はくつわを並べるような出陣であったと想像されます。後には正光の正妻は真田の娘を娶り、正之公の養母にもなります。真田の配下の小日向氏は正俊の娘婿でもありました。

保科正慶のこと
正慶・・まさよしと読みます
槍弾正、保科正俊は実に魅力的な人物ですが、かつ謎多き人物でもあります。その正俊の息子に、系図から外された、存在を封印された息子がありそうです。
この保科正慶は、長谷溝口の溝口長友の跡をついで、溝口正慶を名乗りました。
保科正慶は、頼継の高遠城落城の時、元服を終えていた可能性があり、そうすると正直の兄で長男の可能性があります。
この時の、溝口家の時代背景は次の様になります。
武田との戦いに敗れた小笠原長時は開運の見込みがないとして、弟の信定のいる鈴岡城に逃れることになった。この時溝口長友は跡目を長勝に譲っていたが、本来、氏友以来松尾小笠原の別家筋に当たる。鈴岡・松尾と小笠原家の総帥小笠原長時を守るべく、長勝。長友父子は小笠原長時の元に合流することとなる。つまり、長谷溝口からの撤退である。だが、武田信玄(晴信)に駆逐されて、長時は京都の三好長慶を頼る羽目になった。長時の上洛に従い長勝・長友父子も従い、京畿の長慶の弟三好義賢の居城河内高屋城に寄寓し、いご小笠原長時を助けて流浪するようになる。
さて城主不在となった溝口城へ、保科正慶は、溝口正慶として名跡を継承するようになる。
この時の名跡継承には、保科家と溝口家との間で、暗黙か実際にか、確実な了承があったと見るのが自然かも知れない。
溝口正慶の悲劇
信濃侵攻で、信玄は伊那谷に進出し、高遠城や箕輪の福与城を攻め、さらに下伊那の知久氏や飯田の小笠原氏を攻略、木曽氏を降伏させたうえで三女を木曽義昌の正室として嫁がせて一門として処遇し南信濃 をほぼ手中にした。上伊那衆の反抗は、こうした状況で起こった。
信玄が、木曽義昌を使って、南信濃を掌握しようとしたことに無理があった。それは、武田の調略で疑心暗鬼になって、南信濃の国人衆の仲間の松島をほとんど詮議しないまま、処分したことへの怒りと不信が、上伊那の国人衆の中に渦巻いていた。木曽義昌は、信濃国人衆の団結を壊した男である。それで当然反抗の矛先は木曽義昌に向かった。武田が 川中島で上杉軍と対陣している状況を見て、勝機を感じ武田に反抗するために、信玄の娘の嫁ぎ先である木曽氏を攻撃したのである。これは信玄の怒りを買い、急遽伊那に矛先を転じた武田軍によって、上伊那衆の反抗は捕らえられて、狐島の蓮台場で首をはねられ、さらし首になった。
八人塚の逸話を唯一伝える甲陽軍鑑によると、「信玄公弘治二年六月中 旬に又伊那へ御出馬あり、七月、八月、九月都合四月の間に伐随給ひ、 即ち伊那侍御成敗の衆 …」とあり、黒河内隼人政信、溝口民部少輔正慶、松島豊前守信久、伊那部左衛門尉重親、殿島大和守重国、宮田左近正親房、小田切大和守入道正則、上穂伊豆守重清の名が続く。
このうち黒河内隼人政信、溝口民部少輔正慶の領民たちが、自分たちの殿様の無念を思い、首を取り戻すため闇夜に乗じて刑場に忍び込んだ。しかし、暗さでどれが殿様の首か判断できず、八つの首すべてを持ち帰り、供養したのが八人塚伝説の原点とされる。
武田家の権勢が伊那一帯に及んだ時、保科正俊は、溝口を名乗って反乱した長男を、武田に憚って封印したと見るのが合理的と思う。意識的に封印したとすれば、証拠は隠滅されて、その為か、残された資料はすくない。

保科正俊の娘たち・・・蕗原拾葉・赤羽記より

2013-07-07 17:24:56 | 歴史
保科正俊は、魅力的かつ謎多き男である。
その謎の部分は、多くが高遠頼継の家臣時代で、あと少なく信玄の家臣時代にもある。
保科家は、正則時代七騎の頭領であることが史実の記載であり、頼継と、何らかの関係を想像させる諏訪信定時代に、高遠の大身に躍り出る。この時からの家臣団の中に赤羽家がいたとすれば、赤羽記の記述に、高遠の大身以後に真実をみる、とすることは合理的である。かつ、大身になる以前の保科家は、赤羽記では謎のままである。
さて、手詰まりの正俊解析のため、正俊の子供達の調査を始めているが、娘たちの嫁ぎ先を発見して姻戚関係を明確にすることで、正俊にアプローチしたいと思う。

