探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

松尾小笠原家、鎌倉府滅亡の時の動き

2014-04-18 12:50:04 | 歴史

松尾小笠原家、鎌倉府滅亡の時の動き ・・小笠原家の盛衰

鎌倉幕府末期及び建武期の小笠原家の動きを、教科書的に簡単に記すと、鎌倉期、小笠原氏は鎌倉御家人として執権北条氏と行動をともにし、建武期には、足利高氏とともに、北条得宗家から離れ、後醍醐上皇に味方し、後醍醐と尊氏が反目すると、南北朝期には足利尊氏に与して、建武二年(1335)、小笠原宗長は信濃守護職に補任、宗長は入道(出家)になっていたため、守護職は貞宗が継ぎ、埴科郡船山を守護所としました。

では、なんで鎌倉幕府が亡びるに至ったかを、簡単におさらいしますと、少し前、二度の元寇で、自然の力も借りて、かろうじて元を撃退することが出来たが、戦費が嵩み、戦勝といえど、元から領土を奪ったわけではないので、戦功のあった武士に満足な報償を与えることが出来ず、武士から信用をなくし、不満を残しました。更に、元からの三度目の攻撃に備えるための費用が掛かり、鎌倉幕府の財政は壊滅的になりました。地方から出仕した武士は、借財をしながら、戦功を目指してきたので、困窮します。その困窮を救おうとした徳政令で、金を貸す金持ちがいなくなり、さらに武士層の生活が苦しくなります。鎌倉幕府末期は、この様に不満が渦巻き、不安定になっていました。・・・このころ、執権の北条高時は、政治を怠け、自分達一族だけが贅沢な暮らしていたため、武士たちの不満は高まる一方でありました。

武士たちの中には、土地を報償できない鎌倉幕府よりも、土地を与えてくれる守護に奉公する者もあらわれるようになりました。守護は、鎌倉幕府から半ば独立したような形となり、これが室町時代に守護大名と呼ばれるようになりました。
土地の有力者の名主たちも次第に力を蓄え、他人の土地を奪ったり、金を取ったりするようになった。これら名主の中には、鎌倉幕府の力が及ばなくなると、守護や地頭の命令を聞かない者もあらわれた。この者たちを悪党とよぶ。この悪党の中で有名な武士が、楠木正成である。・・・半ば独立したような形となった守護や悪党たちは自分の利益を守るために、やがて鎌倉幕府を亡ぼす原動力となっていくのである。
 
天皇家にも少し問題が起きていました。後嵯峨天皇のあとの天皇家の血筋が持明院統と大覚寺統とに分裂し、両派対立する中、双方から一代おきに天皇を出すなどという変則的な体制が成立します。
そんな中、文保二年(1318)、後醍醐天皇が即位しました。
天皇は、天皇家も変則的、幕府も二重構造といった体制を変革し、天皇親政の世の中を実現しようと考え、クーデター計画を立てますが、これがあっけなく事前に露見します。元亨四年(1324)、天皇の下で計画を進めていた日野資朝・俊基が逮捕され、土岐頼兼らが討ち取られます。天皇は「自分は知らない」としらを切り通し責任追及を逃れました・・正中の変。天皇はこれに懲りず、逮捕されたものの翌年赦免された日野俊基を中心に再度倒幕の計画を進めますが、元徳三年(1331)、天皇に謀反の計画ありという密告に対して幕府は速やかに兵を差し向け俊基らを逮捕します・・元弘の変。・・ここで追求を逃れきることはできないと考えた天皇は、8月24日、突然三種の神器を携帯して奈良へ脱出、27日に笠置山に入ります。これに呼応して9月14日、楠木正成が天皇を支援する兵を起こしました。
これに対して持明院統の後伏見上皇は皇太子の量仁親王に皇位継承を指示、親王は9月20日践祚して光厳天皇となります。先行して8月9日改元も行われて元弘元年となっています。
後醍醐天皇の側はこの時は持ちこたえることができませんでした。笠置山はあっけなく陥落し、後醍醐天皇はやむなく三種の神器を光厳天皇に譲り、翌年3月後醍醐上皇は隠岐に流罪になりました。日野資朝・俊基も処刑されます。

光厳天皇は3月正式に即位、4月にはまた改元が行われ正慶元年となります。この時、後醍醐天皇は、退位して後醍醐上皇になっています。

この一連の後醍醐天皇のクーデターに対処したのは、幕府の意向を踏まえた六波羅探題でありました。六波羅探題の重要な構成員の小笠原宗長は、北条得宗家の御家人として、後醍醐天皇成敗に動いたものと考えられます。

しかし上皇側はこれで引き下がりはしませんでした。その年の秋、楠木正成らが再度挙兵すると、翌正慶二年(1333)2月24日、上皇は隠岐島を脱出。これに対して、幕府は足利尊氏らを鎌倉から討伐に向かわせます。幕府は尊氏が寝返るかも知れないという情報があったため、尊氏の子千寿丸を人質に取るのですが、尊氏は家族の命より時代の流れを優先しました。・・もう鎌倉幕府の命数は尽きていると考えていた尊氏は、後醍醐上皇側に寝返って、光厳天皇を京都から追い出してしまいます。

鎌倉幕府と後醍醐上皇側の対立の戦略上のポイントは、幕府の拠点の鎌倉と、天皇と政治の中心京都です。足利尊氏は、後醍醐上皇と同盟するとともに、後醍醐の北条氏打倒の論旨で挙兵した新田義貞と弟の足利直義を鎌倉攻撃に向かわせます。京都は、北条の京都軍事勢力拠点・六波羅探題の分断と味方化です。尊氏は、六波羅探題の有力武将・小笠原宗長を、もはや北条の命運なしとして誘います。・・・ここで、以後長い付き合いになる小笠原家と足利家の盟友関係が成立します。

新田義貞は関東で挙兵しました。義貞は自力で幕府の手から脱出した千寿丸(後の足利義詮)と共に幕府軍と交戦、稲村ヶ崎から上陸して鎌倉に攻め入り、市内で激しい戦闘を繰り広げます。北条高時らは葛西ヶ谷まで逃れ、東勝寺で一族と御身内人二百八十名とともに自害します。高時は時宗の孫にあたります。・・・鎌倉幕府滅亡(1333)。

隠れていた楠木正成が再び赤坂城に立てこもると、逆に全国の守護も鎌倉幕府に対して反乱をおこしました。後醍醐上皇も隠岐から密かに抜け出し、鎌倉幕府方の有力な武将である足利尊氏までが反乱をおこして、ついに京都の六波羅探題を攻め落とす状況となりました。・・ここで6月4日後醍醐上皇は京都に戻り「自立登極」します。「自立登極」の意味は不明。・・要するに二年前の退位を取り消して、元号も元弘三年に戻したと言うことかと思いますが・・・。結果歴史から本来正式に即位したはずの光厳天皇は、正式な天皇としての地位が歴史から抹消されます。そして翌年1月29日建武に改元。退位を取り消して、再び後醍醐天皇になった。・・・これが建武の中興です。

