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サイドストーリー 坂西孫六のこと
今回は、諏訪家と同盟した、松尾小笠原家の系流の話です。
諏訪の乱を見る時、大祝諏訪満継や高遠継宗に援軍する伊那の軍に、”孫六”の人名を見かける。大祝援軍で、諏訪に出征で来るだけでなく、諏訪の方からも、松尾と鈴岡の小笠原家内の対立の時、あるいは府中小笠原家が伊那の小笠原家に攻めてくる時は、高遠継宗や諏訪満継は、自ら松尾小笠原家に援軍している。この際に、諏訪上社の敬虔な信者として”孫六”は登場する。・・守矢文書。この孫六は、時には小笠原孫六を名乗るが、飯田城主坂西孫六である。通称を外せば、五代坂西政重か坂西正俊が年代的に該当できる。
この坂西家のことについては、研究本を探してみたが、松尾小笠原家の別家と言うことからか、ほとんど皆無に近いようで見当たらない。書き物を調べても精度が悪いものばかりで、そこで、調べ直してピッキングし、年代を糾して書き直したのが下記の様になる。南信濃の中世の豪族の、規模的順位からすれば、松尾小笠原、鈴岡小笠原、知久家に次ぐ、四番目の規模だったようだが、飯田郷・・効戸庄に、1300年代中頃から、1500年代中頃まで約200年に渡って君臨した領主なのだから、もっと資料が研究されていてもよさそうに思えるのだが・・・坂西家の名が、歴史に露出するのは、大塔合戦、結城陣番帳、小笠原・諏訪の文明の内訌、知久・坂西争い、織田の武田攻め・飯田城の戦いで、ほぼ負け戦ばかり、地元の郷土史家に、興味が湧かなかったのだろうか。
以下、飯田坂西家の系譜略・・・参考
小笠原貞宗
生;正応5年4月12日-没;正平2年/貞和3年5月26日:1292年4月30日-1347年7月5日
南北朝初期の信濃国守護職・おがさわらさだむね、は鎌倉時代後期から室町前期の武将。信濃小笠原氏の当主。信濃国松尾(現・長野県飯田市)に生まれる。当初は鎌倉幕府に仕えており、元弘元年(1331)からの元弘の乱では足利尊氏らとともに後醍醐天皇の討幕運動を鎮圧した。しかし高氏が鎌倉幕府に反旗を翻すとこれに従い、鎌倉攻めに参加する。建武元年(1334)、この功績により信濃国の守護に任ぜられた。その後、尊氏が後醍醐天皇から離反するとこれに従った。建武3年(1336)には足利方の入京により後醍醐天皇が比叡山へ逃れる。この際、貞宗は後醍醐方の兵糧を絶つ目的で琵琶湖の湖上封鎖を行っている。その後も一貫して北朝側の武将として各地を転戦した。京都で死去。56歳没。子の政長が家督を相続した。三男宗満、分家して坂西を名乗る、坂西宗満。
初代
坂西宗満;誤・・生正中5年-没永和二年。1328-1376。53歳、法名賢戒
・・・おかしい?、 正中元年生(1324)とすれば年齢の辻褄が合う。正中は2年しかない
正・・生、正中元年、没、永和二年。1324.4.8-1376。53歳 法名賢戒
父小笠原貞宗。三男。貞和年中(1345)ごろ三本杉に住し、飯田郷の地頭職を賜り、貞和年間(1345-50年)頃に飯田郷三本杉に居館を構え、坂西氏の名跡を継いで坂西孫六を称したという。松尾に生れ 建武2年(1335)郊戸の庄へ分家し 貞和年中に城を築き 永和二年(1376)在京中卒す。
・・坂西氏の名跡を継いで坂西孫六を称したという。
・・三本杉城・・・野底川と松川の合流地点、新飯田橋となり西鼎公園のところか
・・郊戸の庄・・・郊戸八幡宮由緒・・貞観年中に勧請す・・久安三年郊戸庄五郷の總鎮守・・社号につきては旧称郊戸八幡宮・・天保十二年郊戸神社と改称す・・・場所の比定は、前文の神社の場所が含まれるところ。野底川と松川の間の旧飯田郷とする。この頃はまだ領地の分割相続があった。
・・孫六は松尾小笠原家の別家屋号か、それとも嫡男に名付ける幼名か。
二代
坂西由政;誤・・生康和2年-卒正長元年。1100.5-1428.3.26 86歳 法名正永寺殿堅峰 道因大居士
・・・康和ではなく康永の書き間違いだろう
正・・康永2年生-正長元年没、1343.5-1428.3.26 86歳 法名正永寺殿堅峰道因大居士
出家した後、入道正永を名乗る。宗満の長男;母武田佐馬介直信女、稚名孫六郎、別名兵庫守、度々武功あり、応永十五年(1408)入道して正永と号し、由政が、愛宕城(飯田市愛宕町)を築いて本拠を移した。由政が出家入道したのちは嫡子の長由が家督を継いだ
