古書は語る-----高遠記集成(蕗原拾葉)より
星野葛山常富
1774*-1813* 江戸時代後期の儒者。
信濃高遠藩士。大目付,郡代兼勘定奉行、侍講。編著に「高遠記集成」
この書の特徴は、後日談としての戦記物、木曽家系譜として読んだ方が良さそうである。したがって、当時の事実と当時の事実でないものが入り交じり、特定の家系に偏り、歴史の流れを歪めている部分も多い。勿論事実として認定する部分も多いが。
記述は江戸後期と思われる。ただ、高遠が武田の領国になった以降は精度が高まる。
笠原頼直略伝付高遠築城 蕗原拾葉11より 2013-04-15 22:36:42 | 歴史
笠原頼直略伝付高遠築城 現代語訳
さて、信州伊那郡笠原荘の高遠城は、元暦年中(1184-1185)に造られた城である。
笠原平吾頼直というものが築城したという。
頼直は、桓武天皇の末裔で信濃守維茂の曽孫にあたる。
笠原家の始祖は高井郡に住んでいたが、当笠原荘に移住し牧監(牧場の監督役)に任命され、天神山に居城を構えたという。
・・異説、年代は不明だが、(笠原)が高井郡に住んだという地を笠原村と呼んでいたというのは誤りで、笠原という村名は、(彼らの活躍した時代より)後世に付けられたものである。牧監は別当と同意の言葉である。
治承年中(1177-1181)笠原頼直が大番(御所などの守衛の役の意味か)で京都にいた時、一院(法王=後白河法皇)の第2皇子の高倉宮が以仁王と謀って、平家を誅殺して皇威を復興したいとの強い意思で、源(正三位)頼政入道を頼りに、勅旨を下した。少し前、六条判官(源)為義に命令して東国の源氏に平家征討の令旨を出していた。新宮氏と領民はすぐさま呼応して行動したが、その計画は露見してしまい、検非違使などの役人が宮殿に直ちに向かったので、(平家打倒に呼応したものは)円城寺に逃げ、なお南都(平安以降、奈良を南都と呼んだ)の七つの大寺院の僧達に都の警備を依頼し、治承四年(1180)5月25日、頼政(入道)の家来衆と(園城寺の)寺法師とともに三百人以上のものが南都に守衛兵として集結した。これに対して平家側は、(左衛門督)知盛と(右近衛少将)重衡と(前薩摩守)忠度を大将にして、御所守衛の武士を招集して二万八千人で防御に対応した。この素早い応戦で、予想より早めに宇治の郷で追いついてしまった。(宇治)平等院にて、一戦に及んで、平家打倒側は、頼政入道を始め、ことごとく討たれてしまい、以仁王?宮も光明山で流れ矢にあたり殺害されてしまう。笠原頼直は、この戦いで戦功を上げて、平家の勝利に貢献する。頼政入道の郎党や、以仁王宮は意味のない謀反をやって死んでしまい、戦いは終結して周辺は静かになったという。・・・治承の乱?
だが、東国に平家追討の命令を出し、挙兵を促せば、いずれか、諸国で、源為義(麒尾=優れた英傑)を頼って謀反の挙兵をする一族が密かに挙兵を企てている情勢になった。そこで、ここにいる平家守衛の人達は、それぞれ自分の領国に戻り、適切な行動を起こして反乱を鎮圧せよ、と御所の護衛の役目を解かれ、暇を貰って自国へもどる。この様な経緯で、頼直は6月下旬に領国(笠原荘)に帰る。そして隣国の同志と連絡を取りながら、挙兵の兆しを注意深く眺めていると、同年8月に伊豆国で流人であった(前右兵衛佐・源)頼朝は一院(後白河法皇)の院宣を奉って、蛭ヶ小島で挙兵し、目代(国司の第四等官の代理)の平兼隆の山本郷の館を襲って石橋山に登って与力加勢の連中を待って、平兼隆を討ち取ったことを宣告した。
東国の(平家打倒の)挙兵の勢いは下火にならず、ますます燃え広がる。
昔、久寿二年(1155)8月12日武蔵国で悪源太義平に討たれた源義賢がいたが、父の戦死の時わずか二歳であった木曽(冠者)義仲は木曽山中で成長していた。そして、さる5月に叔父の蔵人行家の勧めに応じて、令旨を賜った。叔父の行家は元の名を義盛と言うが、令旨を伝達する使いに任命されるとき、蔵人を官名され、その時に行家と改名した。木曾義仲が挙兵の旗を揚げようとするとき、高倉宮の平家追討の計画がばれて、頼政入道をはじめ、兄の蔵人仲家が戦死してしまったと聞いて、行家は落胆していたが、頼朝の挙兵を聞いて大変喜び、義仲とともに吉日を選んで9月7日に、急遽信濃国木曽谷で旗を揚げ、信濃国の源氏を招集するにいたった。
この日、笠原頼直は考えていた。木曽義仲は源氏の正当な嫡流だから、頼朝の挙兵を聞けば、必ずそれに呼応して挙兵し、天下に号令をかける人になろうとするであろう。それならば、勢力の小さいうちに誅殺した方がいいと決断し、甥の穂科権八と笠原平四郎を始めとする三百人余が下伊那へ出陣するこになった。
(ある説では、桜沢や平沢等の道はまだ未開発であった。その上で兼遠の妻子はこの時妻籠に住んでいたという。兼遠一作任?)