山田源左衛門
赤羽記付録に、畑(山田)源左衛門=山田伯耆守は婿という。また弾正公(正直)の従兄弟にあたり・・・とある。正俊の娘婿が山田(畑)源左衛門(伯耆守)は理解出来るとして、正直の従兄弟とはなんだろう、兄弟なら分かるが・・・ここで辻褄合わせの考え方は、正直の父は、正俊の兄弟姉妹が親で、正直が正俊の嫡男養子になったとか、正直の父の正俊が戦死(病死)し、家長の正俊を名前をそのままに、血縁者が相続したとか、の選択肢が考えられる。蕗原拾葉の著者の中村元恒が指摘している疑問点、保科が高遠で大身(高遠一揆衆随一の領主)になったきっかけの戦いの時、年齢が元服に届かない10才ぐらいの幼年の正俊が、見事な戦功を上げられるはずがない、という指摘と考え合わせると、選択肢の後者が現実味を帯びてくるが。赤羽記を再読して見ると、前者の可能性が高い。正俊の父、正則に、数人の娘が存在していたようだ。
山田伯耆守は婿という。また弾正公(正直)の従兄弟・・という方程式の解き方を、上記以外で気がついた人は、是非是非教えて欲しい。これは正直な気持ちである。

井原淡路守、小原美濃守、金子某
ここの部分は、赤羽記付録にあり、原文「先筑前守正利公井原淡路守小原美濃守金子某ト此山田伯耆守相婿也」・・・これを現代語に訳せば先代の筑前守正利公は、井原淡路守と小原美濃守と金子某に娘を嫁にやり、彼らは正利の婿になった。さて、ここで疑問だが、「先筑前守正利公」とは・・何だろうか。織田の高遠城攻撃の時の記述で、時は1582年の事である。若穂保科を村上家に追われた正利では年齢が合わない。正俊のことを、昌俊とか正利と書く資料もあるので、正俊の事であろうと推定する。1511年生まれの保科正俊は、高遠落城の時、すでに71才になっている。保科正直は正俊31才の時の子であり、落城の時は41才ということになる。
*井原淡路守・・・木曽家臣団に名前が見える。
*小原美濃守・・・武田家臣の小原広勝のことか。

上林彦三郎
赤羽記に、上林上野入道がいて、高遠頼継家臣として正俊と同僚だったことが記載されている。その息に彦三郎があり、婿との記載がある。つまり、上林彦三郎は、正俊の娘婿で正俊は義理の父親に当たる。
それで、上林上野入道の人物を探ると、信玄の高遠攻めで、高遠頼継が降参し、信玄の臣下に下ると、伴って上林上野入道も保科正俊も信玄の臣下に下る。しばらくして、神林上野入道は、「頼継に信玄へ謀反の企てあり」と注進し、これにより頼継は信玄に誅される。上林は信玄より褒められるが、仲間からは主人を売った男として冷たい視線で見られるようになる。保科正俊は、上林と姻戚の事もあり、信玄から共謀の疑いから、注進しなかったことを咎められ、約一年間の謹慎生活をし、その後佐久の志賀の戦いで戦功を上げ、許され、かつ褒美を貰い、信玄の直参になる。漸く実質とも信玄家臣団の一員になっていく。上林親子は、その後、入道は信玄亡き後、直ぐに追うように、彦三郎は長篠の戦いで功をを焦るように戦死。上林上野入道の出自は伊那市殿島と他書にある。


滝川一益が人質に選んだ者達
赤羽記付録の次の項に、滝川が上方に軍を帰す時、人質を連れて行こうとします。滝川は滝川一益のこと、本能寺の変の後の事です。人質は内藤家より亀千代を、筑前守より甚四郎を、三河守より九十郎を出させた、とあります。内藤家とは内藤昌月のこと、筑前守は正直で甚四郎は正光、三河守は飯島家で、九十郎は飯島民部の子の小太郎の事でしょうか。そうすると、飯島家と保科家が姻戚で繋がりそうです。渡辺金太夫が高遠城で飯島民部にする仕打ちは、さらに保科家との関係の濃さを表しているように思えます。資料を探したが見つからないので後日に回します。

参考に、赤羽記に付録する保科略系(保科家系図)を記載する。
・・同様内容が徳川諸家系譜 3: - 第 3 巻 - 123 ページ -・・に記載があります。

参考・・
保科正則の子女・・
-女  ・畑野伯耆室・a
-女  ・上林但馬(彦三郎)室・b
-正俊君・(始)越前守(後)筑前守、一利直?
-甚右衛門君・c
-女  ・小原美濃室・d
-女  ・秋山備後室・e
-新右衛門君・f
-女  ・春日河内室・g

