探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

諏訪家、あるいは諏訪神社の歴史 ・・1

2013-10-31 19:04:50 | 歴史

 ...1

保科家の続きを書こうと思ったら、諏訪家の歴史的出来事を押さえてからでないと書けなくなった。そこで、ひとまず保科家のことを置いて、諏訪家のことを調べて見ることにする。今日、図書館に行って、「諏訪市史・中巻」と「茅野市史・上巻」の取り寄せを依頼してきた。新たな事実が分かれば、書いてきたこと、書いていることの訂正と変更はあり得ると思います。

ここで言う諏訪家は、諏訪神社上社、下社、惣領家、の三者であり、高遠家は別家筋であるが、加えないようにする。

以下、諏訪家について・・・・・

諏訪家の文明の内訌と保科家

藤沢保科家を調べる場合、諏訪家の「文明の内訌」との関わりは避けて通りそうにない。そこで、文明期の諏訪家の状況の解析に向かうわけだが、この諏訪家が、神官家と言うこともあり、現代の常識からは少し離れていて、複雑怪奇で入り乱れ、できれば立ち入りたくはないが、ここを避ければ、保科家の理解が遠のくので、あえてカオスに手を突っ込むことにする。

その前に、諏訪家の歴史に、少しだけ触れておく。

諏訪家、諏訪大社の大祝を務めてきた一族である。その血筋は祭神・建御名方命の血筋を称しながら極めて尊貴な血筋としてとらえられた特異な家系といえる。諏訪家は武士と神官双方の性格を合わせ持ち、神社の神官である、一方ごく一般的国人領主である。しかし、神官としては信濃国及び諏訪神社を観請した地においては絶対的神秘性をもってとらえられた。祭神の諏訪明神が軍神であることから、古くから武人の尊崇を受けていたことも大きく影響している。故に諏訪神社の祭神の系譜を称し、諏訪神社最高の神職たる大祝を継承し、大祝をして自身の肉体を祭神に供する体裁をとることで、諏訪氏は絶対的な神秘性を備えるようになったといえる。

平安時代には、神官であると同時に武士としても活躍し、八幡太郎義家が出羽の清原氏討伐のため後三年の役に介入すると、大祝為信の子である諏訪為仲が源氏軍に加わったという。大祝は祭神の神託により身体に神が宿るとされ、代々正一位の神階を継承する。そして、源平合戦の折に、大祝がどちらに味方するか考えていたところ、祭神が夢に現れて手に持っていた梶の葉の軍配を白旗のある方向へと振り下ろしたことから、諏訪氏は源頼朝に味方する。以来、諏訪氏及び諏訪大社を尊崇する氏子は梶の葉を家紋にしたという逸話がある。

鎌倉・南北朝時代・・・鎌倉時代の当初は幕府御家人だった諏訪氏も幕府の実権を握った北条得宗家の被官となり、全国に諏訪神社が建立されることとなった。幕府滅亡後の1335年には、諏訪頼重・諏訪時継が北条氏の残党が北条時行を奉じて挙兵した中先代の乱に加担するなどした。

南北朝時代の頃から武力を持つようになり、諏訪円忠は後醍醐天皇の建武の新政で雑訴決断所の成員を務め、建武政権から離反した足利尊氏に従い足利幕府の評定衆や引付衆などを務め信濃国に住する将軍直属の奉公衆としても活躍した。

・・・というのが、大きな諏訪家の流れであるが、経済的基盤から眺めると、次の様になる。

まず、平安期には諏訪大社は、広大な社領・荘園(=神領)を持っていた様であるが、資料としては残存していないようだ。鎌倉時代になると、藤沢与一盛景が、諏訪の神領で納税を怠り、さらに諏訪大社の神事を妨げたことから、幕府へ訴状がなされた。この時に正式な諏訪神領が無かったため、頼朝から、改めて知行されて、併せて藤沢谷の藤沢盛景に諏訪大社への協力が命じられている。また、幾つかの契機から、諏訪家は、頼朝時代の後の、北条得宗家の時代は、得宗家と蜜月の時代をつくり、御身内の関係になり、特権を利用しながら、膨張していったものと思われる。この頃はまだ、諏訪神族の領主は、諏訪大社の神事に対して、莫大な奉納が行われて、諏訪大社を中心とする諏訪家は経済的に豊かであった。

建武の新政が起こると、諏訪家は、北条の遺子を隠し育て、遺子の北条時行が成人すると、時行を押し立てて、中先代の戦いを起こす。経緯から、諏訪家は、中先代の軍の中核であった。建武の新政がなった後、主役の後醍醐天皇と足利尊氏は反目し合うようになり、北朝を傀儡で立てた尊氏と南朝の後醍醐天皇が、天下を二分する長い戦いに入る。諏訪家は、反幕府の立場は一貫していて、北条残党と共に南朝側に付く。信濃は、南朝側の征東将軍の宗良親王の拠点になる。

この時、諏訪家の経済基盤で何が起こったのだろうか。鎌倉幕府が倒れて、室町幕府ができると、鎌倉期に貰っていた諏訪家の特権は無に帰する。諏訪の神領もしかり。さらに、戦乱で明け暮れして荒廃する諏訪神党の各領主も疲弊してくる。諏訪大社の神事どころではなくなる。こうしてかっての大社の神事への奉納は、名目から半減以下になる。支える諏訪神党の領主の家の廃絶も、起こってくる。
まず、これに耐えられずに、反幕府の南朝側から脱落したのが、諏訪下社の大祝金刺家であった。

・・・と、ここまでは、解説書に書かれた通説である。

中世の諏訪・伊那地方に詳しい人には冗長な文であることは確かなので、お許し戴きたい。この地方の歴史に詳しくない、一般の人には、諏訪家一族の特徴が垣間見えるのではないかと思う。それは、鎌倉幕府の北条得宗家と諏訪家は、親戚同様な関係であったこと、その関係から、室町幕府の当初は、幕府に反目する立場であったこと、北条側残党の多い信濃では、諏訪家がその中核であり、幕府側の信濃守護の小笠原家と対立する立場であったこと、宗教を奉じる諏訪家が、寺が武装して僧兵を持つように、神社が武装して神兵を持つに到ったこと、この過程で、諏訪神族が戦国大名化して、一族の棟梁たらんとする覇権を争い、内部分裂していったこと。同じような戦国大名化の流れで信濃守護の小笠原家も一族の覇権争いが発生し、諏訪家と小笠原家は、双方の対立軸が同盟し、信濃国全体の分裂と対立を生んでいったこと、等々が極めて特徴的なことである。