足利尊氏は元弘三年(1333)8月の除目で、従三位・武蔵守となった。しかし、彼の名を、建武政府の中央諸機関の後の構成部門のなかにも見出すことはできない、という奇妙な政権が出来上がります。
この事実は、当時の人々の目には、不可解で、奇妙なことと映じたらしく、”尊氏なし”という言葉が所々でささやかれていたといいます。その時、尊氏は六波羅を滅亡させたあとに、奉行所を設け、諸国から続々と上京する武士を配下に治めつつあったのです。六波羅滅亡、建武政府の成立から数カ月の間、全国各地から上京しる武士は、「御手につきたてまつり、軍忠を致す」という着到状を奉行所に提出し、尊氏から「了承した」という証判をうけ、彼の配下に入ったのです。
5月中に、土佐の住人須留田心了、和泉の日根野盛治、美濃の鷲見忠奏などが、6月に入ると、美濃の水谷重親、信濃の市川一族、加賀の狩野頼広、安芸の平賀廉宗、石見から藤原廉員、紀伊から隅田忠長などだ上京している記録が残ります。
さらに、信濃の小笠原宗長から、関東合戦の詳細な状況を、大友貞宗、島津光久からは、九州における戦況を逐一報告されていた尊氏は、京都にありながら、全国的な歴史の推移を、的確に把握していたと言えます。このことは、鎌倉幕府の滅亡という極めて不安定な政情の中で、諸国の有力武将が、誰を最も信頼していたかをはっきりと示すものであります。

続々と、尊氏傘下に入る諸国の有力武将に、尊氏は何を託されたのであろうか。この託されたものを、共有できたからこそ、尊氏は武力を掌握でき、後醍醐天皇を超えて、南北朝の対立を乗り越えられたのではないでしょうか。ここで尊氏が、盟友に選んだ武将は、その後室町幕府の支柱になっていきます。ただ、この様な御家人・武将の望みや思いは、尊氏個人には理解されたが、歴代の将軍には受け継がれなかったようにも思う。

そうして建武三年、後醍醐天皇の親政と貴族中心の政治運営に不満を持った武士たちは、光厳天皇の弟の豊仁親王を新たに天皇に擁立・・光明天皇。天皇は、足利尊氏を征夷大将軍に任命するに至る。ここで天皇家がふたつ並立するという前代未聞の事態になった。この「南北朝」の時代はこのあと六十年も続きます。

 

鎌倉幕府滅亡と南北朝時代突入まで ・小笠原貞宗の戦歴


・元徳元年(1331)に後醍醐天皇が倒幕の挙兵をすると、貞宗は幕府の命を受けて畿内へ出陣し、9月に大仏貞直率いる一隊に加わって宇治から大和路を経て楠木正成がこもる赤坂城攻略に参加した・・『光明寺残編』。
・元徳三年・元弘二年(1333)正月に再び幕府軍の一員として畿内に出陣している・・『太平記』。
・足利高氏が倒幕の挙兵をするとこれに呼応して鎌倉攻めに参加・・貞宗の父・宗長に尊氏から軍勢催促状が送られている。
・足利尊氏が鎌倉幕府を裏切って 「六波羅探題」 を攻撃した時、小笠原貞宗もその配下として従軍。
・その功績により建武政権から従五位下・信濃守に任じられ、信濃守護職を認められた。埴科郡船山郷(千曲市小船山)に守護所を置いていた。実際の守護職補任は父・宗長へ。
・信濃は関東を支配する鎌倉府の知行国で、鎌倉府の守護代・吉良氏と小笠原氏は併存していた。貞宗は、吉良氏とともに北信濃の反乱豪族を治めようとしていた。
・ 建武二年(1335)7月に信濃に逃れていた北条時行が諏訪頼重らと「中先代の乱」を起こすと、貞宗は信濃守護としてその鎮圧にあたり、青沼(千曲市杭瀬下)などで戦ったが、国府を襲われて国司を殺され、その進撃を食い止めることができなかった。
・中先代の乱の鎮圧後、建武政権は村上信貞を「信濃惣大将」として信濃に派遣し北条残党の討伐を行わせたが、これは守護の貞宗の職務と競合するもので、このことが貞宗を尊氏寄りに傾斜させた。
・建武三年・延元元年(1336)9月には、比叡山にこもる後醍醐天皇方に対し、近江の琵琶湖上を封鎖、兵糧攻めにして講和に追い込んでいる。・・『太平記』
・このとき、近江の武将・佐々木道誉が 小笠原貞宗に国内を牛耳られることを嫌い、嘘で後醍醐方に投降して近江守護職を認められ、これを「将軍(尊氏)からいただいた」と称して、貞宗を近江から追い出した、という逸話・・『太平記』。
・新田義貞のこもる越前・金ヶ崎城攻めにも参加している。
・建武五年・延元三年(1338)正月には、奥州から遠征してきた北畠顕家軍を、足利方が迎え撃った「青野原の戦い」に参加して、芳賀禅可と共に一番手に突撃、渡河したが、伊達・信夫ら奥州勢にさんざんに射られて多くの兵を失っている・・『太平記』。
・暦応三年・興国元年(1340)、越後から新田義宗が信濃に侵入、北条時行・諏訪頼嗣がこれに呼応して南朝勢が一時勢いを見せたが、貞宗はこれらを攻略して信濃における足利方優勢を固めている
・康永二年・興国四年(1343)3月には南朝の総帥・北畠親房が拠点を置く常陸・大宝城の攻略にも参加した。
・康永三年(1344)に、信濃守護などの家督を政長に譲った後は隠居して、京の四条高倉に住んでいた。

 

小笠原貞宗の事歴


・小笠原宗長の子で正応五年(1292)4月に信濃国松尾に生まれる・・異説:永仁二年(1294)生まれの説もある。幼名は「豊松丸」、長じて「彦五郎」、後年「信濃守護」。
・貞宗は信濃における拠点を筑摩郡井川(松本市)に移し、信濃支配の体制を固めた。これは、北条残党が北信濃に多く、足利幕府に反旗していたため、北信濃制圧の拠点の意味合いが大きかった。戦歴を見ると、ほぼ歴戦で各地を回り、居住の長いのは京都と思われる。井川に、代官がいた可能性は高いが。・・・後に、府中小笠原家になった
・元から渡来した禅僧・清拙正澄に深く帰依し、その隠居所となった鎌倉・建長寺の「禅居庵」は貞宗が建ててたほか、清拙正澄を開山として信濃伊賀良荘に「開禅寺」を建てている。
・後世、小笠原氏が武家の礼儀作法の家となり「小笠原流」が名高くなると、貞宗はその「中興の祖」として祭り上げられ、先祖伝来の作法を大成したうえ後醍醐天皇や足利尊氏に指導までしたことにされたが、天皇まで指導は事実ではないとみられる。ただ彼が騎射にすぐれ、笠懸や犬追物で名を馳せたのは事実のようである。
・伝辞世の歌:「地獄にて大笠懸を射つくして 虚空に馬を乗はなつかな」
・家譜では「 射・御・礼の三道に達し、殊に弓馬の妙術を得、世を挙げて奇異達人と称す」・・笠系伝記。
・貞和三年・正平二年(1347)5月26日に56歳、京都で没した。

