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伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

松尾小笠原宗家の創立まで  第七話 

2016-01-21 16:28:19 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第七話 

小笠原長政:長忠の子
・小笠原長政のことも、小笠原家の家系図に載っているだけで、ほとんど判りません。

小笠原長氏:長政の子:生没:安貞元~延慶三(1227-1310)年 
・長氏の時に、松尾小笠原家は劇的に変化して行きます。

小笠原長忠、小笠原長政のことは資料が乏しく、考証しようにも手立てが思いつきません。確認してきたのは、小笠原に残る家系図と小笠原家から幕府に提出されて作成された寛政譜のみです。真偽のほども小笠原家系図だけで、小笠原家の当主として”名前”だけの記載になります。

群書類従にも、小笠原家の系譜の記載があります。こちらを確認してみましょう。

長忠の項:長径の子
 ・嫡男。母武田大膳太夫朝信女。
 ・土御門院御宇建仁二壬戌四月二十六生於信州伊那松尾館。童名豊松丸。
 ・建保二甲戌二月十二於祖神社壇元服。十三歳。号又次郎。従五位上。右馬介。兵庫介。民太。信濃守。参州之管領。信濃国守護。
 ・嘉禄二戌三月五礼法的伝。師範祖父長清・父長径。
 ・安貞二戌子五月日為平泰時師範。
 ・文永元甲子十一月三卒。法名号乗連。
 ・・・母が家女房ではなく、武田朝信女。元服の式を、祖神社としているが何処か?
 ・・・民太とは、民部太夫のことか?官名は少し怪しい。
 ・・・礼法的伝の正式な継承者。当時の執権・北条泰時の師範(先生)でもあったという。
 兄弟
  ・清径 長忠の次男になっている。長径の弟。理由があって長忠の養子?に。
  ・長時 母・家女房・号小笠原小次郎。 ・・・腹違いの弟?
  ・長義 母・武田朝信女。号下条四郎。修理亮。下條家の祖。
  ・尊重 母・家女房。
  ・長實 母・武田朝信女。小笠原五郎。
  ・観照 母・家女房。 ・・・出家して法名か?
  ・盛長 母・家女房。号・上野六郎 養子先か?
  ・長村 母・家女房。号・米田七郎 養子先か?
  ・・・長房の記載がないが、長忠の弟・長房は、長清の養子となり、阿波国守護へ

長政の項:長忠の子
 ・嫡男。母片桐蔵人太夫為基女。
 ・後堀河院娯宇貞応元壬午七月十九生於信州伊那松尾館。童名豊光丸。
 ・嘉禎二丙午正月十三於祖神社壇元服・十五歳。号孫次郎。従四位下。右馬介。大膳太夫。信濃守。参州之管領。信濃国守護。
 ・寛元四丙午二月五礼法的伝。師範長忠。
 ・建長四壬子六月三日為時頼師範。号最明寺。
 ・弘安十丁亥二月十五出家。六十六歳。法号長阿弥陀仏。
 ・永仁二甲午八月四卒。七十三歳。
 ・・・長政の母が片桐蔵人太夫為基女ということは、長忠の室ということになる。
 ・・・祖神社の可能性は、鳩ケ峯八幡宮のことか。
 ・・・官名は、やはり怪しい。
 兄弟
  ・長冬 母同じ。蔵人。太郎兵衛尉
  ・忠綏 母同じ。小笠原彦三郎。
  ・顕雲 母同じ。出家。
  ・・・長忠の子供の数をみると、側室は置かず、かなりストイックな人柄が想像される。
  ・・・長忠、長政と見ると、事跡など少なく、かなり地味な生活であったのだろう。
  ・・・幕府御家人としての、活動がほぼ見えてこない。
 