この諏訪家衰退の危機を救ったのが、諏訪家中興の祖と言われる、諏訪円忠であった。またの名は、小坂円忠。この人は、かなり優秀であったらしい。幕府と反目する諏訪家の一族でありながら、当時の名僧、夢想国師の勧めで、足利尊氏は、円忠を幕府の役人に任命した。役割は当時頻発する領土問題・境界のトラブルの裁判官に、である。ここで力を発揮した諏訪円忠は、諏訪家のかっての特権を復権する。諏訪家の神領と言われる荘園は、その中心的課題であったと思われるが、それを証する資料は無い。同時期に、他の神社に神領を知行する例を参考にすれば、通常は、幕府は、上社大祝に対して、藤沢荘を神領として下されたのであろう。

従って、藤沢荘の代官の保科家親・貞親は、主人が上社大祝と言うことになる。高遠継宗は、代官保科家の主人ではあり得ない、という結論になる。


保科正則の研究 ・・5:保科畠と墓のなぞ

2013-10-23 23:49:23 | 歴史

・・謎の部分

保科正則の時代とその前の時代に、まだ手つかずの「謎」が残されている。

その一つは、保科貞親時代の保科畠・・であり、いま一つは多古にあるという、保科正則の幻の墓のことである。

武居城・・片山古城ともいう

諏訪盆地周辺に、武居城の名をもつ古城は、二つが確認される。洗馬の武居城と諏訪の武居城である。洗馬とは、今の朝日村のことで塩尻市の領域とするところ、鎌倉時代末期、洗馬荘に新補地頭として入って来た三村氏が築いた城で、その後は、小笠原氏や武田氏が防衛や監視に利用したようである。今回のテーマは、ここではなく、諏訪の武居城の事である。

諏訪の武居城(片山古城)・・諏訪市中州神宮寺

武居城は諏訪大祝の居館である前宮と上社本宮との間に位置する。元徳2年(1330)、諏訪五郎時重が鎌倉幕府最後の執権北条高時の婿となり、信濃一円に勢力を拡大して、ここに居館を構えた。 その3年後、新田義貞の鎌倉攻めにより高時と共に鎌倉で自害。その後の城主は不明となる。・・・これが城の成立の由縁。

諏訪家、文明の内訌の大祝の拠点

文明15年(1483)諏訪大祝継満は惣領家を倒して祭政二権を握ろうとしたが、失敗して高遠に 逃れ、翌文明16年(1484)、小笠原正貞・高遠継宗に助けられて再挙して諏訪に侵入し、廃城になっていた武居城を改修して、干沢城と 対峙した事が記録に残っている。武居城は干沢城と共に諏訪大祝家にとって重要な城であったことが窺われる。・・・この城山の北の中腹標高840m付近が武居城の居館跡と伝えられ、「保科畑」と呼ばれる地が残る・・・

さて、武居城の居館跡と伝えられ、「保科畑」と呼ばれ地の、どのように解釈したらいいのだろうか。保科畠は、昔、保科館があったが廃して後に畠となった、というのが素直な理解であり、諏訪祝家と保科家の綿密な関係が想像される。前項では、保科家は、高遠家の家老になる前は、諏訪家の神領を預かる代官だったのではないか、と推定して、高遠宗継と保科貞親の対立にことを書いたが、武居城の居館の主人が諏訪満継とするのは確かで、もし武居城郭内の居城に、諏訪満継と保科貞親の居館が、隣接していたとなると、諏訪家の経済基盤の支柱としての保科家の性格が明確になる。そして・・・戦国時代の幕開けは、中世の荘園制の崩壊の、表の物語でもある、という。この保科家とは、保科家親、貞親の藤沢保科家のことである。

そしてこの時は、保科正則の系流が、まだ藤沢保科家に合流する前の物語でもある。

 

さて次は、保科正則の”幻の墓”のことである。

・・・偶然に、千葉県匝瑳市の「市史こぼれ話」を目にする機会があった。
そこに「ひっそりと立つ保科正則(左側)夫婦の墓の写真と文章をみつけた。
匝瑳市では、多古城には正光・正直親子は来ても、祖父の正俊、曾祖父の正則が多古に移り住んだことは不明とし、半信半疑で、墓とは断定できず、保科家が敬虔な日蓮宗徒であることから、飯高寺化主日潮が供養塔として建てたのであろうと推定していた。
・・法華寺;[寺院];千葉県八日市場市(現・匝瑳市)飯高571;正則夫婦の墓・・・

さらに、こんな文章を見つける。

・・・「保科正之のすべて・・宮崎十三八」

多古時代の保科の家歴(没と任官)
保科正光 1590 多古入封 家督相続
保科正則 1591 卒 法名祥雲院
保科正俊 1593 卒 法名不詳
保科正光 1593 従5位下 叙勲 肥後守任官
保科正直 1601 卒 法名天関透公 建福寺埋葬
・・ 家督相続(相続披露&届け出→家康)から叙勲・任官まで3年

上記は多古城時代の保科家の戦役を除いた出来事である。
から拾って書いた。高遠以来の家臣からの聞き取りによる・・・とある。

戦国の時代、数奇な運命で数々の戦乱を生き抜いた保科正則は、会津松平家の初代正之から玄祖父にあたる。。だが正則の墓は、高遠建福寺にはない。会津に善龍寺という寺がある。保科の会津移封に伴い、千葉の多古から移転させたそうだ。
だが、善龍寺には保科家の元祖・保科正則の位牌はあるが、正則の墓はないようだ。・・・保科正則は1591年に多古城で死んだことになっている。

