探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

大井氏 ・・様々なる小笠原支流

2014-03-31 22:40:59 | 歴史

    様々なる小笠原支流

  大井氏  ・・様々なる小笠原支流

 

*江戸の学者・平賀源内が大井一族であるなら、        

                 源内もまた小笠原一族であるか?

 

大井氏
松皮菱
(清和源氏小笠原氏流)

以下、「戦国 武家家伝大井氏」からの引用による ・・・

『大井氏は清和源氏小笠原氏の一族で、信濃国佐久郡大井郷を名字の地とする。すなわち、小笠原長清の七男朝光が大井庄の地頭となり、岩村田を本拠にし大井氏を称するようになったという。大井氏の系図については、『小県郡史』『尊卑分脈』『系図纂要』『群書類従』など、各本伝わっているがいずれも史料に照らして正しいものはない。
 大井氏の祖とされる朝光は、承久三年(1221)五月の「承久の乱」に幕府軍に従って、小笠原長清父子らと甲斐・信濃の軍勢五万を率いて東山道より上洛し、宇治川の合戦で功を挙げ、戦後、その功により大井庄を賜ったという。朝光の子光長は、鎌倉幕府四代将軍藤原頼経、五代藤原頼嗣、六代宗尊親王の三代に仕えた。七人の男子があり、嫡子時光は大室に、二男光泰は長土呂に住し、四男の行氏は耳取、五男宗光は森山、六男光盛は平原に住し、七男の光信は僧になり、大井法華堂を開基したと伝える。そして、大井氏の家督は三男の行光が継いだ。・・行光のとき、同じ佐久郡内伴野荘の地頭で小笠原家惣領職にあった伴野氏が「霜月の乱」によって一族誅滅にあうということが起こり、以後、佐久郡は大井一族が繁栄することになった。

南北朝内乱期の大井氏
伴野氏が没落すると、小笠原惣領職は京都小笠原氏の長氏に移った。元弘の乱に際して、長氏の子宗長、その子貞宗らは、はじめ幕府軍に加わっていたが、後醍醐天皇方に寝返った足利尊氏の書状によって天皇方に加わった。建武二年(1334)信濃の諏訪氏を中心とする神氏一党が北条高時の遺児時行を擁し、鎌倉に攻め上った。いわゆる「中先代の乱」が起きると、小笠原貞宗は後醍醐天皇から信濃守護に任ぜられ、信濃国内の北条与党の討伐を命じられた。・・北条時行から鎌倉を奪回した足利尊氏は、天皇からの帰京命令に応じずそのまま鎌倉にとどまり、信濃守護の小笠原貞宗に勲功の賞として住吉荘など三ケ所を与えた。このような尊氏の態度に対し、後醍醐天皇は足利尊氏討伐を決定し、新田義貞を大将に命じて東海・東山両道から大軍を発した。小笠原貞宗・信濃惣大将村上信貞らは尊氏方となって、信濃武士を率いて東山道軍を佐久郡大井荘大井城に迎え撃った。当時の大井荘の地頭は行光の子朝行で、同じ小笠原一族という関係からも信濃守護小笠原貞宗に従い、貞宗からもっとも信頼されていた。のちに、朝行の甥にあたる大井甲斐守光長が貞宗の子政長の守護代を勤めており、両者が固い結合をもっていたことがうかがわれる。
 さて、官軍に包囲された大井城は、一万余騎の敵を迎え撃ちよく戦った。足利直義の檄文を受けた小笠原貞宗・村上信貞らも兵をあわせて大井城を救援した。両軍、激しい戦いを展開したが大井城は落城した。大井城を落とした東山道軍は関東平野に出て、新田義貞の東海道軍と呼応して鎌倉へ攻め込もうとした。しかし、義貞軍は箱根竹ノ下の戦いに大敗して総崩れとなり京都に退却してしまった。尊氏軍は義貞軍を追って京都に攻め上り京都を占領した。これに対して後醍醐方の陸奥鎮守府の北畠顕家が攻め上って尊氏軍と戦い、尊氏を京都から追い落とした。敗れた尊氏は九州に落ち、九州南朝方の雄菊池軍と多々良浜に戦い、辛うじてこれを破って戦備を整え直した。そして、九州・四国・中国をその勢力下におさめ、ふたたび京都に兵を進めたのである。
 上洛する尊氏軍は、五月、迎え撃つ新田義貞・楠木正成の軍を兵庫に戦って、摂津湊川に正成を討ち取り義貞を敗走させた。この敗戦により、後醍醐天皇は京都を捨て、比叡山に逃れたが尊氏に降伏、ついには吉野に落ちていった。一方、尊氏は光巌天皇をたてて北朝を樹立し幕府をひらいた。以後、日本全土に南北朝の内乱が続くことになる。この間、大井城合戦に敗れた大井朝行は大井城の復旧をしながら、小笠原貞宗に属して、信濃国内の北条残党の討滅戦に参加していたようだ。
 その後、信濃には後醍醐天皇の皇子宗良親王が入部し、滋野一族らの支援によって宮方勢力の地盤を築いていた。一方、大井氏が割拠する佐久地方は、大井氏が武家方としてその勢力を保っていた。正平二十四年(1369)十月、信濃守護上杉朝房は鎌倉公方足利氏満の命を受けて、信濃に進発、宗良親王の籠る大河原城を攻めた。戦いそのものは目立った戦はなかったが、この行動によって、信濃では南朝方の組織的な反抗はやみ、文中三年(1374)親王も吉野に帰っていった。