貞宗の母は・・・
・貞宗の母について、
・・・吉川弘文館『国史大辞典』は赤沢伊豆守政経の女と記しますが、
・・・安田元久編『鎌倉・室町人名事典』では貞宗の母について何ら記しません。
・・・「続群書類従」巻125所収の「小笠原系図」では、貞宗の母は「中原経行女」と記。
・・赤沢氏女説は疑問とされていますが、宗長が松尾にいた時の正妻・赤沢氏女、京都にいた時の妾妻・中原経行女とすれば、矛盾が無くなります。この方が可能性が高いが、確認の資料はありません。

信濃守の官名について ・・・どのような役職か詳らかではありません
信濃守
小笠原長政 (1294年以前?)

小笠原長氏 (1310年以前?)

小笠原宗長 (1330年以前?)

・・・・・

 

貞宗の時代の分家


貞宗の時代に、後世まで続く分家がほぼ出そろいます。
最初に、甲斐・南部に分家して、後に東北に家門を張った南部家。東北の南部の地名が、元々あったものか、南部氏が地頭で進出して、家名が南部の地名を残したのか、調べてはありません。
伴野家は、佐久地方に地頭として根を張りましたが、勢力争いに巻き込まれて一度没落したが、血累を温存して、後に復活しております。本来は小笠原惣領家ですが、没落の時惣領家を松尾に譲っております。
大井家は、佐久の伴野家の付近に拠点を置いており、松尾惣領家と遠い信濃国であったため、貞宗は、同族大井家に、信濃国守護代を任せて、東信を知行して貰ったようです。勝手な想像ですが、塩田にあった、隠居所の北条家の、守衛の役目もあったのではないかと考えています。これは思いつきなので、資料は調べていません。
浅間郷の赤沢家は、小笠原長径の子に当たる家柄で、貞宗が府中に進出した時に、浅間郷で、貞宗の軍勢の中心になった同族重臣です。信濃に残る北条残党の対応に、貞宗と命運をともにしたようです。北信濃の塩崎城は、赤沢氏の分家で、幕府に反目する北信濃の豪族に対する、幕府側・小笠原家橋頭堡の役割だったかも知れません。
鈴岡小笠原家は、貞宗の時代、まだ出来ていません。
坂西家は、貞宗の子が、郊戸荘に分家して、以後松尾小笠原の同族重臣として、命運をともにします。
松尾小笠原は惣領家でありました。貞宗の頃城累は造らず、居館・陣屋であったようです。
府中小笠原も、貞宗の頃は、出先出張所の居館・陣屋の規模のようです。
下条氏は、どうも出自は、甲斐武田家のようで、小笠原惣領家と近接であるため、何度かの婚姻の末、同族的になったようです。
阿波国小笠原は、後に管領家の細川家との関係を深め、三好家に名前をかえて存続するが、尾張織田家の勢力拡大で、織田家が近畿に進出する時に敗れて、没落します。
阿波小笠原家から出た、石見小笠原家は、山陰の強豪・大内氏や尼子氏などに翻弄されながら、最後は毛利氏に仕えたが没落します。

こうして、小笠原一族を眺めると、全国にこれだけ多くの"大名クラス”の城主を出した一族は、他に見当たりません。しかし、図抜けた戦闘力を持つ戦国大名も見当たらないのも確かで、この点が今一つ地元の評価を上げない原因のように思えます。しかし、そこそこの大名クラスを排出していることは確かで、これは、幕府とか朝廷に対して「小笠原礼法」を確立して認められ、古事儀礼の礼式の家として指導的な役割を担っていたためと思われます。・・・小笠原礼法は、少し難解で、いまだ理解しておりません。


松尾小笠原家、惣領家へ ・・小笠原家の盛衰

2014-04-15 21:15:26 | 歴史

ここまでに、松尾小笠原家の成立を見てきたわけだが、次には松尾小笠原家が、宗家になる過程を検証したい。

松尾小笠原家、惣領家へ 

松尾小笠原の成立に拘わった小笠原長径の生誕に関して興味深い内容が『続群書類従』に記載されています。長経について治承三年五月に山城国六波羅館で生まれたと記し、その二男に清経をおいて「或六波羅二郎。赤沢山城守受譲。」・・『続群書類従』巻124・「小笠原系図」。・・さらに、清経の子に六波羅孫次郎忠経があげられるわけで、その系統が赤沢を名乗る前は、「六波羅」を苗字としたと考えられます。これが、何時に、赤沢に変わったのかは不明です。

ここに見えてくるのは、父・長清が、山城国六波羅館で奉公していたらしいこと、ここで長径と清径が生まれたこと、清径は、六波羅次郎と赤沢山城守の名前をもらったこと。ここの記述が正しければ、長清の子の赤沢清径が、伊豆赤沢の地頭を勤めて、赤沢氏を名乗ったとする通説はかなり怪しくなります。さらに、『東鑑』に赤沢氏の記載が無く、伊豆伊東は、元々の北条氏の本拠地であることから、赤沢清径の伊東赤沢地頭説はかなり危うい説ということになりそうです

小笠原家の宗家は、長清の嫡子・伴野長泰であったが、霜月騒動に連座して没落する憂き目にあった。
では、霜月騒動とはなにか・・・幕府執権の時宗死去後、跡を継いだのが北条貞時で、貞時の外祖父安達泰盛が、幼年の貞時に代わって政治の実権を握り、将軍中心の政治を行った。このことに反感する平頼綱と対立しそれぞれの一族をや周りの御家人を巻き込んでの、争乱になったという。伴野長泰は、時の権力者・安達泰盛と姻戚であり、この騒動に連座して没落したと言うこと。この対立は、平頼綱の勝利となったが、頼綱が恐怖政治を行ったため、将軍貞時が、平頼綱を討伐して決着したという。時は弘安八年(1285)のことである。
こうして、伴野長泰の伴野家から、松尾小笠原家へ宗家は移った。松尾小笠原長氏の時である。

松尾小笠原家、京都に橋頭堡を築く

惣領家が、松尾小笠原家に移ると、幕府は、松尾小笠原家の経済的基盤を強化することを行ったと見て良いが、それが何であったかは不明のままである。そして、奉公は、京都六波羅探題への出仕であったようだ。六波羅探題は平安期の治安維持の目的に加えて、幕府が朝廷に、不穏の動きが起きないようにする監視と牽制の役割が増えた。
小笠原家が、京都と関係を深めて、京都に橋頭堡を築く、始めのことである。また、松尾小笠原一族の中には、鎌倉へ出仕する者もいた。