栗田寺別当である大法師覚範は源氏に縁がある者なので、この笠原直の動きを聞いて、急遽木曽義仲へ注進に赴き、木曽周辺の郷民を集めて、村上七郎義直とともに、総勢五百人余りで市原に出向いて一戦を交えた。だが日が西山に傾く頃になっても初戦は決着がつかなかった。だが事態が急を要したのは、村上義直軍の矢種が無くなり、再起を期して隠れて好機を待っていたが、夜半になって、片桐小八郎為安が軍勢を率いて義直の陣に加勢してくれたので、たちまち勢いを取り戻して、翌日の8日の明け方に、笠原の陣に攻め込み、鬨の声をあげるなどして乱戦になる。笠原頼直は、真っ先に馬を、戦いの中に乗り入れて、笠原軍を鼓舞て戦うと源氏方はたちまちに崩れだして一里ほど後退させられた。平家側は勝ちに乗じて追いかけ、散々に躍りかかる。源氏方は、昨夜より加勢した片桐軍を伏せておき、折を見て立ち回り、白旗や白印を靡かせて、鏃を敵に向けて、散々に矢を放つ。思いがけない敵の出現に、平家側はどっと崩れ、立ち往生してしまい、弓などを投げ捨てて雷が落ちるがごとく、隊列を抜け出して逃げる。その乱れに、前後より攻め込めば、平家方は大崩れを起こした。
平家側の管冠者友則は急遽旧領の大田切に逃げて隠れた。
源氏側は、残りの兵を集め、次の戦い方を協議をする。それは、木曽越えでやってくる覚範の木曽の援軍を待って戦うか、すぐに戦った方が有利か、評議は分かれた。だが、やがてやってきた義仲が言うには、凡軍は不意をつけばすぐ崩れるだろう。笠原軍は長征して表の道を来ているので、ここで味方は間道を通って笠原の根城を襲って焼き討ちにしよう、そうすれば当面の敵笠原軍は、逃げ場を失い敗北することは疑いの余地なし、と急遽決まって、殿原から木樵を捕まえて案内させ、駒ヶ岳を南に回り、道のない獣道を、岩石をよじ登り、葛や蔦のつるを頼って、険しい崖などを乗り越えて、苦労して伊那郡に討ち入りする。(現在この道は木曽殿越えという、かなり険しい)馬はみな乗り捨てて、歩行にて行進し、家に火を掛け、笠原の館辺りは、灰燼となり、馬も数百匹を解き放ち、そのあと木曽を目指して凱旋した。
笠原頼直は、笠原郷と自分の館が木曽軍に荒らされたのを聞いた。その時、笠原軍は多くの手勢が直が手元のあり、笠原荘の館を守る兵は少ししか残してこなかった。だから、ここの負け戦は仕方のないことで、大田切が奪われなかったのは勝ちに等しい、と負け惜しみを思ったが、怒りを抑えて、館が焼け落ちるのを悔しそうに遠くから見ていた。
・・・鉾持神社の伝承に、治承4年(1180)高遠・板町三十町の地頭石田刑部が鎌倉勢との戦いで敗北した、・とある。
同年11月、甲斐源氏の武田太郎信義と一条次郎忠頼の両勢は有賀口より攻め込んで大田切を攻撃する。伊那郡の源氏側の人達は挙兵して、後ろより矢を放って城軍の管冠者を殺害したが、笠原頼直は囲みの一方を破って、城四郎資永を頼って越後を目指して逃げていった。
・・・鉾持神社の家伝では、養和元年(1181)より鎌倉郡代として日野(喜太夫)宗滋は三十町を賜り板町に住む。その子は(源吾)宗忠という。
養和元年(1181)6月、越後国の城資永兄弟が、千曲川の近くの権田河原で陣を置き木曽勢と戦うが、笠原平吾頼直は城軍に加勢した。しかし城軍は木曽軍に敗れて、頼直は高井郡に逃げ、片山の目立たぬ所に潜んで住んだという。
(現在もその村は存在していて笠原村という。穂科権八も高井郡に隠れて住み、今の保科の祖になったという)
元歴元年(1184)、反目した木曾義仲を頼朝が成敗すると聞いて頼直は大変喜び、鎌倉に出向き、同5月に小山、宇都宮の軍に属して、清水冠者義高の軍を追討するとき功績があって、同6月に頼朝より本領安堵され、やがて故郷に帰り、各地に逃げ散らばっていた一族郎党を呼び返して、天神山では狭いので、東月蔵山の尾崎が好適地と決め、城郭を築き高遠と名付けた。この城は南側は岩石が急峻にそびえ、下方には三峰川の急流に臨み、西山側は山が険しく、松林が枝を張り密集して生い茂り、その下方は苔の生えた滑りやすい場所で、藤沢川も堀として通用する。東側は月蔵山の麓に連なっており、幾分平坦なところに塀と堀を幾層にして周りを囲み柵も設けて守りの堅固な城に適した場所であった。その形は兜釜に似ているところから甲山とも言った。
(一説に、山の鞍の部分の甲山の呼称は、築城の以前よりの名前であったという。)
頼直はここに移住し、子孫は代々相続したと言うが、年代は不明である。
暦応(1338-1432)の頃まで(笠原家は)連綿と続いたという。いま、笠原村の丑寅に蟻塚城という城趾があり、応永(1394-1428)の頃、笠原中務というものが住んだという。高遠が木曽に変わったときから子孫はここに移り住んだと言うが、文献が乏しく残念に思う。・・完
概略・・・
笠原頼直は笠原荘(今の高遠)に牧監として、平安時代末期に住んでいたらしい。
笠原頼直は系譜が桓武天皇に繋がるらしい。そして治承の乱の時平家側の武将として活躍する。
笠原頼直は、木曾義仲の平家打倒の挙兵に抵抗して幾つかの戦いをするが、結局破れて高井郡に隠棲する.時を経て頼朝に臣下し、反乱の鎮圧に貢献して旧領を安堵され、笠原郷に帰り高遠城を築城する。この時から笠原郷を含めたこの地が高遠と呼ばれる。
笠原家は1330年代に、支配を木曽家に替わられて、蟻塚城に移住。この時の木曽家は?
笠原家は1520年代に、その頃勢力を拡大する諏訪家と戦い破れる。この時の諏訪家は諏訪信定で以後高遠城は高遠(諏訪)家の支配となる。
・・傍証は、鉾持神社伝承。鉾持神社は鎌倉期前後政府の官舎か官舎と神社の併設所らしい。そして笠原家と縁を持つらしい。そこの伝承は笠原氏の存在確認の第2の証拠となり得るので、笠原氏の牧監と木曽氏との抗争と敗北は信憑性を深めそうだ。・・・感想
木曽家親移住付高遠家廃興 蕗原拾葉11より 2013-04-20 15:37:52 | 歴史
木曽家親移住付高遠家廃興 現代語訳
その後、何年か経て九十五代の帝を後醍醐天皇と呼んでいた。
帝が鎌倉の執権北条高時を誅殺でき、ようやく北条一族の過去の悪政に報いができた。
しばらくしたら、高時の次男の相模次郎時行が、信濃の諏訪郡の三河守諏訪頼重の許に隠れて生き残り、時行と同志の北条残党を集め鎌倉へ反撃して復権する事を計画する。
旭将軍木曾義仲の六代目の後胤の木曽又太郎家村(・太平記大全には木曽源七)は出征し、時行軍と戦うが、木曽軍は少数なので敗北を喫し、ついに時行は鎌倉へ乱入する。
足利治部大輔尊氏は応戦するが、時行に反撃される。要所の鎌倉で幕府に反目するので、尊氏は新田左兵衛督義貞を節度使(この時は鎌倉の鎮圧軍)に任命して鎌倉へ出向かせた。義貞の軍勢は各所の北条残党を攻撃した。箱根の一戦でも勝ち、少し前の足利直義も打ち破り勝ちを誇って搦手に向かうが、官軍が、一宮の尊良親王に箱根の竹ノ下の戦いで敗北を喫したのを聞いて、義貞は力及ばずと思い帰京する。
尊氏は東国の幕府軍を率いて、再度北条残党に攻め向かっていった。木曽家村はその前から尊氏に追随し、大渡の戦いから山門の攻撃、京中の合戦、豊島河原難戦、また西国落ちの湊川の戦いに至るまで、数々の戦いに戦功があった。その功績で、暦応元年(1338)9月7日讃岐守に任官され、木曽谷とともに伊那郡高遠と筑摩郡洗馬を与えられ、帰国して長男を高遠に住まわせた。長男の名を高遠(太郎)家親といい、これが高遠家の始祖となった。
以下、木曽家の家系図
(箇条書き、に書き直して)
木曽義仲には四人の男児がいた。
