探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

正則の墓の話 ・・・参考文献の検証

2013-11-18 23:37:39 | 歴史

 正則の墓の話

参考文献・・・・・「伊那路」 昭和47年3月号

以前に、保科正則の幻の墓のことを、ブログにアップしているが、年齢の部分を考察すると」、いくつかの疑問があることを既述していた。

この度、郷土史誌「伊那路」に、偶然保科正則の墓の記述があることを見つけて、ここで検証してみることにする。

・・・「保科正則の墓を訪ねて」・赤羽篤

*「伊那路」第16巻 第3号 昭和47年 3月 ・・・ 目次の3段目にあります。

それでは、要点のみ書き出していきます。


「保科正則の墓を訪ねて」

・・・これによると、保科氏の高遠から多古への移封は正直ではなくて正光に命ぜられている事になる・・・保科正則夫婦の墓については、昭和17年発行の藤沢村史に、その概略が記載されている・・・わたしは昭和46年10月4日千葉県八日市場市飯高の大乗山法華寺に、その墓を訪れる機会を得た・・・寺院の建物はなく、わずかに墓地と寺院跡とその一角に、間口六間奥行き三間半ぐらい・・・お堂と集会所・・・この法華寺は戦国、北条氏の家臣の末流平山、鈴木、高橋氏が先祖代々この寺と墓を守ってきたとのことである・・・この二基並んだ夫婦の墓の裏には

・・正則公の墓 天正19年9月6日 去   (表は、法名の刻印)

・・正則公妻の墓 慶長7年6月20日 去  (表は、法名の刻印)

・・・ともに、元禄3年創建とあります。

・・・保科氏の高遠復帰が慶長6年であるから、正則の死後その側室は墓を守り高遠へは帰らずにこの寺で没したのではないかと考えられる・・・元禄3年・・・建福寺住職の喝道は正直の廟堂が敗壊しているのを嘆いて、会津藩主松平正信に修復を乞い、正直の墓とともに飯高の正則夫婦の墓も・・・修理させた・・・正俊については・・・「生死年月法名葬地不詳」と記されている・・・「保科世譜」によれば、正則の死亡の時、正俊は・・・84歳にあたる・・・として、正則、正俊については不自然という表現で、疑問を投げかけている・・・

*会津藩主松平正信は、正式に言うと、この呼称はない。会津藩主保科正信の時、幕府の親藩第一の藩が由緒ある松平を名乗って欲しいという強い要望で改名, 重四郎(幼名)→保科正信→正容→松平正容となる。会津松平藩第3代当主(1681-1731年)。会津藩二代藩主正経に子がなかったため、弟の正信が嫡子予定で、正経の養子に入る。正之の子。

ここには、いくつかの新事実があります。

1;正則の妻は、正則死後も多古に残っていただろうと言うこと

2;正俊の詳細は、不詳という表現で記述がないこと

3;天正19年(1591)-慶長6年(1601)-元禄3年(1690)の期間・99年間の歳月

正則、正俊、正直、正光、正之、正信と系譜は流れます。この系譜の保科家の家臣は、ほぼ激動の期間を伴にしたと思われます。父、祖父、曾祖父の時代に、激動の時期を主君とともに、苦楽を一緒にしながら過ごしたのであるから、語り継がれた歴史の事実の精度は、正信(松平正容)の時代は、かなり高かったと思われます。

それならば・・・

1;保科正則の存在と、多古での死去は事実であろうと推測が可能です。そうすると、北信濃の保科の里から、村上一族に追われた保科正利、正則親子は、矛盾になります。

2;保科正俊の「生死年月法名葬地不詳」は意図的な隠しが感じられます。あるいは、多古移封に逆らって、高遠?に残ったのかも知れません。

以上、分かったことは、この2点が、かなり不自然であること、となります。

下記の記述が、ずっと気になっています・・・

四方赤良の余談集4 『其之 74』H19.5.11~H19.6.16

・・・8月6日、多古城内の館にて隠居をしていた祖父の保科正俊が亡くなりました。祖父は武田家配下の高坂昌信、真田幸隆殿と共に、槍の名手として「三弾正」と恐れられ、若い頃よく祖父から槍の手ほどきを受けたものでした。拙者はかつての主君、武田勝頼様の斡旋により、真田昌幸殿の娘を正室に迎えていました。そこで祖父の死に際して直ちに信濃国上田の真田昌幸殿へ使いを送り、丁重な御返礼をいただきました。・・・