保科正則と正俊については、まだ謎が多い。この親子関係も、諸説が存在しているのも事実だ。だが、とりあえず、保科正則と正俊が親子関係であり、さらに保科正俊が1509年に生誕した定説を、正しいことと仮定してみると、当時の長男は、父親が二十歳ぐらいの時の子であると想定するのは、極めて常識的な想定で、そうすると、保科正則の生誕時期は、1490年頃となる。そうすると、多古で、正則が亡くなったとすれば、102歳という高齢になる。これは、高齢過ぎて説得力がない。また他説に、小笠原家の内訌に巻き込まれて、松尾小笠原に援軍して、1533年に、駒場で戦死した説は、生涯を44歳として、当時の年齢からは合理性があるように思う。正則が戦死した後、正俊が跡目を継いで、高遠頼継の家老として登場する時期とも一致するので、辻褄としても正解に思う。・・・正則と正俊の年齢差を20歳としたのは暫定であるので、+-のアロアンスは各自で御願いする。この多古で死んだとされる正則とは誰なのか?・・・疑問はのこったまま

上記のように、保科正則の生誕時期が、1490年頃と想定出来るので、北信濃の若穂保科から、保科正利が村上一族に追われて、伊那の藤沢に逃れた時、正則はまだ生まれていなかったのではないだろうか、という推測ができる。この部分も諸説有り、保科正利一人が逃れた説、正利と正則が逃れた説、とあるが、もし後者であれば、保科正則は、前期正則と後期正則の二人が存在しなければ、辻褄が合わなくなる。・・・この部分は、相も変わらず、謎のままである。

 

 

 

 

 

 

 

 




 


保科正則の研究 ・・4:高遠家の老中に!

2013-10-21 01:54:49 | 歴史

・・高遠家の老中に!

保科正則、高遠家の老中に!

*この高遠家は、鎌倉時代に発生した、木曽家傍流の高遠家ではなく、室町時代に発生した諏訪家傍流の高遠家のことであります。

守矢文書と保科秀貞
その前に、ひとつ確認しておかなければなりません。保科秀貞という人物のことです。前掲の保科の代官時代の項の守矢文書に、

6;保科秀貞御符礼一貫八百文、皮、 ...信濃史料叢書- 第 7 巻 - 142 P
・・・伊那郡)一擬重宮付成、内県介小坂初当候、西牧大県介、知久本郷宮付、西枚大県介、保科惣領、正月所"江御符入部、西牧信濃守満忠代初御符礼一貫文、扇八百、皮、知久少弼俊範御符礼一貫文八百、皮、帋三束、・・・

更に解説文に、
**風間郷にあった保科氏の名前が史料に見え、応仁二年(1468)に保科氏惣領を称する保科秀貞が諏訪神社の神使頭役を勤めて・・・信濃の保科氏の系譜 、とあります。

応仁元年(1467)に、藤沢の代官保科家親が、そして翌年の応仁二年(1468)に、北信濃風間の保科惣領の保科貞秀が、諏訪大社の神使頭役を、相継いで勤めています。このことは、北信濃の風間を拠点に若穂保科を含めた領分に、惣領を称する保科家が存在し、一方伊那の藤沢に、神領の代官の保科家が存在したことを証とします。

・・・文章の信頼性について、「守矢文書・諸日記」は、諏訪大社の神官長守矢氏が、その年の年末に、まず神使頭役のことから書き始め、その年の出来事を日記風に書き綴った古書であり、時を置かない事件の記述として、歴史資料の一級品であります。
・・・ちなみに所謂古書は、家伝記、戦記物等々、凡そ30年-50年前のことを後日に記載しています。室町時代の出来事を江戸時代に記載記録する例も多く、これでは、記憶違いや誇張や不都合部分の削除などがなされて、今日では事実と違う部分が多く指摘される場合が多いようです。

高遠の保科正則・・・赤羽記による

保科正則が高遠に初見するのは、高遠継宗の時代が終わり、満継の時代のようです。場所は、東高遠の北村という土地で二十石の所領の規模で、後に野底に七十石を加増されて、百石の小領主になりました。この頃、藤沢の保科家は、諏訪の内訌に巻き込まれて、一族も何割か戦死したのではないかと思われます。この藤沢・保科家も同族であり、この縁もあって、ともども保科一族として、先方衆として高遠満継に同盟したのではないか、と思われます。

保科正則の勃興、そして諏訪信定とは・・・?

「高遠治乱記では、永正年中(1504-1520)諏訪信定が天神山に城を構えて付近を領有 していた。天神山城には信定の子息を城主にして高遠一揆衆を治めた。」とあります。しかし、この時代の”通説”では、高遠満継の時代です。多少乱暴ですが、信定=満継とすると、ストーリーは整合します。諏訪信定(=満継)の性格も、「 是は生まれつき愚かなる故に諏訪にては立てず、是れ故、貰い立つるなり」とあり、満継の評価とも重なります。この信定については、諏訪家家系図の方には記載がなく、信広を諏訪頼隣とか、頼隣の子であるとか、が僅かに記録されています。本人も、高遠統治には余り関心がなく、あわよくば、諏訪家の棟梁を狙っていた野望を感じます。満継の時代、高遠はまだ藤沢の一部で、高遠城は山城で、鎌倉時代から高遠を名乗っていた木曽家の傍流が衰退しながらも存続していて、高遠一揆衆を構成していたと思われます。
高遠治乱記では、この時代に、信定(=満継)に反旗を翻した貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部)を治め、さらに残存する木曽の傍流の領地を削りながら勢力を削いでいった経緯が記載されており、これらの反乱を治めるのに信定(=満継)に功績のあった保科正則に、報償として彼らの領地が与えられて、ついには高遠一揆衆の中で一番の大身になった、と記載されています。
高遠城は、この時期に、木曽傍流が追い出されて、諏訪家が天神山城から移って入り、満継亡き後に、頼継が継ぎました。これらの時、諏訪信定は、どうも高遠に定住してはいなかったようです。事ある時に、諏訪から出張してきて戦い、高遠を傀儡に預けて差配し、統治した模様が「高遠治乱記」に書かれています。恐らく高遠不在の信定のため、継宗から頼継への、満継が抜けた系譜説が浮上しているのだと思われます。諏訪の内訌は既に終熄して、諏訪頼重の時代に移っていても、野望は、燃え続けていた模様です。この野望は、高遠頼継に受け継がれていきます。

高遠という地名はこの頃に定着したと見てよさそうです。

・・・・・蕗原拾葉(赤羽記、木曽・高遠家廃興による)によると、保科正則は、小笠原の内訌に松尾小笠原家の援軍で参戦し、松本小笠原家との戦いで、1533年に、駒場において戦死したとの記載があるが、定かではありません。しかしこの頃に、正則を相続して、保科正俊が高遠頼継の家老として登場しているので、状況証拠としては信じるに足るのではないかとも思っている。正俊が1509年生まれとすれば、頼継への家老就任は、齢二十五歳の時となる。

