探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

秋葉街道、不思議のもとを辿る

2015-12-23 15:44:47 | 歴史

秋葉街道、不思議のもとを辿る 雑記
                  ・・・ かなり緩い「秋葉街道」の話

秋葉街道
近世、「秋葉街道」という道が注目を浴びております。
この「秋葉街道」という名称には、いささかの不思議があります。「秋葉街道」の名称自体が古代から戦国期までの記録には存在していないのです。
あの武田信玄が、青崩峠(兵ごえ峠)を超えて徳川領の浜松に攻め入った「三方が原の戦い」の時の青崩峠は秋葉街道一の難所ですが、道筋は獣道であり、その頃「秋葉道」と呼んだかどうかは定かではなかったみたいです。
そんなことを考えると、どうやら秋葉道の名称はともかく、往来はどうも戦国の後の頃からではないかと推定されます。

秋葉街道は信仰の道?
秋葉街道を、赤石山脈のガレ場の峠・青崩峠を越えて下っていくと、暫くして秋葉山・秋葉神社が脇の方にあります。秋葉神社は「火伏せの神」の総本社で、大火事にあった人などが信仰する防火の守りの神様です。それは、そのとうりなのですが、伊那の人達の信仰に、秋葉信仰というものがほとんど見られません。要するに、伊那から秋葉神社への参詣の事実があったかどうかは、どうも得心がいかないのです。中には希で、道中の道すがらに参詣したという事実は否定しませんが、「希の度合い」にも依りますが、参詣の道と言うほどのものでは無いように思えてなりません。

秋葉神社

秋葉古道
街道の名称はともかくとして、獣道に近い街道が、この青崩峠を越して存在していたのは、どうも事実のようです。信州・伊那谷と遠州を繋ぐこの古道は難所だらけで、相当の健脚を必要としています。したがって必要最低限の場合に限り、限られた人達の往来であったことが窺い知れます。
限られた必要ぬ迫られた人達とは、どんな人でしょうか。猟師た木樵たちは通行したのは事実でしょうが、そんなに行動範囲を広げないと思われます。それは、やはり海産物と塩を扱う商人だろうと思われます。遠州灘の魚などの海産物と当時沿岸では自家生産が盛んだった塩を、行商として、伊那に運んだのだろうと思われます。
塩の道のメインが三州街道であったにしても、冬の長い信州の食料には、長期保存に必要な塩は、貴重なものだったに違いはありません。
この往来の活性化は、戦国時代以降だったと思われます。この時代に、この街道の一部が秋葉街道という呼称で呼ばれるようになった。秋葉街道の呼称は、この街道筋で一番有名だったのが秋葉神社であり、秋葉山だったということから以外には、理由は見つかりません。

宗良親王の道?
南北朝時代、後醍醐天皇の皇子・宗良親王は南朝の東日本のリーダーとして活躍しました。
多くの南朝支持の豪族の中で、浜松の浜名湖の奧・井伊谷の井伊家と大鹿・大河原の香阪家は、宗良親王の熱烈な守護者として有名です。この浜松・井伊谷と大鹿・大河原は、この街道を通じるとかなり近くになります。地図を見ての目測ですから正確ではないがおよそ100Km前後。難所は多いが距離は近いという関係になります。もしや、直線的に、宗良親王はこの道を通ったのではないかという憶測の文章をみかけますが文献的な裏付けがまったく発見できません。おそらく通ってないだろうと思われます。この頃、秋葉道は、獣道としてしか認識されていなかったのではないかと思われます。

秋葉街道の原点 国道256号線
今でこそ、秋葉街道は、国道152号線の代替名称として定着していますが、本来の秋葉街道は、飯田からで、三州街道と遠州街道が分岐し、さらに遠州街道が、島田・鳩が峯八幡宮で秋葉街道を分岐します。街道の冠にする地名は、地元では目的地を指していると言われます。
この鳩が岡八幡宮は、室町時代の創建と聞きます。さらにこの地で信濃守護を歴任した小笠原家の戦勝祈願神社だったと聞きます。松尾小笠原家の本貫の拠点でもあったわけで、居館は、秋葉街道を鳩が峯八幡宮から少し下った小学校(松尾小学校)の秋葉街道を挟んだ反対側だろうと推定されています。ちなみに現在の地籍は、いみじくも飯田市松尾・城となっています。ここは、小笠原家内訌で、鈴岡・小笠原家や府中・小笠原家と争った松尾小笠原家の松尾城ではありません。小笠原の松尾居館は、小笠原貞宗や長忠や宗康や光康が生まれた所だと確認されています。松尾城は、三家内訌の時の松尾小笠原家の松尾城は光康か家長の頃新らしく城を造り、城郭へ移ったのだろうとされています。