この人の文章を読むと、豊富な知識に裏打ちされていることが分かりますので、あながち無視も出来ません。しかし出典が分かりません。もしかしたら、飯野藩の所蔵の古文書のあるのかも知れません。江戸時代の人のハンドルネームをもつ四方赤良さんに、教えを請いたいと思いますが、連絡の方法が分かりません。

この頃(1593年)、朝鮮の役の後詰めで、九州に出仕いていた真田昌幸は、大阪を経て、上田に戻っていたと思われる。保科正直、正光親子も同様だが、主人は真田の方は秀吉で、保科の方は家康であった。その前の1590年頃、真田の沼田領の代替えとして、秀吉は箕輪を真田昌幸に与えている。この飛び地の箕輪の代官領主は誰であったのだろうか。真田と保科は、その時も以後も、かなり”良い関係”の親戚であった。お互いの信頼も緊密であったようで、このことが気に掛かる。保科正俊は、本当に多古に行ったのだろうか。

 






諏訪の乱 サイドストーリー、坂西孫六のこと

2013-11-08 01:49:05 | 歴史

・・

サイドストーリー 坂西孫六のこと

今回は、諏訪家と同盟した、松尾小笠原家の系流の話です。

諏訪の乱を見る時、大祝諏訪満継や高遠継宗に援軍する伊那の軍に、”孫六”の人名を見かける。大祝援軍で、諏訪に出征で来るだけでなく、諏訪の方からも、松尾と鈴岡の小笠原家内の対立の時、あるいは府中小笠原家が伊那の小笠原家に攻めてくる時は、高遠継宗や諏訪満継は、自ら松尾小笠原家に援軍している。この際に、諏訪上社の敬虔な信者として”孫六”は登場する。・・守矢文書。この孫六は、時には小笠原孫六を名乗るが、飯田城主坂西孫六である。通称を外せば、五代坂西政重か坂西正俊が年代的に該当できる。

この坂西家のことについては、研究本を探してみたが、松尾小笠原家の別家と言うことからか、ほとんど皆無に近いようで見当たらない。書き物を調べても精度が悪いものばかりで、そこで、調べ直してピッキングし、年代を糾して書き直したのが下記の様になる。南信濃の中世の豪族の、規模的順位からすれば、松尾小笠原、鈴岡小笠原、知久家に次ぐ、四番目の規模だったようだが、飯田郷・・効戸庄に、1300年代中頃から、1500年代中頃まで約200年に渡って君臨した領主なのだから、もっと資料が研究されていてもよさそうに思えるのだが・・・坂西家の名が、歴史に露出するのは、大塔合戦、結城陣番帳、小笠原・諏訪の文明の内訌、知久・坂西争い、織田の武田攻め・飯田城の戦いで、ほぼ負け戦ばかり、地元の郷土史家に、興味が湧かなかったのだろうか。

以下、飯田坂西家の系譜略・・・参考

小笠原貞宗
生;正応5年4月12日-没;正平2年/貞和3年5月26日:1292年4月30日-1347年7月5日
南北朝初期の信濃国守護職・おがさわらさだむね、は鎌倉時代後期から室町前期の武将。信濃小笠原氏の当主。信濃国松尾(現・長野県飯田市)に生まれる。当初は鎌倉幕府に仕えており、元弘元年(1331)からの元弘の乱では足利尊氏らとともに後醍醐天皇の討幕運動を鎮圧した。しかし高氏が鎌倉幕府に反旗を翻すとこれに従い、鎌倉攻めに参加する。建武元年(1334)、この功績により信濃国の守護に任ぜられた。その後、尊氏が後醍醐天皇から離反するとこれに従った。建武3年(1336)には足利方の入京により後醍醐天皇が比叡山へ逃れる。この際、貞宗は後醍醐方の兵糧を絶つ目的で琵琶湖の湖上封鎖を行っている。その後も一貫して北朝側の武将として各地を転戦した。京都で死去。56歳没。子の政長が家督を相続した。三男宗満、分家して坂西を名乗る、坂西宗満。

初代
坂西宗満;誤・・生正中5年-没永和二年。1328-1376。53歳、法名賢戒

・・・おかしい?、 正中元年生(1324)とすれば年齢の辻褄が合う。正中は2年しかない
       正・・生、正中元年、没、永和二年。1324.4.8-1376。53歳 法名賢戒