小笠原長氏の子
宗長、長頼、泰氏、長綱、丸毛兼頼、山中政宗、常葉光宗、赤沢長興、津毛経氏
・宗長・・京都小笠原長氏の系統で、子が小笠原宗長で、宗長・貞宗父子が当初、鎌倉幕府の命により、楠木正成の拠る赤坂城の攻撃軍に加わっていた。
・長綱・・岩波家は信州の小笠原長氏の四男「小笠原丸茂太郎」を始祖とし、小県郡の岩波の郷に住み、岩波を名乗る。
・兼頼・・丸毛氏、小笠原長氏の族・丸毛六郎兼頼は多芸郡大塚村に住んで、子孫は当郡の強族であった。

他にも、京都六波羅探題は、阿波守護職小笠原の系統で、その小笠原長経系は六波羅探題の奉行人など鎌倉幕府の京行政府の枢要な官人を輩出する吏僚一族となる。六波羅探題(北方)に勤務した家名の中に、布施.知久.平賀.中野.仁科.中沢等々の諸氏の名が見える。小笠原家は、京都六波羅の地に南鎌倉幕府の役職も兼任していく。小笠原家の惣領職の継承については、「小笠原系図」では長清—長経—長忠—は甲斐と信濃にあり、次第に北条氏との関係を強め、信濃に勢力を拡大していく。

松尾小笠原氏の在、伊賀良荘の江馬氏との関係については、 江馬氏は信濃守護小笠原氏とも姻戚関係にあり、・・『諸家系図纂』、となっており、良好な関係が見える。この時代から過ぎた時も・・小笠原系図に「持長、政康嫡男母家房女(此女房大名子三人、長畠山右衛門佐、仲小笠原、季飛州江馬是 ...とあり、係累化が一族繁栄の道のようでもあり、反対に持長のように分裂の因のようにも見える。
・持長の正妻は畠山氏から、政康の正妻は小笠原同族から、政康の嫡子の正妻は飛騨江馬氏から、と読める。


松尾小笠原家の成立  ・・小笠原家の盛衰

2014-04-13 21:06:12 | 歴史

松尾小笠原家、伊賀良荘に成立

小笠原氏は、長清の嫡子長経の代に、信州伊那の伊賀良庄(現、飯田市)の松尾に住んだらしい。・・長経の子の長忠がそこで生まれたとされているから・・(家譜)。長清は信濃伴野庄(佐久市野沢)の地頭に任じられたというが、あるいは伊那伴野荘?・・(東鑑)、かも知れない。ただ、長清が飯田の時又にある長石寺に源氏の戦勝祈願をしたという言い伝えが・・(久保田安正)ある。

承久の乱の時、京へ攻め上る東山道軍の、小笠原・武田大将の許へ、伊那谷の豪族達は、幕府軍として続々と駆けつけた。記録に残っているもので主なものは、・・・

○中沢基政・・信州伊那郡中沢郷に居館のあった豪族。一族は諏訪神族と思われる。その孫の真重は中沢神太を名乗り、その活動年代は久安(1145~51)とされる・・『諏訪志料』。中沢氏は承久の乱の恩賞で信濃と出雲に所領をもち、その後継の代に信濃と出雲に分かれたわけである。
○藤沢氏・・、諏訪神氏の支流。承久の乱の功により、いわゆる「新補地頭」として、箕輪を賜ったものと思われる。。
○飯島三郎為光・・は飯島郷の地頭となり、承久の乱に出陣したことが『承久記』にみえている。すなわち、飯島三郎、四郎の兄弟は東山道軍に加わって、恩賞として各地の新補地頭に任じられている。飯沼四郎という人物が、出雲国大原郡大東庄と大西庄の新補地頭に任命されている。
○諏訪部助長・・ 承久の乱で幕府側として活躍した諏訪部助長は承久3年(1221年)に三刀屋郷の地頭職を与えられ下向した・・・伊那の出自とされるが、住居など不詳。
○遠山景朝・・北条泰時が京都に入った折りに遠山景朝 もその軍に従っていた ・・・ただ出自は、伊那遠山とも美濃とも謂われ、どちらか定かではない。
○名子又太郎・・信濃国住人奈古(名子)又太郎が 承久の乱の軍功を追録されたとある。
○知久信貞・・承久の乱の戦に、知久信貞・・知久氏二代目・という人が幕府方について戦い、その褒美として、伴野荘という竜東の地をもらい、地頭になった。
○諏訪信重・・諏訪神族・諏訪社の大祝・諏訪信重。
○伊具右馬允入道・・伴野荘地頭?小笠原長清、波多野氏、知久氏入り乱れて混乱?
○千野六郎・・諏訪神族・千野家

東山道軍の将軍武田信光〔1162-1248・87歳〕・小笠原長清〔1162-1242/81歳〕の指揮にしたがった。軍の検見として遠山景朝・諏訪信重・伊具右馬允入道が任じられた。

小笠原長清と信濃武士との関係は、承久の乱の幕府側・東山道軍によって始めて成立し、東山道の伊那道を通過することのより、伊那武士と伊賀良荘を、身近にしたものと思われる。

承久の乱後、信濃の武将らは西国に多くの所領を安堵された。
・小笠原長経は阿波国(徳島県)麻殖保(鴨島町)や阿波守護職、
・大井朝光は伊賀国虎武保(三重県未詳)、
・中沢真氏は出雲国掟本荘(島根県大東町)、
・平林頼宗は豊後国毛井社(大分県大分市)、
・諏訪部助長は出雲国三刀屋郷(島根県三刀屋町)、
・赤木忠長は備中国穴田郷(岡山県高梁市)などの恩賞地を得た。
このほかにも西国に所領を得た信濃武士が多く、一族が西国に移住する契機がつくりだされた。比企事件で一度失脚した島津(惟宗)忠久は太田荘地頭職を得た。

これに歴史の時間軸で眺めると
治承四年(1180)木曽義仲が善光寺平の栗田氏と共に筑摩から善光寺をおさえる。源頼朝は北条時政を甲斐に派遣、武田は甲斐源氏を率いて諏訪と伊那の武士団を頼朝の御家人に編成・・・義仲死後、北信は頼朝の乳母の一族にあたる比企能員・・娘が頼家の妻・を信濃目代として統括
南信は、伊那谷最大の荘園である尊勝寺領伊賀良荘に北条時政が介入
文治元年(1185)甲斐源氏加々美遠光(小笠原氏の遠祖)を信濃守にする
文治三年(1187)伴野荘地頭に小笠原長清、大井荘地頭に大井朝光・光長、塩田荘地頭に比企氏に関係する惟宗忠久・・島津家の祖
建仁三年(1203)比企氏の乱(頼家+比企氏と北条氏の戦い)で小笠原長経は所領を没収され、信濃守護職が北条時政に代わる
承久の乱(1221)で小笠原長経は阿波守護職
弘安年間(1278~1288)北条氏一門の江馬光時が地頭代として名越光時に仕えた四条金吾頼基(1229~1296)を伊賀良荘殿岡に派遣

