探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

内藤昌月の内藤家、その歴史

2013-06-10 09:54:50 | 歴史
内藤昌月の内藤家、その歴史

*この項については、保科正俊の三男の内藤昌月と保科家との関わりを、自分なりに整理したもので、オリジナリティはありません。知っている方は読み飛ばして下さい。武田家滅亡後の内藤家が、意外と資料に乏しく、流れが不鮮明であったため、自分のために資料を整理してまとめてみた、と言うところでしょうか。ただ、分かっていたことであるが、真田家と保科家の繋がりが、かなり鮮明になったことは確かです。それと、会津藩と支える藩の家老たちの優秀さは、記憶に焼き付きます。ここも魅力のあるテーマです。
それにしても、保科正俊なる人物は強烈です。

内藤昌月
内藤昌月は、ないとうまさあき、と読む。
戦国時代の武将。武田氏の家臣の内藤昌秀(昌豊)の養子で、生父は保科正俊の三男である。昌秀は天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで戦死し、内藤昌月は昌秀の家督を継いで、大和守を称した。昌豊には実子もあったが、どういう事情か、養子である昌月が内藤家を相続したのであります。内藤修理亮昌豊のあとを継いで箕輪城主になった内藤大和守昌月は、武田家滅亡の後、武田家中で同僚であった真田家に属し、天正十年より流浪し天正十六年病死した。この間真田家も権力の狭間を流浪する。真田宗家の真田昌幸は、一旦北条に臣下するが、後北条を見切り、家系の存続を秀吉と家康に分けて託す選択をとっている。

養父内藤昌秀(昌豊)
内藤修理亮(しゅりのすけ)昌豊 
旧姓工藤氏。信虎の代、工藤虎豊の二男で、父虎豊が信虎に強諌して誅されたため、子の昌豊は出奔、その後信玄に呼び戻される。昌豊は「甲陽の副将」と称されるほどに知略に秀でた武将とうたわれた。その後に軍功を賞されて信玄の命により内藤氏を継いだ。

保渡田 生原
内藤昌豊と内藤昌月は箕輪城代であったが、居城は保渡田城で、箕輪城まで通っていたそうです。ですから、高崎市保渡田、生原地区は保科家、会津藩とは非常にかかわりの深い土地ということになります。内藤昌月は保科家の出と言うだけではなく、会津藩家老の内藤家の祖に当たります。織田信忠による高遠城攻撃前から、本能寺の変後保科正直による高遠城奪還までの間の保科家の人々の正確な足取りはわかっていません。身を寄せた可能性の高い場所は3つ。1つは正直の妹の嫁ぎ先であった松本の小日向家、もう1つは正光の妻の実家であった上田の真田家、そしてこの保渡田です。そして、この保渡田は高遠奪還戦において重要な役割を果たしています。当時、兵力を持たなかった保科正直は実弟の内藤昌月から500の兵力と戦闘指揮者を借りて高遠奪還戦を行ったのです。つまり高遠城を奪還するにおいて主力部隊として最も活躍したのがこの保渡田の人達であるようです。

内藤直矩(なおのり)
内藤氏は、昌月の子である源助直矩のときに徳川氏に帰属して命脈を保ちますが、駿河大納言忠長と徳川3代将軍家光との軋轢に巻き込まれた上、「内藤家もその乱に組せし疑いを以って」御家取り潰しの憂目にあいました。かくて内藤家一統は、流浪する羽目になりました。

内藤修理亮昌豊の系統
武田が亡びた時に、二男の昌茂は、妻子と甥の昌定(昌月の子)とともに箕輪城を出て、甲州の若神子に帰り庶民となった昌定が宗家を継ぎ、山梨県北巨摩郡須玉町若神子村に蟄居していたが病死。その子、太兵衛昌康(昌時)は若神子を出て、佐久郡にやって来た。最初小諾の仙石氏の足軽となって、年貢の督促役を2年務めたとある。その後、上州の白井村の堀川家の婿として3年を過ごした。それから崎田の服部家の世話になったが、その間に仙石氏の役人に許可を得て、穴原の開発を行ったという。その子太兵衛昌時が、現在の長野県南佐久郡八千穂村穴原を開拓し、一集落をつくったという。穴原は千曲川の右岸の台地にあって、北南東を山に囲まれた西向きに下る緩やかな斜面に、内藤一族38戸があり、裏山には広大な一族の墓地があります。

三男の昌直(直矩)は彦根藩に仕える。
四男の昌家は相模国に住んだとされている。

内藤自卓(よりたか)
流浪の内藤一族が保科正之公のもとで食客となったのは、時期未詳ながら「万治年間」。、実に駿河大納言忠長が没してから25年の長き歳月が過ぎ去っていた。浪人生活25年以上を経て、内藤直矩の子の源助は会津藩に召し抱えられた。その子孫は代々源助を名乗ったという。自卓に代って、会津藩の家老を務めるようになります。正之公は、「内藤家は養父正光公の傍系である」として、この食客に2000石もの知行を与え、尚且つ会津藩の重臣に抜擢したといいます。