・・愛宕城は飯坂城ともいい、飯田城本丸跡から西に近く愛宕稲荷神社があり、この場所に小さな愛宕城があった。
三代
坂西長由;応安3年生-応永2年5月卒、法名長圓、27歳。1370-1395.5
由政の長男、母家の女房 稚名は彦太郎、松原城に生まる
・・・松原城は、郊戸庄飯田郷の内にあると思われるが、比定できていない。今宮城のことか
・坂西長国・・由政の次男、康歴2年生-応永7年生害 21歳 法名曹源。
1380.8.2-1400.10.17 大塔の戦いで 大塔城に籠り家臣宮崎と共に自害する。
・・応永7年(1400)小笠原長秀に随ひ更科郡所々にて合戦して武功顕し、守護方の旗本衆は曼陀羅一揆と称して勇敢に戦った。なかでも獅子奮迅の戦いぶりを見せたのが、坂西次郎長国であった。長国は六尺三寸に余る太刀を振るって勇戦したが、多勢に無勢、ついに守護勢は塩崎城に逃れて籠城せんとした。ところが、長国たちは守護長秀との連絡を絶たれ、大塔の古砦に逃げ込んだ。大塔には兵糧もなく籠城兵は馬を殺して食糧にする事態の追い込まれ、ついに10月21日、守護勢のほとんどが討死・自害するなどして果てた。猛将長国も自害し、21歳の若さで戦場の露となったのである。大塔の落城により塩崎城も危うくなったが、小笠原一門の大井光矩の斡旋で開城となり、長秀は京都へ逃げ帰った。当然、守護職は解任されたことはいうまでもない。・・
長国が討死した後、由政が家政をみて本拠を愛宕社へ移し飯田城と称した。そして由政が出家入道すると、家督を継いだ長男の坂西長由によって飯田城が築かれたという。飯田城ができる以前、この場所には真言宗山伏(修験者)の修行所があったが展望のきく要害の地であったため、坂西氏がそれまの愛宕城の土地と交換して築城した。このため、坂西氏時代の飯田城の主郭部は、近世飯田城では「山伏丸」と呼ばれた。
・・・鎌倉時代の建保年間(1213-19年)に築城したという説もあるが、年代的に無理?。
・・・長由は早死にだったため、長男の政忠が叔父のの長国の後見を得て坂西氏を継いだ。
四代
坂西政忠;明徳4年5月生-寛正5年6月15日卒 72歳法名圓岳
1395.5-1464.6.15 長由の長男、稚名小太郎。
政忠が叔父の長国の後見を得て坂西氏を継いだ。入道正永が正長元年(1428)に死去すると政忠が名実ともに家督を継承し宗家小笠原氏に属して、永享十二年(1440)の「結城合戦」に小笠原政康に従って出陣した。
・・・漆田原の戦とは、室町時代に起きた信濃守護家の後継をめぐる内紛である。信濃守護松尾小笠原宗康は弟の小笠原光康に自身が万一討死の際は家督を譲り渡す条件で協力の取り決めをして漆田原での府中小笠原持長軍との合戦に臨んだが敗死。持長は宗康を討取りはしたものの家督を手中にすることが出来ず対立は子らの代にまで続いた。この合戦に坂西政忠・同上総介兄弟は府中小笠原持長勢に属して奮戦、上総介は討死をした。・・?松尾小笠原別家の坂西家が府中小笠原家の側に立ったのか、不明で矛盾・検討材料?
・・坂西上總介、長国の次男、文明2年(1470)善光寺大黒塚合戦に討死す
五代
坂西政重;応永30年生-文明14年卒、60歳 法名道圓
1424.7.11-1484.10、政忠の長男、稚名孫六
永享12年(1440)結城合戦の時信濃守護小笠原正康に属し武功あり。政重の長男、康雄。次男、正仍。・坂西正仍 詳細不明。
・坂西正俊 正仍の子。
・・伊那郡飯田城主。知久氏の二万石の覇権を争った。
・・文明十一年(1479)、同十二年(1480)の両年、松尾小笠原政貞(政秀)と鈴岡小笠原家長が合戦、家長は討ち取られた。この合戦に坂西正俊は松尾の政貞の軍に加わっていた。
・・守矢文書にある”孫六”は年代を比定するとこの人になる。孫六は諏訪上社に帰依し、諏訪に内訌に高遠家、諏訪大祝家の側で活躍し、伊那郡援軍の要と見える。さらに小笠原の松尾・鈴岡の内訌にも関与し、諏訪からは、高遠継宗と諏訪満継が松尾の援軍に伊那に駆けつけている。どうも、キーマンが”孫六”こと坂西正俊!か。
坂西康雄、坂西正仍、その子坂西正俊の代に、小笠原家と諏訪家の両方に一族間の争乱が起こった。この三人は三人ともこの争乱に深く関わっていて、康雄、正仍は巻き込まれて戦死したのだろうか、資料に顔を出さない。この為か、この時期の系譜に混乱が見られる。
