探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

ノート・「荒川家の系譜」の整理・1  ・・  伊奈忠次の祖先・荒川易氏の出自の周辺

2015-05-07 19:24:42 | 歴史

ノート・「荒川家の系譜」の整理 ・1  
伊奈忠次の祖先・荒川易氏の出自の周辺

荒川易氏
「江戸時代,地方巧者の筆頭に位置し,関東郡代や代官として活躍した世襲家。清和源氏の流れで,はじめ戸賀崎,荒川と称したが,7代易氏のとき信濃国伊那郡に住み,孫易次のとき伊奈を姓とした。のち易次は信濃を去り東海地域に流浪,その子忠基は松平広忠・徳川家康父子に仕え,三河国小島城(愛知県西尾市)を居城とした土豪となる。嫡男貞政の系統は断絶したが,十一男忠家の系統は栄え,嫡子伊奈忠次は徳川氏の関東入国後,代官頭として家康の側近グループに加わり,関東領国支配の中心的役割を果たした。」・・・世界大百科事典 第2版

荒川家の初見は「南北朝時代初期」に現れる。以下の文章に依れば、三河・足利党の中に存在している。三河・足利党とは、尊氏の足利家の庶流の一つで、戸賀崎家と荒川家は並記されているが、順序が下に位置しているので、兄弟家の弟分と読むことが出来る。

時は、建武の新政の崩壊後の後醍醐天皇と反目を始めたときの様子である。
「足利尊氏は、後醍醐天皇を討伐すべく鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河の足利党19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。」 
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
 ・・・■元弘の変(1331~1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■

この頃の三河地方の豪族名とその居館の場所など
【岡崎市】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の3つの城(細川御前田城、細川城山城、細川権水城)
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と2つの屋敷(梅藪屋敷、西熊屋敷)
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【豊田市】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)
【西尾市】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城)
【知多市】
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の城
【新城市】
・設楽氏
・富永氏

荒川家
1:戸賀崎満氏
荒川家の祖。戸賀崎家との関係 ・・・
・・「荒川詮頼頼直子頼清孫満氏曾孫戸賀崎義宗玄孫広沢義実」・・『足利家家臣系譜』
・・戸賀崎義宗の子・満氏のときに、分家したと見られる。戸賀崎氏は、三河戸賀崎に在か、関東に在か定かではない。
2:荒川頼清。満氏の子。荒川家の祖。
・・頼清の時、三河・足利党19家の一つ。南北朝の時代に、直義に従って戦功を上げた。
・・三河守,遠江守,のち弾正少弼。功により建武4/延元2(1337)ごろ丹後国守護に任じられる。
・・尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱では直義方として活動。
3:荒川詮頼。頼清の子。
・・”あきより”、の「詮」の字は将軍足利義詮から賜ったもの。”のりより”とも。
・・尊氏・直義兄弟が争った観応の擾乱では父と共に直義方として活動。
・・直義の死後は幕府に帰順。文和1/正平7(1352),直冬党追討のため石見国守護で下向。しかし、益田兼忠,周布兼氏、大内・山名両氏が石見への介入したので,同年罷免され帰京。
詮頼は管領細川頼之に猟官運動をして再度守護として石見に下国。頼之の失脚に伴い罷免,以後の消息は不明。・・小川信『足利一門守護発達史の研究』
・・以後については不明とあるが、将軍の蹴鞠の相手として荒川某が歴史に登場する。さらに「易氏(やすうじ)の代に、将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ」とあるのと推論に重ねると、将軍の親衛隊である”奉公衆”の一員だった可能性は極めて高い。
4:荒川詮長。詮頼子。治部。石見守護代。 
5:荒川詮宣。詮長子。遠江(守)。
6:荒川晴宣。澄宣子。治部。宮内。
 :荒川輝宗。晴宣子。与三。菅野勝兵衛
7:荒川民部。仕畠山政長。延徳頃宗。・・畠山政長(1442-1493)応仁の乱起こす
8:荒川易氏。・・将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ
 :荒川珍国。民部の子?仕足利義維・義維(1509-1573)十一代将軍義澄の次男。
  ・・荒川珍国の系流は、徳島へ渡り「荒井家」として存続。荒川家支流か?
  ・・珍国と易氏は兄弟?定かではない。

子孫は詮頼の曽孫易氏の代に、将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、伊奈を名字とし、後に三河国に移って松平氏の家臣となった(ただし『寛政重修諸家譜』では藤原氏庶流と記載)。

足利将軍の奉公衆
八代将軍足利義政時代の奉公衆の編成を記す『御番帳』が現存しており、それによると奉公衆は五番編成で、各番の兵力は50人から100人、総勢で300から400人ほどの人数で、各番が抱える若党や中間なども含めると平均して5000から10,000人規模の軍事力であったと考えられている。なお、鎌倉公方や古河公方の下にも奉公衆があり。
成員は有力御家人や足利氏の一門、有力守護大名や地方の国人などから選ばれる。所属する番は世襲で強い連帯意識を持っていたとされ、応仁の乱などでは共同して行動している。ちなみに、足利氏にとって重要な拠点のひとつとされていた三河の奉公衆は40人を超えていたといい、国別で最多。
奉公衆は平時には御所内に設置された番内などに出仕し、有事には将軍の軍事力として機能した。