疑問検証・・・
文治元年(1185)甲斐源氏加々美遠光(小笠原氏の遠祖)を信濃守にする
文治三年(1187)伴野荘地頭に小笠原長清、大井荘地頭に大井朝光・光長、塩田荘地頭に比企氏に関係する惟宗忠久・・島津家の祖
建仁三年(1203)比企氏の乱(頼家+比企氏と北条氏の戦い)で小笠原長経は所領を没収され、信濃守護職が北条時政に代わる
・・・
小笠原長清の生没年(1162-1242)
・長清25歳の時伴野荘地頭に補任。その時の子息の年齢?
・・大井朝光(1198-1225?)長清七男とあるが・・文治三年(1187)に生誕していない矛盾?
・・小笠原長径(1179-1247)
・・伴野時長(生没不詳)
小笠原長忠の検証・・小笠原長径の嫡子、生誕不詳。次男長房(阿波守護)の生誕(1213-1276)とあるので、長忠の生誕は、父・長径の元服から次男生誕まで1194-1213年の間、比企の乱で、長径が鎌倉を追放されたのが建仁三年(1203)で、長径の齢24歳の時と仮定すれば1203年から数年後の生誕と緩く比定できる。この時伊那松尾での生誕が確認出来ることから、小笠原長経は当時伊那松尾付近に在任していたことが推論できそうである。承久の乱は、これより20年弱後の出来事である。長径がなぜ伊那にいたか、は追放された後一族の庇護の許にあったと読めるが、父の伴野荘地頭職赴任の先が、伊那伴野であれば説明が付きそうである。これは、佐久伴野荘説を否定するものでは無い。ただ・佐久伴野説を主張するものは、論拠を示して欲しいところ。文治年間の歴史事歴は、無理な捏造があることも確かなので、確実に解析したいところである。

長忠が阿波守護になっていたら、松尾小笠原家は生まれなかった

小笠原長径が阿波国の守護を譲って、信濃国伊那の伊賀良荘へ戻ってきた頃の、伊賀良荘はどうなっていたのでしょうか。長径は、乱後の貞応二年(1223)、父の跡を継いで阿波国の守護となっており、その後に、長男・長忠が松尾帰国を希望したため、次男の小笠原長房に守護を譲って帰国したと言われ、長房は阿波小笠原の祖となった。その後に三好家に家名を変える。長径の信濃国帰国の時期は、貞応二年(1223)以降は確実だが、特定はできない。
その頃の、伊賀良荘の地頭は、記録では北条氏一門の江馬光時が残る。ただし本人でなく、代官として四条金吾頼基が赴任したとされている。伊賀良荘殿岡に地頭の居館があった。
さて、ここで長径の長男・小笠原長忠についてだが、小笠原長経の子、伊那地方の松尾の地で出生したとされるため松尾長忠とも称される、とされている。これは、小笠原家の家譜によるものだから、正しいとすれば、父・長径が承久の乱に、幕府軍として参戦し、あるいは阿波国の守護であった時、松尾で生まれて長忠は、青年になっていたことになる。承久の乱前、長忠が生まれた当時に、父・長径が、既に伊賀良荘か、付近にいなけれ、論理的におかしくなる。・・・このあたりの詳細は、年代を含め不詳。推論とすれば、同族の伊那伴野の地頭・伴野某の所か関係先に、比企の乱での追求を逃れて隠棲していたとか?が考えられる。

伊賀良荘地頭・江馬氏とは・・・

その頃の、伊賀良荘の地頭は、記録では北条氏一門の江馬光時が残る。ただし本人でなく、代官として四条金吾頼基が赴任したとされている。伊賀良荘殿岡に地頭の居館があった。
さて、ここで長径の長男・小笠原長忠についてだが、小笠原長経の子、伊那地方の松尾の地で出生したとされるため松尾長忠とも称される、とされている。これは、小笠原家の家譜によるものだから、正しいとすれば、父・長径が承久の乱に、幕府軍として参戦し、あるいは阿波国の守護であった時、松尾で生まれて長忠は、青年になっていたことになる。承久の乱前、長忠が生まれた当時に、父・長径が、既に伊賀良荘か、付近にいなけれ、論理的におかしくなる。・・・このあたりの詳細は、年代を含め不詳。推論とすれば、同族の伊那伴野の地頭・伴野某の所か関係先に、比企の乱での追求を逃れて隠棲していたとか?が考えられる。もっと推論を進めれば、小笠原長清の時、長清が地頭を勤めた伴野荘は、佐久ではなく、伊那伴野荘とすれば、その後の長径が、阿波から帰国して住んだ場所が伊賀良荘であることも、子の長忠が松尾長忠と呼ばれたことも、不自然さは少なくなる。

江馬光時は、名越一族であり、名越一族は、北条得宗家の、時宗の兄である北条時輔に肩入れをしていた。つまり、正妻の弟・時宗、妾妻の兄・時輔があって、得宗家の執権を巡る勢力争い、のことである。この時、名越家と江馬光時は、執権となった北条時宗に対する反逆罪で疑われて、資産を没収されたり、遠島されたりしたようだ。
代官・四条頼基は、伊豆へ島流しにあった、主人・江馬光時に、伊賀良荘殿岡から、物資を送ったことが書類で残されている。それより四条頼元を特徴付けているのは、日蓮の強烈な支援者、信者であったことである。現在残されている日蓮と四条頼基との書簡の往復は、日蓮の経歴の、第一級の証拠立てとして有名であるそうだ。
元弘の乱(1331)以前、伊賀良荘の地頭は北条一族である江間氏が努めていたが敗戦後、彼は高時入道と共に殉死してしまった。残された彼の妻尼浄元は寺領を寄進。その寄進地にて小笠原貞宗が開基となり、建武二年(1335)に元僧清拙正澄を京都建仁寺より招き畳秀山開善寺を開いた。

この、伊賀良荘の地頭・江馬氏の所領を見れば、最初広大だったのが縮小され、最後に、
尼浄元が残された所領を、開善寺の寺領に寄進している。この間、松尾小笠原家が、徐々に伊賀良荘を浸食していたようだ。ただし、これは武力による略奪ではなく、婚姻による分割相続と見る方が良いのではないか・・・松尾小笠原家の家譜によれば、江馬氏との婚姻が記録に残る・・・この部分も推論による。江馬氏の本拠地は飛騨高原。

松尾小笠原家の系譜 長経―長忠―長政―長氏―宗長―貞宗

長清寺・・・
長清寺は飯田市中村にある。長清は仁治三年(1242)年81歳で没し、京都の清水坂の下に建てた長清寺に埋められたという。長清寺は応仁の乱で消失。子孫の丸毛長照(長氏・・四男兼頼が丸毛氏となり、その五世孫)が骨を飯田の長清寺と開善寺(将軍塚)、それに美濃赤坂の荘福寺(長照の出身地)に分祀。・・・(久保田安正)

