探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

研究ノート 伊奈忠次の祖・荒川易氏の信濃の頃 室町時代

2014-07-29 21:50:05 | 歴史

研究ノート 伊奈忠次の祖・荒川易氏の信濃の頃 室町時代


『幕藩大名家保科氏の戦国後期の系図』 - ucom.ne.jp より

Q・・・・問い) 保科家と荒川家の接点について調べています。
1「信濃の保科家の系譜」の中の②の項「正則の父としての③正利(正尚ともいう)」については、どこかに出典根拠の資料があるのでしょうか。教えていただきたい。
2 また、
 「易正 正倍(ママ。信の誤記か)嗣荒川易氏子神助
  正利 正知子光利子?
  正尚 弾正易正?  」
の「神助」とは尊敬・敬意を持ったあだ名、保科正利は光利の実子であるが嫡子予定で正知の養子になった、正尚は弾正易正の別名でもある、
と読み解いていいのでしょうか。

A・・・・1 幕藩大名につながる保科氏の系譜については、十五世紀中葉より前の歴代は不明としかいいようがない。もとは高井郡保科に起った諏訪氏(一に清和源氏と称した井上氏)の一族に出たというが、『東鑑』などに見える保科一族(例えば、建暦三年の泉親平の与党の保科次郎など)とのつながりが不明であり、中世の鎌倉・室町期の系図が不明であって、いくつかの所伝があるが、史料の裏付けがなく、信頼性が欠けるものばかりであろう。
 
2 戦国時代になると、南信濃の高遠城主諏訪(高遠)頼継の家老として、「保科弾正」(筑前守。保科正光の曾祖父の正則とされる)の名が登場する。本来は北信濃の霜台城(長野市若穂保科)を本拠とする保科氏が南信濃の伊那郡藤沢村に移った時期や理由などについては不明である。保科正利が村上氏に敗れて伊那へ逃れ高遠に仕えたのではないかともいわれるが、具体的に伊那郡と高井郡との繋がりも判明していない。この移転説では、保科正利が、長享年間(1487~89)に村上顕国の侵攻により高井郡から分領の伊那郡高遠に走ったという所伝がいわれる。
  保科正利の系譜についても、例えば、①保科太郎光利の子の丹後守正知の子とする説(『高井郡誌』)、②源光利の子とする説(『蕗原拾葉』)、などがある。
  次代の保科正則の系譜についても同様に混乱が多く見え、その父を正利とするもの(『蕗原拾葉』)のほか、正利の別名を正尚としたり、上記とは別系の正秀としたり(保科家親の子の筑前守貞親-正秀-正則)、易正(弾正左衛門、神助)であってこの者が荒川四郎神易氏の二男から保科五郎左衛門正信の養子に入ったともする(『百家系図稿』巻6、保科系図)、というように所伝が多い。なお、この荒川氏は三河の伊奈熊蔵忠次の家につながるという系譜所伝があって、易氏は忠次の六代の祖といわれる。
 
3 ともあれ、諏訪神党の一つに保科氏が数えられるから、諏訪氏と何らかの関係が中世には築かれていたものか。伊那の保科氏の活動は弾正忠正則から具体的に見えており、これ以降の歴代については問題がない。東大史料編纂所所蔵の『諸家系図』でも、その第21冊に所収の「保科」系図では、正則を初祖としてあげて、「信州井上掃部介頼秀の末葉」とのみ記している(この清和源氏出自の所伝は疑問大)。
 
