探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

藤沢家 伊那谷の小笠原家庶流

2014-03-08 06:42:17 | 歴史

藤沢氏

藤沢氏は、系譜的には諏訪神族である。
ただし、藤沢氏最後の当主・藤沢頼親は、正妻が守護小笠原長時の妹で、信玄の信濃攻めで、小笠原と武田が対立した時、終始一貫して小笠原家と向背を同じくしており、最後の追放されて京都の逃れる際も、小笠原の頼った京都三好家へ身を寄せている。また、小笠原貞慶が信濃の旧領を回復しようとした時も同調している。つまり、藤沢頼親に限れば、小笠原家の庶家と言うことも出来る

藤沢頼親
生没:? - 天正10年(1582年)
戦国時代の武将、信濃国福与城主。
諏訪大社大祝家の諏訪氏の分流にあたる藤沢氏の生まれ。
父は藤沢隆親。妻は小笠原長時の妹。
福与城は箕輪城とも呼ばれたため、箕輪次郎と呼ばれた。弟に権次郎がいる。

福与城、箕輪城
城の種別:平山城(崖端城)
築城時期:
築城者:箕輪氏、藤沢氏
主要城主:箕輪氏、藤沢氏
遺構:曲輪、堀切、空堀越しに見る主郭
住所:長野県上伊那郡箕輪町中箕輪字木下

概容
室町時代に箕輪氏の居城として築かれた。天文年間には福与城の支城としての役割を果たしていた。(福与城のことを箕輪城と呼ぶ場合もある。)
木下総蔵、福与城主藤沢頼親の養子左衛門尉重時が城主であった。武田信玄の伊奈攻略により藤沢頼親は、伊奈の地を追われたが、天正10年(1582年)武田氏滅亡後、福与城に拠り旧領を回復しようとしたが、保科正直に攻められ滅亡したため、箕輪城も廃城になったと言われている。 現在は、養泰寺の墓地に空堀などが残る


藤沢氏

 ●梶の葉 ●諏訪神氏流  ・・・推定

以下、「戦国 武家家伝藤沢氏」からの引用による ・・・

『戦国時代、信州伊那谷の福与城に拠って、武田氏に抵抗した藤沢氏の出自については二説がある。一つは、諏訪神氏の支流で、神氏から出て藤沢谷の地頭となって、その後勢力を伸ばして上伊那北部一帯を治めるに至ったとする説。もう一つは相模国藤沢の住人藤沢義親の一族藤沢行親が、承久の乱の功によって鎌倉幕府から箕輪六郷を賜り、福与に城を構えたとする説とである。この二説がどのように関連しているかは詳らかではない。・・・さて、諏訪に神領・藤沢谷の藤沢氏はのちに木曽義仲の挙兵に加勢したが、義仲が滅んだのち源頼朝に従い、鎌倉幕府が開かれてからは頼朝の御家人となって忠勤を励み重用されたという。藤沢氏が御家人として鎌倉付近に住居したのは確かだとして、その居住地を比定すると、当時遠藤郷と呼ばれる一角にあった。その藤沢氏は、承久の乱の時、功があって、鎌倉幕府より、伊奈・箕輪六郷の地頭を拝命して信濃に帰った。以後、箕輪六郷を拠点とする藤沢氏が誕生することとなる。・・・神氏としての藤沢氏は、千野氏史料の系図によれば、諏訪社大祝有員を祖とする千野太夫光親の系統ということになる。光親の子親貞(清貞)が藤沢神次を称し、その子が清親で伯父の光弘とともに保元・平治の乱に大祝の代官として出陣し、武功があったと記されている。

相模の藤沢・・・鎌倉時代に、遠藤郷の中にあった藤沢館は、やがて藤沢の宿場として名を残し、宿場の発展とともに藤沢の地名が浸透し、付近を代表して、遠藤郷も包含するようになる。この類型は、秩父渋谷氏が、相模に移住して渋谷の名を残し、更に武蔵江戸に移住し、渋谷の名を残したのと似ている。

弓の名人、藤沢一族
清親は弓の名人として名が高く、幕府の弓矢始めの行事の射手として幾度か命を受けていることが『吾妻鏡』に記載されている。文治より仁治元年(1240)まで五十余年の間将軍家に仕え、初めは次郎清親と呼ばれ、のちには四郎清親と呼ばれたりとある。また、文治三年と建久四年に「弓の会」が開催され、名手としての記録が残り、賞言を賜った」と記されている。五十年の長きにわたっての勤仕は、清親が幕府から厚い信頼を受けていたことを物語っている。