信濃守護代大井氏
その後、大井氏は光長が惣領となったようで、大井光長は信濃守護小笠原政長の守護代をつとめ、正平五年(1350)信濃国太田荘大倉郷の地頭職について、金沢称名寺と島津宗久跡代官との争いをやめさせ、称名寺の地頭職をまっとうさせるよう足利直義から厳命を受けている。・・光長の子光矩も、小笠原一門として重きをなしていた。応永六年(1399)信濃守護に任ぜられた小笠原長秀は大井光矩を伴って佐久に着き、光矩と信濃支配について相談した。そして、大井氏の館で旅装を整えた長秀は都風に美々しい行列をつくって善光寺に入り信濃統治をはじめた。しかし、国人たちは長秀の統治を承服せず、村上氏らを中心とする国人勢力と小笠原勢は次第に対立を深め、ついに応永七年(1400)九月、両者は川中島篠ノ井付近で大合戦におよんだ。いわゆる「大塔合戦」である。・・合戦は国人方の優勢で、小笠原軍はついに敗れて大塔古要害に逃げ込んだ。光矩は守護小笠原氏の一門として微妙な立場に立たされ、中立を保って途中まで事態を静観していたが、小笠原長秀に危険が迫ると両者の間を調停した。これによって、長秀はかろうじて京都に逃げ帰ることができた。しかし、責任をとらされて信濃守護職を罷免されたことはいうまでもない。
 光矩のあとをうけたのが持光で、持光は芦田城の芦田下野守と争った。芦田氏は足利幕府の奉行人となり、評定衆に登用された者もあった。そして、南北朝争乱に際して依田川東岸に勢力を拡大して芦田方面に進出、芦田城を築いて芦田氏を名乗った。その結果、川西地方に勢力を拡大していた大井氏と衝突することになったのである。・・持氏の謀叛は不発に終わったため、永享八年二月、幕府は政康に芦田征伐を命じた。政康は軍を発して千曲川を越え、小県郡祢津を攻め、別府・芝生田・南城を攻め落とした。ここに祢津・海野氏らは降伏し孤立した芦田氏も守護軍に降った。以後、依田氏は戦国時代に至るまで、大井氏の家臣となり執事職をつとめた。かくして大井氏は依田長窪に進出して長窪城を築いて依田支配の拠点とし、大井氏の勢力は佐久郡内に大きく伸張した。