  すなわち、天文十四年(1545)、武田軍は藤沢次郎頼親が拠る福与城に攻め寄せたが、これに対し、松尾城の小笠原信定は伊那の諸将を糾合して藤沢氏を支援した。このときに保科弾正(正則か)が参陣しており、弾正は筑前守とも称して、高遠城主諏訪頼継の家老の職にあった。伊那では、高遠の諏訪(高遠)氏に仕えて、次第に頭角をあらわしていき、筑前守正則の跡を継いだ保科弾正忠(甚四郎)正俊は、高遠氏家臣団のうちで筆頭の地位にあったとされる。
 天文二一年(1552)に高遠氏は武田氏の信濃侵攻により滅亡し、正俊以下の旧家臣団は武田氏の傘下となった。保科正俊は、『甲陽軍鑑』では「槍弾正」として真田・高坂と並び「武田の三弾正」に名を連ねる。以降の歴代は、正直、正光とつながり、正光が保科正之(会津藩祖)と正貞(上総飯野藩祖で、正光の実弟)の養父となる。歴代の保科氏の通称は、「甚四郎、弾正忠、越前守」というのが多い。「甚」は出自の「諏訪神党(神人部宿祢姓か)」に通じるものである。
 
4 なお、お問い合わせの2の記事は、おそらくHP『武将系譜辞典』の「信濃国人衆」に出典をもつ記事だと思われるが、すべて正則の父についての記事であって、父の名については、
 「易正といい、正倍(ママ。信の誤記か)の嗣で、実は荒川易氏の子であって、通称が神助。また、正利とも伝え、正知の子といい、光利の子かともいう。さらに、またの名を正尚とも弾正易正ともいうか?」というくらいの解釈であろう。これは、漢文の解釈ではなく、上記HPでは、特有の表記がなされていることに留意される。

上記の文章は、荒川易氏が京都から信濃へ入り、易氏の子の次男(二助)易正が、保科家に養子に行った経緯のことと思われる。
この保科は、二通り可能性が考えられる。
一つは、北信濃・川田(若穂保科を含む)と高遠近在保科である。
川田・保科は、御厨であった保科庄のことと想定出来、高遠近在保科は、藤沢庄代官・保科貞親の居館のあったところと想定出来る。しかし断定する資料がない。
次代の比定は、将軍義尚の時代で1480年後半から1490年前半と狭く比定が可能である。
荒川易氏は、信濃武士の中に、記録を見つけることができない。
荒川易氏は、何者なのか?
将軍・義尚の奉公衆の可能性がある。また、荒川四郎神易氏の名、熊蔵、保科という伊勢神宮の御厨との関係性、自らを藤原とも名乗ったことなどから、伊勢・春日系の神官の可能性も生まれる。
保科は、戦国前期の動乱の中、北信濃・川田の保科と、代官家・貞親の藤沢保科が合流して一本化したことが歴史書の事例で見て取れる。その役割を担ったのが、荒川易正(=保科正利(正尚)の子・正則と孫の正俊。
熊倉へ行った荒川易次の系譜は、忽然と信濃から消えて、熊蔵(藤原)易次として三河に出現する。易次の次の世代は、伊奈熊蔵と名を変えて、忠基から松平(徳川)家に仕えるようになる。この忠基を祖父として三代後、伊奈忠次が生誕する。家康が、まだ三河に勢力を確定できなかった頃、伊奈家は家の存続を二分に分けて計る。その頃起こった三河一向一揆の側に、同族の吉良、一色などの今川勢力が主として参加したことに依り、伊奈家の伊奈忠次と父・忠家は一向一揆側に加担する。その為家康からは信頼がなかったようだが、本能寺信長殺害の後の、家康の伊勢路の逃避行に忠次は参加して、家康の民政官としての地位を確保し、やがて絶大な信頼を勝ちうるように、希代の農政官に成長していく。

これは、ドラマである。


研究ノート 伊奈備前守熊蔵忠次の祖・戸賀崎・荒川家の頃 鎌倉・室町時代

2014-07-27 12:43:16 | 歴史

研究ノート 伊奈備前守熊蔵忠次の祖の系譜

伊奈備前守熊蔵忠次の祖・戸賀崎・荒川家の頃 鎌倉・室町時代

『足利家家臣系譜』より

足利家家臣系譜

○荒川詮頼頼直子頼清孫満氏曾孫戸賀崎義宗玄孫広沢義実耳孫三河 石見守護
詮長詮頼子治部 石見守護代
詮宣詮長子遠江
  満頼
  政宗宮内
  三河
  太郎三郎
  澄宣治部
晴宣澄宣子治部時宣?宮内
輝宗晴宣子与三菅野勝兵衛