○小倉小笠原藩 長清寺・・・福岡県北九州市小倉北区、「玉泉山長清寺」、小笠原藩の菩提寺です。・・・府中小笠原家

○北杜市明野 長清寺・・・ 昔小笠原牧があり、小笠原家の発祥の地 旧北巨摩郡明野村



承久の乱と小笠原家  ・・小笠原家の盛衰

2014-04-11 20:06:26 | 歴史

小笠原家の盛衰と特色

 

ここまで、小笠原家の系譜を、出来る限り詳細に辿ってみた。小笠原家は、歴史上の転換点で、偶然にも勝者の側に付き、勢力を伸ばしてきた。その間に、故実儀礼の式家として、武家の礼式を体系化して、武家社会の秩序や礼式の指導的立場を確立してきた。両幕府との関係も、緊密に維持しながら、武闘派的な要素は弱点ながら、体制の維持という観点からは、要的な要素を示して、時代を生き延びてきた、謂わば特異な一族になっていった。一連の記述は、特に新しい要素はなく、一貫した記述が見受けられなかったので、ここでまとめたに過ぎない。

小笠原家を、大きく伸張させたのは、歴史を眺めると、二つに要約できそうである。一つは鎌倉時代の承久の乱で、承久三年(1221)の出来事である。もう一つは、建武の新政、南北朝争乱の時である。
あるいは、源平合戦の時と江戸幕府成立前後も、付け加えていいのかも知れないが、こちらは、歴史の流れと過去の遺産が物を言ったのであろうか。

承久の乱と小笠原家

源実朝の時、小笠原長清は鎌倉幕府御家人として確固たる地位を築いていた。時に、次男の長径が、将軍・源頼の近習として仕えた時、比企の乱が起こり、長径が比企側として拘束されると言うこともあったが、姉妹である大弐局は三代将軍源実朝の養育係であり、時長が将軍・実朝の信頼が厚かったこともあり、長径は危機を脱した。小笠原一族は、鎌倉幕府では有力であった。

こうした事情から、承久の乱が起こった時、京への遠征軍の東山道軍の大将として、小笠原長清は、子息八人を引き連れて参軍している。東山道軍は、他に甲斐源氏の武田信光、下野国の小山朝長、下総国の結城朝光も大将に任命された・・吾妻鏡・の説もあるが、武田信光以外は、他の歴史書では、その事実が見えない。・・乱の論功行賞で甲斐源氏の一族は畿内・西国の所領を与えられており、承久の乱を契機に甲斐源氏の一族は西国へ進出している。
・・・武田信光の言葉・・「鎌倉方が勝てば鎌倉方に付、京方が勝てば京方に付くというのが弓取る身の習いだ」。

承久の乱に参軍した小笠原長清の子息八名の名は、小笠原長経、伴野時長、大井朝光までは特定できるがのこりの五人は特定できない。
・・長清の子:八代長光、小田清家、、伴野教意、伴野為長、大井行長、鳴海清時、大蔵清家、大倉長隆、八代長文、伴野行正、大倉行信、伴野行意、小笠原長房・・

○伴野時長・・「佐久伴野荘」と呼ばれ、当時の領家は藤原基家、地頭は小笠原長清。嫡子・小笠原時長が継承し、伴野時長を名乗った。
○大井朝光・・小笠原長清の七男朝光が、承久3年(1221)の承久の乱における「宇治川の合戦」での戦功により、信濃国佐久郡大井庄の地頭となって土着したのが起源とされる。
○小笠原長経・・小笠原長清が承久の乱の論功により阿波守護。子の長径が継承・・・しかし長経は弟の長房に阿波国守護を譲って、信濃国伊賀良荘に隠棲する。

以上までが、歴史書に確認出来る、承久の乱後の、小笠原一族の勢力図であるが、明確になった部分と混乱している部分と区分できる。

伊那伴野荘と伊賀良荘の謎?

伊那伴野荘は、信濃国伊那郡(現在・豊丘村)にあった荘園。・・現在の豊丘村神稲に属する小字伴野を中心とした伊那山地西麓と天竜川に挟まれた南北に伸びた平地からなる。元の伊那郡伴野郷であった地域が荘園化したものと考えられている。・・元は上西門院を領家とする王家領で、『吾妻鏡』文治2年3月12日(1186年4月3日)条に後白河法皇から源頼朝に示された「関東御知行国・・未済庄々注文」にその名が見られる。当時の地頭は小笠原長清と推定。この推定と、小笠原長径が阿波国から信濃国へ戻り、伊賀良荘へ住み付いた事実を重ね合わせると、俄然、伊那伴野荘は長清の子の伴野某(教意、為長、行正、行意の誰か)が地頭であった可能性が高くなる。尊勝寺領の伊賀良荘と小笠原家の関係は、承久の乱の処理以前には出てきていない訳で、この長径こそが、”松尾小笠原家”の創立に深く関わったと思われる。尊勝寺は、天皇家の祈願寺であり、こちらも承久の乱の後、敗戦処理として幕府の手に渡ったと考えられる。
なお、小笠原長径が、なぜ阿波守護を棄てて、信濃国伊賀良に来たのかは依然不明。
承久の乱は、鎌倉幕府と後鳥羽上皇の対立構造から生まれたとされる戦乱で、幕府側の勝利に終わった時、後鳥羽上皇に与した西国の地頭や京にある公家や寺院の所領は、幕府に没収され、論功行賞の対象になって、参戦した幕府側の武士に宛がわれた。上西門院は後鳥羽上皇の姻戚であり、承久の乱の敗北を持って、伊賀良荘は天皇家の祈願寺・尊勝寺領の手を離れたと見て良い。これを示す資料は見つからないが、その後は”松尾小笠原家”の経済基盤となったところを見ると疑いを挟む余地は無いと思える。

○小笠原長径・・伊賀良荘地頭。松尾小笠原家宗家。場所は鳩が岡八幡宮下る約1Km、現・飯田市松尾城、小学校付近と比定・・推論。松尾城はこれより後年の築城。
○伴野某・・伊那伴野荘地頭・・推論

小笠原長清の子の名前の謎

長清の居館を探る作業は正確にはできない。可能性を探ると、生誕の地は甲斐国の小笠原で、其処が一つ目、鎌倉幕府の有力御家人であったことから、鎌倉に居を構えた可能性も大きい。さらに高倉天皇の滝口武士だったことも書にあることから京都にも居館があったのでは、と思える。地頭であったことから、荘園在所の両伴野、更に守護地の阿波。計六カ所が候補に上る。しかし、地頭や守護の在地は、子息に代官させていたことが明らかなので、阿波、佐久伴野、伊那伴野は長清本人の居館はなさそう。鎌倉、京都、甲斐小笠原に住んでいたのではないだろうか。・・推論
子息の名前の複雑さは、現在の一夫一婦制からは推論できない。当時は、一夫多妻制、という概念を当てはめないと解けない。
一族という血流の系譜は、当時は強く”通字”に顕れる。
子息の名前・・小笠原長経、伴野時長、大井朝光、八代長光、小田清家、、伴野教意、伴野為長、大井行長、鳴海清時、大蔵清家、大倉長隆、八代長文、伴野行正、大倉行信、伴野行意、小笠原長房・・
父、祖父の名前・・小笠原長清、加賀美遠光を並べて比較すると