長氏の項:長政の子
 ・嫡男。母村上兵部国忠女。
 ・後嵯峨院御宇寛元四丙午八月十七生於信州松尾館。童名豊松丸。
 ・正嘉二戌午十一月十三元服。十三歳。加冠祖父長忠。号彦三郎。従五位上。右馬介。治太。弾正少。信濃守。信州守護。
 ・文永五戌辰三月十五成道。礼法的伝。師範父長政。
 ・正安三丑二月十五出家。五十六歳。法名号長連。
 ・延慶三庚戌八月十三卒。六十五歳。
 ・・・治太・治部太夫、弾正など、御家人とし出仕、京都の治安・六波羅探題か?
 ・・・長氏の頃、、霜月騒動の責任で連座して没落した佐久・伴野家から、長清の正嫡流の小笠原宗家が長氏に引き継がれる。長清の長男。長径から三代後のことである。
 ・ここに松尾小笠原宗家がようやく誕生する。
 兄弟
  ・長朝 母同じ。助二郎。民部少。
  ・長直 母同じ。小笠原三郎。号勅使河原。受譲住参州之所領。
  ・長廉 母家女房。四郎。
  ・長義 母同じ。号弥五郎。蔵人。
  ・長敷 母同じ。号小笠原六郎。
  ・泰清 母同じ。号小笠原十郎。
  ・・・長政の正室は村上兵部国忠女ということになります。
  ・・・次男・長朝も京都に出仕し、民部少輔。三男・長直は三河に所領とあります。
  ・・・長氏の兄弟、子供の養子先などをみると、美濃や三河など、範囲が広がって居ます。立場の違いが行動半径を広げたようです。また三河に小笠原庶流が拠点を作ったことは、後々三河・家康の時代に、家康の家臣・東三河衆(旗頭:酒井忠次)と、西三河衆(旗頭:石川家成)と伊那と三河で交流を持つ源流になって行きます。
  
ここで、松尾小笠原家が宗家(小笠原家惣領)に戻った原因になった「霜月騒動」を少し見てみます。

霜月騒動
霜月騒動とは、鎌倉後期の弘安八(1285)年十一月(霜月)に鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。執権北条時宗の死後、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件です。・・・弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介の乱ともいう。
源頼朝没後の北条氏(と若手実務官僚(小豪族))と有力御家人との間の抗争であり、この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官(実務官僚=御内人)勢力の覇権が確立した。
背景・・・安達泰盛は幕府創設以来の有力御家人安達氏の一族で、執権北条時宗を支え重職を歴任した幕政の中心人物であった。平頼綱は時宗の子・貞時の乳母父で、北条氏得宗家の執事内管領であり、得宗権力の立場にあった。御家人を支持勢力とする泰盛と、頼綱を筆頭とする得宗被官勢力が拮抗していた。執権時宗が死去し貞時が執権となると、幕政運営を巡って両者の対立は激化して衝突して安達一族が滅ぼされた。
この時、安達泰盛と姻戚関係にあった伴野長泰が連座して、所領を没収されて没落した。伴野時長の娘が安達氏に嫁いで安達泰盛の母となっており、時長の孫で泰盛の従兄弟にあたる伴野長泰は泰盛与党として霜月騒動で討たれ、伴野一族の多くが犠牲となり伴野荘も北条氏に没収されている。

松尾小笠原家、京都に橋頭堡を築く

惣領家が松尾小笠原家に移ると、御家人として幕府への出仕が多くなります。場所は、鎌倉ではなく京都です。既に阿波国守護の小笠原家は、六波羅探題を通して、京都町内の治安維持の目的に加えて、幕府が朝廷に、不穏の動きが起きないようにすると京都治安の役目があり、加えて長清が「弓馬の礼法」(=礼法的伝)の宗家を確立したところです。京都の六波羅探題に武力を送り込みながら、京都に拠点のひとつを創っていきます。松尾小笠原の子息たちは、朝廷に治部太夫、兵部太夫、民部少輔として出仕します。小笠原長氏のころからこのことは活発化します。松尾小笠原家が、京都と関係を深めて、京都に橋頭堡を築く始めの頃のことです。

