探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原家 七代当主 貞宗のこと

2014-01-28 19:55:36 | 歴史

 

 

    

家紋のこと・・・

小笠原家の三階菱の紋は、小笠原貞宗のとき、天皇に”弓馬の儀礼”を天皇に師範し、後醍醐天皇より「小笠原は武士の定式なり」との御手判と「王」の字を家紋に賜った、とされ、”王”の字と家系の”菱”の字を組み合わせてディフォルメして、下大にして出来上がったものとされる。

・・小笠原家を語るときは、まず七代当主・小笠原貞宗からはじめる・・・

時代 鎌倉時代後期 - 室町時代前期
生誕 正応5年4月12日1292年4月30日
死没 正平2年/貞和3年5月26日1347年7月5日
改名 豊松丸、貞宗
別名 彦五郎
官位 右馬助、治部大輔、信濃守
幕府 鎌倉幕府室町幕府
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原宗長、母:赤沢政常の娘
兄弟 貞宗貞長、宗隆
政長宗政坂西宗満

貞宗の兄弟に、兄・貞長、弟・宗隆が系図上みられる。宗隆は資料がなく詳細知らず、になっている。この系図がどこから作られたかも定かではない。尚、貞宗の墓は、京都の建仁寺の塔頭“禅居庵”にある。晩年は隠居して京の四条高倉に住んでいた、という。

兄貞長は、京都小笠原家の祖と言われる。京都小笠原氏には足利将軍の近習の家系で、「京都小笠原家」は便宜上の家名。・・この家系は長高を経て孫の氏長から備前守となる。満長を経て持長の時、1430(永享2)将軍義教の"的始め"で剣を下賜される。・・『射礼私記』はこちら持長の著。この時将軍の弓馬師範となっていたらしい(満済准后日記)。その子持清は1442(嘉吉2)年将軍義勝の弓術師範となる。以上のことから、“小笠原流礼法”の本家は京都小笠原氏だという説もある。そして元長、元清と続いて応仁の乱を迎える。乱後、幕府が衰微すると、子孫は小田原北条氏に仕えるようになる。・・・京都小笠原家は、武家家庭の”礼儀作法”の宗家になったことは事実。

小笠原貞宗の概略・・・ 

小笠原貞宗・・・三階菱紋小笠原氏第7代当主
生涯・・・正応5年、信濃国松尾(現・飯田市)に生まれる。当初は鎌倉幕府に仕えており、元弘元年(1331)からの元弘の乱では足利尊氏らとともに後醍醐天皇の討幕運動に与して北条得宗家を鎮圧した。しかし高氏が鎌倉幕府に反旗を翻すとこれに従い、鎌倉攻めに参加する。建武元年、この功績により信濃国守護に任ぜられた。・・・その後、尊氏が後醍醐天皇から離反するとこれに従った。建武3年(1336)には足利方の入京により後醍醐天皇が比叡山へ逃れる。この際、貞宗は後醍醐方の兵糧を絶つ目的で琵琶湖の湖上封鎖を行っている。その後も一貫して北朝側の武将として各地を転戦した。・・・正平2年/貞和3年(1347)5月26日、京都で死去。56歳没。子の政長が家督を相続した。

・・・小笠原流礼法について
現在も続く小笠原総領家では貞宗を小笠原流礼法の中興の祖としている。貞宗は弓馬術に礼式を加え、弓・馬・礼の三つを糾法と称し、小笠原伝統の基盤を作った。さらに、後醍醐天皇より「小笠原は武士の定式なり」との御手判と「王」の字を家紋に賜った。