・長男は、志水(冠者)義隆、頼朝の虜になり元暦元年(1184)4月21日武州・入間河原で殺害される。・次男は、原次郎義重。・三男は、木曽三郎義基。・末子は、木曽四郎義宗。・・母は、上州の住人の沼田家国の娘であった。
・・原義重、義仲が討たれた後、祖父の家国に育てられ沼田荘に隠れ住んだ。その子を刑部少輔義茂という・・義茂は義重のことか?。・源三郎基家は、原義重の子。鎌倉五代頼嗣将軍(摂家将軍藤原頼嗣)から名香山荘を貰う。鎌倉に出仕。・安養野兵部少輔家昌は基家の子。上野家の始祖。・熱川刑部少輔家満は、系譜。熱川家の始祖。・千村五郎家重は系譜。上州に住んで、そこが千村荘になる。・・六郎は早世。
*・木曽七郎・伊予守家道は系譜。木曽須原に住す。義仲以後絶えた木曽家を再興し祖となる。
・木曽佐馬頭義昌は、系譜。この時、南北朝が分かれて天下に動乱が起こり、以後しばらく騒乱が続いた。その中でも高遠郡は、南朝の皇子(一品征夷大将軍)宗良親王が大河原の香阪高宗の城郭を御所に見立てて、朝敵の追討の計画を着々と遂行していた。当信濃国の宮方には、上杉民部太輔、仁科弾正少弼、井上、高梨、海野、望月、知久、村上の一族が勢力を誇示し、近隣の敵に対して優勢であった。将軍側はそれぞれの城が孤立に陥り、防戦はするものの、反旗を降ろして宮方に従う。
*・木曽家親は義昌の子。やむを得ず木曽家親も降参して、大河原に長年にわたり臣下していたがやがて死去する。・・その年月は不詳。
*・その子の太郎義信が後を継ぎ、応安2年(1369)10月に、上杉弾正少弼朝房と畠山右衛門佐基国入道が両大将として大河原の御所を襲った。これに対し宮方の諸将は塩尻の青柳の峠を守って防戦する。折しも、連日の大雪で双方の戦いが膠着していた時に、12月21日、伊那の諸将は青柳の畠山入道の陣に夜襲を掛けて追い払うに至った。上杉陣も勢いが衰え、同23日、和田まで退却し、それから武州の本田へ帰った。それで、伊那郡が平穏になった。だが、長引いて宮方の気運がだんだんと衰え、信濃国の諸将がほとんど宮に反旗を翻していった。康暦2年(1380)宗良親王は大河原を引き払って河内国にお帰りになった。
*・木曽義信も、守護の小笠原長基に臣下していたが、やがて明徳年中(1390-1394)に死去。・その子の(右馬助)義房が家を継いでいたが、応永28年(1421)に死んだ。
*・その子の上野介義雄の代になって、南朝の宮の尹良親王(宗良親王の第2皇子、吉野で元服して正二位大納言、元年(1386)8月に源氏姓を貰う)は、千野(六郎)頼憲の諏訪島崎城には入った。
伊那の松尾小笠原兵庫介政秀と神ノ峰城の知久(左衛門慰)祐矯と大河原の香阪入道を始めとする諸将は、守護臣下から変心して守護の背いて、尹良についた。
*・木曽義雄も宮方についたが将軍側にも属して日和見して孤立の難を逃れ、家を失わなかった。文安2年(1445)3月16日死去。法名義雄殿寺○宗と号す。・その子(左衛門慰)義建、文明(1469-1487)の頃没す。
*・その子を兵庫助義俊という。義俊は、武名が父祖より優れ、近隣の小豪族を従え、諏訪刑部大輔頼隣(ヨリチカ)を討って諏訪郡を手に入れようと野望した。義俊は、小條での戦いで、接戦を制し、いったんは勝利したが、大将の義俊が流れ矢に当たって討死、それで味方は敗北して退去するところを、頼隣に追討され、高遠城に逃げたが、囲まれ何度も攻められられる。味方は準備無い突然の籠城なので、兵糧に欠乏し、兵は飢えに苦しみ、やむなく降参をして、いったんの延命を図る。諏訪頼隣はこれを許しして、
*・義俊の幼な子の義嶺に元の領地を与える一方、義俊の旗本衆を諏訪家に帰属させ、代官として頼隣の次男右兵衛慰信定を天神山の城主に据えて諏訪へ帰る。信定は義嶺が幼少をいいことに、牧を横領して義嶺に与えなかった。義嶺が成長してこの不正を時の信濃守信有に何度も訴訟したが、言を濁し遅らせた。挙げ句に、義嶺を追い出してその跡地を信定の所領にしようとしたので、とうとう憤慨して、この不正を許さんと、信定に反旗を揚げて、多年の鬱憤を晴らそうと思っていた時、好機が到来してきた。信濃守政満(頼隣の孫、信有の子)が大祝高家に殺され、諏訪郡、諏訪家が二つに割れて争乱が起こった。義嶺はこの時とばかり与力の兵を集め、天神山に夜襲を掛ける。信定は、諏訪の騒乱を鎮める事にも気を遣い、郎党を双方に分けて派兵してきた。信定軍は少数だったので支えきれず、囲みの一方を破り、笠原山に逃げ登り、黒沢を峰伝いに諏訪へ退却する。これで、義嶺は元の領土を取り戻し、その地の領主を支配するに至った。・その子は豊後守義里。
*・その子左衛門慰義久に相続して繁栄する。天文(1532-1555)のはじめ、義久は、高遠の郡司小笠原孫六郎信定と不和になり小競り合いをするに及んで、隣の木曽谷の領主の左京太夫義康(・家村から八代あと、甲斐軍艦では左衛門佐義高)は、義久の軍が孤立し援軍がないのを確かめて、兵を潜めながら来て高遠を襲う。義久は突然のことで防御の時間と対策がとれず城を明け渡して落ちていった。哀れであった。これで高遠九代百九十年の歴史の木曽高遠が絶えた。木曽が木曽に攻略されたのである。
高遠治乱記では、永正年中(1504-1520)諏訪信定が天神山に城を構えて付近を領有していた。天神山城には信定の子息を城主にして高遠一揆衆を治めた。諏訪一族の統治に抵抗する貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部)は、天神山城に夜襲をかけたが、保科が天神山の信定に、夜襲があることを知らせたので、信定の郎党は諏訪の黒沢山の峰伝いに諏訪に逃れた。この夜襲に怒っていた諏訪信定は陣を立て直し、諏訪から藤沢谷を通り高遠に入って、貝沼と春日を討ち果たし、その両人の領地を、夜襲の知らせの礼として保科の与え城に戻った。これより保科氏は、高遠一揆衆のなかで一番の大身になった。
・・この保科は誰か、不明。藤沢谷の保科、若穂保科から流れた保科正則の可能性。
・・この時の高遠城は不明。天神山城が諏訪一族の城であった。諏訪家の家系に拠れば、諏訪信定は、諏訪頼隣(刑部太夫)の次男で、信有(信濃守)の弟である。
諏訪家の財力と武力は、かなり裕福だったので、他を軽んじて自身を信じすぎて、子孫などの力を信用しなかった。
ことに保科家は、従来からの諏訪家の家来ではなく、保科(正則?正俊?)の父は高井郡保科の領主であり、保科筑前守正則とその子の甚四郎正俊の代・・疑問・に、伊那郡に移り、正俊は文永二年83歳で卒する、と保科家系に記録がある。
逆に辿れば、正俊の出生は永正8年になる。このことを推測すると、永正年中に「高遠治乱」が起きたとすると、永正17年の永正末年でも正俊10歳の小児となり、10歳の正俊が武功を挙げて一家を興すというのは、無理がある。
一説には、木曽高遠家は木曽に負けて所領は減らされても、なお高遠に住んでいたが、まもなく病死する。子が無くて家系は断絶したともいう。
箕輪系図といって、伊那恩知集に記載された内容を見てみると、高遠家親の孫の右馬助義房になって、はじめて高遠と箕輪の両城を持ち、箕輪を家号とする。子孫に大膳義成というものが、天正(1573-1593)小笠原貞慶に従って青柳合戦で討死する。その系図はすべて高遠と同じであり、ただ義嶺と義里の間に刑部左衛門某が記載されておるが、これは何故なのか説明できない。これを記して後世に考察を乞う。
矛盾と疑問点
諏訪信定を攻撃したのは誰か、春日氏と貝沼氏なのか、木曽(高遠)義嶺なのか、また木曽氏と春日氏と貝沼氏の関係は?