この時の、頼継の他の二人の家老
・・・千村内匠は、木曽本家が、傍流の木曽系高遠氏を滅ぼした際に、木曽本家から送り込まれて、残存の木曽家領地と洗馬(塩尻)を拠点とした。
・・・上林入道は、旧東春近荘の富県辺りを領分とした。なお、上林入道の嫡子、彦三郎に、正俊の娘が婚姻しているので、彦三郎は正俊の義理の息子になる。彦三郎は文武に長けて、非常に優秀であったと聞く。

勃興する正則の保科家と衰退する秀親の藤沢保科家の合流

そもそも、藤沢保科一族は、鎌倉時代に頼朝の御家人なって鎌倉に勤めた後、北信濃に戻らず、前北条家の御身内になった諏訪家の近在に、三々五々にやってきて移り住んだのが始めとされる。
その後、室町時代になって、諏訪家が北条の遺子、時行を隠し育て、成年になった時、鎌倉幕府復活を期して、中先代の乱を起こし、さらに南北朝の対立の時に、南朝側に立った諏訪家の、宗良親王の経済援助の実務を、藤沢保科家が担ったことが、推測される。こうして、諏訪家の、神領の税務処理を担いながら、北信濃から流れ来る同族を、郎党に加えて、代官という足場を確立していたものと思われる。
しかし、諏訪系の高遠宗継の時代に、荘園の経営問題で、宗継と代官保科貞親が対立したが、これが南信濃のおける戦国化への先駆けとなる。その後、高遠宗継と保科貞親は和解したが、この次ぎに起こった、諏訪上社の大祝と惣領家の対立と争乱に、大祝側に味方して、巻き込まれる。大祝側には、下社金刺氏と高遠宗継が同盟し、宗継と同盟関係にあった松尾の小笠原家が、伊那の諸豪族を引き連れて援軍に駆けつけた。一方諏訪惣領家は、諏訪周辺の氏子の神党が支持し、相手に松尾小笠原が付いた対抗で、府中(松本)小笠原に支援を頼んだ。
この時の争乱で、藤沢保科家の貞親は、嫡子と次男を戦死させたことが書かれています。以後藤沢保科家は衰退の道を歩んだと思われる。

この藤沢保科家の貞親に養子に入ったのが、正秀と言われ、荒川易氏の次男易正の別名とされている。

・・・この養子相続の流れは、系図上の説明だが、保科易正が、下社金刺氏に援軍して、諏訪の内訌に関わったのではないか、と推論する。敗れた金刺氏は、武田信虎に保護を求めて甲斐に落ちる。金刺氏に同行したのは、易正の嫡子保科正則であった。・・・武田信虎の軍の中に、保科正則七騎あり、の痕跡を見るのはその為である。

その後、易正と正則は、安曇野の高家熊蔵に逃れ、易正兄の子の金太郎易次のもとに居候する。そして、北信濃から、村上一族に追われた保科惣領家と合流し、保科正利が、1506年に他界すると、易正は、保科惣領家の「正」を通字とする名前、正秀(正尚?)に改名して、兵力を整え直して、再び高遠に来て、保科惣領家の立場で、藤沢保科家を併呑したと言うのが推論である。

・・・この推論は、宗良親王の経済援助の実務の証拠は、「宗良親王が、藤沢谷の保科を頼った」と長谷の「宗良親王の領地図」が根拠だが、証拠としては薄い気もするが。
・・・保科易正、正則の推論の根拠も、「武田信虎の軍の中に、保科正則七騎あり」で、この七騎は、実名での記載でがあるがためで、これを根拠に推論に及んだ。

  


保科正則の研究 ・・3:藤沢・保科家の代官時代

2013-10-17 22:30:33 | 歴史

・・代官寺代

藤沢・保科家の代官時代


まず、北信濃の保科の系譜は、系流の存在自体は、守矢文書と敵村上の文書から証拠が担保されると見て良い。個々の系譜については、資料の存在が見えず、信頼性を欠く。
大槻頼重流の系譜は、個々の人名についての資料が見えず、別名を持っていなければ、この系流は極めて信頼を薄くしている。
また、藤沢の保科家親系流の保科家は、歴史に確実に存在している。つまり、別流である。
この両者に、血縁があるかどうかの証拠はないが、後に合流をしたところを見ると、血縁の関係の可能性はかなり高い。


藤沢保科家が、諏訪神党(諏訪神族)の証拠は幾つかある。守矢文書の検証・・
保科家親
・・1;藤沢庄、代官保科家親、御符礼両度三貫三百 1 1 拾貫、貫三百文、使一貫文、
 ;孫六、御教書三貫三百文、頭役 1 左頭、・・・信濃資料叢書 第 2 巻 - 24P
・・2;(応仁元年(1467)御射山条)〇右頭、藤沢庄、代官保科家親、御符礼両度三貫三百文、使; !競御頭役二十貫文、八ケ年二当候、御符入申候之御頭二一度モ不』相○死去仕之間、罰ト申候。
  ;(長禄三年(1459)御射山条)頭役二十貫文、彼神使頭ヲ訴訟申候、御射山御頭 ...伊藤冨雄著作集 - 第 4 巻 - 113P
・・3;代官保科家親、御苻礼兩度三貫三百文、使^ ^ ;御頭伎一一拾貫文、八^年-當候、洱苻入申候葳、(伊雜揶)一左頭、^ 1 ) 1 :尉,御苻禮三貫三百文、御鋅本一貫三百文、使一貫文
 ;孫六、御書三貫三百文,頭俣一一拾貫、・・・信濃史料 - 第 8 巻 - 37 P
・・・・・ 恐らく1;と3;は同一の事だろう。保科家親は応仁元年(1467)あたりに活動していたと判断できる。子息の次男が死去・死因は不明。
・・4;家親 7 二男二月中二死去。一、右頭、藤澤庄、代官保科家親、御符禮兩度三貫三百文、使^・・・竹内秀雄, ‎神道大系編纂会 諏訪 - 32P