貞宗の戦歴と統治・・・
 元徳元年(元弘元、1331)に後醍醐天皇が倒幕の挙兵をすると、貞宗は幕府の命を受けて畿内へ出陣、大仏貞直率いる一隊に加わって宇治から大和路を経て楠木正成がこもる赤坂城攻略に参加・『光明寺残編』。元徳3年(元弘2、1333)正月に再び幕府軍の一員として畿内に出陣・『太平記』、足利高氏が倒幕の挙兵をするとこれに呼応して鎌倉攻めに参加(父・宗長にも尊氏から軍勢催促状が送られている)、その功績により建武政権から従五位下・信濃守に任じられ、信濃守護職を認められた。埴科郡船山郷(千曲市)に守護所を置いた。・・ 建武2年(1335)7月に信濃に逃れていた北条時行が諏訪頼重らと「中先代の乱」を起こすと貞宗は信濃守護としてその鎮圧にあたり、青沼(千曲市杭瀬下)などで戦ったが、国府を襲撃されて、中先代軍の進撃を阻止できなかった。中先代の乱の鎮圧後、建武政権は、村上信貞を「信濃惣大将」として信濃に派遣し、北条残党の討伐を行わせたが、これで守護の小笠原貞宗は、足利尊氏の幕府側に傾斜させた。足利尊氏が関東で建武政権に反旗を翻したとき、貞宗は初めは新田義貞率いる足利討伐軍の一員に加わって京都を出陣した・『太平記』が、実際は信濃におり、早い段階から尊氏側に味方していたことが実証されている。・・翌年建武3年(延元元、1336)9月、比叡山の後醍醐天皇方に対し近江の琵琶湖上を封鎖、兵糧攻めにして講和に追い込んでいる。『太平記』には、このとき近江の武将佐々木道誉が 小笠原貞宗に国内を仕切られることを嫌い、後醍醐方に投降を申し入れて近江守護職を認められ、これを「将軍(尊氏)から」と称して貞宗を近江から追い出してしまった、という逸話が書かれている・・・疑問。実際にはその後新田義貞のこもる越前・金ヶ崎城攻めにも参 加している。・・この後、貞宗は信濃に帰り、拠点を筑摩郡井川(松本市)に移し、信濃支配の体制を固めた。ただしこの時は、信濃は関東を支配する鎌倉府の管轄で、貞宗は北信濃を中心に鎌倉府の守護代・吉良氏と併存という複雑な形であった。・・建武5年(延元3、1338)正月には奥州から遠征してきた北畠顕家軍を足利方が迎え撃った「青野原の戦い」に参加して芳賀禅可と共に一番手に突撃したが、北畠の奥州勢に敗戦し多くの兵を失っている・『太平記』。・・暦応3年(興国元、1340)、越後から新田義宗が信濃に侵入、北条時行・諏訪頼嗣がこれに呼応して南朝勢が一時勢いを見せたが、貞宗はこれらを攻略して信濃における足利方優勢を固めている。康永2年(興国4、1343)3月には南朝の総帥・北畠親房が拠点を置く常陸・大宝城の攻略にも参加した。

建武2年に安曇郡住吉荘を,貞和3/正平2年(1347)には近府春近領を得て、勢力を伊那郡から信濃中央部へと拡大し,居館も建武年間(1334~38)に松尾(長野県飯田市)から井川(松本市)に移し,信濃の守護家としての小笠原氏の基礎を築いた。宗家・松尾小笠原家は、嫡男の政長が相続する。
この頃小笠原貞宗は、船山郷(千曲市)に守護所を置いた。
小笠原家が、信濃松尾に拠点を置いたのは、伊賀良荘が生産力豊かな荘園であったこと、信濃では、京都の最も近い距離的な理由、さらに春近荘という将軍家の荘園の庇護の役目が考えられる。
・・小笠原貞宗は、貞和3年(正平2、1347)5月26日に、56歳で京都で没したという。

後世小笠原氏が武家の礼儀作法の「小笠原流」が有名になると、貞宗は「中興の祖」とされ、先祖伝来の作法を大成したという。後醍醐天皇や足利尊氏に「弓馬の儀」を指導したというが定かではない。ただ彼が騎射や笠懸や犬追物で名を馳せたのは事実のようである。
また元から来た禅僧・清拙正澄に深く帰依し、その隠居所の鎌倉・建長寺の「禅居庵」は貞宗が建てた他、清拙正澄を開山とする「開禅寺」を伊賀良荘に建てている。

なお、北朝側として存在した小笠原貞宗が、南朝側の征東将軍の「宗良親王」が、松尾小笠原近くの大草・大河原に住んだ時、”なぜに徹底して攻めきらなかったのか”は、かって京都で「弓馬の儀」を天皇・皇子に師範として講義したときの弟子の宗良親王に、愛情と憐憫の情があったからではないか、と長谷村史誌には書かれている。