藤沢氏の箕輪進出
藤沢氏が箕輪に進出したのは承久三年(1221)の後であったと推測される。箕輪に藤沢氏が地頭として在ったことを論証する文書として、元享三年(1323)の「諏訪大社下社文書」がある。鎌倉幕府の下知状である。この信政については、「千野姓古系図」に信政という名が見え、清親の六代の孫となっている。・・・下って、南北朝時代の正平十年(1355)八月、宗良親王は諏訪上下社大祝、仁科氏以下の合力を得て、信濃の武家方の頭領の小笠原氏と宮方勢力の挽回をかけて桔梗ケ原において合戦に及んだ。この合戦の宮方に諏訪勢とともに藤沢氏の名がみえる。ついで、室町時代の永享十二年(1440)四月、「結城合戦」に際して幕府は歴戦の武将である信濃守護小笠原政康を陣中奉行に命じて軍兵の指揮をとらせた。政康は信州一国の武士を動員し、これを一番から三十番に分けてそれぞれの陣中の勤番をせしめた。その氏名次第が「結城陣番帳」にみえるが、そのなかの十一番に藤沢氏の名が見えている。・・・さらに下って、長禄元年(1457)の『諏訪御符礼之古書』によると「箕輪 藤沢遠江守 御符礼一貫八百文」とある。これは、藤沢氏が諏訪社の花会の御頭役を勤めたことを示すもので、箕輪に藤沢氏のあったことを実証するものである。また、同文書には文明四年(1472)大井出の藤沢有兼が花会の御頭役を勤めたことが見え、大井出にも藤沢一族がいたことが知られる。

武田軍を迎え撃った福与城祉
戦乱のなかの藤沢氏・・・文明十四年(1482)当時、高遠城とその付近は高遠継宗が支配し、その代官として保科氏が在った。この年、保科氏は領主継宗への勤めを緩怠し継宗の怒りをかった。この高遠氏と保科氏との諍いは合戦に発展し、同年七月、千野・保科・藤沢の連合軍と高遠継宗の軍とが笠原において合戦し、継宗は一敗地にまみれた。 ところが、この戦いはさらに拡大し、八月、保科・藤沢方は松本の小笠原長朝の支援を得て、継宗の属城である山田城を攻めた。『諏訪御符礼之古書』によれば、「府中のしかるべき勢十一騎討死せられ候、藤沢殿三男死し惣じて六騎討死す」とある。戦いは保科・藤沢・小笠原方の敗戦であったことが知られる。この戦の結末は、諏訪一族の男乱に続く。だが以後も箕輪福与に藤沢氏があり、活動していた。・・・戦国時代に入ると、甲斐国の武田晴信(信玄)は西上して天下に号令をしようとし、目的を達するために隣国である信濃に侵攻を開始した。信濃攻略は信虎の頃からで、信虎は幾度か諏訪に侵入したが決定的な勝利は得ていなかった。信虎は天文四年(1535)ごろ、侵略から和睦へと政策転換をはかり、諏訪氏と武田氏との間には平和な時が過ぎた。天文九年、信虎は娘祢々を諏訪頼重に嫁がせ諏訪氏との関係を深めた。・・・信虎は勇猛な武将で甲斐一国の統一を果たしたが、内政的には粗暴な面が目立ち、次第に人心が離れつつあった。そして、信虎の横暴を嫌った重臣と長男晴信らがクーデタ企て、信虎は駿河の今川氏のもとへ逐われた。これにより、いままで平和を維持していた諏訪氏と武田氏との関係は一変した。一方諏訪氏では、一族で高遠城主の高遠頼継が諏訪の惣領職を狙って諏訪頼重と対立していた。諏訪攻略を目指していた武田晴信は、高遠頼継の野望を利用して一挙に諏訪を攻め落とそうと策をめぐらした。
 天文十一年(1542)七月、晴信は高遠頼継と図って諏訪頼重を上原城に攻めてこれを落とし、さらに桑原城に逃れたた頼重を攻めて降した。晴信は頼重を甲斐に連れ帰り幽閉し、ついには自刃せしめた。ここに、諏訪氏の嫡流は滅亡し、その後の諏訪は高遠氏と武田氏が二分した。しかし、高遠頼継はこれが不満で、兵を起こし武田軍を追い払い諏訪全土を領有するに至った。これに対して晴信は高遠頼継およびこれに加担する矢島晴満の軍を諏訪宮川に攻めて破り、諏訪はまったく武田氏の掌中に帰した。