坂西家の嫡男を示す、由緒ある幼名(稚名)の”孫六”は、初代、二代、五代、、と坂西正俊の四名が確認され、以後この幼名はつけられていない。
六代
坂西政之;寛正3年?生-弘治2年卒、95?歳、法名長松寺、(1462.2?)-1556
坂西正俊の男。天文年中愛宕の寺の山城方へ移す。(政重の長男説疑問有り)、
正俊の子政之の代の天文十五年(1546)、知久頼元と領地争いを起こし、政之は敗北し、松尾小笠原信定、下条信氏の扱いで和睦、知久氏に黒田・南条・飯沼・上野の地を割譲し、さらに知久氏の娘を嫡子長重の室に迎えている。
天文二十三年、武田氏は下伊那を制圧、ここにいたって坂西政之は武田氏に帰属し、秋山伯耆守信友の組下となり軍役六十騎を勤めた
七代
坂西長重;大永元年生-永禄3年卒、40歳、法名長光、1521-1560
政之の長男;母小笠原左馬介女、飯田城で生まれる。舎兄多と雖も皆早世す。父老年に及び家督方継ぎ神峰城主知久頼元の聟。室は知久頼元の娘。若く病没のため、坂西家の家督は嫡男坂西忠長が相続した。
八代
坂西長忠;天文7年生-永禄5年生害 25歳 1538.5.28-1562.6.12
長重の長男;飯田城に生まれ、市瀬山にて自害。父坂西長重が若くして病死したため、坂西長忠が家督を相続した。。長忠は永禄五年(1562)松尾小笠原信貴の領地を押領したため、信貴が信玄に訴えた。結果、坂西長忠は武田晴信勢と松尾小笠原信貴勢に攻められて飯田城は落城、木曾谷に落延びる途中、松尾小笠原信貴勢に捕捉され坂西家枝連衆はことごとく討死をとげた。長忠は・・正之の孫の説もあるが不明。
九代
坂西延千代;永禄4-5年、2歳
父長忠討死の時、一緒に卒す。長忠の長男・・・・・坂西家断絶・・・
別流か・・・・・
坂西経定;生誕不詳-没年天正10年(1582)
坂西家臣。通称織部。天正元年(1573)小田原北条氏の斡旋を受けて坂西織部経定なる人物が飯田城を賜り、武田氏の軍役に従い、長篠の合戦にも出陣している。そして、天正十年の織田勢の飯田城侵攻によって織部は城を棄てて西山へ逃れたが、進退に窮し自害、坂西氏はまったく滅亡した。この織部の名は小笠原系坂西氏の系譜にはみえない。
近藤氏系坂西氏の最後の当主とするものがあるがこちらも疑わしい。
参考・・・小笠原文書
板西宗満近藤周家裔小笠原貞宗子孫六彦三郎掃部刑部弾正
由政宗満子兵庫
長由由政子伊予
政忠長由子伊予
政重政忠子内蔵
康維政重子康雄
政仭政重子正仍
政俊政仭子伊予
政之政俊子政重子?伊予?
長重政之子若狭
長忠====1562長重子左衛門周次飯沼城主
織部長重子
長国由政子次郎応永頃
頼国
正永寺・・・坂西家菩提寺 ・参考
・・・・・確認していないが、歴代の坂西家の墓が存在していると思われます。
飯田城主2代 坂西由政( よしまさ)が応永15年(約600年前)66歳の時に、正永寺殿賢峰道因大居士と号して入道し、風越山の麓、圜悟沢付近に庵を結んで閑居したのが始まりで、その後、正永寺原に一寺を建立し「正永寺」と称しました。 この地は虚空蔵山の麓に広がる高台で、正永寺の旧境内地には大公孫樹(長野県の天然記念物)、坂西家のものと思われる宝匡印塔・五輪塔が現存しています。
永禄5年(440年前) 坂西家8代長忠の時、松尾城主小笠原信貴との戦に敗れ、木曾谷へ落延びる途中、勝負平の一戦で坂西家が滅亡し(長忠の子延千代を祭る御君地蔵尊が大平に在る)、正永寺も一時荒廃してしまいますが、5年後の永禄10年に越後の国、保寧山顕聖寺6世の能霊自果大和尚が伽藍を修復して、曹洞宗の「正永寺」として再興し開山となりました。
文禄3年(410年前) 正永寺三世洞翁深鶴大和尚の時、飯田城主京極高知は戦略上の理由から外堀の内側に寺を配する事とし、命によって正永寺原より現在の地に移転しました。 その後、歴代の住職と、檀信徒の努力により、明暦2年に正永寺原に在った観音堂を移転して再建、元禄7年には鐘楼堂を、享保元年には山門を建立して寺域も整備されました。
しかし、天保3年(180年前)の火災により本堂・庫裡を焼失してしまいました。本堂は明治32年、二十三世慈法順応大和尚の時に再建されましたが、明治三十五年の災火により再び開山堂と共に焼失、二十四世千丈悦恩大和尚により大正2年に現在の本堂が再建されました。 庫裡は天保8年に松尾の木下家居宅を買い受けて本堂右横へ建立し、大正13年現在の場所に移築し、平成元年大規模修復をして現在に至っています