守護職について・・・小笠原貞宗は信濃国守護であったが、中先代の乱が起こった時、北朝・幕府側として南朝・北条時行の鎮圧に当たったが、国司所を破られ敗北する。この時幕府は、村上信貞を「信濃惣大将」として南朝の鎮圧に当たらせた。この事実により、歴史書の一部に、貞宗の守護解任と村上信定を守護職としているのを見かけるが、その事実はない。中先代の乱の期間中は確かに守護職は機能停止に陥っていたのは確かである。中先代の乱が収まってから、小笠原の守護職の機能は復活している。

 赤沢政常・赤沢家・・・貞宗の母方?

赤沢氏は武家氏族の一つ。小笠原氏の庶流。発祥は伊豆だが、早期に信濃に移った。
・・・小笠原氏長経の次男清経が、伊豆国赤沢郷を本貫として赤沢氏を称したのに始まる。また、初代清経が伊豆守に任ぜられた。以後系流は伊豆守を称する事が多い
・・*伊豆の発祥は異説がある。*伊豆国赤沢郷は伊東市赤沢のことか。
建武2年(1335)小笠原貞宗に従って信濃から出陣、武功により信濃筑摩郡浅間郷を与えられ、信濃に移住。その後、北信濃に塩崎城を構えて居城とした。この塩崎城は応永7年(1400)の大塔合戦に登場、赤沢一族は小笠原方で敗北。永享12年(1440)に結城合戦の結城御陣番帳の17番目に「赤沢殿」の名前が残されている。
小笠原政康の死後に起きた小笠原家の内紛では、府中小笠原家に味方して漆田原の戦いで勝利するが、赤沢教経が戦死。後を継いだ朝経は、家督を政経に譲って上洛。管領細川政元の重臣として養子の長経と共に活躍する。しかし永正4年(1507)の政元の暗殺と共に朝経は丹後で敗死、生き残った長経も翌永正5年(1508)に処刑され、河内にいた政経も敗れて永正6年(1509)に信濃に戻る。
その後、甲斐の武田氏の信濃侵攻に対して小笠原家に与して抵抗するが、小笠原長時の没落によって赤沢氏も信濃を去る。後を継いだ経智は息子を伴って長時と共に三好長慶を頼って上洛するも、永禄元年(1558)に長勝は北白川の戦いにおいて討死、貞経は奥州の相馬氏に寄寓した。その後、慶長9年(1605)に貞経が徳川家康に500俵で召し出され、小笠原に復姓した。

貞宗と赤沢氏
赤沢氏・・神伝糾法修身論・体用論・書かれる前の礼法
貞宗は礼書を書いたか・・
小笠原貞宗が礼法の始祖というのが定説。しかし・・以前は「小笠原宗家」と称していた小笠原清信氏系の赤沢家では、貞宗と赤沢常興が共同で『神伝糾法修身論』と『体用論』を著したと主張している。・・こちらの方が信憑性がある。編纂の責任者は貞宗、実行者は赤沢常興と言うところか。
赤沢氏は、小笠原長経の次男清経が伊豆国守護となり、赤沢(現伊東市)に住んだのが始まりという、かなり初期の分家。南北朝時代になると、常興の父長興は小笠原惣領家からの養子で、貞宗の母が赤沢家の娘との説もあり、かなり両者に交流があったようだ。
その後、長時の時代、赤沢氏から経直または貞経が出て、惣領家および京都家から礼法一切を相伝され、礼法の本家となった(赤沢家の伝聞。その頃は松尾系や伊豆木系にも相伝があったという)。中世の赤沢氏については、資料が乏しく、子孫が主張している系譜は疑問が多い)。

小笠原宗政・・・貞宗の次男

歴史・・・
鈴岡城は、室町時代に松尾城主小笠原貞宗の次男宗政が分家して築城したといわれる。 
信濃守護小笠原氏は、深志・松尾・鈴岡の三家に分裂して抗争を繰り返し、一時鈴岡家が本家松尾家に代わって南伊那を支配したこともあった。