考査・・
畑野伯耆室・a 畑(山田)源左衛門=山田伯耆守は婿。正直の従兄弟。畑=畑野?  
上林但馬室・b =上林彦三郎。上記上林彦三郎参照。
甚右衛門君・c 保科正則の次男の与次郎が、春近から藤沢台に移住し北村家の祖になった?
小原美濃室・d 小原美濃守・武田家臣の小原広勝のことか・・正則と武田の関係から疑問?
秋山備後室・e 武田家臣秋山のことか・・正則と武田の関係から疑問?
新右衛門君・f 不詳
春日河内室・g 春日城城主?。武田家へ反乱で伊那部重親処刑、その後春日河内守が住す。
・八人塚の伝承で二人までが保科家と関係しています。複雑怪奇です。
・・八人塚の伝承については略。

参考・・
保科正俊の子女・・
-正直君  ・弾正忠、始越前、又弾右衛門
-喜兵衛君 ・高遠城で戦死
-昌月君  ・内藤昌月、内藤大和守、始源助
-正勝君  ・参河守、始隼人、一正秀
-女  ・小山田将監貞政室
・考査・正慶のことは先述の通り、他後日に。



保科正慶 ・・・保科正俊の息子達

2013-07-02 15:59:51 | 歴史
保科正俊の息子達 保科正慶

保科家の系譜を調べていく中で、一番に激動的なのが正俊のところで、どうも保科の各流が、そして荒川家の易正が合流し、さらに彼の盟主を決める過程でも色々あり、大名への飛翔の礎を作ったのが、保科正俊であることが明確になりつつある。どうも保科正俊は強烈である。そして、かなり魅力的でもある。だが、この保科家の、恐らく三系流の合流のことは、以後の大名家への飛翔の際の家系譜の正統性からか、無理矢理整合を図られ、二流派は切り捨てを余儀なくされたようだ。従って、どう見てもおかしい史実が後日に幾つか露呈し始める。数を上げれば切りがないが、保科正則の年齢、正俊(正利)の名前の重複、易正の別名の多さ、等々。これが、保科正俊のときに行われたことは確かなので、保科正俊のところを、更に深掘りをしてみたいと思う。このことは何も自分だけが今に気がついたことではないことは、赤羽記を読んだあと、蕗原拾葉の中村元恒が既に明治11年に指摘しているところでもある。さらに書には、著わさなかったものの、この部分の古書の研究者達は矛盾に気づいていたことと思われる。鍵を握る男(キーマン)は保科正俊だが、過去を修正した後の、道筋を辿ることは容易ではない。正攻法の系譜探しは困難を極める。正俊自体が生没の年を顕かにしていながら、不思議なことに、その墓地を発見することができないのだ。
そこで、正俊の子供達のそれぞれの生涯を辿ってみたいと思う。
まず、系譜は、第一に赤羽記の保科略系を基本として、第二に寛政重修諸家譜を補助とし、必要があれば他を参考とする。理由は赤羽記はA級資料であり、寛政重修諸家譜は幕府が家系図を作る必要から、諸藩に提出させたもので、時折飾って修正されたものがあり、資料としてはB級と思われるからである。

保科正慶のこと
槍弾正、保科正俊は実に魅力的な人物ですが、かつ謎多き人物でもあります。その正俊の息子に、系図から外された、存在を封印された息子がありそうです。
この保科正慶は、長谷溝口の溝口長友の跡をついで、溝口正慶を名乗りました。

この時の、溝口家の時代背景は次の様になります。
武田との戦いに敗れた小笠原長時は開運の見込みがないとして、弟の信定のいる鈴岡城に逃れることになった。この時溝口長友は跡目を長勝に譲っていたが、本来、氏友以来松尾小笠原の別家筋に当たる。鈴岡・松尾と小笠原家の総帥小笠原長時を守るべく、長勝。長友父子は小笠原長時の元に合流することとなる。つまり、長谷溝口からの撤退である。だが、武田信玄(晴信)に駆逐されて、長時は京都の三好長慶を頼る羽目になった。長時の上洛に従い長勝・長友父子も従い、京畿の長慶の弟三好義賢の居城河内高屋城に寄寓し、いご小笠原長時を助けて流浪するようになる。
さて城主不在となった溝口城へ、保科正慶は、溝口正慶として名跡を継承するようになる。
この時の名跡継承には、保科家と溝口家との間で、暗黙か実際にか、確実な了承があったと見るのが自然かも知れない。

溝口正慶については a保科正辰の次男、 b保科正直の子、 c保科正俊の子の三説がある。たぶん長谷出身の学者、市川本太郎(信大東洋史・特に中国儒教)のa保科正辰の次男説は年代考証から無理があろう。正辰を誰かと読み違えた可能性がある。b保科正直の子の説は、信玄に誅されたのが1556年とすれば、1542生まれの正直の14才のとき、正慶は既に元服を終えて壮年であったことで、考えられない。そうして考えると、正慶は、c保科正俊の子、それも正直より兄で、長男と考えるのが、一番妥当に思える。