・・・・孫六は小笠原信濃孫六、小笠原宗滿のことか。保科孫六ではなさそう。貞宗三男坂西刑部少輔の子とか、

保科貞親
なし


保科秀貞


5;保科秀貞御符觼一貫八百文皮、祌邇難針事候、彼家中《下宮殿姬 1 一 7 候、一、十一月廿二日、御精進,初、權祝禰宜例式、具志野胡桃澤・・・大日本史料 - 第 8 部第 2 巻 - 4 P
6;保科秀貞御符礼一貫八百文、皮、 ...信濃史料叢書- 第 7 巻 - 142 P
・・・伊那郡)一擬重宮付成、内県介小坂初当候、西牧大県介、知久本郷宮付、西枚大県介、保科惣領、正月所"江御符入部、西牧信濃守満忠代初御符礼一貫文、扇八百、皮、知久少弼俊範御符礼一貫文八百、皮、帋三束、
・・・内県介小坂大県介柏原享禄三年(1530);天文三年(1534):内県介大熊宮付西牧大県介=西牧信濃守満忠;


保科貞親と高遠宗継の争い


1;高遠継宗と保科貞親との間に溝が生じ、誠訪氏の説得に継宗が従わなかったため文明十四年(1482)六月、藤沢,保科と誠訪政満が連合し、高遠継宗は笠原氏,三枝氏とともに戦った。後には藤沢氏と保科氏が争い、藤沢氏は小笠原長朝と連合 ...戦国大名・武田氏の信濃支配 - 19P 笹本正治
 ;また同年六月には、高遠城主诹訪(高遠)継宗と保科貞親が対立し、大^诹訪継満,千野氏らが和睦の斡旋を行なったが不鍋に終わった。このため政満は、軍勢を^遗して継宗を支援し、藤沢氏の援助も得て保科氏を#破している。このように政満は、诹訪氏の惣領 ...戦国人名辞典 - 552 P
2;花別舘信濃千野某、保科貞親等、諏訪催宗ト兵ヲ構フ、諏訪政捕・千野某等ヲ援ケテ兵ヲ出シ同固笠原二俄ヒテ、楼宗ヲ破ル・守蚕文要是月、甘婁寺親長二、軽服肪秩ノ侍臣宿番二侯スルコトヲ諮ハセ給フ・・・史料綜覧
 ;五四 1 是月廿露寺親長- 1、輕服觸穢ノ侍臣,宿番-ー候スルコトヲ諮ハセ野某等ヲ拨ケテ兵ヲ出シ,同國笠原-1 戦ヒテ,繼宗ヲ破ベ五四〇信浪千野某,保科貞親等,詉訪繼宗ト兵ヲ構フ,〇诹訪政滿,千三十日慕府,山诚勸修寺佾常林一一,其所領ヲ安堵セシム.・・・東京帝國大學. 史料編纂掛 - 1482P
・・・・・廿露寺親長・甘露寺(藤原)親長と勸修寺が出てくる。この寺の荘園でもあったのだろうか。この戦いに関与していた事例か?・・社寺執奏としての勸修寺家の権威か

藤沢在の保科家が、諏訪大社と深い関わりがある事跡を幾つか確認出来たようである。それと、どうも高遠家の高遠継宗の時代以前から、つまり保科家親から保科家は代官家であり、どうも、高遠家の家臣とは違う系統でありそうだ。伝承としてあるのは、南北朝時代に、南朝の宗良親王の御領を、保科が代官として管理したという伝えがあり、南朝の宗良親王の御領は、古書の絵図として残っている。恐らく、鎌倉期や南北朝期に、北信濃から時折流れた保科家の傍流が、南朝を支持して、諏訪家と共に宗良親王を守ったのであろう。この部分は想像だが、意外と確信を持っている。つまり、南朝派の荘園管理が、継ぎに諏訪神領の荘園管理を兼ねたのだろう。親王庇護の実務を任した諏訪家と保科家は、南朝支持派以来の同盟関係である。この保科家は、従って当初は高遠家の家臣ではないし、高遠家の代官でもない。というか、高遠家に荘園があった事実も、代官がいた事実もない。


時が経ち、世には応仁の乱が起こり、暫くして文明の内訌が始まる。”力”のあるものが、周りと一族郎党を支配していいような空気が世に蔓延し始める。時を同じくして、子息の相続が、土地の分割相続を危うくしてくる。何人かの弟に、分割する土地が底を付いてきたのだ。もし分割相続すれば、領地は細分化され、直ぐに小豪族に成り下がる状況になってきたのだ。そこで、小豪族になって弱体化する一族の力を保持する方法として、嫡子相続の方法が、必然として生まれる。弟たちは、跡目を継いだ家長の家来になるか、出家するという方法。このルールが定着するまでは、弟たちは納得がいかない。ここに下克上とか、内訌とか呼ばれる争いが、日本各地で発生するようになる。周辺の弱体化した小豪族も配下にして、領地を拡大しようとする争いが起こってくる。この争乱の流れの初期を、内訌とか下克上と呼び、全体を戦国時代と、人は名付けた。


諏訪家と小笠原家の内訌は、この戦国時代の幕開けの時に起こった。諏訪家の内訌のきっかけは、高遠継宗による荘園の強奪の野望であろうと推測する。戦国大名の多くが、この荘園を奪いながら、巨大化の武装集団に変貌していく様は、なにも、高遠継宗のみではない、戦国の常であった。立ちはだかったには、諏訪家神領の代官の保科貞親であった。この時の両者の力関係は、片方は高遠家領地対諏訪神領で、経済基盤は大差が無く、支持勢力の性格を見ればこの流れが頷ける。継宗の戦国志向派と神領・荘園の保守派、諏訪神官派の戦いであった。この時は、戦いは保科貞親が勝利した。


継宗と貞親の戦いが、荘園を巡る戦いであることは、貞親側にいた”孫六”が京都の社寺執奏としての勸修寺家へ赴いて、甘露寺(藤原)親長と勸修寺に訴えていることから証明できそうだ。ちなみに、”孫六”は小笠原信濃孫六、小笠原宗滿のことで、松尾小笠原の小笠原貞宗の三男の坂西刑部少輔の子。松尾小笠原は、以後諏訪上社と同盟関係になっている。
しかし、暫くして保科貞親は、高遠継宗と和解する。この部分は、何故だか不明。以後、代官の名前は消え、保科貞親の名前も挙がらなくなる。・・・・・継宗・貞親の戦いをきっかけに、諏訪家内部では、血で血を洗う諏訪家の文明の内訌が始まる。諏訪神党の重要な構成員の藤沢・保科家は、当然この内訌の嵐に巻き込まれたに違いないが・・・詳細は定かではない。そして、高遠家の家臣・家老になった時期も定かではないが、満継の時代に家老になった模様である。