鈴岡城・・・
長野県飯田市にあった平山城。県指定史跡。室町時代中期、小笠原氏の流れをくむ鈴岡小笠原氏が居城の城。北の毛賀沢川、南の伊賀良川にはさまれた標高約490mの河岸段丘上につくられた城で、複数の空堀に囲まれた本丸に二の丸と出丸のほか2つの外郭、西方の高地に遠見原要害を有する城郭。その城域は東西300m、南北600mの規模を持つ。
信濃守護の小笠原氏は、14世紀、松本の府中小笠原氏、伊那の松尾城を拠点にした松尾小笠原氏、松尾から分家した小笠原宗政が興した鈴岡小笠原氏の3家に分かれ、小笠原一族の惣領職と信濃国守護の座をめぐって抗争を続けた。鈴岡城の築城は、宗政が松尾家から分家して鈴岡家を興した頃。以来、鈴岡城は鈴岡小笠原氏の居城となった。松尾小笠原氏の松尾城は、鈴岡城とは毛賀沢川が流れる深さ約60mの谷をはさんだ北側にあった。15世紀後半には3家の対立は激しさを増し、この頃の鈴岡小笠原氏は本家の松尾小笠原氏に代わって伊那郡南部を治めるほど勢力を拡大させていた。
そして、長禄3年(1489)には鈴岡城主の小笠原政秀は、府中小笠原氏(長朝)を急襲して府中を制圧し守護の座についた。しかし、明応2年(1493)松尾小笠原氏の小笠原定基(光康の孫)は、対立関係にあった政秀を松尾城に招いて殺害したのち、鈴岡城を攻撃し落城させた。
廃城となった鈴岡城はその後再興。1554年(天文23)、甲斐の武田晴信(武田信玄)が伊那郡に侵攻した際、松尾の小笠原信嶺は武田氏に従った一方、鈴岡の小笠原信定は府中小笠原氏(守護家)の小笠原長時とともに武田氏と戦って敗れ、鈴岡城は落城。鈴岡小笠原氏は断絶した。この結果、鈴岡城は松尾小笠原氏の手に渡り、松尾城の支城となった。武田氏滅亡後、松尾の小笠原信嶺は徳川家康に仕えたが、1590年(天正18)の家康の関東移封に伴って武蔵本庄に国替えとなり、鈴岡城は松尾城とともに廃城となった。
現在、城跡のうち二の丸と出丸などは農耕地となっているが、かつての本丸を含む城域が、対岸の松尾城跡とともに松尾鈴岡公園として整備されている。保存状態は良好で、かつての城の原型をとどめており、中世の南信濃の平山城を知る上で貴重な手がかり。また、同公園には含まれていないが、かつての二の丸の大規模な空堀の遺構も現存している。なお、毛賀沢川にかかる不動ヶ橋を利用して対岸の松尾城跡に行くことができる。

・・・遺構:曲輪・空堀 形式:平山城 築城者:小笠原宗政 築城年代:室町時代

鈴岡城は、北に毛賀沢川、南に伊賀良川に挟まれた河岸段丘の先端部に位置し、自然の地形を巧みに利用して築かれた城。対岸の松尾城へは、毛賀沢川に架かる不動ヶ橋を渡って歩いて行くことがでる。

長野県飯田市駄科1729 

坂西宗満・・・

坂西宗満・・・貞宗の三男・坂西家の祖

坂西家初代
坂西宗満;・・生、正中元年、没、永和二年。1324.4.8-1376。53歳 法名賢戒
父小笠原貞宗。三男。貞和年中(1345)ごろ三本杉に住し、飯田郷の地頭職を賜り、貞和年間(1345-50年)頃に飯田郷三本杉に居館を構え、坂西氏の名跡を継いで坂西孫六を称したという。松尾に生れ 建武2年(1335)郊戸の庄へ分家し 貞和年中に城を築き 永和二年(1376)在京中卒す。
・・坂西氏の名跡を継いで坂西孫六を称したという。
・・三本杉城・・・野底川と松川の合流地点、新飯田橋となり西鼎公園のところか
・・郊戸の庄・・・郊戸八幡宮由緒・・貞観年中に勧請す・・久安三年郊戸庄五郷の總鎮守・・社号につきては旧称郊戸八幡宮・・天保十二年郊戸神社と改称す・・・場所の比定は、前文の神社の場所が含まれるところ。野底川と松川の間の旧飯田郷とする。この頃はまだ領地の分割相続があった。