鳩が峯八幡神社

小川路峠・秋葉古道
この秋葉街道は、天竜川を渡ると山を登っていき、知久氏と武田信玄が戦った神之峰城辺りから左に折れて喬木・小川路へ向かいます。今では小川路の峠を徒歩で越えるのではなく、大分迂回して国道152号線に繋がる自動車の通れる道もあるのですが、この道筋の住民はすべからく昔から、小川路峠越えの道を”秋葉街道”と呼んでいます。小川路峠越えの道は、昔の古道の雰囲気を残していますが、今では整備された山歩きのハイキングコースになっています。

この(本家)秋葉街道の宿場は、かって八幡、越久保、上村、和田とつなぎ、青崩峠を経て秋葉に向かいました。峠は難所で、小川路峠、青崩峠になります。上村と和田はかって遠山郷といわれ、江戸時代遠山藩の領地でした。この地は、古式神式の祭、神楽霜月祭(神楽の原型)がいまだ行われており、現代人を惹き付けるらしく、「ジブリ」というアニメ集団の「千と千尋の神隠し」のモチーフが生まれた場所としても注目されています。

秋葉街道・小川路峠

 

二つの秋葉街道?

この小川路峠を抜けて152号線に出る辺りは、「しらびそ高原」として今売り出し中の「高原キャンプ場」です。秋葉街道は、大鹿・大河原方面ではなく、下栗の「天空の里」の方へ、そこから青崩峠に向かいます。
どうも、地元の古老達の話をつなぐと、鳩が岡八幡宮から小川路峠を経て、152号に合流し、下栗・和田・青崩峠を超えて遠州・秋葉山沿いに浜松に抜ける道が本来の秋葉道のようです。国道256号とか国道152号とかの番号では味気なく、地元のこの街道の愛称が「秋葉街道」のようです。
杖突街道(R152)の古を訪ねると諏訪大社と大鹿・大河原までが本道で地蔵峠で山間道になり、いったん途絶えたかのようになります。大河原と諏訪は諏訪大社の神域でもあり、政治的というか諏訪神党の結びつきもあり、文献的にもかなり頻繁に登場しますが、遠山藩成立以降に、遠山と大鹿の交流がようやく確認されるところをみると、杖突街道は遠山郷に素直につながっていたかどうかは、疑いの余地がありそうです。現在も、近在の商業地かつ地方自治の拠点の飯田までは、大鹿・大河原は、中川、生田などを通って松川町に通じ、遠山・和田は平岡経由のルートが最も一般的です。そう考えると、近世になって杖突街道が整備・延長されて秋葉街道につながり、上村・上町から青崩までも整備されて国道152号になった。合流点にある上村・上町にすむ旧家の古老は、この部分の経緯が最も詳しいと思われます。ですから、国道152号線も一部は秋葉街道だったわけですが、いつの間にか国道152線が全区間「秋葉街道」と呼ばれるようになり、それが当たり前のようになったわけです。
名前の由来には、軒先を貸したら、母屋を乗っ取られた・感があります。

秋葉街道・小川路

秋葉街道・下栗 チロルの里


車が通行できない二つの国道
さて、国道256号(本家・秋葉街道)ですが、小川路峠の手前で突然地図上で消えてしまっています。つまり本来の秋葉街道は、徒歩で小川路峠を越しなさいと言うことのようです。実際の車のルートは、迂回して、飯田から弁天橋で天竜川を渡り152号に繋がる道に出ることが出来ます。
また、国道152号は、かって大鹿から和田へ向かう途中の地蔵峠で車は通行止めになっていたが、最近はこの区間は車の通行が可能となったようです。しかし、青崩峠は車の通行は不可能で、ここも迂回して近くの「兵ごえ峠」で静岡側へ抜けることが出来ます。この「兵ごえ峠」は信玄が、家康との戦・「三方ヶ原の戦い」で通過した道にちなんで付けられた峠の名前で、地元の人が名付けたそうです。

青崩峠

兵ごえ峠 

 

三遠南信自動車道
この青崩峠付近は、日本のチロルと呼ばれる風光明媚だが道路事情が悪い地区としても有名ですが、信州・遠州(浜松)・三州(三河)の境界線地帯。家康の松平家の発祥の地域でもあるそうです・・奥三河。ここを、今までの道路事情を一変させる「三遠南信自動車道」という高規格道路が計画され、着々と全線開通に向けて工事が進んでいるらしい・・一部開通済み。*高規格道路・地域高規格道路は2車線以上の車線を確保し、自動車専用道路もしくはこれと同等の高い規格を有し60km/h以上の高速サービスを提供できる道路。

本来は・・
個人的には、国道152線は、「杖突街道」とか「諏訪の奥道」とか、または「分杭街道」とかの名前の方がも味があり、歴史を伝えるように思えます。高遠辺りの住民や大鹿辺りの住民が、秋葉山や秋葉神社へ参詣に行ったとは、到底思えません。また、秋葉の地名に愛情を感じているとも思えません。何となく違和感を感じながら、そう言うのならそうでもいいか、ぐらいの感覚かな・・そのくらい昔は、この街道に存在感が感じられなかったようです。

*使用した写真は、地方自治体の案内文・カタログなどから転用させていただきました。