会津藩家老内藤家
かくして、「会津藩家老内藤家」が誕生したのであります。ちなみに、内藤家老家としての初代は「内藤近之助信清」で、この人は内藤家が保科家の食客となったときの当主である「内藤自卓」の孫にあたります。会津の名門といわれる「内藤家」とは、実は会津松平家家中の名流とされる所謂で、「高遠以来」の家臣ではないようです。

内藤昌月のお墓
内藤昌月のお墓は、ふたつ確認している。ひとつは保渡田近在の善龍寺の寺前に、養父の内藤昌豊と並んである。これを内藤塚(群馬県群馬郡箕郷町)という。敷地の真中には、レンガを積んだような台があり、その上にコンクリートで台に固定された五輪塔が二つ立っている。向って右が内藤昌豊、左が嫡子内藤昌月の墓である。看板によると、天正5年5月の長篠の戦いで戦死した内藤昌豊の遺骸を奉じて、昌月が埋葬したらしい。昌月も天正16年(1588)正月、ここに葬られたという。善龍寺も見ると、さりげなく屋根に武田菱がついている。
今ひとつは高遠の桂泉院に、武田信虎公の墓の横に石碑があって、そこには内藤大和守修理昌月之墓がある。歴代住職の墓の並びに、その一番右側にある。それも、開山荊室廣琳大和尚の墓の隣で、彼は内藤昌月の弟とのことでした。
同じ人のふたつの墓は、分骨があれば、ともに墓だが、なければ片方は慰霊塔と言うことになる。
弟の和尚は上州松井田の大泉山補陀寺12世であったが、保科正直が高遠城を奪還した頃に和尚は高遠に来てに住み、そこに保科正直も同居していたことになる。のちに法幢院は桂泉院に名を変える。要するに保科正直、内藤昌月、荊室廣琳大和尚は兄弟だったというわけです。寺院の墓地で、住職の墓というのは、生前同様に頭を丸めています。
ちなみに、「内藤昌豊公とその子孫」によれば、内藤昌豊公には実子があったにもかかわらずなぜ保科家から昌月を養子に迎えたのかについて、信玄の死後勝頼の代に、昌豊が家の安泰のために、勝頼の信頼厚い側近の昌月を養子に迎えたか、もしくは勝頼が昌豊を懐柔のために昌月を養子にすすめたのか、のどちらかではないかとのことでした。


保科正直の高遠城奪還と弟内藤昌月と真田昌幸
保科正直といえば、危機が幾つかあり、織田信長の甲州征伐で高遠城から脱出し、その後も滝川一益に殺されかかるなどあったが、上野に進行してきた北条氏直に臣従し、そこで正直が再会したのが、同じ武田の旧臣で、自分の妻の父、義父の真田昌幸であった。昌幸は直正と対面すると早速、こんな助言をした
「保科一族は、今は北条に従うように見せ、密かに徳川に付き家康より、本領安堵の朱印状を手に入れるべきです。そして北条のためと偽り、あなたの弟の内藤昌月殿から兵を借りて、本領の高遠城を奪い取るべきです」と。
この席には、父の保科正俊も同席していたようである。それで助言に従い、下条家の管理下で無人状態の高遠城に返り咲くわけである。
この時内藤昌月は甲州征伐の際いち早く織田に降服し、上野箕輪城代の地位を保ったため、兵も所領も兄直正に比べ格段に有利な状況にあった。内藤昌月は兄の申し出を鼻で笑い、
「伊那の高遠は北条氏直様より私が朱印状を拝領し、自分が貰う事になっております。今は北条の軍事行動に従っている最中なので人数を割けませんが、あなたは兄なので悪いようにはしませんよ。まあ近い内に私が兵を派遣するので、どうしても高遠に行きたければ、それにくっついて行ってはいかがですか?」
と、実に横柄な返事を寄越した。保科正直はさすがにこれに怒ったが、これにも真田昌幸はこう助言した。
「何を怒っているのですか?内藤に兵を出させて高遠を手に入れたら、それを乗っ取って自分の領地にしてしまえば良いのではありませんか。短気はよくないですぞ!」
そして、実際に内藤昌月による高遠城奪取が行われた後、内藤が北条の対徳川軍事作戦のため甲斐に呼び出された隙に、保科正直は高遠を乗っ取ったらしい。

余談ではあるが、会津内藤家の系譜に、呆嶷家と真龍寺があります。その系譜に河井善順があります。彼は、幕末期に活躍しております。そして秋月悌次郎とも気脈を通じていた痕跡もあります。
秋月悌次郎のことは、幕末にも名を残していますが、五高で教師同僚であった小泉八雲は常に柔和で生徒の尊敬を集める人格を高く評価し「神が姿を表すとしたらこの老先生のような姿だろう」という意味のことを記述している。また中村彰彦の小説に「落花は枝に還らずとも」があり、秋月悌次郎のことは詳しい。会津の人達は会津藩歴代家老とともに秋月悌次郎のことを会津の誇りとしているとも聞く。