飯田城・・飯田城は坂西家の居城であるが、坂西家の初代は未だ飯田城に住んでいない。坂西家の飯田城の築城は、もっと後年になる。
・・・坂西家の名跡については、小笠原家の庶流の赤沢家の一部が、京都細川家の家臣になった時戦功があって、阿波国坂西の領主になったとあり、その時坂西を名乗ったという。
当時、阿波板西城の赤沢宗伝入道は、小笠原氏とし、近藤六親家が子孫なしの事情により赤沢兵庫として近藤家も継承したという伝承がある。近藤家を継承した赤沢家は、一時期坂西家を称しており、この名跡を、貞宗の三男が継いだという説・・・しかし定説としては確認されていない。

参照;諏訪の乱 サイドストーリー、坂西孫六のこと - 探 三州街道 - Gooブ

 


戦国の名家・小笠原家のこと

2014-01-26 02:46:01 | 歴史

もともとの、このブログの立ち上げのきっかけは、伊奈熊蔵忠次の祖先と保科正之につながる保科家が、1500年前後に関係があったらしい、それは本当だろうか、どんな経緯があったのだろうか、の興味が”きっかけ”でした。

伊奈熊蔵忠次は、江戸幕藩体制初期において、民政のエキスパート官僚として、利根川の東遷・荒川の西遷を構想実行した土木工事や新田開発などで名を残し、資料は豊富でした。保科家が歴史に名を残すのは、保科正之の時、家光の弟として幕政に参加し名君として実績を残しており、あとは徳川幕府最後の時、京都守護職として、新撰組の後ろ盾の会津藩主松平容保が特筆できます。特に最後は、維新軍との会津戦争は、悲劇の物語として有名です。

ですが、遡ること室町時代の文明の頃となると、極端に資料が乏しくなり、僅かな証左もなかなか見つからず、ただいま難儀中になっています。そこで、傍証から、”搦め手”として、関係がありそうな小笠原家を見ていこうと思っています。この前段階は、傍証からと思い、諏訪家・諏訪大社の歴史を観てきました。宗教とか神社とか、自分とは無関係な、当初理解不能だと思われる世界を覗いてきました。するとどうでしょう、神社や神教のことなど、いまだ訳が分からないことだらけですが、少しだけ見えてくるものがあります。

戦国・小笠原家も、読み込んでいく内に見えてくるものがあるのでしょうか。小笠原家の歴史は、1300年ぐらいから今日まで、極めて長い歴史を持ち、勢力拡大で優秀な指揮官のときも、あわや滅亡の危機の時も幾度も経験しながら、生き残ってきた歴史があります。そして、「弓馬の儀」を奥義として奉じる、という特異な性質を持った大名でもありました。これは、京都小笠原家は、弓馬の儀から通じる、武家社会の礼儀作法の宗家となり、今日にも生き残る”小笠原流”と呼ばれる礼儀作法を一般にも広めながら、存続しております。戦国の世に、武家社会の”天一の弓取り”とか”東海一の弓取り”で表現されるところの、あの弓馬の”弓”は、どうも武家社会の棟梁の象徴のようです。

小笠原家は、「弓馬の儀」の奥義をもって、足利幕府の儀式の師範として、長く京都に駐在します。ときには、この弓馬の儀式で、天皇家の師範にもなったりします。同族でありながら、兄の系列の甲斐守護の武田家よりも、弟の信濃国守護の小笠原家の方が、ずっと格上の守護大名として存在したのは、武力の力よりも、武家社会の儀式を司る師範の性格からのようです。小笠原家を探る場合、「弓馬の儀」は避けて通れそうもありませんが、なんとも”しんどそう”な問題です。その”しんどそう”な証拠に、歴史家の徒は、この部分の分かりやすい解説をしてくれていません。分からないのか、面倒を避けたのか・・・面倒だったのでは、と勝手に思っています。

では、次回から少しずつ・・・