父小笠原貞宗。三男。貞和年中(1345)ごろ三本杉に住し、飯田郷の地頭職を賜り、貞和年間(1345-50年)頃に飯田郷三本杉に居館を構え、坂西氏の名跡を継いで坂西孫六を称したという。松尾に生れ 建武2年(1335)郊戸の庄へ分家し 貞和年中に城を築き 永和二年(1376)在京中卒す。

・・坂西氏の名跡を継いで坂西孫六を称したという。
・・三本杉城・・・野底川と松川の合流地点、新飯田橋となり西鼎公園のところか
・・郊戸の庄・・・郊戸八幡宮由緒・・貞観年中に勧請す・・久安三年郊戸庄五郷の總鎮守・・社号につきては旧称郊戸八幡宮・・天保十二年郊戸神社と改称す・・・場所の比定は、前文の神社の場所が含まれるところ。野底川と松川の間の旧飯田郷とする。この頃はまだ領地の分割相続があった。
・・孫六は松尾小笠原家の別家屋号か、それとも嫡男に名付ける幼名か。

二代
坂西由政;誤・・生康和2年-卒正長元年。1100.5-1428.3.26 86歳 法名正永寺殿堅峰 道因大居士

・・・康和ではなく康永の書き間違いだろう
     正・・康永2年生-正長元年没、1343.5-1428.3.26 86歳 法名正永寺殿堅峰道因大居士

出家した後、入道正永を名乗る。宗満の長男;母武田佐馬介直信女、稚名孫六郎、別名兵庫守、度々武功あり、応永十五年(1408)入道して正永と号し、由政が、愛宕城(飯田市愛宕町)を築いて本拠を移した。由政が出家入道したのちは嫡子の長由が家督を継いだ
・・愛宕城は飯坂城ともいい、飯田城本丸跡から西に近く愛宕稲荷神社があり、この場所に小さな愛宕城があった。

三代
坂西長由;応安3年生-応永2年5月卒、法名長圓、27歳。1370-1395.5


由政の長男、母家の女房 稚名は彦太郎、松原城に生まる 
・・・松原城は、郊戸庄飯田郷の内にあると思われるが、比定できていない。今宮城のことか

・坂西長国・・由政の次男、康歴2年生-応永7年生害 21歳 法名曹源。
   1380.8.2-1400.10.17 大塔の戦いで 大塔城に籠り家臣宮崎と共に自害する。


・・応永7年(1400)小笠原長秀に随ひ更科郡所々にて合戦して武功顕し、守護方の旗本衆は曼陀羅一揆と称して勇敢に戦った。なかでも獅子奮迅の戦いぶりを見せたのが、坂西次郎長国であった。長国は六尺三寸に余る太刀を振るって勇戦したが、多勢に無勢、ついに守護勢は塩崎城に逃れて籠城せんとした。ところが、長国たちは守護長秀との連絡を絶たれ、大塔の古砦に逃げ込んだ。大塔には兵糧もなく籠城兵は馬を殺して食糧にする事態の追い込まれ、ついに10月21日、守護勢のほとんどが討死・自害するなどして果てた。猛将長国も自害し、21歳の若さで戦場の露となったのである。大塔の落城により塩崎城も危うくなったが、小笠原一門の大井光矩の斡旋で開城となり、長秀は京都へ逃げ帰った。当然、守護職は解任されたことはいうまでもない。・・

長国が討死した後、由政が家政をみて本拠を愛宕社へ移し飯田城と称した。そして由政が出家入道すると、家督を継いだ長男の坂西長由によって飯田城が築かれたという。飯田城ができる以前、この場所には真言宗山伏(修験者)の修行所があったが展望のきく要害の地であったため、坂西氏がそれまの愛宕城の土地と交換して築城した。このため、坂西氏時代の飯田城の主郭部は、近世飯田城では「山伏丸」と呼ばれた。
・・・鎌倉時代の建保年間(1213-19年)に築城したという説もあるが、年代的に無理?。
・・・長由は早死にだったため、長男の政忠が叔父のの長国の後見を得て坂西氏を継いだ。