○朝光・・加賀美遠光からの通字”光”
○長経、長光、長隆、長文、長房、・・小笠原の家名の継承・・(八代は甲斐国八代か)
○時長、清家、為長、行長、清時、・・長清の通字”長”と”清”
○行正、行信、行意、教意、・・どこから来たのか?不明

となる。正妻は上総広常の娘とあるが、平良文の系流で、一般には千葉氏の系統。
子息の多さは、異母兄弟の可能性を強く示すが、この手の資料は乏しく確証を得ない。正妻は鎌倉に本宅があり、其処にいたのであろうが、京都他の別宅にも側女がいたのであろうと推測する。

嫡子、伴野時長の系流は、”霜月騒動”に連座して没落し、小笠原長径の系流が、小笠原宗家として継承・認可されていく。すなわち”松尾小笠原家”宗家の確立である。

次の、小笠原家の節目は、貞宗の時・・・建武の新政と南北朝争乱


小笠原家の源流

2014-04-03 03:32:03 | 歴史

小笠原氏

 家紋 :三階菱    小笠原家の源流 

本姓 :清和源氏義光流
家祖 :小笠原長清
出身地: 甲斐国巨摩郡小笠原
主な根拠地: 信濃国、豊前国 など
著名な人物 小笠原長清、貞宗、長時、貞慶、秀政
支流、分家 三好氏、伴野氏、跡部氏、赤沢氏、大井氏、林氏(三河)


出自・概要

小笠原氏の家名のもとになった「小笠原」の地名は甲斐国巨摩郡に見られ、小笠原牧や山小笠原庄があった現在の山梨県北杜市と、原小笠原庄があった現在の山梨県南アルプス市に居館があったとされる。
甲斐源氏の嫡流となった武田氏に対し、加賀美氏流の小笠原氏は庶流にあたるものの、格式や勢力の上では決して武田氏に劣ることなく、全国各地に所領や一族を有する大族である。室町時代以降、武家社会で有職故実の中心的存在となり家の伝統を継承していったことから、時の幕府からも礼典や武芸の事柄においては重用された。
これが今日に知られる小笠原流の起源である。煎茶道や兵法などにも小笠原流があるが、その起源は多様である。・・また、抹茶の茶道においては、江戸時代に千利休流の山田宗徧を迎えて宗徧流茶道を保護したり、村田珠光流の古市澄胤の後裔を迎えて小笠原家茶道古流を興した。
鎌倉時代から信濃に本拠を移し、室町時代には幕府から信濃の守護に任ぜられた。嫡流は信濃と京都に分かれ、庶流は信濃国内はもちろん、阿波、備前、備中、石見、三河、遠江、陸奥にも広がった。戦国時代には小笠原氏の宗家は武田氏に所領を奪われて没落するが、安土桃山時代に再興し、江戸時代には譜代大名となった。

鎌倉時代
小笠原氏の祖の小笠原長清は、滝口武者として高倉天皇に仕えた加賀美遠光の次男として甲斐国に生まれた。長清は、遠光の所領の甲斐国小笠原を相続して小笠原氏を称した。南部氏の祖の南部光行は長清の弟である。平家が壇ノ浦の戦いで滅亡した元暦2年・寿永4年(1185)に、信濃国を知行国とした源頼朝によって遠光は信濃守に任ぜられたが、長清はこの地盤を受け継ぎ、小笠原氏は信濃に土着してゆく。なお小笠原氏の家紋である三階菱は、本来は加賀美氏の家紋である。
なお、長清の子孫には小笠原氏が守護となった阿波に土着した者がおり、阿波小笠原氏となる。また、阿波小笠原氏の一部は元寇の戦功により石見に所領を得て石見小笠原氏となる。

小笠原氏・初期系譜

            甲斐源氏
 ┏━━━┳━━━━╋━━━━━┓
 逸見 武田信義 加賀美遠光  安田義定
     ┏━━━━━╋━━━━━┓
   秋山光朝 小笠原長清1 南部光行(南部氏
              ┣━━━┳━━━━┓
            長経2 伴野時長 大井朝光(伴野氏・大井氏
              ┣━━┳━━━━━━━━━━━━┓
            長忠3 長房(阿波小笠原氏)     赤沢清経(赤沢氏
              ┣━┳━┓                 ┃
            長政4                    赤沢安経
              ┣━┳━┳━┳━┳━┳━┓    ┃
            長氏5                    赤沢経顕
              ┣━┳━┳━┳━┳━┳━┳━ 
            宗長6
              ┣━━━━━━━━━貞長・京都小笠原家
            貞宗7 

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加賀美遠光

   

時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 康治2年2月28日(1143年3月16日)
死没 寛喜2年4月19日(1230年6月6日)?
改名 豊光丸、遠光、別名 加賀美次郎
墓所 山梨県甲府市遠光寺
官位 信濃守
氏族 甲斐源氏、加賀美氏
父母 父:源義清 ?、母:佐竹義業の末娘
兄弟 清光、師光、遠光、安田義定
妻 和田義盛の娘(もしくは姉妹)
子 秋山光朝、小笠原長清、南部光行

加賀美遠光は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。甲斐源氏の祖とされる源義光の孫源清光の四男。・・加賀美氏の初代であり、武田氏初代武田信義の弟となる。甲斐国巨麻郡加賀美郷を本領とした。

生涯
伝承によれば、承安元年(1171)に宮中に怪異が起こり、高倉天皇は源氏の弓矢の名手として遠光を召され、鳴弦の術を行わせた。無事に怪異は治まり、遠光は褒賞として不動明王像と近江国志賀郡を下賜されたという。この不動明王像は現在も山梨県南巨摩郡身延町の大聖寺に安置され、国の重要文化財に指定されている。さらに遠光は特別に「王」の一字を許されたとされ、加賀美氏の家紋は三階菱の中に「王」の字を配している。・・治承・寿永の乱に際しては次男の小笠原長清と共に参加し、平家滅亡後の文治元年(1185)には源頼朝より御門葉の一人として重きを置かれ信濃守に任じられた。以後は頼朝の家臣として活動し、しばしば『吾妻鏡』に記述が見られる。・・晩年には衰微していた真言宗の古刹である法善寺を再興。また現在甲府市にある遠光寺を創建したほか、遠光創建を伝える寺社も多い。・・5人の息子がいるが、長男の秋山光朝は平家嫡流である平重盛の娘を妻としていたため頼朝に滅ぼされたものの、その系譜は秋山氏として続いている。次男の小笠原長清は小笠原氏を、三男の南部光行は南部氏の祖となった。四男の光経が加賀美氏を継ぎ、五男の於曽光俊(経行)は奥州合戦の際に軍略で功を立てた。