天神山城の攻撃(最初)は木曽氏伝承でも高遠治乱記でも記載有り、名前のみ違う。
木曽伝承には二度目の信定の反攻の記載がない。その後の保科氏の活躍の前提や、高遠頼継の各書の存在をみると、木曽のその後の存続は疑問が残る。
定説としてある、諏訪高遠家の系譜も満継以前に疑問が残る。
高遠家は、鎌倉時代は笠原高遠家、室町前期は木曽高遠家、文明以降室町時代は諏訪高遠家、戦国期は武田(高遠)、森(高遠)、京極(代官岩崎重次・高遠)、保科(高遠)、幕藩の藩主と続いたのか。木曽と諏訪の繋ぎが不明?特に諏訪高遠の頼継以前が不鮮明
一品や二品は天台宗僧侶の最高位位階であり、宗門経験のない尹良には、これはおかしい、かつ、尹良に征夷大将軍が任命されたという事実は根拠がない。
千村内匠守城付保科正俊逆心 蕗原拾葉11より 2013-04-23 01:33:03 | 歴史
千村内匠守城付保科正俊逆心 現代語訳
千邨(=村)内匠
時が過ぎて、義久が引退しても、高遠は木曽家の影響下にあった。高遠城は木曽からわずかに10里(40Km)余りだが、その間には険しい山や大きな砕岩だらけの場所があって、荷車などの往来は難しい道であった。諏訪家と小笠原家は領地を接しており、犬牙のように反目して領地を覗っていた。当時は両家が和睦し平穏を臨む思いも無くはなかったが、この時代の人の心は信用はできない。そこで、この城の要になる大将を選んでみた時、木曽一族の千村内匠を郡代として高遠の地方豪族を支配し、その中から武に強いもの選んで、溝口右馬介氏友(恩知集では溝口の祖は氏長で、氏友ではないという)、保科弾正正俊をして加増し、家老とし、隣郡に出陣がある時は、千村は城を守り、溝口、保科は配下の豪族を武装させて率いて出陣することと定めた。
その頃、甲州守護は武田大膳太夫晴信という。彼は武略、戦略にたけ賢者を尊び、譜代の家臣に、情をかよい腹心させ、父の左衛門慰信虎を追放して甲斐の一国を掌握する。
信濃国の強将は村上左衛門慰義清(・埴科郡葛尾城主)、小笠原大膳太夫長時(・筑摩郡深志城主)、諏訪刑部太夫頼重(・諏訪郡小條城主)、木曽左京太夫義康(・筑摩郡木曽谷福島城、王滝巣穴住)であり、信濃全体が一丸となって晴信に対抗し討伐することを合議した。
武田が犯した大罪・五逆の罪を糾弾すべきことを標榜して、まず諏訪と小笠原の両軍が、天文7年(1538)7月に、教来石を過ぎ、武田八幡を右手に見て、釜無川に沿って韮崎に進軍し、ついに同月19日、甲州勢と一戦に及んだ。甲州勢を追撃して勝利が目前に成った時、、武田軍の原加賀守は、近くの百姓を勝山に五六千人かり集めて見せかけとし、後方の撹乱を試みた。その多勢を見て狼狽した信濃の両軍は後退して敗北し、この一戦は武田の勝利になってしまった。晴信は両軍を追撃していったが、自軍も疲弊して士気が落ち、馬も疲れて喘ぎだし、動かなくなってしまった。そこで武田が敵軍をと見渡すと、信濃勢は白旗を掲げて五六百人が戦列を離脱し、甲州から退却を始めていたという。武田軍は八九町(=1Km弱)離れて追撃していたが、勝負の均衡が百姓を使った奇計で、あわよくも勝利してしまったが、兵馬は疲れ果てていた。もし少数の新手が加わわり、敵が逆襲を掛けたら、心許ない一戦になっていただろう。諏訪と小笠原の両軍はここで多少盛り返したが、形としては勝利のだし、負けるのもいやだと思い、軍勢をまとめて台より上に引き返すことを全軍に号令しようとしていた。
この敵部隊の一部の戦線離脱に、晴信は自軍の各将を招集して、この情勢分析を聞いてみると、敵は足並みを乱しているので、追討して攻撃しても面白い、という意見があった。、敵軍が、軍律も命令もなく敗走している中で、一軍だけは踏み留まっていた。このことを不審に思い、誰かに思うところを聞きやり、その返答次第では対応しようと言うことで、窪田介之丞に使い命じた。窪田は先頭に立って馬で行き、「この手勢は誰であるのか、合戦をするなら軍を寄せなさい、もう夕暮れなので合戦はやるもやらぬも良い」と大声で叫んでみたら、敵陣より武者が一人馬で乗り出して、「この一軍は信州伊那の者であり、信州の諸侯の合戦と聞き、双方の名門の戦いだから見物に出軍した。が、ゆめゆめ武田軍と弓矢を交えるつもりはなく、もう一戦が終わったので本国に帰国するのだ」と言ったので、窪田は信玄の許に飛んで帰り、このことを告げた。晴信は本陣を引いて様子を見ていると、伊那勢は備えを二分して退却を重ねていく。それで晴信も甲府へ凱旋帰国する。
ある日ある時、保科正俊が手勢を一カ所に集め、晴信の本陣を襲い、急襲と退却を繰り返し、本格的に攻撃しようと思っていたら、味方が攻められたので退却し離れた所に屯し、様子を覗いていたが、武田の陣は備えが厳重であり、これでは本陣を破れず、正俊は自分たちの勝利は無理だと思った。ある日は天文8年(1539)6月23日、台ケ原の合戦の時のことで、伊那郡への帰りは瀬沢山に入り芝平谷を通り退却したという。
それより、度重なる合戦は武田勢が勝利して、諏訪頼茂も和睦して、天文14年(1545)に頼茂は騙されて殺され、その跡(諏訪頼茂の領地と城)に板垣駿河守信形を郡代として置いた。武田左馬守信繁と秋山伯耆守晴近などは諏訪に在陣し、伊那と筑摩の両郡を押領しようと機会を覗い、時々藤沢や有賀の口より乱入して小競り合いを数回した。
高遠には、溝口右馬介、保科弾正、黒河内小八郎、同権平、非持春日、市瀬主水入道、同左兵衛、小原、山田の一党を集め、敵が寄せてくれば、青柳、杖突の嶺を固めて、藤沢の谷筋を通らせて、寄せくる敵を右に襲い左に槍を突いて苦戦させる作戦をとれば、過去に、攻めてくる敵に一度も負けたことはなかった。
だが、武田信繁と秋山晴近は別道の有賀口より乱入してきた。また馬場民部少輔信房を軍監にして四千人ぐらいが福与城を攻撃し、近在の小城は落とされた(この時福与城には藤沢治郎頼親を大将にして近在の士族が立て籠もったという)。この天文16年(1547)2月の事である。この知らせで、木曽は三千人を桜沢に進軍させ、小笠原長時は七千人を塩尻に陣地し、松尾の民部太夫信定、下伊那の知久と阪西は三千人を宮田に進軍させ、番をさせたが、武田軍は総数で及ばないと思い早々と引き上げてしまった。