四代
坂西政忠;明徳4年5月生-寛正5年6月15日卒 72歳法名圓岳
    1395.5-1464.6.15 長由の長男、稚名小太郎。


政忠が叔父の長国の後見を得て坂西氏を継いだ。入道正永が正長元年(1428)に死去すると政忠が名実ともに家督を継承し宗家小笠原氏に属して、永享十二年(1440)の「結城合戦」に小笠原政康に従って出陣した。
・・・漆田原の戦とは、室町時代に起きた信濃守護家の後継をめぐる内紛である。信濃守護松尾小笠原宗康は弟の小笠原光康に自身が万一討死の際は家督を譲り渡す条件で協力の取り決めをして漆田原での府中小笠原持長軍との合戦に臨んだが敗死。持長は宗康を討取りはしたものの家督を手中にすることが出来ず対立は子らの代にまで続いた。この合戦に坂西政忠・同上総介兄弟は府中小笠原持長勢に属して奮戦、上総介は討死をした。・・?松尾小笠原別家の坂西家が府中小笠原家の側に立ったのか、不明で矛盾・検討材料?
・・坂西上總介、長国の次男、文明2年(1470)善光寺大黒塚合戦に討死す

五代
坂西政重;応永30年生-文明14年卒、60歳 法名道圓
     1424.7.11-1484.10、政忠の長男、稚名孫六


永享12年(1440)結城合戦の時信濃守護小笠原正康に属し武功あり。政重の長男、康雄。次男、正仍。・坂西正仍 詳細不明。

・坂西正俊 正仍の子。

・・伊那郡飯田城主。知久氏の二万石の覇権を争った。
・・文明十一年(1479)、同十二年(1480)の両年、松尾小笠原政貞(政秀)と鈴岡小笠原家長が合戦、家長は討ち取られた。この合戦に坂西正俊は松尾の政貞の軍に加わっていた。
・・守矢文書にある”孫六”は年代を比定するとこの人になる。孫六は諏訪上社に帰依し、諏訪に内訌に高遠家、諏訪大祝家の側で活躍し、伊那郡援軍の要と見える。さらに小笠原の松尾・鈴岡の内訌にも関与し、諏訪からは、高遠継宗と諏訪満継が松尾の援軍に伊那に駆けつけている。どうも、キーマンが”孫六”こと坂西正俊!か。

坂西康雄、坂西正仍、その子坂西正俊の代に、小笠原家と諏訪家の両方に一族間の争乱が起こった。この三人は三人ともこの争乱に深く関わっていて、康雄、正仍は巻き込まれて戦死したのだろうか、資料に顔を出さない。この為か、この時期の系譜に混乱が見られる。

坂西家の嫡男を示す、由緒ある幼名(稚名)の”孫六”は、初代、二代、五代、、と坂西正俊の四名が確認され、以後この幼名はつけられていない。

六代
坂西政之;寛正3年?生-弘治2年卒、95?歳、法名長松寺、(1462.2?)-1556 

坂西正俊の男。天文年中愛宕の寺の山城方へ移す。(政重の長男説疑問有り)、

正俊の子政之の代の天文十五年(1546)、知久頼元と領地争いを起こし、政之は敗北し、松尾小笠原信定、下条信氏の扱いで和睦、知久氏に黒田・南条・飯沼・上野の地を割譲し、さらに知久氏の娘を嫡子長重の室に迎えている。
天文二十三年、武田氏は下伊那を制圧、ここにいたって坂西政之は武田氏に帰属し、秋山伯耆守信友の組下となり軍役六十騎を勤めた


七代
坂西長重;大永元年生-永禄3年卒、40歳、法名長光、1521-1560


政之の長男;母小笠原左馬介女、飯田城で生まれる。舎兄多と雖も皆早世す。父老年に及び家督方継ぎ神峰城主知久頼元の聟。室は知久頼元の娘。若く病没のため、坂西家の家督は嫡男坂西忠長が相続した。

八代
坂西長忠;天文7年生-永禄5年生害 25歳 1538.5.28-1562.6.12


長重の長男;飯田城に生まれ、市瀬山にて自害。父坂西長重が若くして病死したため、坂西長忠が家督を相続した。。長忠は永禄五年(1562)松尾小笠原信貴の領地を押領したため、信貴が信玄に訴えた。結果、坂西長忠は武田晴信勢と松尾小笠原信貴勢に攻められて飯田城は落城、木曾谷に落延びる途中、松尾小笠原信貴勢に捕捉され坂西家枝連衆はことごとく討死をとげた。長忠は・・正之の孫の説もあるが不明。