民部仕畠山政長延徳頃
珍国民部仕足利義維
直定善兵衛
宗直直定弟市助
頼俊助左衛門仕毛利元就
氏俊瀬兵衛寛永頃

易氏戸賀崎氏元裔?四郎
易次易氏子太郎熊蔵

書き直し
1:広沢義実 (足利義実)
2:戸賀崎義宗
・・・・足利義実の子:仁木実国、戸賀崎義宗、細川義季(細川氏へ)。
足利氏(下野源氏)一門の矢田義清の孫、広沢義実の子、仁木実国・細川義季の弟、宗氏・満氏の父、満義(満氏の子)の祖父。建久元年(1190)に、下野国安蘇郡赤見郷(現栃木県佐野市赤見大字)に赴任して、赤見城(佐野城)を築城した。
・・・・足利一門の支流。栃木・佐野辺りに拠点。足利一門として鎌倉幕府の御家人として勢力を張る。
3:荒川満氏
4:荒川頼清
5:荒川頼直
6:荒川詮頼 三河(守) 石見守護 (丹後守護)
・・・・正慶二年/元弘三年(1333)、足利尊氏(義詮の父)の九州からの上洛作戦に従って各地を転戦した。その功によって建武四年/延元二年(1337)頃、丹後国守護職に任ぜられた。貞和五年/正平四年(1349)から始まる観応の擾乱では、父と共に足利直義方に味方するが、直義の横死後は室町幕府に帰順した。文和元年/正平七年(1352)、石見国守護。益田、周布、大内、山名氏等の有力国人を統治できず守護罷免。管領の細川頼之に石見守護職への再任を求め、石見守護職に再任。康暦の政変で頼之が失脚すると、石見守護職を罷免された。
7:荒川詮長 詮頼子 治部 石見守護代
8:荒川詮宣 詮長子 遠江(守)
     子:満頼
       政宗 宮内
       三河
       太郎 三郎
       澄宣 治部
9:荒川晴宣 澄宣子 治部 時宣? 宮内
・・・・8:-12:の間、幕府閣僚の治部、石見守護代、宮内、治部などの役職を勤めた。この被官は、仮名ではなく実際の被官の可能性が高い。
10:荒川輝宗 晴宣子 与三 菅野勝兵衛


11:荒川民部 仕畠山政長 延徳頃
・・・・畠山政長(1442-1493)応仁の乱起こす
12:荒川珍国 民部 仕足利義維
・・・・足利義維(1509-1573)十一代将軍・足利義澄の次男。荒川珍国の系流は、徳島へ渡り「荒井家」として存続されたことが確認されているが、荒川家支流であると思われる。
13:荒川直定 善兵衛
14:荒川宗直 直定弟 市助
15:荒川頼俊 助左衛門 仕毛利元就


16:荒川易氏 戸賀崎氏元裔? 四郎(神)
・・・・「常徳院義尚より信濃国伊奈郡(伊那郡)を賜って住む」を前提にするなら、年代的に、11:荒川民部かその子息が荒川易氏の可能性が高い。子息の場合、将軍義尚の奉公衆に荒川の姓のものがあること(義尚の蹴鞠の相手)が確認されている。しかし氏名の比定は出来ていない。
17:荒川易次 易氏子 太郎 熊蔵

上記のように、この系譜自体信頼性は60%であり、これが伊奈家からの提示でなければ、仮冒の可能性が薄らぎ、精度は70%に上がるのだが。

「11:荒川民部 仕畠山政長 延徳頃」のところ・・・point。実態のない管領であった畠山政長と家臣のこと・・深掘りが必要。

 