京都六波羅探題は、阿波守護職小笠原の系統で、その小笠原長経系は六波羅探題の奉行人など鎌倉幕府の京行政府の枢要な官人を輩出する吏僚一族となっています。六波羅探題(北方)に勤務した家名の中に、布施.知久.平賀.中野.仁科.中沢等々の諸氏の名前がみえます。布施.平賀.中野.仁科は小笠原の家臣ではありませんが、知久.中沢は、おそらく松尾小笠原家臣団としても機能していたのでしょう。小笠原家は、京都六波羅の地に南鎌倉幕府の役職も兼任しています。小笠原家の惣領職の継承については、「小笠原系図」では長清?長経?長忠?は甲斐と信濃にあり、次第に北条氏との関係を強め、信濃に勢力を拡大していく、とあります。

官名の確認
群書類従の中の小笠原氏の経歴の中の官名の詳細を確認してみます。
右馬介、大膳太夫、信濃守、参州之管領、信濃守護、蔵人、治太(治部太夫)、弾正少、信州守護、民部少などです。
小笠原家は、幕府にも朝廷にも近く、実際に出仕して奉公していますから、官名詐称する氏族とは考えぬくいので、ほぼ実態に近いと思われます。
 ・右馬介(助) ・・諸国の牧から貢上された朝廷保有の馬の飼育・調教の役職。馬寮という役所があり左馬と右馬とがあった。介(助)は階級を表し正六位下。そして軍事や儀式において必要なときに牽進させて必要部署に供給した。「弓馬の礼式」の宗家としては必然の部署と思われる。
  ・大膳太夫 ・・大膳職は副食・調味料などの調達・製造・調理・供給の部分を担当。これが本来の意味であるが、やがて各地方から奉納される食材に対し、貧乏になった朝廷は、金品の対価を支払えなくなり、代わりに褒美として官名を与えるようになる。太夫は正四位の階級。
  ・信濃守の守 ・・その地方の行政官で四等官(正四位)。室町時代以降はこの”守”の官名詐称が多くなったが、鎌倉時代はまだ実態と適合しているといわれる。
  ・参州之管領 ・・参州は三河のこと。鎌倉時代の管領は、室町時代の管領とは違って、ほぼ権限が見当たらない。その地方の担当官とか執事とかの意味か?不正確。
  ・信濃守護、信州守護 ・・本来は、国(県に該当?)の警察権力を持った行政官(知事)の意味だが、鎌倉後期は信濃国の守護は北条氏が歴任していたので、ここは意味不明。
関東御分国では守護は北条氏だが、代行の守護代か目代のことを守護と呼んだのかもしれない。不正確。
  ・蔵人 ・・天皇家の家政機関。天皇の秘書。
  ・治太(治部太夫) ・・外事・戸籍・儀礼全般を管轄し姓氏に関する訴訟や、結婚、戸籍関係の管理および訴訟、僧尼、仏事に対する監督、雅楽の監督、山陵の監督、および外国からの使節の接待などを職掌。小笠原家は、儀礼全般を管轄。太夫は正四位で、実務官より階級が上。この頃より、正式に”弓馬の礼””流鏑馬”等が正式儀礼として定着していく。
  ・弾正少 ・・弾正台は監察・警察機構。主な職務は中央行政の監察、京内の風俗の取り締まりで、左大臣以下の非違を摘発し、奏聞できた。少は少弼で四等官。
  ・民部少 ・・民部は、財政・租税一般を管轄し諸国の戸口、田畑、山川、道路、租税のことを司る。財政官庁として他に大蔵省があったが租税や租税関係の戸籍はこちらが取り扱ったため大蔵省よりも重視された。少は少輔(従五位下相当)のこと、階級。
  ・六波羅探題 ・・六波羅は京都の地名。今の五条から七条まで。六原とも。鎌倉期までは建物が少なく原であった。この地に探題(警察機構)を建て、付近に地方から奉公で出仕してくる地方武士の宿舎も建てた。室町時代に、別所に警察機構を移すと、この地に寺院が乱立して建ち、寺が集積するようになった。

小笠原家は長氏の時代に、政治活動の場を京都に、経済活動の本貫を信濃に、両方に館を持つようになります。その活動を支える本貫地の経済的地盤が気にかかります。



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