鎌倉公方家の滅亡
文安三年(1446)の『諏訪大社上社文書』に「此年丙寅佐久平賀乱あり」とある。佐久平賀乱とは、文安三年、平賀氏と大井氏が戦い敗れた平賀氏が滅亡したことをいい、平賀郷は大井氏が支配するところとなった。さらに大井氏は、小諸氏領も支配下におさめるなど、佐久地方における大井氏の所領は飛躍的に拡大した。・・大井氏の全盛時代は大井持光のときであり、持光時代の所領は六万貫といわれ、伴野氏・望月氏等の超地を除く佐久郡のほとんどと小県郡の依田窪上城を支配し、上州・武州にも所領を有し京都参勤には一千騎を率いたといわれている。・・永享十年(1438)永享の乱が起こり、幕府群の攻撃を受けた鎌倉公方足利持氏は降伏したが許されず、翌年、自害して果て鎌倉府は滅亡した。このとき、足利持氏の遺児三人は鎌倉を脱出し、春王と安王は宇都宮に、永寿王は乳母に抱かれて岩村田の持光を頼ってきた。永享十二年、下総結城城主の結城氏朝が春王と安王を擁して幕府に対して兵を挙げた。これに岩村田の持光も応じ、かくまっていた永寿王を結城城に送りとどけた。・・幕府は上杉清方を総大将とする結城城攻略軍を発したため、持光は結城氏朝に応じるため碓氷峠を越えようとしたが、上杉勢によってさまたげられ果たせなかった。翌嘉吉元年(1441)結城城は陥落し、春王と安王は捕らえられ京都に送られる途中の美濃国で殺害された。永寿王丸は「足利系図」に「成氏、結城没落の時六歳、永寿王と号す。越前守持光信濃国にかくす」と記されているように、大井持光は永寿王を扶育しのちに永寿王は成氏を名乗って鎌倉公方家を再興したが、その実現には持氏の力が大きく寄与していたといえよう。・・持光のあとは刑部少輔政光が継承し、鎌倉公方成氏を支援して関東に出陣したり諏訪信満とともに甲斐へ侵攻するなど、大井氏の武威をあらわした。・・大井氏は、文明元年四月、九月と二度にわたって甲州に乱入し、文明四年五月には信州大井殿が甲州花鳥山に侵入して武田勢と戦い、九月には信州勢が塩山向嶽庵を焼いたことが、『妙法寺記』などに記されている。これに対して甲州勢は、文明九年四月、信州に攻め入ったが、「アイキ中シウに討たれ」「同五月中シウ黒石にて討死」などとある。これらの記録から、大井氏らの信州勢が甲州武田氏と再々戦って、勝利をおさめたことは疑いない。

大井氏の盛衰
享徳三年(1454)、鎌倉公方成氏は幕府寄りの管領上杉憲忠と対立してこれを討ち取ってしまった。「享徳の乱」の勃発であり、幕府は関東に乱を起こす者として成氏追討を命じた。以後、関東は公方方と管領上杉方の二派に分かれて大乱となった。・・政光は成氏を支援し関東に出陣したが、幕府に命じられた今川上総介が鎌倉を攻め落とし、成氏は下総古河に逃れた。以語、成氏は後古河公方と称され、上杉-幕府軍との対立姿勢を強めたため、関東の戦乱は止むことなく続いた。大井政光にとって成氏が古河への敗走したことは強力な後楯を失うことになり、関東の所領を維持することが困難となった。さらに、文明年間(1469~86)に甲州へ兵を出したことで大井氏の勢力にも翳りが見えるようになった。・・
 文明十年(1478)持光のあとを継いだ政朝は、岩村田城主となって初めて諏訪上社の御射山頭役を請けた。このとき、伴野氏の代官鷲野伊豆入道が、同頭役の右頭を請けている。翌十一年七月、大井・伴野両氏は諏訪上社御射山祭の左頭・右頭として頭役を勤めた。その一ヶ月後の八月、大井・伴野両氏は大合戦をして、大井政朝は伴野方の生捕となり、大井氏の執事相木氏は討死をするという大敗北を喫した。・・生捕となった大井政朝は佐久郡から連れ出されたが、和議が成立して政朝は岩村田に帰ることができた。この合戦において、伴野氏方には大井氏からたびたび侵略を受けていた甲斐の武田氏が、大井氏への報復として加担していたようだ。政朝は失意のうちに文明十五年(1483)若くして死去した。跡は弟の安房丸が継いで大井城主となった。・・この代替わりを狙って、坂城の村上政清が大挙して大井城を襲撃した。大井氏はすでにこれを撃退する力はなかった。そして、大井城は落城「城主没落にあいぬ」「この節大井殿は小諸へお越し候え在城なされ蹌踉」とある。かくして、大井朝光が大井城に居住してからおよそ二百六十余年、城は落ち、再びたたなかったと記録に残されている。ここに、大井宗家は滅びたが、岩尾・耳取・芦田・相木など、各地に居住する一門・家臣の所領はそのまま存続して、大井城主には、甲斐武田流の永窪大井氏の大井玄慶が入って継ぐこととなった。