この満継の時代も一筋縄ではいきません。高遠満継も諏訪家の棟梁を狙って、自らを諏訪某と名乗っており、幾つも名前を持っていたようです。更に、諏訪の内訌の最後の頃とも重なります。恐らく思惑が綾をなして、複雑にしているのでは、と思っています。次回に、保科正則が高遠に登場する、『蕗原拾葉』の「高遠治乱記」に基づいて、書いてみます。


保科正則の研究 ・・2:保科正則の系譜

2013-10-15 18:32:46 | 歴史

・・2:正則の系譜

保科正則の系譜

ここで系譜について、次の参考の文書を掲載する。
次代の保科正則の系譜についても同様に混乱が多く見える。


A1;その父を正利とするもの
 ・・・・・光利-正知-正利-正則-正俊-正直-正光=正之-・・・・・・『高井郡誌』
 ・・・・・光利-正利-正則-正俊-正直-正光=正之-・・・・・・『蕗原拾葉』

A2;大槻流・
 ・・・・・実俊-正員-正倍=易正-正則-正俊-・・・・・

 正倍五郎左衛門正信?
*易正正倍嗣荒川易氏子神助

B1;    正秀とするもの
 ・・・・・家親-貞親-正秀-正則-正俊-正直-・・・『百家系図稿』巻6、保科系図
   **正秀は易正のことであり、別称を弾正左衛門、あるいは神助とよぶ。
     この者が荒川四郎神易氏の二男から保科の養子に入ったとする。

*なお、この荒川氏は三河の伊奈熊蔵忠次の家につながるという系譜所伝があって、易氏は忠次の六代の祖といわれる。・・六代の祖は五代の祖?とも
さらに、この部分に、幾つかの混乱が見られる。(正利と正俊の取り違い、正尚の混乱、正倍の倍の誤記・・・などが指摘されている)

この三説をを考査すると、Aは長野若穂保科の保科の地を本貫とした「保科家」の系譜の流れで、保科正利までは、若穂保科に在したことを示し、以後の系譜が、高遠・藤沢で活動するまでが期間が長く、短略的であるという欠点を持つ。『高遠郡誌』と『蕗原拾葉』の違いは正知の存在に関わる。大槻流の方は、資料に人名を確認出来ず、信頼性が乏しい。Bの方は、もともと別の系流で、高遠・藤沢周辺に在した高遠家代官の系譜であり、鎌倉期に若穂保科から高遠に分流した可能性はある。だが、貞親-正秀の継承の部分の不連続生が、欠点となる。

つまり、戦国期に活躍した保科家の嫡流に付ける名前の正統性を誇示する「正」という通字の、連続性の問題である。上記の二系譜の流れは、どう見ても保科正則の前で合流したとしか思えない。証拠になるかどうかは分からないが、会津保科・松平家は幕末まで、若穂保科の広徳寺(=保科家の菩提寺?)と諏訪大社神官の守矢家に、書状と供養料を送っていたと、聞いたことがある。

 

易正、保科家に関する項 小笠原家関係家系図・・・

以下原文・・・参考 諸説

保科範実正定子正継孫正村曾孫正時玄孫正通耳孫盛正昆孫盛親仍孫実正雲孫実重裔大槻頼重流
実保
実行
実俊
正員
  正倍五郎左衛門正信?
  易正正倍嗣荒川易氏子神助

長直矢井忠長子清長孫桑淵光長曾孫常田光平玄孫井上家季耳孫太郎
長時
光利太郎
正知弾正秀貞
正利正知子光利子?正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正筑前仕高遠頼継
  正俊15091593正則子弾正筑前「槍弾正」
  正直15421601正俊子弾正
  正光15611631正直子工藤祐元子?甚四郎肥後
正貞15881661正光嗣正直子甚四郎弾正
正英16111678正貞嗣小出吉英子
  正景16161700正貞子甚四郎弾正越前
正賢16651714正景子喜三郎正祥兵部

--会津藩家老家・西郷家の系流--
正重正直子正光養子勒負民部
  正勝正俊子隼人三河
  正近正勝子民部仕保科正之
正長正近子十郎右衛門
正興正長子近房嗣九十郎十郎左衛門民部
近房16371703正長嗣西郷元次子吉十郎保科頼母

・・・*人名の後ろの数字は生年と没年を表す。
--保科正則の子息正俊以外の系流--
正保正則子
正賢
正辰
正具

正信正則子?豊後仕上杉輝虎
正富正信子佐左衛門
盛信正富嗣正信子吉内主馬貞通有通
光有有澄(竹俣義秀)嗣白井景泰子長尾景盛保科十兵衛

--保科正利の正則以外の系流--
正長正利子左近仕村上顕国

--藤沢・保科代官家の系流--
家親
貞親筑前
正秀貞親子

守矢文書からの抜粋・・・
長光文明頃
長経桑井
光輝
信光

勝重小左衛門溝口(ママ市)左衛門

・・・なお、江戸幕府が各藩から家系図を提出させて作成したと言われる寛政重修諸家譜(寛政譜)というものがある。だがこれは、各藩の事情に依拠したところがあり、都合で削ったり誇張したり、あるいは作成したりして、信頼性が乏しく、B級資料として取り扱われる。保科家も例に漏れず、正則以前の乱流を整理し削除した上で提出したようである。赤羽記によれば、保科正俊の代に、乱流を整理したとの記述があり、正則以前が削られてない。


保科正則の研究 ・・序章

2013-10-14 22:25:30 | 歴史

 ・序章

保科正則は、謎の多い人物であります。と言うよりは、正則の父と言われる人物が、諸説有り確認されておらず、従って正則の幼年と晩年に資料が乏しく不明となっております。ようやく、壮年の頃に、歴史上に登場し、この時に戦国期と江戸時代を生き抜いた名門「保科家」の基盤を創ったことだけが確認されております。

・・・保科正則-保科正利-保科正直-保科正光=保科正之・・<会津松平藩>・・松平容保・・                                              |-飯野保科藩・・・・・