研究ノート 伊奈備前守熊蔵忠次の祖の系譜

2014-07-25 22:44:52 | 歴史

研究ノート 伊奈備前守熊蔵忠次の祖の系譜

江戸幕府・関東郡代頭・伊奈備前守熊蔵忠次の祖の系譜

実証資料の裏付け

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『寛政重修諸家家譜』 巻第931
 藤原支流

伊奈
図書昭綱がときに至りて家たゆ。庶流熊倉忠寛が呈譜に清和源氏義家流にして戸賀崎三郎義宗が五代右馬頭義重が男を右衛門尉氏元という。これより荒川を称す。氏元より七代四郎易氏常徳院義尚より信濃国伊奈郡(伊那郡)を賜って住む。易氏二男あり。長男太郎市易次は伊奈郡熊蔵(ルビ:クマグラ)の城に住し、二男二助易正は保科の里に住して保科と称す。易次死するにのぞみ男金太郎易次なを幼かりしば叔父易正これに代て熊蔵の城に住し十五歳に至らばこれを復すべしと約す。しかるに其期に及ぶと雖も猶かえさざるにより彼の地を去て三河国に漂泊し嘗て伊奈郡熊倉に住せしをもって、伊奈熊蔵と称す。これ忠基の父なりという。

参照:
*熊倉忠寛・・・・伊奈忠寛・旗本。郡代頭・忠次から三代目忠勝は幼少で病死。
関東郡代頭家は、二代忠政の弟・忠治が継ぐ。
忠勝の弟・忠隆は旗本として存続。その系譜に忠寛あり。
尚、熊倉忠寛が呈譜とあるので、家伝したものを幕府に提出したと思われる。精度は、忠基以降95%、以前60%。
*戸賀崎義宗・・・・足利義実の妻:仁木実国、戸賀崎義宗、細川義季(細川氏へ)の女。
足利氏(下野源氏)一門の矢田義清の孫、広沢義実の子、仁木実国・細川義季の弟、宗氏・満氏の父、満義(満氏の子)の祖父。建久元年(1190)に、下野国安蘇郡赤見郷(現栃木県佐野市赤見大字)に赴任して、赤見城(佐野城)を築城した。
*右馬頭義重、右衛門尉氏元・・・・不明
*常徳院義尚・・・・常徳院は相国寺のこと。常徳院義尚は九代将軍義尚、生前法名。
相国寺は、日本の禅寺。京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺である。
山号を萬年山と称し、正式名称を萬年山相國承天禅寺という。開基は足利義満、開山は夢窓疎石である。 足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第二位に列せられている。
将軍義尚・・戒名・常徳院悦山道治。別書に承徳院とも。
*”伊奈郡熊蔵(ルビ:クマグラ)”の城に住・・・・熊蔵の読み方を指定している。
この読み方については、”くまぐら”とする。従って、伊奈熊蔵忠次も”いなくまぐらただつぐ”が正しい。
熊蔵は調べて見たが、筑摩明科の熊倉が読み方と文字から比定できるが、伊奈郡が腑に落ちない。
①呈譜の筆者が誤記したのか、
②伊那松尾の守護・小笠原貞宗が筑摩・府中を併呑したので、この地まで伊那(伊奈)と呼ばれることがあったのか(短期間、守護宗康の頃まで)
③伊那に熊倉(クマグラ)と云う所があったのか。
③は詳細に調べたが見つからなかった。
*二助・・・・次男の幼名か。読み方が不明・ニスケか。
後に”神助”易正と呼ばれたが、幼少の時なのか、保科の郷へ行ってからなのか不明。
*太郎市易次、金太郎易次・・・・同名相続か、それとも”屋号”か、不明
・・・・・・この一族は、伊奈熊蔵忠次とか伊奈熊蔵○○と名乗ることが多い。
類推すれば、熊蔵易次太郎市とか熊蔵易次金太郎もあり得るのか。屋号、中名字?。