九代
坂西延千代;永禄4-5年、2歳


父長忠討死の時、一緒に卒す。長忠の長男・・・・・坂西家断絶・・・

 

別流か・・・・・

坂西経定;生誕不詳-没年天正10年(1582)
坂西家臣。通称織部。天正元年(1573)小田原北条氏の斡旋を受けて坂西織部経定なる人物が飯田城を賜り、武田氏の軍役に従い、長篠の合戦にも出陣している。そして、天正十年の織田勢の飯田城侵攻によって織部は城を棄てて西山へ逃れたが、進退に窮し自害、坂西氏はまったく滅亡した。この織部の名は小笠原系坂西氏の系譜にはみえない。
近藤氏系坂西氏の最後の当主とするものがあるがこちらも疑わしい。

 

参考・・・小笠原文書

板西宗満近藤周家裔小笠原貞宗子孫六彦三郎掃部刑部弾正
由政宗満子兵庫
長由由政子伊予
政忠長由子伊予
政重政忠子内蔵
康維政重子康雄
政仭政重子正仍
政俊政仭子伊予
政之政俊子政重子?伊予?
長重政之子若狭
長忠====1562長重子左衛門周次飯沼城主
織部長重子

長国由政子次郎応永頃
頼国

正永寺・・・坂西家菩提寺 ・参考

・・・・・確認していないが、歴代の坂西家の墓が存在していると思われます。

飯田城主2代 坂西由政( よしまさ)が応永15年(約600年前)66歳の時に、正永寺殿賢峰道因大居士と号して入道し、風越山の麓、圜悟沢付近に庵を結んで閑居したのが始まりで、その後、正永寺原に一寺を建立し「正永寺」と称しました。 この地は虚空蔵山の麓に広がる高台で、正永寺の旧境内地には大公孫樹(長野県の天然記念物)、坂西家のものと思われる宝匡印塔・五輪塔が現存しています。

 永禄5年(440年前) 坂西家8代長忠の時、松尾城主小笠原信貴との戦に敗れ、木曾谷へ落延びる途中、勝負平の一戦で坂西家が滅亡し(長忠の子延千代を祭る御君地蔵尊が大平に在る)、正永寺も一時荒廃してしまいますが、5年後の永禄10年に越後の国、保寧山顕聖寺6世の能霊自果大和尚が伽藍を修復して、曹洞宗の「正永寺」として再興し開山となりました。

 文禄3年(410年前) 正永寺三世洞翁深鶴大和尚の時、飯田城主京極高知は戦略上の理由から外堀の内側に寺を配する事とし、命によって正永寺原より現在の地に移転しました。 その後、歴代の住職と、檀信徒の努力により、明暦2年に正永寺原に在った観音堂を移転して再建、元禄7年には鐘楼堂を、享保元年には山門を建立して寺域も整備されました。

 しかし、天保3年(180年前)の火災により本堂・庫裡を焼失してしまいました。本堂は明治32年、二十三世慈法順応大和尚の時に再建されましたが、明治三十五年の災火により再び開山堂と共に焼失、二十四世千丈悦恩大和尚により大正2年に現在の本堂が再建されました。 庫裡は天保8年に松尾の木下家居宅を買い受けて本堂右横へ建立し、大正13年現在の場所に移築し、平成元年大規模修復をして現在に至っています


諏訪家、あるいは諏訪神社の歴史 ・・2

2013-11-04 01:29:22 | 歴史

・・2

諏訪家の内訌  ”諏訪の乱”

・・・・・ ・内訌・  一族間の覇権を争う内乱のこと

文明十五年(1483)正月8日、諏訪継満は、祭事にことよせ、惣領家政満一家を前宮神殿(ゴウドノ)に招き、酒宴をもって酔いつぶし、夜更け、隠れていた武装の一団を指揮し、嫡子宮若丸も含めて惣領政満と弟埴原田小太郎など一族を初め来客一同、10余人を皆殺しにした。
・・・それまでも、一族間に対立はあったが、ここで本格的な対立・内乱が起こる。時が文明十五年だったことから、後世にこの内乱を、諏訪家の「文明の内訌」と呼ばれるようになる。
この時の対立軸は、まず、大祝諏訪継満で高遠継宗が加担する。一方の惣領家は諏訪政満で、弟埴原田小太郎など一族などであった。
下社の大祝金刺氏は、当初傍観し、すぐ後に上社大祝諏訪継満側に加担するようになる。