同17年(1548)5月も、晴信自ら出陣して有賀と岡庭より進入して、樋口や竜ヶ崎の砦落として、今度は是非上伊那を押領したいと準備してきたので、上伊那豪族は高遠、箕輪の両城に籠もり、各地の援軍を要請したが、今度は櫛の歯が欠けるように援軍は減っていた。だが越後の国主の上杉喜平冶景虎は、早速小県郡に進軍して内山城を攻めたので、武田勢は引き返して小県に向かった。数多い戦いで勝敗はそれぞれであるが、互いに攻め取った城や砦は、軍が引くと、たちまちに元の領主に戻った。いまだ伊那では一城も武田に従わないので、計略を立てて回文を領主に回して、木曽や小笠原の連合に反旗して当家に従えば、その従心の浅深に関わらず倍の加増をするので味方せよ、として、まず高遠を手に入れようとし、合戦の時裏切ってくれれば十倍の加増を約束すると持ちかけ、さらに色々の手を使い調略したが、元来伊那の者は律儀で心は金鉄のように堅くて、少しも心変わりする者がいなかった。
しかし噂が入り乱れるのは世の習わし、如何なる人も奸智に負け、また武田反感の謀言もあり、松島対馬守が実は武田に通じて逆心の策謀がありそうだと伝聞があったので、木曽義康は大いに怒り、諸氏の前でこの是非を究明して懲らしめようと千村に命令した。千村内匠は、義康を畏れて、丸山久左衛門を松島の館に遣わして呼び出した。松島は何の疑いもなく翌朝の夜明けに宿所を出て、従者を十四、五人だけ連れて高遠に出向き、二の丸に入ろうとするところを、白木道喜斉、丸山九左衛門が武者だまりで待ち受け、左右より斬り殺した。松島の従者はこれに驚き、抜刀して防戦したが、木曽側は、前からの準備で討ち手が多く、包囲して一人残さず切り倒した。(松島の従兄弟に松島左内という者がおり、彼は比類無いくらい働き、城兵の多くを切り倒すがかなわず、丸山久左衛門に突き殺されたという)。殺害した松島と郎党の首は集められ木曽福島へ送ったところ、義康は笑って機嫌が良かった。逆心への懲らしめはこれで出来たと限りなく喜んでいたという。
心ある者はこれを聞いて、家臣への扱いに信義のない木曽殿の振る舞いに、忠はあるが情がない、松島への疑念が一度湧いたら、真実を糾すことなく誅殺に、疑念した。他人事だが辛いことである。今は他人事だが明日は我が身か、と郡中の心は木曽殿から離れた。このことで武田の家来になっても良いと思うものが少なくなかった。
御堂垣外の保科正俊は幾度となく武功を揚げ、槍弾正と異名を持つ強者の勇士で、居館に砦を築いて諏訪口を押さえていたが、この木曽殿の様子を踏まえて、深く考えた。武田の勢いは日を増すごとに強大になり、更にこの頃の木曽殿の振る舞いを見れば、今後の展望が開けないし悪い流れで武士道までが蔑ろにされる。この乱世では、時に家系が断絶することもあろうが、この人に従っていたら確実にそうなる。だったら武田勢を引き入れて高遠を乗っ取り、一族が後日繁栄するように計画した方がよいと、時に城番に来ていた非持三郎春日、淡路、小原某を呼んで密かに相談に及んだ。三人とも異議が無く了承し、我々は木曽の譜代ではないし、木曽が高遠を押領したので仕方なく従ったまでで、いずれ家を興し、かつ子孫のため、逆心した方が先祖の孝養にもなると四人は心を一致し、時節の到来を待った。
・・・概要と疑問点
木曽義久が引退した後の、高遠の統治について、ここでは木曽家の意向に沿った、高遠郡代が千村内匠に決まった経緯の記述である。そもそも木曽の高遠支配は、定説にない内容で、違和感を感じる。
ここには、諏訪信定の名前もないし、高遠頼継の名前も出てこない。何故か。高遠頼継との関係は別書で深掘りして証左を求めている。
その中で、松島対馬守が木曽を裏切り武田へつくという間違った噂で、木曽家の対応のまずさがあり、伊那の団結の崩壊、とりわけ高遠の人心の離反が語られて、武田の侵攻に繋がっていく。
確か千村内匠に殺されたのは松島対馬で、定説では伊那孤島の八人塚伝承で殺された中に松島がいたが、松島豊前守信友と言ったか、その関係?。
高遠満継も証左が難しく、諏訪信定が高遠を名乗ったかも確認が取れず、保科正俊の主はいったい誰かは、未だに謎で、整合性は更に険しい。
槍弾正と異名を持つ強者の勇士で・・はこの後の武田臣下時代のあだ名で、臣下前の記述はおかしい。
これは、後日談の戦記物?
・・感想
武田勢囲城付御嶽権現霊験 蕗原拾葉11より 2013-05-05 02:24:39 | 歴史
武田勢囲城付御嶽権現霊験 現代語訳
前文
これは、武田信玄が上杉謙信と対峙している時代の、同時進行の信州伊那制圧の始めの、高遠攻めの戦闘の様子を、当時高遠を支配していた木曽家から書いた戦記物語である。だが、これには異説があって、高遠を支配していたのは諏訪家だという説もある。
武田の信州攻め序章
武田晴信は信州を征伐しようと天文18年(1549)4月12日甲府を出発した。同13日諏訪郡小條の着陣。この報告を聞くと、保科正俊はすぐに晴信に使いを送り、武田軍と高遠軍が戦闘状態に入り、形勢が膠着した時は、高遠を裏切って武田の味方し参戦するむねの、一文を起請文にしたためて送った。晴信はこれを読んで大変喜び、了解して、伊那と木曽と松本に軍勢を三つに分けた。伊那方面へは浅利信友、馬場信房の2人を大将として、また足軽大将には山本勘助、安間三右衛門の2人を付けた。秋山伯耆守は諏訪に陣地し、伊那軍と度々小競り合いを繰り返し、軍立てや地形にも詳しいので、すでに先陣として出発していた。こんな時、同24日、越後の上杉が小県まで出陣してきたという報告が入り、急遽再び武田も海野平に進軍し、上杉と対峙した。同5月10日、上杉景虎が陣を引き払って帰国したので、晴信は諏訪に戻り、前述の大将達に命令して伊那口に侵入した。
武田の伊那侵入と高遠勢の対応
このことが高遠にも伝わったが、保科が裏切っているとは夢にも知らないで、前回のように、難所と思えるところに待伏兵を置いて、あちこちから武田勢を混乱させながら打ち勝とうと思っていた。城にはわずかの人数をのこすだけで、神宮寺には千村内匠を大将に残し、保科正俊、市瀬入道、同左兵衛、非持三郎、春日淡路、林式部、小原、山田の一族等の木曽の家来衆1200人を、杖突峠の嶺に敵陣を見下ろせるようにして備えた。金澤口へは溝口氏友を大将とし、青柳の嶺に300人と、わずかだが屯駐させ、敵が来たら、谷より神出鬼没に不意を突いて攻めかかる計画をたて、黒河内兄弟や原八郎や埋橋の一族には、道すがらの谷や嶺に5人、7人と別々に待ちぶせさせたが、その人数は3,400人に過ぎなかった。
武田の伊那口侵攻
