探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原貞朝  ・・・ 府中小笠原家歴代

2014-03-12 12:52:40 | 歴史

     府中小笠原家

 小笠原貞朝

-----------------------------

小笠原貞朝


時代 戦国時代
生誕 寛正二年9月18日(1461年10月21日)
死没 永正十二年6月3日(1515年7月14日)
別名 豊松丸、又二郎、修理大夫、信濃守
氏族 府中小笠原氏
父母 小笠原長朝
子 長高、長棟、定政、大日方長利

-----------------------------

概容・・・

*貞朝についても、情報は薄い。

小笠原貞朝は、戦国時代の武将。府中小笠原氏当主。小笠原長朝の子。
父の長朝が没し(1501)、家督を継承する。深志城の築城者とされる。

 

生涯・・・

既に鈴岡小笠原家は滅亡していたが、松尾家の小笠原定基は健在であり、貞朝と定基との対立は続いた。また、尾張守護斯波義寛の要請に応じて遠江に遠征、今川氏親と戦った。
長男の長高を廃嫡し、偏愛していた次男の長棟を後継者とした。廃嫡された長高は尾張に逐電し、その子孫がのちの高天神小笠原氏とされる。子息は多かったが、府中小笠原家は次男の長棟が継いでいる。このことに反発した子息達は、各所に流れて、一家を成している。高天神の小笠原氏が、長朝の異論は出ていないが、大日向氏(最初村上氏に属し、後武田氏に属した)は異論もある。

・・・文明十七年父より弓馬兵法の秘伝をうけた。著作に「和礼儀統要約集」。

・・・・・・・・・・・・・・・

小笠原貞朝の履歴については、小笠原関係書類よりまとめられた蹟が見受けられます。この説明には、かなり不満が残ります。・・・貞朝(1461-1515)の時代は、小笠原一族の宗家争いの時代とともに、諏訪一族の、上・下社・高遠家の間の諏訪家内乱(=内訌)の時代と重なります。この二系流は、お互いに内乱しながら、複雑に絡み合っていきます。小笠原長朝の時代は、まだ甲斐の武田家は、甲斐国自体が群雄してあり、統一されておらず、武田家の力量は小なる時であったようです。しかし、貞朝の時代になると、武田信虎(1494-1574)が生誕し、甲斐は統一に動き出しています。ここで、府中小笠原家と諏訪家との関係を見ないと、どうも片手落ちになりそうです。

諏訪家と小笠原家の関係・・・長朝時代に遡って(長朝・貞朝時代)

時系列事象・・箇条記載・・

・文明十一年(1479)、伊賀良庄に府中小笠原氏が侵攻し、諏訪氏は伊賀良庄の小笠原政秀を支援するため、大祝継満は高遠信濃守継宗とともに出陣した。
・翌十二年、小笠原政秀と叔父光康が争い、光康は府中の小笠原長朝を味方に、諏訪氏は政秀に援兵。
・同年、小笠原長朝は仁科氏を破り、諏訪氏の保護下にあった山家氏を攻撃。
・翌十三年四月、諏訪惣領政満は仁科氏・香坂氏らと協力して小笠原長朝を討つため府中に攻め入っている。
・諏訪氏の惣領政満は、甲斐に出陣。伊那・筑摩郡にまでその勢力を及ぼした。
・文明十四年(1482)、諏訪氏一族の高遠継宗と代官の保科貞親とが対立し、大祝が調停したが不調に終わった。
・その後、保科氏は高遠氏と和解したが、高遠氏と藤沢氏とが対立し、惣領政満は藤沢氏を支援した。府中小笠原長朝も藤沢氏を支援する立場をとり、小笠原・藤沢連合軍は高遠継宗配下の山田備前守が守る山田城を攻めたが失敗する。
・大祝継満は高遠継宗および小笠原政秀との連係を強め、一方の惣領政満は藤沢氏とともに府中小笠原長朝と通じるようになった。
・翌年五月、小笠原政秀の援助を受けた大祝継満は、高遠継宗・知久・笠原ら伊那勢を率いて諏訪郡に侵入し上社近くの片山城に籠城したが、小笠原長朝に攻められて退去した。
・小笠原長朝が安筑両郡の大軍を率いて、片山の古城を東側の干沢城と東西に挟み込むように、その西側に向城を築くと形勢は逆転した。
・小笠原政秀は長朝の本拠地林館(松本市)を奪い、深志にとどまり安筑2郡を合わせて領有し、名実共に小笠原惣領家たらんとした。安筑2郡の国衆は反発し治政不能の争乱状態となった。やむなく長朝と和睦し家伝の文書を譲り受け、長朝を養子とした。