保科家系譜の中で、保科正則以前・・が謎に包まれています。また、保科正之は、徳川三代将軍の家光の弟で、経緯があり保科家の養子(・=)になり、やがて会津松平家の祖になりました。以後正之は、将軍家光を補佐し、四代将軍の家綱を後見しました。この幕政参画の時の政策は、後世から極めて高い評価を受けています。会津藩は三代目の時、親藩筆頭の家柄から親藩の証の苗字、松平に変更されます。この時に、名門「保科」の名前と血筋が途絶えることを惜しんで、保科正直と家康の妹多劫姫の間に出来た子の保科正貞をして、飯野保科藩を作り、初代藩主に据えます。保科家は、こうして継承されます。

・・・多劫姫・タケヒメ、と読むのだそうです。飯野保科藩・千葉県富津市に確認出来ます。

次回からは、保科正則に的を絞って、見ていこうと思います。

 


伊奈忠次(関東代官頭)の伊奈の由来!?・・・

2013-10-10 10:38:21 | 歴史

伊奈忠次(関東代官頭)の祖先が、どこにいたか?・・・

伊奈忠次の祖先・・五代前(六代前の説もある)荒川易氏と長男易次・次男易正が、信濃国のどこにいたか、かってこのブログで推論を書いたことがある。

・・・荒川易氏が信濃に来た経緯・・引用・たぶん吾妻鏡からだと思うが・・・

・荒川易氏のとき、将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、易氏の孫易次の代に伊奈熊蔵と号した。易次は叔父の易正との所領争いに敗れて居城を奪われたため三河国に移り松平家の家臣となった。その子忠基は松平広忠・徳川家康に仕えて小島城を居城とした。
易氏は太郎市易次を伊奈郡熊蔵の里に、次男易正を保科の里に住まわせた。太郎市易次没後は、子金太郎が幼少のため、叔父易正が後見人として管理、金太郎易次が成人後も返却しないため、金太郎易次は抗争を避けて祖先の地の三河で浪人、伊奈熊蔵易次と称した・

この文章の、次男易正が保科の里に・・の方は、想定できたが、長男易次の熊蔵の里の方はどこなのか、一向に想像がつかなかった。無理矢理に”熊城”とか”神稲 ”に読み替えて、想定してみたが、しっくり納得のいくものでは無かった。

そもそも、このブログ自体、家康から信頼を受けた、「治水のテクノラート」官僚の、関東郡代頭伊奈熊蔵忠次の伊奈家と、三代将軍家光の弟で、将軍を補佐しながら、数々の秀逸の政策を実行した保科正之の保科家が、五代前ぐらいで繋がっていたとなるとかなり興味深いと思って、始めた訳である。
そして、保科正直を調べ、その前の保科正俊・槍弾正・を調べれば、手がかりが掴めるのではと思ってみたが、正俊のところで、乱れた保科の乱流を整理した、とあるように、手がかりが掴めずに頓挫している最中であった。

数日前、結城陣番帳を、何となく読んでいる時に発見した。
以下、結城陣番帳・・・

 

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・・・結城合戦とは、永享九年(1437)、関東管領上杉憲実と鎌倉公方足利持氏の対立と戦いのことで、対立から上杉憲実は領国の上野に引き上げ、持氏は憲実征伐の軍を発したため、永享の乱が起こった。幕府は上杉関東管領を支援して、持氏公方側は敗退した。これには遺恨が残り、公方側は結城城に集結して幕府反旗を顕し、幕府側は憲実の弟、上杉清方を主将にし、援軍の大将に小笠原政康をあて、小笠原信濃軍を三十組に組織して矢倉の番と結城城包囲を行った。・・・この三十組の区分けを結城陣番帳という。
この三十組は、大身は単独で、小身は複数で組みをなして、一組百騎の三十組、三千騎余りの軍勢であったという。

参考・・・・・

騎と雑兵                                               

通常、騎は馬に乗れるぐらいの武将の事で、豪族には何騎かの武将が付いていた。
戦があると、豪族は、例えば五騎の家臣を連れて、戦場に赴いた。このとき、戦
場で ひと旗揚げようとする者が付随していく場合が多く、これを雑兵とよんだ。
雑兵は一騎に対して十人前後が普通であったが、利のなさそうな戦いには激減し
てしまい、人数の決まりはない。また雑兵は略奪目的の強盗団まがいもいたらしい。

領主と家臣の数の関係                                      

戦国時代、領主は家臣に縁を与えるという、生活保障の義務がある。従って、経済
規模により 、家臣数は限られてくる。通常は、一万石領主は二百五〇人の家臣を持
つ経済的余力があると言われる。例えば、千石領主は小豪族で、家臣数は二十五人
となるわけである。戦国時代の騎と家臣は、ほぼ等しい相関関係がありそうだが、
契約上の決まりでもなく、目安として 規模を想定できる。


これを見て分かることは、誰が大身で誰が小豪族かと、グループの繋がりの意味である。諏訪神党も、南朝に与したものと離れたもの、小笠原も、松尾小笠原を総大将にして、松本組、大井組に分かれ、あとは地域分類である。現在の地区名を冠らない小豪族は、まことに興味深い。

さて、注目したいのは、”十八番”と”二十八番”であります。両番とも、近在の地域の括りのようであるが、断定できるほど古地名への知識は豊かではないのですが。

十八番 永田殿・・用は田の誤記か、二木殿、竹田殿、熊蔵殿、西牧殿・・坂は牧の誤記か・・。
・・調べると、筑摩郡山形村の中に、大池、小坂、竹田とあります。また、南安曇野郡三郷村の住吉は、昔近府春近荘という院御領であり、二木という豪族が居たと言います。 また安曇郡西牧の地には二木同族の西牧氏がおり、また松本の島立付近に永田があります。高家熊倉は豊科の、梓川と犀川が合流する辺りです。・・この地区は、かって近府春近荘園と呼ばれていた時代もありました。戦国時代から以前は、この地は松本(=府中)小笠原家と木曽家と仁科(大町)家に隣接する緩衝地帯でありました。この中の二木殿は、赤沢、平瀬とともに、松本小笠原家の重臣で、後の世に家伝古書を残しています。