武田の浅利や馬場は3000人の軍勢を二手に分け、青柳に攻めかかった。まえもって、保科が裏切りを内通していて、戦い半ばで反旗を翻すことを知っていたので、あえて、危険だと知っているところを登っていき、片倉の戦いでも、道の左右を伺いながら、ゆっくりと時たま脅かしの鬨の声を上げ、敵に挨拶するがごとく進む。溝口氏友は少人数なので無理をせず、にらみ合いだけでやり過ごす。杖突峠には秋山晴近の軍勢2000人が、7月4日夜明け時に、霧の中を攻め上っていく。互いに大声の鬨の声を発していく。鉄砲が数発発射されると、すぐに敵軍が魚が連なって泳ぐように、我先にと競って登ってくると、地理を熟知している味方の元気なものは、この岩陰やあそこの木立を盾にして弓矢を雨のように射かけていく。進軍してくる甲州勢の2,30人がすぐに射倒されるが、あとに続くもの注意深く防御しながら進軍していく。味方が嶺の陣地より隊列を整え槍先を揃えて突き進むと敵は先頭に槍先を受けて、戦闘状態になる。膠着状態が続き、甲州勢は波のように、引いては返し、また引いては返して、命を惜しまず戦ってくる。味方はその都度、引いて陣に戻り、さらに攻めていくので、場所が変わりつつ、弓や鉄砲で反撃し、敵が色めき立っているところを攻め込んでいく。双方とも、死を恐れずに戦っていたが、そこは味方のほうが地理に明るい山道なので猿やいたちのように、梢を伝いフクロウが木の上で戯れるように、逃げ隠れする。この様に、あちこちから攻めるので、敵は追い立てられてなかなか決着がつかない。日は昇り、すでに午後になろうという頃は、双方戦いに疲れ、陣を隔ててにらみ合いの状態が続く。
保科弾正の裏切り
保科弾正は前から武田に内通していたので、非持、春日、小原の武将達300人とともに打ち合わせて、戦闘場所を離脱して離れて、敵味方の戦いを傍観していた。そして頃合いを見て、軍の備えを逆に向けて立て直し、戦いで疲弊した高遠軍に向かって鉄砲を放ち、鬨の声を上げて攻め込んでいった。甲州勢は、保科の裏切るに呼応して、白地に黒い三階菱の軍旗を掲げて、まっしぐらに攻め込んでいった。市瀬入道は憎き保科の裏切りを見て大変怒った。状況は一変し、敵に取り囲まれ、逃げる道もふさがれてしまったので、皆が一丸になり、目前の敵の隊列の一点に絞りそこを突破して、その後に裏切りの保科を討って無念を晴らそうとして、殿原よ続け、剛の槍をつかみ取って隆々と振り回し、甲州勢の槍に中に突っ込んでいった。戦いは険しい細道で追いつ追われつの時、入道の槍は、突きの的を外して勢い余り、敵陣へつんのめり、14,5人を将棋倒して谷底へ転げ落ちた。甲州勢は串刺しになり、市瀬とともに岩に当たったり木の根に引っかかったりして、ことごとく死んだ。これが本格的な戦闘の始まりになった。
藤沢谷の戦い
高遠勢は死を覚悟した800人が城を守り、勝ちに乗じた秋山の手勢は、真一文字に進軍を開始する。だが、甲州勢は思いもよらず反撃されて、坂を下り、2,3町ぐらい敗走する。秋山の旗本が崩されそうになったので、自身で旗本を鼓舞して防戦し、激闘が続く。高遠勢は、新手の保科勢に隊列がだんだんと崩されていき、山田も林も討ち死にして大崩れになり、松倉を捨てて敗走する。秋山晴近は一計を図って、鉄砲隊を左右の山に配して待てば、敵が踏み留まり反攻してくれば、左右の山より鉄砲を放ち反撃をすれば、盛り返せずに敗走する。甲州勢は勝ちに乗じて、敗走の軍を追うと敗走軍の味方は、御堂垣外に退却しさらに追撃され、もはや逃れまじきと思う時、青柳を守っていた味方が劣勢を聞きつけ、御堂垣外に駆けつける。この戦いの状況を見た黒河内小八郎が真っ先に救援に駆けつけ、長い穂先の槍で、溢れるように多い多勢の敵に向かい、かまわずに切り込み、三騎の敵を倒したが、そのまま逃げずに踏み留まり、討ち死にしてしまった。この後敵は追撃を止めたので、高遠勢は虎口より城に戻った。
高遠城の戦い
千村内匠は剛のもので、ここまでは負け戦だが、意気消沈する兵士を見渡し、守りの薄いところに配し、虎口(危険箇所)に手勢を多くし、城兵1000人を集めて、油断無く敵を待った。甲州勢はその夜は保科の館の焼け跡に陣を張り、翌5日の巳の刻(午前10時頃)、3隊に分かれて軍勢が5000人ぐらいで、徐々に城に詰め寄り、向陣(対面陣)をしないで、月蔵山の山麓のやや平場に登り、一気の蹂躙を試みようとした。だが千村は、乾き堀の外に柵を設けて準備していたので、敵は柵のところで攻撃を妨げられ、そこへ城から矢や石を飛ばされ、敵兵が何人か討ち取られた。動揺した敵を見て、味方は城門を開けて打って出た。いきり立った敵を尻目に、さっさと兵を引き、城に戻り門を閉じる。この繰り返しを何度かやりった。虎口の人の多いところの防御はかなり厳重なので、敵の浅利、秋山、馬場の三大将は馬で見て回り、長期戦に切り替えて向陣(対陣)を張り、道を遮断して食料の尽きるのを気長に待つ戦略に方針を変えた。その後は攻めることを中断して長期戦に専心する。
晴信の動向
この時晴信は、佐久郡に軍を置き、景虎が出陣するのを牽制していたが、上杉の動向を見定めて、板垣(弥次郎)信里、日向(大和守)昌時、原(加賀守)昌俊は、足軽大将の小幡(織部正)虎盛、同弥次郎、原与左衛門、同総五郎、横田十郎兵衛、市川入道、梅印伝五郎の七騎とともに下諏訪に戻って布陣し、時どき塩嶺峠に登り、足軽を熊井や高出まで様子見させ、撹乱して深志勢の出方を待った。そこへ木曽勢が救援に来そうだと連絡が入り、井利藤蔵と内藤修理の手勢に、原美濃守と曽根七郎兵衛を加えて兵をさし向け、今回は必ず高遠を手に入れて伊那の拠点とし、そこから伊那全体の領有の足がかりとすると評定した。おりしも、高遠は籠城になって10日間になり、兵糧はすでに少なくなり、飢餓の状態になろうとしていた。木曽や小笠原の救援を命綱として頼っていると見た武田勢は、通じる道を塞ぎ、揚げ句に木曽にも乱入しようとした。
高遠城籠城
これを聞いた高遠の城兵は大変力を落とし、魚が濁水に息絶え絶えのように日に日に気力が衰え、取り囲まれて餓死するよりは、城を捨てて打って出て、差し違えて1人でも多くの敵を倒してから討ち死にする方がよかろうと決意し、決行は翌朝早朝に敵陣突入と決めたので、今宵限りの命だから、一杯の酒で生涯の思いを発散しようと友が身を寄せ合い、別れの酒で夜を過ごす。
天文18年(1549)7月16日、月夜の戌の刻(午後8時頃)を過ぎたあたり、霧がにわかに湧きだして辺りを覆い始め、細雨もしとしと降り出し、城内が物寂しくなり、虫の声が遠くに鳴く夜半に、東の城戸を密かに開く人があった。皆が驚いて素性を聞くと木曽谷より来たもので、千村殿に少し会って話しがしたい、と答えたので城中は、きっと木曽の救援の知らせであろうと耳打ちし、千村に知らせた。千村内匠はこの知らせで、急に起き上がり、腹巻きを外して肩に掛け、脇差しのみで門櫓に登り、松明を投げ落としてその人を見ると、年齢が80にもなろうかと思われる年老いた翁が、白い水干(狩衣)に烏帽子をつけて、内匠に向い、今夜の敵陣は長い遠征の為に疲れ切り、見張りまで怠って皆眠っており、とくに小原村にある陣地は、宵の頃より酒宴をしているので、今はほとんどが泥酔している状態で、急遽城を開けて、木曽へ向かって落ちていけば道筋の障害は何もないだろう、決断は早いほうがよい、と言い残して、何処かに去っていった。内匠は、一瞬茫然としたが、すぐに門櫓より飛び降りて溝口に相談したところ、溝口氏友も不思議な気分で居り、すぐ斥候を放って敵を探って時期について検討した方がよいと、実際に探って見たら、老翁の言葉の通りに敵陣は静かで、人がいるようにも見えなかった。