伊奈忠基
初利次、熊蔵市兵衛。広忠卿、東照宮に歴任し、小島の城主たり。元亀元年六月姉川合戦の時、左の脇腹に槍創二カ所を被り其の創癒えずに死す。忠基の父、熊倉易次と称すという。

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参照:
明治維新以前の日本の成人男性は、武家や公家など、社会の上層に位置する者は、家名と氏(ウヂ・本姓)の2つの一族名、仮名(ケミョウ。通称)と実名(諱)(イミナ)の2つの個人名を持っていた。 そして、人名としての実際の配列は、家名、仮名、氏、実名の順である。
  ○家名+仮名+氏+実名(諱)
忠臣蔵の大石内蔵助を例に取れば
  ○大石+内蔵助+藤原+良雄  *良雄は”よしたか”と読む
 大石・・家名
 内蔵助・・官名・仮名(ケミョウ)
 藤原・・氏名
 良雄・・諱(実名)
例:織田信長
  ○織田+弾正忠+平(朝臣)+信長

仮名(ケミョウ)について
実名敬避俗・・・・諱で呼びかけることは親や主君などのみに許され、それ以外の者が目上に当たる者の諱(本名)を呼ぶことは極めて無礼とされた。避諱によって、仮名(けみょう)と呼ばれる通称が発達した。男性の場合、こうした通称には、太郎、二郎、三郎などの誕生順(源義光の新羅三郎、源義経の九郎判官)や、武蔵守、上総介、兵衛、将監などの律令官名がよく用いられた。後者は受領名や自官の習慣と共に武士の間に広がり、百官名や東百官に発展した。その仮名の変形発展の形で、隠居時や人生の転機などに、名を号と呼ばれる音読みや僧侶風・文化人風のものに改める風習もあった。
 例:島津義久→島津龍伯、穴山信君→穴山梅雪、細川藤孝→細川幽斎など。
この風習は芸術関係者にも広まり、画家・書家や文人の雅号も広く行われた。
 例:狩野永徳、円山応挙等の画号、松尾芭蕉、与謝蕪村のような俳号、上田秋成、太田南畝のような筆名も広く行われた。

伊奈備前守熊蔵忠次の祖の系譜

荒川・熊蔵・伊奈の変遷の考察

荒川易氏は、「氏元より七代四郎易氏常徳院義尚より信濃国伊奈郡(伊那郡)を賜って住む。易氏二男あり。長男太郎市易次は伊奈郡熊蔵(ルビ:クマグラ)の城に住し、二男二助易正は保科の里に住して保科と称す。易次死するにのぞみ男金太郎易次なを幼かりしば叔父易正これに代て熊蔵の城に住し十五歳に至らばこれを復すべしと約す。しかるに其期に及ぶと雖も猶かえさざるにより彼の地を去て三河国に漂泊し嘗て伊奈郡熊倉に住せしをもって、伊奈熊蔵と称す。これ忠基の父なりという」とあるように、荒川の姓で信濃に住んだと思われる。
易氏の二人の子は、それぞれ熊蔵の地と保科の里に住んだ。ここで熊倉に住んだ易次太郎市は、「熊蔵易次(藤原)太郎市」になり、保科に住んだ易正は、「保科正尚(正利)神助(二助)易正」になったと想像される。・・・・断定までの資料は揃わない。
ここで、荒川の系譜は途絶えたと見て良い。「熊蔵易次(藤原)太郎市」は病死し、金太郎が継ぐ。「熊蔵易次(藤原)金太郎」と名乗ったと思われる。
この金太郎は、叔父の易正と戦乱との関係で、熊蔵の城を離れ、漂泊して三河へいく。
三河を選んだ理由は、戸賀崎・荒川氏族の系譜は、吉良・一色氏などの足利氏族で、同族が多かったためと思われる。ここも資料は無いが、系譜上ではそうなっている。
伊奈熊蔵忠基の父は、熊蔵易次(別名:藤原市兵衛)を名乗ったという記録が残る。忠基以降は、伊奈を家名にし、官名を付け、熊蔵を仮名(通称)にし、諱を称した、という流れである。
荒川の姓を棄てた理由は不明。荒川の名の時、将軍義尚の奉公衆であった可能性は大きい。
将軍義尚は、寺社領・荘園の押領の訴訟が多く対応に追われていたという。基本の政策は、各地に地頭・豪族が押領した寺社領・荘園を元の戻す裁定が下されたという。”六角征伐”はその一環。熊蔵と保科は、伊勢神社の神領・御厨の地であった。さらに、荒川易氏は、荒川四郎神易氏と名乗ったという。四郎ではなく四郎神というのが、妙に気に掛かる