武田氏との抗争
諏訪を領有した晴信は、西上の志をいよいよ強くし、その通路にあたる伊那谷の攻略に着手した。天文十一年(1542)九月、晴信の部将駒井高白斉は伊那口に侵入、藤沢口に放火しこれを攻めた。さらに晴信は板垣信形に命じて上伊那口に兵を発し、高白斉とともに上伊那諸豪族への示威運動を繰り返した。・・・天文十三年、晴信は本格的に伊那郡攻略に着手、十一月に甲斐府中を出陣した。一方、武田軍の侵攻に対して藤沢頼親は箕輪の北方平出の荒神山に砦を構え、伊那衆とともにこれを守り武田勢を迎え撃った。武田勢は武田信繁を大将として有賀峠を越えて伊那郡に入ると、荒神山を攻め破った。このとき、晴信は下諏訪に陣していたが、藤沢氏に決定的な打撃を与えないまま甲府に軍を帰している。・・・翌年、晴信は再び兵を率いて甲府を出陣し、伊那攻略に向かった。まず高遠頼継を攻め、これを落とした。ついで箕輪に軍を進め、藤沢頼親の居城箕輪城を攻めた。これに対し、箕輪城には藤沢氏に同心し、武田の伊那侵攻を阻止せんとする伊那の諸豪族が籠城していた。この守備は固く、武田方の攻撃も思い通りに進まず、部将の鎌田長門守が討死するほどであった。・・・これより先、松本の小笠原長時は藤沢頼親を支援しようとして龍ケ崎に陣を布いた。また長時の弟信定も下伊那・上伊那の諸豪族を率いて、藤沢氏を支援するため伊那部に着陣した。このように藤沢方は優勢で、城の守備も固く膠着状態が続いた。対する晴信は攻囲戦が長期にわたり、軍兵の疲労もあり藤沢氏との和を講じた。そして、その誓約として頼親の弟権次郎を人質として差し出させた。ところが、藤沢氏らが開城したと同時に箕輪城へ火を放ってこれを焼き払ってしまった。下伊那から来た小笠原信定も、府中の小笠原長時も、箕輪城の開城により一戦も交えず兵を引き揚げた。こうして、和議とはいいながら箕輪城を焼かれた頼親は、実質上、敗北を喫して晴信に降った。・・・箕輪城落城後、頼親は小笠原長時に随って京都に上り、三好長慶のもとに身を寄せていたが、三好氏が滅びるにおよび伊那に帰り田中城を築いてこれに拠った。

藤沢氏の滅亡
その後、天正元年(1573)に武田信玄が病死し、そして天正十年、武田氏は織田信長の前に滅亡した。その信長も天正十年六月、本能寺の変に横死するなど、戦国時代は大きく様相を変えていった。信長の死後、信州の旧諸将は旧領に帰還し本領の回復を図った。このとき、藤沢頼親も福与城を再興したと『赤羽記』にみえる。・・・七月には、小笠原貞慶が松本を回復せんと三河国より伊那郡に入った。これに藤沢氏の人数も加わり、十六日に貞慶は松本城に入った。一方、保科正直は高遠城を奪ってこれに拠り、九月、酒井忠次を取次として家康の旗下に属そうとした。そして、藤沢頼親にも向背を共にせんと勧めたが、頼親はこれに応じなかった。結果、天正十年(1582)頼親は徳川氏の先鋒となった保科氏に城を攻められ、落城、藤沢氏は滅亡した。』

検討材料 ・・・

先代・諏訪頼継が、相模次郎(=北条時行)とともに、大徳王寺の戦いに敗れ、幕府側から大祝を追われ、諏訪大社の神領の神野をさまよった時、幕府側(恐らく小笠原家)から傀儡の上社大祝が就いた。この時選ばれたのが、諏訪神家の庶家・藤沢家と言われる。やがて、傀儡の大祝の評判は芳しくなく、退位させられて、頼継の弟・信継が大祝になったという。

この真偽は、資料が乏しく断定までには至らないが、これを契機にして、藤沢家と府中小笠原家の関係が成立したと言われる。それと、同時平行して、藤沢家の諏訪神族としての立脚する意識は薄らぎ甲斐武田が強固になると、諏訪神族としてよりも、小笠原家との姻戚を優先し、小笠原家と命運をともにするような行動を採るようになる。