高遠城開城
しがらみが無くなったり捨てたりして気持ちを整理し、先に開城して急いで脱出することで、後日に後ろ指を指されたくないと三々五々に水の手に沿って河原に降りて、三峰川沿いを西に向かっていく。丑の中村を過ぎ、羽広村の仲仙寺着いて、集まってみて、此処までたどり着いた者を数えてみたら、630人であっと。そこからは、各別に落ちていく中で、溝口(右馬ノ介)氏友は、下伊那の、一族の松尾小笠原(民部太夫)信定の所に行き、寄食した。
千村内匠 木曽へ逃避
千村は残党を率いて木曽に行き、木曽義康に会見し、合戦の経過を報告した。そして宿舎に戻り年老いた母と対面した。母は一度死んだと諦めた息子が生き返ったと喜び、めくらの亀が浮いている木にしがみついているように、手を握り、語り合った。さても今度は保科弾正が裏切り、味方がこの様な敗北を喫し、また兵糧が尽きて落城してしまったこと、時期が迫り、悪いことに木曽殿にはご無礼だが、臣下の者はやる気を失い、今後の攻勢を誰一人考えず、その指揮を執ろうとしない。これでは、高遠を亡びるのは当たり前だ。優しい殿(和殿?)は、討ち死にと知らせがある度に拉がれ、連絡が無いと知ると、もし老木の桜が散ってしまったとしても、若木の桜はこれからだと御嶽権現に祈願して17日間断食をして、内匠が戦死したのは世の定めで、仕事がうまくいかなくても、老いの命をもう一度復活させ、今一度内匠に会いたいと懇願し、満願の夜になって、願いが叶い、この様なけなげなことは本当に大権現の霊験であると思った。
穴尊の世は、桃李に至るといえど、神明の応護は変わらず。
穴尊の意味が不明。
別説1
木曽軍記には千村の開城は天文17年(1548)7月16日、とあります。
別説2
伊那温知集によれば、松島対馬の誅殺は木曽義昌の代で天正10年(1582)という、しかし打ち手に選ばれた丸山久左衛門は天文23年(1554)8月に、武田勢が木曽に乱入した時に討ち死にしている。信用しがたい。
甲陽軍艦に弘治2年(1556)5月、伊那へ進軍したとあり、溝口、松島、黒河内、上穂、小田切、伊那部、殿島、宮田を悉く誅殺したとあり、天文23年(1554)、下伊那の松尾が落城して、小笠原長時と溝口氏友が遠州高天神へ逃げ、小笠原信貴は武田へ降参したことが小笠原家伝にも伝えられ、下伊那の老いた友人にも言い伝えが残っており、城は小さいけれど数10の城を残しておいて、20里に長旅のあとで、峻険の城を攻め落とすことは無理なので、軍艦の説も信用できない。
別説3
黒河内家伝では高遠落城のあと、溝口とともに黒河へ逃げ、三羽根の嶺に見張りを置いて、保科に降参した市瀬左兵衛が高遠へ出仕するのを妨げ、百姓までをも殺害したので市瀬に住んでいる住民は道路を封鎖して大沢の山伝いに高遠に行った。その後、保科は兵士を連れて焼き討ちし黒河内を滅ぼしたという。年月は正確ではないが天文18か19年(1549.1550)は確かである。
別説4
溝口家伝には小笠原(信濃守)貞宗の孫の(弾正少弼)政長の三男(左馬介)氏長が始めて溝口村に住んだ。その五代孫が越前守貞信という。天文(1532-)の始め、家を氏友に譲り、自身は下伊那の松尾に行き、小笠原に寄食する。高遠義久とは嫁親なので高遠の滅亡を憤り、木曽に憤慨しているその後天文13年(1544)正月13日松尾合戦で貞信は討ち死にし、嫡男の氏友は木曽に従い、そのあとで松尾にやって来たことを本文に記入するが、松尾落城のあと遠州の高天神に逃げ、更に京に行き三好家の客となり河内国高安郡で討ち死にする。その子孫は紀州に住んだという。
星野葛山常富
1774*-1813* 江戸時代後期の儒者。
信濃高遠藩士。大目付,郡代兼勘定奉行、侍講。編著に「高遠記集成」
この書の特徴は、後日談としての戦記物、木曽家系譜として読んだ方が良さそうである。したがって、当時の事実と当時の事実でないものが入り交じり、特定の家系に偏り、歴史の流れを歪めている部分も多い。勿論事実として認定する部分も多いが。
記述は江戸後期と思われる。ただ、高遠が武田の領国になった以降は精度が高まる。
笠原頼直略伝付高遠築城 蕗原拾葉11より 2013-04-15 22:36:42 | 歴史
笠原頼直略伝付高遠築城 現代語訳
さて、信州伊那郡笠原荘の高遠城は、元暦年中(1184-1185)に造られた城である。
笠原平吾頼直というものが築城したという。
頼直は、桓武天皇の末裔で信濃守維茂の曽孫にあたる。
笠原家の始祖は高井郡に住んでいたが、当笠原荘に移住し牧監(牧場の監督役)に任命され、天神山に居城を構えたという。
・・異説、年代は不明だが、(笠原)が高井郡に住んだという地を笠原村と呼んでいたというのは誤りで、笠原という村名は、(彼らの活躍した時代より)後世に付けられたものである。牧監は別当と同意の言葉である。
治承年中(1177-1181)笠原頼直が大番(御所などの守衛の役の意味か)で京都にいた時、一院(法王=後白河法皇)の第2皇子の高倉宮が以仁王と謀って、平家を誅殺して皇威を復興したいとの強い意思で、源(正三位)頼政入道を頼りに、勅旨を下した。少し前、六条判官(源)為義に命令して東国の源氏に平家征討の令旨を出していた。新宮氏と領民はすぐさま呼応して行動したが、その計画は露見してしまい、検非違使などの役人が宮殿に直ちに向かったので、(平家打倒に呼応したものは)円城寺に逃げ、なお南都(平安以降、奈良を南都と呼んだ)の七つの大寺院の僧達に都の警備を依頼し、治承四年(1180)5月25日、頼政(入道)の家来衆と(園城寺の)寺法師とともに三百人以上のものが南都に守衛兵として集結した。これに対して平家側は、(左衛門督)知盛と(右近衛少将)重衡と(前薩摩守)忠度を大将にして、御所守衛の武士を招集して二万八千人で防御に対応した。この素早い応戦で、予想より早めに宇治の郷で追いついてしまった。(宇治)平等院にて、一戦に及んで、平家打倒側は、頼政入道を始め、ことごとく討たれてしまい、以仁王?宮も光明山で流れ矢にあたり殺害されてしまう。笠原頼直は、この戦いで戦功を上げて、平家の勝利に貢献する。頼政入道の郎党や、以仁王宮は意味のない謀反をやって死んでしまい、戦いは終結して周辺は静かになったという。・・・治承の乱?