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小笠原長清

時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 応保2年3月5日(1162年4月20日)
死没 仁治3年7月15日(1242年8月12日)
改名 豊松丸、加賀美長清、小笠原長清、別名 次郎
官位 信濃守、阿波国守護
氏族 甲斐源氏加賀美氏、小笠原氏
父母 加賀美遠光、和田義盛の娘
兄弟 秋山光朝、長清、南部光行、加賀美光経、
妻 上総広常の娘
子 小笠原長経、長光、清家、伴野時長、大井朝光、伴野教意、伴野為長、大井行長、清時、清家、長隆、長文、伴野行正、行信、伴野行意

小笠原長清は、平安時代末期から鎌倉時代前期の甲斐国の武将。甲斐源氏の一族である加賀美遠光の次男。文治元年(1185)、源頼朝の推挙で、信濃守に補任された。ここより、信濃に勢力を浸透させていくこととなる。信濃守護家小笠原氏、弓馬術礼法小笠原流の祖。

略歴
高倉天皇に滝口武者として仕えた父・遠光の所領のうち、甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続して、元服の折に高倉天皇より小笠原の姓を賜ったとされる。・・源頼朝挙兵の際、19歳の長清は兄・秋山光朝とともに京で平知盛の被官であったとされ、母の病気を理由に帰国を願い出て許され、主家である平家を裏切り頼朝の下に参じたと伝えられる。治承・寿永の乱において戦功を重ね、父と同じ信濃守に任じられる。また海野幸氏・望月重隆・武田信光と並んで「弓馬四天王」と称されて、26歳のときに頼朝に出仕し、鎌倉幕府の御家人としての小笠原氏の基礎を築いた。・・頼朝没後、子の長経が二代将軍源頼家の近習であった事から、建仁三年(1203)9月の比企能員の変に連座して処罰されたため、一時小笠原氏は没落するが、姉妹である大弐局は三代将軍源実朝の養育係を務めて小笠原氏の鎌倉での地位を維持しており、嫡男の時長は次期将軍三寅の鎌倉下向の随兵を務めて鎌倉での活動が見られる。・・承久三年(1221)6月の承久の乱では、幕府方の東山道大将軍として子息8名と共に京へ攻め上って功績を挙げ、「七ケ国管領」となる。同年7月、京方の公卿源有雅を甲斐山梨郡稲積荘の小瀬村で処刑している。同年に阿波国守護となる。・・仁治三年(1242)7月15日、信濃にて81歳で死去。・・『吾妻鏡』に拠れば長清は弓馬の術に優れ、建久四年(1193)3月21日に鎌倉の鶴岡八幡宮にへ奉納された流鏑馬においては22人の射手が選ばれているが、この時に長清は武田信光とともに射手を務めたという。

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小笠原長経

時代 鎌倉時代前期 - 中期
生誕 治承3年(1179年)
死没 宝治元年(1247年)
別名 弥太郎、小笠原入道
幕府 鎌倉幕府 阿波国守護
主君 源頼家
氏族 甲斐源氏、小笠原氏
父母 父:小笠原長清、母:藤原邦綱の娘?
兄弟 長経、伴野時長他
妻 家女房
子 七郎長村、長忠、長房、赤沢清経

小笠原長経は、鎌倉時代前期の信濃国の武将。鎌倉幕府御家人。小笠原長清の子。

生涯
二代将軍源頼家の近習として仕え、蹴鞠の相手や流鏑馬の射手を務めている。正治元年(1199)4月、頼家が十三人の合議制に反発して指名した目通りが許される5人の近習にも選ばれている。同年8月、安達景盛が頼家の怒りを買った際、頼家の命を受けて安達邸を抱囲している。・・建仁三年(1203)9月、比企能員の変では、比企氏方として拘禁された。その後鎌倉を引き払ったと見られ、鎌倉では弟の伴野時長が小笠原氏の嫡家として重用されている。・・承久三年(1221)、承久の乱で父長清は、鎌倉方の大将軍として子息8人と共に京へ攻め上り、京都軍と戦った。乱後の貞応二年(1223)、長経は父の跡を継いで阿波国の守護となっており、5月27日、土御門上皇の土佐国から阿波国への還御にあたって、対応を命じられている。・・出家して小笠原入道と称され、宝治元年(1247)5月9日、京都の新日吉社で行われた流鏑馬の神事を務めている・・『葉黄記』。・・宝治元年(1247)、69歳で死去。

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小笠原長忠

時代 鎌倉時代中期
生誕 不明、死没 不明
別名 松尾長忠、又二郎
幕府 鎌倉幕府
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長経
兄弟 小笠原長村、小笠原長忠、小笠原長房、赤沢清経
子 小笠原長政

小笠原長忠は、鎌倉時代中期の信濃国の武将。鎌倉幕府御家人。小笠原氏の一族。小笠原長経の子。伊那地方の松尾の地で出生したとされるため松尾長忠とも称される。・・父の長経は承久の乱で功績を挙げ、阿波守護職を得たもの、後に弟の小笠原長房に守護職を譲り、自身は信濃に帰国し、伊那地方の伊賀良庄の松尾の地に居住した。長房の子孫は阿波小笠原氏となる。小笠原家の家譜によると長忠は松尾の地で生まれたとされる。・・長忠とその子の長政の時代、信濃において幕府から重用されたのは小笠原氏の嫡家である伴野氏であったが、霜月騒動に連座して伴野長泰が殺害されるなど没落したため、長忠の孫で長政の子の小笠原長氏に惣領の座が復帰した。長氏の子孫は室町時代には信濃守護を務め(信濃小笠原氏)、江戸時代には五大名が存続し、譜代大名として遇されることになる。

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小笠原長政 ・・詳細不明


時代 鎌倉時代
生誕 不明、死没 不明
幕府 鎌倉幕府
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長忠
子:長氏 長朝 長直 長廉 長義 長数 泰清

小笠原長政・・ 鎌倉時代の人物。信濃小笠原氏。小笠原長忠の子。小笠原長氏の父。

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小笠原長氏 ・・詳細不明


時代 鎌倉時代
生誕 不明、死没 不明
幕府 鎌倉幕府
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長政
子:宗長、長頼 泰氏 長綱 丸毛兼頼 山中政宗 常葉光宗 赤沢長興 津毛経氏

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小笠原宗長 ・・詳細不明

時代 鎌倉時代
生誕 不明、死没 不明
幕府 鎌倉幕府
氏族 小笠原氏
父母 父:長氏
子:貞宗、貞長

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小笠原貞宗

時代 鎌倉時代後期 - 室町時代前期
生誕 正応5年4月12日(1292年4月30日)
死没 正平2年/貞和3年5月26日(1347年7月5日)
改名 豊松丸、貞宗、別名 彦五郎
官位 右馬助、治部大輔、信濃守
幕府 鎌倉幕府→室町幕府
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原宗長、母:赤沢政常の娘
兄弟 貞宗、貞長
子 政長、宗政、坂西宗満

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