中世の城 文明の内訌の頃の諏訪の城

2014-07-10 01:22:22 | 歴史

中世の城 文明の内訌の頃の諏訪の城


干沢城

前宮神殿

○干沢(樋沢)城 別名安国寺城。
干沢城は諏訪上社・諏訪大祝の居館と考えられる。
諏訪大祝の神官としての活動拠点は上社前宮であり、古くから前宮を守るための砦であった。
上原城、桑原城とも上川沖積地を挟んで鼎立していた。
・・大祝満継は、文明十五年(1483)正月、上原城主・諏訪政満一族を皆殺しにして惣領家の乗っ取りを謀り、満継は樋沢城に立て籠もった。しかし、惣領家を支持する一族や神官長に攻められて敗北し、満継は高遠へ逃れた。この戦いで、満継の父・前大祝頼満は討たれた。
時を経て、信玄に呼応する高遠・頼継は干沢城を占拠し、安国寺は火の海になる。
・・文明の内訌の時、戦場の中心になった城である。
・・築城年代は不明。文明期には麓に大町があり、山裾を宮川が流れていた。

 

上原城


*上原城・諏訪上社・惣領家の本拠地。
・・文正元年(1466)頃、諏訪信満が中腹に居館を建て、五代七十余年にわたり諏訪地方を統治した、といわれる。
築城年は定かではないが、金毘羅山の山頂と中腹の居館からなる根小屋式山城。
・・諏訪地方は武田氏の領国化され、宿老板垣信方など諏訪郡代が置かれ、上原城は武田家の信濃領国支配の拠点のとなる。

桑原城

*桑原城・諏訪総領家の本拠・上原城の支城。別名、高鳥屋城、水晶城。
・・文明の内訌時代、惣領家・諏訪政満の居城であった。
・・天文十一年(1542)武田信玄は、諏訪に攻め入り、諏訪頼重の本拠地上原城を攻めた。頼重は上原城を支えきれず,桑原城に逃れ籠城した。

武居城

○武居城 別名片山古城
武居城は、諏訪大社上社本宮と前宮の中間付近に位置しています。
・・城の東裾を杖突峠越えの旧街道が走っていたとされ、交通の要衝。
・・武居城は、山城部と居館部が普通の山城に比べてそれぞれ高い独立性をもっているという特徴を有しています。これは、居館部とされる通称武居平の地形に起因しています。武居平は、城山の裾からベロンと張り出した扁平な高台です。
・・築城は、元徳二年(1330)に、諏訪五郎時重が武居に居館を構えたとされています。
・・文明十五年(1483)、当時惣領家と大祝家に分裂していた諏訪氏は「文明の内訌」と呼ばれる内部抗争を惹き起こし、敗れた大祝家の諏訪継満は高遠へと逃れた。翌年、継満は再起を図って「片山古城」を取り立て本陣としたと『守矢満実書留』にある。この「片山古城」は武居城を指していると考えられている。継満は惣領家諏訪頼満と和議を結び、後に惣領家に吸収される形で諏訪氏は再び統一された。

保科畠(武居平)