戦国時代の大井氏
戦国時代の大井氏のなかでは、玄信が知られている。平賀城に居城していたことから、大井玄信というよりは平賀玄信の名で知られる。・・天文十五(1536)年十二月、甲斐の武田信虎は、平賀玄信(源心とも)の守る海ノ口城に来攻してきた。玄信は城を固く守って、甲斐勢を寄せつけなかった。攻防は一ヶ月になろうとし、信虎はひとまず甲府へひきあげることにした。このとき、信虎の嫡子で初陣の晴信(のちの信玄)は、殿軍を務めたいと信虎に申し出てその許しを得た。・・一方、武田軍が兵を引く様子を見た玄信は、兵を帰し、わずかに残った配下と酒を酌み合して武田氏との攻防戦の疲れを癒さんとしていた。まさに油断をしていた海ノ口城へ、晴信が二百名の兵を率いて襲撃してきたのである。玄信は七十人力といわれる剛の者であったが、不意をつかれたうえに守備兵も少なくついに討死した。後年、信玄その玄信の武勇を感じ、大門峠に石地蔵を建立し其霊を祀る」と「寛政重修諸家譜」にある。・・その後、玄信の孫政継は信濃国耳取城を攻め取り、そのあたりを知行していたため耳取大井氏とよばれていたらしい。その後を継いだのが政成で、武田信玄・勝頼に仕えたが、武田氏滅亡のとき、家康に降り、葦田(依田)信蕃の手に属して大井の惣領職および本領信濃国佐久郡耳取の地三千貫文を安堵されている。関ヶ原の合戦には東軍に属し、信濃の道案内として秀忠軍に属したが病気となり、代わりに子の政吉がその任を務めた。政吉は徳川忠長に属し、本領として信濃国佐久郡の内を与えられている。
 また、系図上で玄信の兄弟としてみえる岩村田城主貞隆が信玄に仕え、弟の貞清は勝頼に属して長篠の戦で戦死したことが知られている。』

武田信玄に滅ぼされた平賀玄信(源心)の一族が西国へ逃れ、その子孫が源内と名乗り、江戸の出て学者になったという。各方面に、博学鬼才で、名を成した”平賀源内”である。
この系流の真偽は明らかではないが、そうだとすれば、平賀源内もまた、小笠原一族である。


伴野氏 ・・様々なる小笠原支流

2014-03-31 21:50:50 | 歴史

    様々なる小笠原支流

  伴野氏  ・・様々なる小笠原支流

 

伴野氏
松皮菱
(清和源氏小笠原氏流)

以下、「戦国 武家家伝伴野氏」からの引用による ・・・

『中世、信濃国佐久一帯に勢力を張った。小笠原長清の六男時長が佐久郡伴野荘の地頭として入り、地名に因んで伴野氏を称したことに始まるという。伴野氏の系図は『尊卑分脈』『信濃国伴野氏家系』など各種伝わっているが、それぞれ異同があり、必ずしも明確ではない。

霜月騒動で挫折
弘安八年(1285)十一月、鎌倉幕府に一大クーデターがおきた。幕府執権の時宗死去後、十四歳でその後を継いだ執権貞時を擁して、北条氏御内人の筆頭・平頼綱が、御家人の最有力者かつ貞時の外祖父の安達泰盛・宗景父子を急襲し、安達一門と与党の御家人たちをことごとく滅ぼしてしまった。・・・「霜月騒動」。
霜月騒動に安達氏与党として討滅されたものは、安達氏一族、分流大曽祢一族、泰盛の母の実家、小笠原流伴野長泰一族、三浦前司・足利三郎・南部孫二郎ら守護クラスを含む有力御家人で、その自殺者は五十人を越え、事件は全国各地におよんで、泰盛派の有力御家人も五百人以上に討伐された。さらに、評定衆の宇都宮景綱、長井時秀父子らも失脚した。霜月騒動は、鎌倉後期の幕府政治史上のもっとも重大な事件であった。・・この騒動で小笠原氏の惣領、佐久伴野荘の伴野長泰は、弟の泰直、嫡子盛時、二男長直ら父子・兄弟四人が殺された。まさに一族誅滅にあった。騒動後、佐久伴野荘の所領は没収され、北条氏一族の所領となった。伴野氏一族は、他国に去り、あるいは在地に潜んで、復活の機会をうかがうこととなった。伴野氏の没落後の小笠原惣領職は、京都小笠原氏系の長氏に。長氏の孫貞宗は南北朝期に信濃守護となって活動し、その子孫は信濃小笠原氏として繁栄した。
このとき、長泰の子泰房は、安達氏の旧領三河国小野田荘に逃れて、住んで三河小笠原氏の祖になった。泰行の子長房は在地に潜んで、出羽弥三郎と称して、父祖伝来の伴野荘地頭職奪還の機会をうかがった。