諏訪家の内訌の原因・

一般的には、諏訪大祝継満が、成人を過ぎても大祝の職に留まり、戦国大名化を野望したためとされている。それまでは、大祝は、幼少の時期こそ神が宿るとされて、成人すると俗世に穢されるとされて退位して惣領家に入るか別家を立てるか、だったようだ。この神族や神官に関する部分は、自分の理解を超えるので、立ち入らない。
もう一つの遠因は、前年文明十四年(1482)に起こった高遠継満と代官保科貞親の荘園問題での対立と抗争にあると思う。この戦いは、やはり戦国大名を志向する高遠継満が領土拡大を目指して、大祝継満の荘園に手を出したものと見て良い。そこで、保科貞親は、大祝の代理戦争をした、といのが流れであろう。しかし、大祝の妻は高遠継宗の妹であった事から、やがて和睦した。当初代官保科貞親と同盟して一緒に戦った藤沢氏千野氏は、突然の保科貞親の和睦、寝返りに梯子を外され、惣領家と府中小笠原家に援軍を頼んだ。この時の惣領家は諏訪政満であり、同族が敵対したことにより、余計に政満に怨恨が残った。
と、この二つが原因のように思う。

文明の内訌の時、保科貞親はどうしたか、が興味深い。当然ながら、主人の大祝継満の重要な参謀であったことが想像されるが、和睦後は、大祝と高遠継宗の同盟のために働いたと思われる。ここで、大祝の居城であった武居城に、保科館の跡地と思われる「保科畠」が現在も残っているが、大祝と荘園代官の保科家が隣接していたと見る方が辻褄が合うが、保科貞親の居住の地が藤沢谷なのか武居城なのか、はたまた、どちらかが出張先の陣屋跡なのか、資料がないので定かではない。また、この文明の内訌の時に、貞親の嫡子が戦死している。

妻の実家・高遠継宗と下社方の加担もあって、惣領家の乗っ取りを企てた。この殺戮集団の中には政満の親類も多数いたといわれている。神聖な神殿を血で汚し、大祝継満自ら手を下し、返り血を浴びる光景を見て、神長官でさえも「まことに大祝とは申し難し」と憤る有様であった。
・・・ここで、大祝側は大きな誤算をする。本来関係性から、大祝の見方になるべき、神官長(守矢家)や神党の多くを敵に回してしまう。

惣領家方の憤怒も極まり、直ぐ敵討ちに立ち上がると、郡内武士の勢力の多くと神長官を初め社家方の枢要な人々も同心した。
前宮と周辺の社寺堂塔が焼かれ、継満は形勢不利をさとり、干沢(樋沢)城に立てこもるが、矢崎・千野・福島・小坂・有賀・神長官たちに攻め立てられ、遂に落城、一族残らず大雪の中、急峻な杖突峠を越えて高遠に逃げた。しかし継満の父、先の大祝・頼満は老齢で病身ため逃げ遅れ、城中で討ち取られた。64歳であった。
大祝継満にしても完璧な謀略を成し遂げた自信があった。しかし諏訪一族は、惣領家、大祝家等関係なく、あってはならない事態として猛反発した。

干沢城落城の日は大雪で寒気が厳しかった。特に内陸部の諏訪の寒気は厳しい。大祝継満は当初から干沢城籠城を想定していない。そのため兵糧の備えもない中、前宮神原に集住する大祝一族と家臣団の住居も、堂塔と共に焼き尽くされている。一族の非戦員の老幼女子も籠城せざるをえず。城内というが砦程度の山中の狭い敷地内であり、居住屋内の設備は堀立小屋程度でたかが知れている。寒気と疲労で、諏訪大祝の兵士と非戦闘員の老幼女子の多くが高遠逃亡の途上で凍死していた。・・・大敗北である。

下社は、文明十五年(1483)正月8日の上社内訌を好機として、一気に諏訪惣領家を略取し、起死回生を謀った。金刺氏は継満と組み高嶋城(茶臼山城)を陥落させた。その頃の高嶋城又は高島城と呼ばれる城は、諏訪市内背後にそびえる茶臼山にあり、手長山の後ろの丘陵で、今は桜ケ丘とよばれている。
上下社領の境は、大和(おわ)の千本木川、諏訪湖、天竜川で、それぞれを湖南山浦地方と湖北と呼ばれた。高嶋城の築城は諏訪惣領家で、下社勢の大和と高木の両城の抑えと、湖北一帯の状況観察が意図されていた。 下社大祝金刺興春は百騎余りの兵を率い高嶋城を陥し、更に武津から上桑原一帯に放火し桑原城下の館を占拠した。更に桑原城の攻略に向かうも、惣領家に味方する矢崎肥前守政継を初めとする千野、有賀氏等の軍勢に駆り立てられて興春兄弟3騎を初めとする32騎と歩卒83人が敗死した。