溝口正慶の悲劇
信濃侵攻で、信玄は伊那谷に進出し、高遠城や箕輪の福与城を攻め、さらに下伊那の知久氏や飯田の小笠原氏を攻略、木曽氏を降伏させたうえで三女を木曽義昌の正室として嫁がせて一門として処遇し南信濃 をほぼ手中にした。上伊那衆の反抗は、こうした状況で起こった。武田が 川中島で上杉軍と対陣している状況を見て、勝機を感じ武田に反抗するために、信玄の娘の嫁ぎ先である木曽氏を攻撃したのである。これは信玄の怒りを買い、急遽伊那に矛先を転じた武田軍によって、上伊那衆の反抗は捕らえられて、狐島の蓮台場で首をはねられ、さらし首になった。
八人塚の逸話を唯一伝える甲陽軍鑑によると、「信玄公弘治二年六月中 旬に又伊那へ御出馬あり、七月、八月、九月都合四月の間に伐随給ひ、 即ち伊那侍御成敗の衆 …」とあり、黒河内隼人政信、溝口民部少輔正慶、松島豊前守信久、伊那部左衛門尉重親、殿島大和守重国、宮田左近正親房、小田切大和守入道正則、上穂伊豆守重清の名が続く。
このうち黒河内隼人政信、溝口民部少輔正慶の領民たちが、自分たちの殿様の無念を思い、首を取り戻すため闇夜に乗じて刑場に忍び込んだ。しかし、暗さでどれが殿様の首か判断できず、八つの首すべてを持ち帰り、供養したのが八人塚伝説の原点とされる。

武田家の権勢が伊那一帯に及んだ時、保科正俊は、溝口を名乗って反乱した長男を、武田に憚って封印したと見るのが合理的と思う。意識的に封印したとすれば、証拠は隠滅されて、その為か、残された資料はすくない。


赤羽記による保科家系の正俊の子供達
保科正俊の子   赤羽記
保科正則-正俊-
・正直
・・弾正忠、始め筑前守、弾右衛門
・・母、小河内美作守女
・・生死年月、天文十一年(1542)高遠で生、没慶長六年(1601)六十六才。
・・法名建福寺殿天関透公大居士、墓は高遠建福寺、霊屋は会津建福寺(位牌のことか)
・・武田家の靡下で属し、高遠城主、武田家滅亡後、子の正光とも家康に仕える。大阪の役後、高遠城三万石城主。
・・夫人、跡部越中守女、
・・・天正十年(1582)三月二日織田軍高遠城侵攻で自殺。
・・・法名、成就院殿願誉○心妙貞大姉、高遠満光寺、霊屋会津願成就寺
・・夫人、多却。徳川二郎三郎広忠の五女。
・・・松平忠正室→松平忠吉嫁→正直嫁
・・・法名、長元院殿清信授法大禅定尼、西久保天徳寺
・喜兵衛
・・天正十年(1582)三月二日高遠城で戦死。
・内藤昌月
・・別稿で詳細記述。
・正勝
・・参河守、始め隼人、一正秀とも名乗る。
・・慶長二年(1597)四月十一日逝
・・法名、無着院殿安窓英心居士、高遠善龍寺
・・夫人、甘利左衛門信景女
・女、小山田将監貞政室

さらに、寛政譜によれば

寛政譜

保科正俊-正直
・正直
・・甚四郎、筑前守、弾正忠、母は某。
・・天文十一年(1542)高遠で生。信玄・勝頼に仕え、数々の軍忠あり。
・・天正十年(1582)家康が甲斐に進軍し北条と対峙する時、徳川に味方することを、酒井忠次を通じて告げ、家康より感状を受け、伊那の半郡の二万五千石の御朱印で高遠を領す。
・・その後、藤沢頼親が家康に反旗する時、頼親を滅ぼす。
・・天正十二年(1584)家康より多却姫を室に迎える。
・・木曽が太閤に味方する時、菅沼、諏訪とともに木曽を攻めるが、攻めきれず退却。この時、しんがりを勤める。
・・十三年(1585)上田の真田昌幸を攻めるが落とせず退却。
・・この年十二月三日、小笠原貞慶が高遠城を攻める。*軍役で留守をしていた正直に替わり、隠居していた正俊が無勢ながら防戦して打ち破った。鉾持除けの戦い。
・・十八年(1590)小田原の陣、十九年(1591)九戸の一揆に参陣する。
・・慶長六年(1601)高遠で逝く。66才。
・・・法名、墓地、霊屋等、赤羽記と同じ。

寛政譜は、間違っているとまで言わないが、正式な嫡流のみの正直の記述があるだけで、他が一切略された?資料価値に乏しいものに成り下がっている。