*武居城築城と保科畠
・・・『諏訪古事記』によれば、元徳二年(1330)に、諏訪五郎時重が武居に居館を構えた。時重は、執権北条高時の娘を娶り、幕府滅亡に際して高時とともに鎌倉で自害したとされる。ただし、諏訪一門で鎌倉で自害した者には諏訪時光がいるものの、時重という人物については生死が不明である。
・・・周囲からは急崖で隔絶されていながら、頂部はなだらかで広い空間となっています。このだたっ広い台地の東半分ほどが小字「保科畠」と呼ばれ、ここに居館が営まれていたといわれています。
**この二つの文章から次のことが浮かび上がってきます。
諏訪盛高は、北条家滅亡の時、北条高時から高時の遺子・次男時行(幼名亀寿丸)を預かった人物として知られます。この時、北条一族と御家人の諏訪家が、一族の滅亡を誇大に偽装して、遺子・亀寿丸を諏訪にお連れします。その後諏訪一族で時行を、諏訪神領内で隠して育てます。保科畠が武居城内にあることから裏付けできることは、鎌倉御家人の保科家は諏訪神党でもあり、諏訪盛高とともに北条遺子・時行を保護したことがかなり高い確率で推論できます。*伊勢次郎、南部太郎は偽名の可能性が高い。文明時代の代官・保科貞親は、時行を保護した保科氏の系譜にあり、時行を保護し助けることは、南朝の宗良親王を助けることにも通じ、藤沢保科家の役割の輪郭が浮かび上がってきます。
藤沢保科家は、上社・大祝家の家宰か重臣であり、藤沢黒河内の荘園の代官であった。この様に見ると、武居城に保科の館があり、神領の荘園にも居館があったことは頷けます。
「保科貞親が、高遠・継宗の代官であった」という定説は否定されます。保科貞親が、上社の神領の荘園の代官だとすれば、「保科貞親と高遠継宗は荘園問題で対立した」ということの矛盾も解決します。貞親の主人の大祝・継満は、高遠継宗と義兄弟でもあり同盟したのであれば、貞親も和解に向かうのは当然の帰結に思えます。
尚、北信濃の保科の郷から、鎌倉に出仕し御家人になったのは、保科太郎と記録に残ります。又その子息と思われる保科次郎親子が承久の乱で出陣しているのも記録が残っています。

金刺盛澄像

手塚城
築城年代は定かではないが治承年間(1177~1181)に手塚太郎光盛によって築かれたと云われる。別名は霞ヶ城
*「金刺盛澄像」・・諏訪明神下社の大祝で諏訪武士の頭領 金刺盛澄の像。手塚城主 手塚(金刺)光盛の兄で、木曽義仲の義父である。他に類を見ないほどの弓馬の達人であり、そのおかげで源頼朝の怒りを買ったとき命を助けることになった。
・・その後も諏訪大社下社神官の金刺氏が代々居城となった。文明年間(1469~1487)頃になると諏訪氏は惣領家と大祝家による内訌が激化する。文明十五年(1483)、諏訪大祝継満は、諏訪惣領家の満政と嫡子宮若丸等を上社の神殿に招き、饗応中に不意をついて謀殺し、祭政二権を得ようと画策した。これに呼応するように下社の金刺興春が挙兵し、高島城(茶臼山城)を占領し、桑原・武津に放火して上社を攻めた。しかし 上社方の矢崎・千野・小坂・福島らと宮の腰で戦い、金刺興春は討たれ、下社の社殿を焼かれるなど大敗を喫した。
・・ここの城のことは、歌舞伎「源平布引滝」、「平家物語」
・・手塚治虫、代表作『火の鳥』の乱世編
に記載されています。


御厨について

2014-07-01 02:07:47 | 歴史


御厨について

承前

「安曇野には、「矢原御厨」という約2,000haに及ぶ広大な荘園がありました。御厨とは、本来伊勢神宮に奉納するお米を作っていた荘園のことであり、藤原氏の所領であったようです。また、梓川や黒沢川の扇状地にあった「住吉荘」も、武士政権による抗争が激しくなる中で、室町時代末期まで京都に年貢を送り続けたという稀有な荘園でした。
 信濃国には「春近領」がいくつかあります。春近領とは、鎌倉幕府の有力在庁が「春近」という架空の名義を使って設立した所領であり、鎌倉幕府の将軍家の御領を意味します。全国各地に分布していますが、信濃国内には、近府春近、伊那春近、奥春近とあり、近府春近領は、松本市、塩尻市、旧梓川村にある六郷でした。」---安曇野の歴史パンフレットより