復活と勢力伸張

 その機会は元弘三年(1333)、後醍醐天皇による鎌倉幕府の滅亡というかたちで訪れた。建武新政から南北朝期において、伴野弥三郎長房は京都大徳寺と伴野荘地頭職をめぐって争った。すなわち、伴野長房は京都大徳寺の伴野荘地頭職を乱妨して、しばしば大徳寺から訴えられている。そして長房は足利尊氏の執事高師直にはやくから接近して、在地に代官をおいて、長房自身は師直軍に属して京都方面で活動していたようだ。
 延元四年(1339)八月十六日、後醍醐天皇が亡くなった。すでに天皇と袂を分かち、北朝方天皇を擁立していた足利尊氏はさすがに哀悼恐懼して天皇の恩徳を謝し、その怨霊を鎮めるため京都に天竜寺を造営すると、興国六年(1345)天竜寺落慶供養の儀を執り行った。
 この盛儀の先陣随兵のなかに小笠原政長、後陣随兵のなかに伴野出羽前司長房がいた。室町幕府を支える有力部将のなかに小笠原惣領信濃守政長とともに、伴野出羽前司長房が列していることは、当時に室町幕府内における伴野長房の地位をうかがわせるに十分なものである。
 その後、尊氏と弟の直義の間に、高師直兄弟がからんで幕府内に深刻な対立が起こり、ついに尊氏と直義の兄弟が生死をかかえて争う「観応の擾乱」がはじまった。正平四年(1349)八月、高師直兄弟は直義を討とうとして京都に入った。この師直軍のなかに信濃守護小笠原政長、伴野長房らが加わっていた。対して、直義は南朝方と結ぶなどして擾乱が続いたが、直義は尊氏に降参し、正平七年正月、尊氏とともに鎌倉に入り急死した。一説、兄尊氏によって毒殺されたともいわれる。  伴野長房は南北朝内乱のなかで一貫して尊氏方に属し、高師直と結んで次第にその力を伸ばして、伴野荘の地頭職を掌握するに至ったようだ。そのことは、足利尊氏が長房にあてた「御判御教書」の写からもうかがうことができる。正平八年(1353)、旧直義党が南朝軍と合して六月京都に攻め込んだ。この時、尊氏はまだ鎌倉にあり京都は義詮が守っていた。この戦いに義詮は京都神楽岡に陣をとり、伴野長房は義詮に属して戦い討死、敗れた足利勢は近江に退いた。


伴野氏、二系に分かれる
 長房の討死後の長房系伴野氏の動向については明らかではないが、長房が戦死してから三十九年後の元中九年(1392)八月、将軍足利義満の相国寺落慶供養にの先陣随兵に伴野次郎長信の名が見出せる。この伴野長信を若狭守護代小笠原長房とする説もあるが、おそらく長房の子にあたる人物とであろうかと考えられる。
 ついで、相国寺落慶供養から七十三年後の寛正六年(1465)、信州伴野弥四郎貞棟が将軍足利義政に上総介受領を願いで出て、受け付けられて、同人から礼物が差し出されたことが、室町幕府政所代蜷川親元の『蜷川日記』に記されている。この貞棟こそ長房の系統を継いだ者と思われ、伴野氏の嫡流は在京して奉公衆を務めていた。一方、伴野荘の在地における伴野氏の活動をみると、伴野上総介貞棟と同時代に、前山城主伴野光利がいたことが知られている。
 前山城は伴野時長の子長朝が築き、数代続いて時長十代の孫伴野光利が相続し、子孫相続して戦国時代に至ったことが『洞源山貞祥寺開基之由」に記されている。そして、前山城主伴野氏は時直─長泰系とは別で、時直の弟で佐久郡跡部に住した跡部長朝系ということになる。これによれば、室町時代には伴野荘に、長房系と跡部長朝系の二人の領主が存在していたことになる。
 文明三年(1471)信州国人伴野上総介貞棟が将軍足利義政に太刀一腰・銭十貫文を贈っているが、これは上総介推挙に関する謝礼であろう。また貞棟は松原神社に寄進をしており、十五世紀中期において伴野荘に勢力を持っていた人物であることは疑いない。そして、この貞棟と同時代に伴野荘に存在した前山城主光利との関係の位置付けが困難となっている。先述のように光利は跡部長朝系と思われ、伴野長泰・長房系の貞棟とは系統の異なる伴野氏であった。室町時代の伴野荘には、二系統の伴野氏が存在していて、貞棟は野沢館に住していたものと考えられている。