文明の内訌で大祝継満が、高遠へ追放されると、惣領家支配となり茅野郷に本拠がある千野氏が城主として入城した。 上社惣領家勢は下社に討入り、社殿の悉く焼き払わった。守矢神長官は「為何御内證(本心)にて両社成広野」と嘆いている。金刺氏は没落するが、まだ余命は保っていた。諏訪惣領家と同盟する府中小笠原長朝も出兵していて、下社領の小野・塩尻郷を領有した。

大祝継満の再攻

高遠に逃げた継満は、義兄の高遠継宗と伊賀良小笠原政貞、知久、笠原氏の援軍をえて翌年の文明十六年(1484)5月3日、兵300余人率い、杖突峠を下り磯並・前山(いそなみ・まえやま;茅野市高部)に陣取り、は諏訪大社上社の裏山西方の丘陵上にあった片山の古城に拠った。・・・この片山古城は、別名武居城と呼ばれた。ここに大祝の居城・館があり、保科の館跡があったらしい。
・・・さらに、この時の再攻の主役は、高遠継宗のようである。
ここは、極めて要害で、西側沢沿いには、水量豊富な権現沢川が流れ地の利もよい。 惣領家方は干沢城に布陣したが、伊那の敵勢には軍勢の来援が続き増加していく。

ところが小笠原長朝が筑摩、安曇両郷の大軍を率いて、片山の古城(武居城)を東側の干沢城と東西に挟み込むように、その西側に向城を築くと形勢は逆転した。その向城こそが、東側の権現沢川左岸の荒城(大熊新城)であった。

伊那勢は両翼を扼され撤退をせざるを得なかった。 継満も自らの残酷な妄動が、結局諏訪惣領家方の結束を強め、下社金刺氏をも無害にし、ここに始めて諏訪湖盆地を領有する一族を誕生させたことを知った。

以後の継満には、諸説があり、信憑性に欠くが、いずれにしても、継満一族は歴史上の本舞台からは消えた。 惣領家方は生き残った政満の次男・頼満に相続させると同時に、大祝に即位させた。5歳であった。

以上を整理してみると、諏訪家の四勢力の内、下社金刺氏と諏訪大祝家が、この文明の内訌で滅亡し、惣領家が生き残り、新しい大祝を立てて存続し、高遠家は、諏訪の勢力外と言うことで生き残った、と言うことになる。この時に大祝の所有する諏訪神領(荘園)は、どうも高遠家に帰属したと見るのが合理的な見方のようにおもう。以後、藤沢荘などの言葉が資料に見られなくなる。

 

文明の内訌の時、大祝継満と高遠継宗に援軍した、伊那の軍勢との関係は何であったのだろうか。この部分も興味が深い。

伊那の軍勢、伊那小笠原家

文明十一年(1479)伊那の伊賀良で兵乱が生じる。府中の小笠原長朝が伊賀良の小笠原政貞を攻めた。この時、深志の小笠原一族の重鎮・坂西光雅は伊賀良の小笠原政貞に属していた。坂西光雅は諏訪上社を信仰し、第8代将軍義政の時代の応仁二年(1468)には、頭役をやり遂げている。諏訪方はその関係もあり、小笠原政貞の援軍として、その本拠地伊賀良へ、大祝継満と高遠継宗が出兵している。
継満の妻は高遠継宗の妹で義兄弟になる。この時大祝継満は29歳であった。郡外にでるため一旦大祝を辞し、帰還後復位している。この時期大祝も郡外に出兵できる独自の兵力を養っていた事になる。それが文明の内訌へと繋がる。 文明十二年(1480)8月12日諏訪上社の兵が再度鈴岡の小笠原政貞支援のため伊賀良に出兵した。政貞の叔父・松尾の小笠原光康が甥の政貞を攻撃するため府中の小笠原長朝の援軍を要請したためであった。