奉公衆の地方の御料所の管理
地方の御料所(将軍直轄領)の管理を任されており、所領地の守護不入や段銭(田畑に賦課される税)の徴収や京進(守護を介さない京都への直接納入)などの特権を与えられていた。
奉公衆は守護から自立した存在であったために守護大名の領国形成の障害になる存在であったが、在国の奉公衆の中には現地の守護とも従属関係を有して家中の親幕府派として行動する事例もあった。

さてここからが問題で、荒川易氏は、「信濃の何処に」やって来たのだろうか
荒川易氏が、「将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ」たということは、将軍家の信濃国内の直営地であろうことは察しが付く。
将軍家の信濃国の直営地を探って見ると”小笠原守護家」に、戦功として与えられている。まして、易氏が信濃へやって来た時代は、鈴岡小笠原家が守護の時であり、鈴岡・松尾小笠原は両家とも、応仁の乱の東軍であり、将軍義尚とは同盟の仲間であった。その仲間に、わざわざトラブルを持ち込むようなことを、義尚がしたとは思えない。
もう一つの直営地は御料所であるが、確認出来ているのは平岡御料所である。ここは、善光寺よりもっと北の、野尻湖の手前辺りにある。ここも可能性としてはあるものの、今のところは、史実もなく極めてうすい。
推論を、違う角度から組み立ててみると、荒川易氏の子供達が働き場所としていったのが、熊倉であり保科である。これはどう捉えたらいいのか。
熊倉は‘くまぐら’と読み‘くまぞう’ではないことは、後の末裔”伊奈忠次”が‘伊奈熊倉・くまぐら・忠次’を名乗ったことでも証されている。場所として比定できる所は、明科の”高家熊倉・たきべくまぐら・なのだが場所だと断定もできない。人名もあるし、普通名詞も類推できるのだ。普通名詞の場合、稲倉で、貢ぎの穀物を貯蔵保管する所で、御料所には必ず付属していたと考えていい。
保科は、保科御厨が一番可能性が高く、川田・保科(若穂保科)であろうか。ただこの時期不安定要素が高く、保科一族と行動を伴にして放浪した可能性がある。
この関連から言えば、高家熊倉も御厨であり、主人が違う荘園という性格は同じで、そこの派遣代官っだ可能性は高い。
伊奈家と保科家が生き残った経緯を辿ると、この筋書きは、ほとんど矛盾を生じさせない。結果から見れば、辻褄が合っていると言うことなのだが、御厨の荘官を、将軍が差配できたのかどうか、の疑問が残る。将軍・義尚の時代、地方の荘園や御厨が、地頭や豪族に脅かされ、押領された事例が多く、幕府に届いた訴状は多く、将軍・義尚は、荘園や御厨の押領に厳しい対応を取ったと聞く。
荒川易氏の例は、押領されかかった熊倉(矢原御厨)と保科御厨の保護の目的のための派遣ではなかっただろうか、と読む次第である。
ただ、信濃・明科の高家熊倉は、”熊倉”であって”熊蔵”でない。読み方も”くまぐら”が正しく、”くまくら”でも”くまぞう”でもない。寛政譜に記された「伊奈家の系譜‘の読み方も”くまぐら”としているのを見ると、どうやら明科の犀川沿いの”高家熊倉”と特定してもよさそうに思う。ここは安曇野の‘大王わさび畑’に遠くない。

疑念として残るのは、荒川易氏の子息達が御厨の荘官(代官)になった形跡は確認出来たとしても易氏自身が信濃の何処に着たのかは判然としない。室町・将軍の御料所が伊那だとすれば、やはり伊那春近だろうか。鎌倉時代に、伊那春近の代官として派遣されたのは、池上某であり小出の辺りと聞くが、代官所の痕跡が分からない。また、伊那春近の大半は、建武の戦功で、小笠原守護家に安堵されたと聞くが、ある部分御料所として残っていたのかどうか。あるいは、豊岡・神稲辺りは天領の時代が長いが、その頃はどうだったのか。

荒川易氏の子・易次の系譜が、信濃を離れ、放浪の末に三河へたどり着く頃は、つまり、伊奈熊倉忠次の祖先は、伊奈を名乗る前は”熊倉”を、あるいは”藤原”を名乗り、家紋は”葵紋”で、裏紋は”巴紋”だったと聞く。これは、明らかに紋であり、寺社の方ではなく神社の関係である。ここから読み解いたのが、前述の経緯である。

参考:研究ノートシリーズ 当ブログ内
 「北信若穂保科・保科家が高遠・藤沢に定着する過程」の検証 (2014-10-07 歴史)
 「信濃御厨の成立と御厨を基盤とした武士団の発生」(2014-09-16 歴史)
 「伊奈忠次の祖・荒川易氏の信濃の頃 室町時代」(2014-07-29 歴史)
 「伊奈備前守熊蔵忠次の祖・戸賀崎・荒川家の頃 鎌倉・室町時代」(2014-07-27 )
 「伊奈備前守熊蔵忠次の祖の系譜」(2014-07-25 歴史)
 「御厨について」(2014-07-01 歴史)
 「伊奈忠次と保科正俊のそれぞれの源流の接点」(2014-06-27 歴史)