・・・・・場所は、今の松本や、塩尻に隣接する地域で、北アルプスの入口に当たるところです。

このグループに熊蔵の名前が登場しています。蔵と倉で若干違いますが、歳月が過ぎて、ほぼ同じ意味の字なので、倉に変わったのでしょう。高家熊倉という、いかにも荘官を意味しそうな地名と豪族です。


二十八番 保科殿、寺尾殿、西条殿、同名越前守殿は
寺尾殿は松代町東寺尾、西条殿は松代町西条、・・西条越前守は同場所、保科は長野市若穂保科で疑問のないところ・・・

・・・・・場所は、今の松代を中心にして長野方面に渡る地域です。

足利義尚が第9代将軍だった期間は(1473-1489年)で、終年の方では間に合わない。義尚将軍が中盤までに、荒川易氏は信濃に来たことになる。その立場も、諏訪神党や小笠原の有力家臣団との婚姻が結べるぐらいのものとなると、身分や地位は自ずと限定されてくる。足利幕府の荘園管理の荘官という立場は、これらの条件にかなうもとと推察される。
荒川易氏が将軍足利義尚に、信濃で領土を貰うとすれば、足利家管理の荘園が一番理屈に合いそうです。そしてこの地を拠点とすれば、自分の子の養子先を目の届く小豪族のもとにと考えるのも納得です。

こうして、伊奈熊蔵忠次の五代前の祖の荒川易氏は、子息二人を、地方豪族に養子に出すことになります。

長男は、荒川易次と言いました。古書に従えば、養子の先は、熊蔵の里です。熊蔵は豪族名でもあり、高家熊倉という土地名でもありました。だが、熊蔵家は歴史に露出が少なく、ほぼ謎に近い存在です。逆に辿れば、若穂保科の「保科家」同等ぐらいの小豪族ともいえるが、想像するしかない。

次男は、荒川易正と言いました。保科家は、長野の若穂保科と伊那の高遠近辺に存在しますが、この文明の頃には高遠地区にも、保科は若干散在していて、高遠家の代官をしていた保科家がありました。従って、次男が行った養子先は、長野近在の若穂保科とするか、高遠保科家とするか、判定に苦しむところとなります。・・・高遠家代官の保科筑前守貞親、高遠家と荘園経営で対立と争乱。・・・そして、易正が養子にいった保科家では困難が直ぐに襲ってきます。
若穂保科と余りと遠くない坂城という場所に、信濃四大将の一つ、村上一族が拠点にしていて膨張をしていました。境界を脅かされていた保科は、ついに保科の里を追われます。
保科正利が村上氏に敗れて伊那へ逃れ高遠に仕えたのではないかともいわれるが、具体的に伊那郡と高井郡との繋がりも判明していない。この移転説では、保科正利が、長享年間(1487~89)に村上顕国の侵攻により高井郡から分領の伊那郡高遠に走った、とされています。

保科家の、若穂保科から高遠までの間は、保科家に混乱が起こったようです。若穂保科を追われたのが長享年間(1488)で、高遠で保科の名を歴史書に確認できるのが永正年間(-1521)、
正利の子の保科正則の名前での小豪族の活動を確認できます。この約30年間が、謎に包まれています。若穂保科から追われて以来の、保科正利の名前は歴史から消えます。村上戦で戦死したのか、その後に死んだのか定かではありませんが、既に死亡していると思われます。

・・・・・「保科正利、没年1506年。」・・を発見していますが、出典を確認出来ておりません。ただ、歴史的背景からの状況は、この頃を指しています。正しいのではないか、と思います。

この、謎の30年間の間だと思われる出来事を記述します。保科正利のことではありません。養子にいった保科易正のことです。前述していますが、もう一度引用します。
・・・太郎市易次没後は、子金太郎が幼少のため、叔父易正が後見人として管理、金太郎易次が成人後も返却しないため、金太郎易次は抗争を避けて祖先の地の三河で浪人、伊奈熊蔵易次と称した・・・

保科易正は、保科の残党を引き連れて、熊蔵家に居候します。表面上は、兄熊蔵易次の幼少の嫡子金太郎の後見役としてです。数年経って、金太郎が元服しても、一族郎党を引き連れているため、熊蔵家を離れれば、浪々の身となるだけで悲惨な運命が待ち受けます。それで、金太郎易次の方が熊蔵家を離れることになります。熊蔵家が歴史的に再登場しないところを見ると、易正の主導で、熊蔵家の一族郎党が保科家に同化された可能性が浮かんできます。ここには保科正利の影が完全に消えて、保科正則が浮かび上がってきます。保科正則は、一体誰の子なのでしょうか。正利の子と易正の子の両方が、可能性としてありそうです。
荒川易氏の子息の兄弟が養子に出た時を、通常の婿養子と考えるなら、成人になってからで、年代と時代の辻褄は合いそうです。保科正則を易正の子供とした方が、年齢から見ると合理的で整合性があります。正則を保科正利の子として、若穂保科を正利と正則が一緒に脱出したとすれば、生年120歳を越えてしまいます。そのように記述してある歴史書は、一体何なんでしょうか。相変わらす、この部分の疑問は残ったままです。

以上のことを前提として、逆に荒川易氏が、信濃のどの辺りに赴任したかは、ある程度地域が限定できそうです。保科家や熊蔵家と意思疎通の関係が可能な地域で、仲介があるとすれば諏訪神党か小笠原家ということになり、立場はやはり、荘園の荘官あたりが、妥当と思われます。先述した、伊那と近府の春近荘園か、豊丘村にも荘園があったようで、この辺りかと思います。荒川家の末裔が伊那に拘って苗字を変えたところを見ると、伊那の荘園の方が・・・とも思います。

以上が、結城陣番帳をたまたま読み、熊蔵という豪族を発見して、以前に不明だったところを組み替えて、書き直したものです。

保科正俊は、隠居した晩年に、大日方家に入り浸っていたようです。正俊の娘の嫁入り先でもあるから、とも思っていたが、孫の正光に嫡子ができない時、まだ家光の弟の正之を養子に迎える前に、この大日向より”小源太”を跡目相続予定で養子に迎えています。かなりこだわりを感じます。・・・その時は何故なのだろうと思っていましたが、大日向の生坂村は、高家熊倉より、犀川を下って、直ぐそこです。・・・・・深読みでしょうが、気になります。

・・・未完