大井氏との抗争
文明の八月、大井・伴野両氏は大合戦をして、大井政朝は伴野方の生捕りとなり、大井氏の執事相木氏は討死をとげた。この戦いに勝利を得たのは、前山城主の光利・光信父子と思われ、甲斐の武田信昌は先年の大井氏の甲斐侵入に対する報復として伴野氏に味方している。・・鎌倉後期の霜月騒動で勢力を失い、南北朝期において勢力を盛り返した伴野氏は、光利の時代に至って伴野荘のほとんどを回復し、境を接する大井氏と所領を争う存在になったのである。

武田氏麾下に属す
永正六年(1509)、将軍足利義尹(義稙)は関東管領上杉顕定に命じて、伴野六郎と大井太郎の争いを和解させている。しかし、伴野氏と大井氏の争いはその後も続き、この両者の対立を利用して武田氏が佐久郡を制圧することになるのである。・・大永七年、甲斐の武田信虎が伴野氏に頼まれて信州に出立したが、信州方が一つになって大井氏を応援し、伴野氏は行方不明になったことが『妙法寺記』などから知られる。・・この事件は、大井貞隆を中心とする信州の諸将が伴野方に反撃したとき、武田信虎は伴野氏を支援するかたちで、佐久郡侵攻を目論んだものであろう。天文九年(1540)、武田信虎は板垣信形を大将として佐久郡へ侵攻を開始した。伴野氏は武田軍の侵攻に協力して前山城に武田氏を迎え入れたようだ。そして、武田氏は前山城を根拠地として佐久郡を制圧していったのである。伴野氏と武田氏とは親睦関係を築き、それを背景に、武田氏は佐久郡に侵攻してきた。伴野氏は武田氏に属するようになったいた。
 
伴野氏の滅亡、その後
伴野氏は前山城主として武田氏に仕えたが、天正元年、武田信玄が病死し、あとを継いだ勝頼は天正三年、三河国長篠で織田・徳川連合軍と戦って壊滅的敗北を喫した。以後、武田氏の勢力は急速に衰退し、ついに天正十年、織田軍の甲斐侵攻によって滅亡した。織田信長に接収された武田氏領は、信長の部将に分け与えられ、佐久郡・小県郡は滝川一益が与えられた。同年六月、織田信長は明智光秀によって京都本能寺で殺害されたため、甲斐・信濃の織田諸将は領地を捨てて上方へ去った。以後、甲斐・信濃は後北条・徳川・上杉の草刈り場となってしまった。・・後北条氏は氏直に七万の大軍を率いらせて上州に軍を進め、家康は、依田信蕃に命じて甲斐の旧知の武士たちを味方に付けさせ甲斐へ送り込んだ。信蕃のもとには三千の甲斐武士が集まり、信州小諸へ入った。一方の後北条氏は碓氷峠を越えて信濃に入り依田信蕃と対決せんとしたが、信蕃は蓼科山の山中に入って要害を構え、後北条軍は小諸を押えて大道寺政繁を城主とした。真田氏、望月氏、阿江木氏らは後北条方に従い、岩村田城主の大井氏、相木・岩尾らの大井一族、そして前山城主の伴野氏らもこれにならった。・・ これは、同じ武田氏遺臣である依田信蕃が徳川家康に属して佐久統一をすすめているのに対し、もともと大井氏の家臣であった依田氏の下風に立つのを快しとしなかったためであった。そのような伴野信守に対して依田信蕃は前山城攻略の軍を進め、信守は父子君臣ともに城を死守して抗戦に努めたが力尽きて自害した。ここに小笠原伴野氏は滅亡した。・・『寛政重修諸家譜』に、伴野時長六代の孫貞元を祖とする伴野氏がおさめられている。旗本伴野氏は、武田氏滅亡後徳川家康に属し、家康の関東入国ののち上野国に采地を賜っている。慶長五年(1600)、家康の上杉征伐に加わり、関ヶ原の合戦にも参陣している。その後、家康の命によって信濃国上田城を守備した。子孫は数家に分かれて徳川家旗本として続いた。』