「伊奈忠次の六代前、荒川四郎神易氏は神官ではなかったか」・・・・・・は、僅かな状況証拠にもとずく想像です。
易氏の子、長男・易次が養子に行った先は熊倉の里、次男・易正が養子に行った先は保科の里、この二つは地名であって、豪族名ではありません。

熊倉と保科に共通するものは、御厨です。
熊倉--矢原御厨 安曇野市豊科-熊倉は真隣です。*熊倉・・・くまぐら、矢原・・・やばら、と読みます
保科--長田御厨 長野市若穂川田-保科は真隣です。

ことに、矢原御厨の隣の高家・熊倉には春日神社があります。
この地区の碑文の中に、・・・(中世)度々京都から神官が訪れ・・・の文字が刻まれています。
荒川四郎神易氏が、神官として赴任したのであればたぶんここだろう、と状況証拠からの比定であります。
荒川氏の系譜は、三河に移ってから、屋号を熊蔵とし、姓を伊奈と名乗り、春日神社の姓の藤原とも名乗っていたようです。・・・前章参照

以下に、信濃で確認されている御厨を記載します。

信濃御厨

 藤長御厨 二宮 更級郡のうち千曲川の北岸横田一帯に立地
     長野市篠ノ井横田富士宮をその跡と伝えており,横田周辺を当御厨に比定する

 麻績御厨  吾妻鏡に「麻績御厨(大神宮御領)」との記載  麻績神明宮
     麻績御厨の荘官として入部した小笠原長親を祖とする服部氏(麻績氏)
     麻績御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園

 長田御厨 長田神社の建つ長野市若穂川田地区
     保科氏の祖先は長田御厨の庄官をつとめ、一族は各郡村の名主職・公文職
     庄官をつとめた・・・保科党。保科氏の祖は他田氏(金刺系)と言われる

 矢原御厨 野原庄(現安曇野市穂高字矢原)
     高家・熊倉の郷には春日神社がある。・・・上記観光案内文参照

 会田御厨 松本市(旧四賀村)の会田地区で10月初旬におこなわれる御厨神明宮

 仁科御厨 大町市 仁科神明宮
                     ---出典・神鳳鈔(群書類従に収録)

 

考察・・・北信濃の保科の展開
北信濃に展開する保科氏は長田御厨の荘官であった。この保科氏は、一族があり北信濃の郷村の名主職・公文職、庄官を勤めた。いわば文官。一方北信濃には、源氏の流・名族井上氏がいた。こちらは武官。この二流には、系譜を見るとたびたび婚姻が見られる。また古書には、井上某は保科党二十騎を引き連れて・・・・・・のような記述もある。地方官の、在り様の形態であるが、井上一族と保科一族は、武と文の補完関係ではなかったか、という推論が成り立つ。従って、保科・井上は、長野地区を始め、須坂、中野にまで広域に展開する。そして、中世の多くの時代、風間郷が保科一族の温床であった。

この様に歴史を辿ってみると、時には、井上氏とともに保科党が、武器を持って戦ったという事例は幾つかあるし、そして南北朝の対立の時、保科党の一部が南朝側として戦ったという事例もある。しかし基本は、多くの保科党は地方民政官として過ごしていたようである。
だが、坂城に村上一族が勢力を伸ばして、保科の領域を脅かすと、保科の総領は一族を守るため城を作る必要に迫られた。これが霜台城築城の経緯である。従って霜台城は北信濃保科党の最後のあがきであって、保科党は、霜台城を拠点に展開した、という論理は成り立たない。実際霜台城は、実用に耐えない虚城に思える。