だが、東国に平家追討の命令を出し、挙兵を促せば、いずれか、諸国で、源為義(麒尾=優れた英傑)を頼って謀反の挙兵をする一族が密かに挙兵を企てている情勢になった。そこで、ここにいる平家守衛の人達は、それぞれ自分の領国に戻り、適切な行動を起こして反乱を鎮圧せよ、と御所の護衛の役目を解かれ、暇を貰って自国へもどる。この様な経緯で、頼直は6月下旬に領国(笠原荘)に帰る。そして隣国の同志と連絡を取りながら、挙兵の兆しを注意深く眺めていると、同年8月に伊豆国で流人であった(前右兵衛佐・源)頼朝は一院(後白河法皇)の院宣を奉って、蛭ヶ小島で挙兵し、目代(国司の第四等官の代理)の平兼隆の山本郷の館を襲って石橋山に登って与力加勢の連中を待って、平兼隆を討ち取ったことを宣告した。
東国の(平家打倒の)挙兵の勢いは下火にならず、ますます燃え広がる。
昔、久寿二年(1155)8月12日武蔵国で悪源太義平に討たれた源義賢がいたが、父の戦死の時わずか二歳であった木曽(冠者)義仲は木曽山中で成長していた。そして、さる5月に叔父の蔵人行家の勧めに応じて、令旨を賜った。叔父の行家は元の名を義盛と言うが、令旨を伝達する使いに任命されるとき、蔵人を官名され、その時に行家と改名した。木曾義仲が挙兵の旗を揚げようとするとき、高倉宮の平家追討の計画がばれて、頼政入道をはじめ、兄の蔵人仲家が戦死してしまったと聞いて、行家は落胆していたが、頼朝の挙兵を聞いて大変喜び、義仲とともに吉日を選んで9月7日に、急遽信濃国木曽谷で旗を揚げ、信濃国の源氏を招集するにいたった。
この日、笠原頼直は考えていた。木曽義仲は源氏の正当な嫡流だから、頼朝の挙兵を聞けば、必ずそれに呼応して挙兵し、天下に号令をかける人になろうとするであろう。それならば、勢力の小さいうちに誅殺した方がいいと決断し、甥の穂科権八と笠原平四郎を始めとする三百人余が下伊那へ出陣するこになった。
(ある説では、桜沢や平沢等の道はまだ未開発であった。その上で兼遠の妻子はこの時妻籠に住んでいたという。兼遠一作任?)
栗田寺別当である大法師覚範は源氏に縁がある者なので、この笠原直の動きを聞いて、急遽木曽義仲へ注進に赴き、木曽周辺の郷民を集めて、村上七郎義直とともに、総勢五百人余りで市原に出向いて一戦を交えた。だが日が西山に傾く頃になっても初戦は決着がつかなかった。だが事態が急を要したのは、村上義直軍の矢種が無くなり、再起を期して隠れて好機を待っていたが、夜半になって、片桐小八郎為安が軍勢を率いて義直の陣に加勢してくれたので、たちまち勢いを取り戻して、翌日の8日の明け方に、笠原の陣に攻め込み、鬨の声をあげるなどして乱戦になる。笠原頼直は、真っ先に馬を、戦いの中に乗り入れて、笠原軍を鼓舞て戦うと源氏方はたちまちに崩れだして一里ほど後退させられた。平家側は勝ちに乗じて追いかけ、散々に躍りかかる。源氏方は、昨夜より加勢した片桐軍を伏せておき、折を見て立ち回り、白旗や白印を靡かせて、鏃を敵に向けて、散々に矢を放つ。思いがけない敵の出現に、平家側はどっと崩れ、立ち往生してしまい、弓などを投げ捨てて雷が落ちるがごとく、隊列を抜け出して逃げる。その乱れに、前後より攻め込めば、平家方は大崩れを起こした。
平家側の管冠者友則は急遽旧領の大田切に逃げて隠れた。
源氏側は、残りの兵を集め、次の戦い方を協議をする。それは、木曽越えでやってくる覚範の木曽の援軍を待って戦うか、すぐに戦った方が有利か、評議は分かれた。だが、やがてやってきた義仲が言うには、凡軍は不意をつけばすぐ崩れるだろう。笠原軍は長征して表の道を来ているので、ここで味方は間道を通って笠原の根城を襲って焼き討ちにしよう、そうすれば当面の敵笠原軍は、逃げ場を失い敗北することは疑いの余地なし、と急遽決まって、殿原から木樵を捕まえて案内させ、駒ヶ岳を南に回り、道のない獣道を、岩石をよじ登り、葛や蔦のつるを頼って、険しい崖などを乗り越えて、苦労して伊那郡に討ち入りする。(現在この道は木曽殿越えという、かなり険しい)馬はみな乗り捨てて、歩行にて行進し、家に火を掛け、笠原の館辺りは、灰燼となり、馬も数百匹を解き放ち、そのあと木曽を目指して凱旋した。
笠原頼直は、笠原郷と自分の館が木曽軍に荒らされたのを聞いた。その時、笠原軍は多くの手勢が直が手元のあり、笠原荘の館を守る兵は少ししか残してこなかった。だから、ここの負け戦は仕方のないことで、大田切が奪われなかったのは勝ちに等しい、と負け惜しみを思ったが、怒りを抑えて、館が焼け落ちるのを悔しそうに遠くから見ていた。
・・・鉾持神社の伝承に、治承4年(1180)高遠・板町三十町の地頭石田刑部が鎌倉勢との戦いで敗北した、・とある。
同年11月、甲斐源氏の武田太郎信義と一条次郎忠頼の両勢は有賀口より攻め込んで大田切を攻撃する。伊那郡の源氏側の人達は挙兵して、後ろより矢を放って城軍の管冠者を殺害したが、笠原頼直は囲みの一方を破って、城四郎資永を頼って越後を目指して逃げていった。
・・・鉾持神社の家伝では、養和元年(1181)より鎌倉郡代として日野(喜太夫)宗滋は三十町を賜り板町に住む。その子は(源吾)宗忠という。
養和元年(1181)6月、越後国の城資永兄弟が、千曲川の近くの権田河原で陣を置き木曽勢と戦うが、笠原平吾頼直は城軍に加勢した。しかし城軍は木曽軍に敗れて、頼直は高井郡に逃げ、片山の目立たぬ所に潜んで住んだという。
(現在もその村は存在していて笠原村という。穂科権八も高井郡に隠れて住み、今の保科の祖になったという)
元歴元年(1184)、反目した木曾義仲を頼朝が成敗すると聞いて頼直は大変喜び、鎌倉に出向き、同5月に小山、宇都宮の軍に属して、清水冠者義高の軍を追討するとき功績があって、同6月に頼朝より本領安堵され、やがて故郷に帰り、各地に逃げ散らばっていた一族郎党を呼び返して、天神山では狭いので、東月蔵山の尾崎が好適地と決め、城郭を築き高遠と名付けた。この城は南側は岩石が急峻にそびえ、下方には三峰川の急流に臨み、西山側は山が険しく、松林が枝を張り密集して生い茂り、その下方は苔の生えた滑りやすい場所で、藤沢川も堀として通用する。東側は月蔵山の麓に連なっており、幾分平坦なところに塀と堀を幾層にして周りを囲み柵も設けて守りの堅固な城に適した場所であった。その形は兜釜に似ているところから甲山とも言った。
(一説に、山の鞍の部分の甲山の呼称は、築城の以前よりの名前であったという。)
頼直はここに移住し、子孫は代々相続したと言うが、年代は不明である。
暦応(1338-1432)の頃まで(笠原家は)連綿と続いたという。いま、笠原村の丑寅に蟻塚城という城趾があり、応永(1394-1428)の頃、笠原中務というものが住んだという。高遠が木曽に変わったときから子孫はここに移り住んだと言うが、文献が乏しく残念に思う。・・完
概略・・・
笠原頼直は笠原荘(今の高遠)に牧監として、平安時代末期に住んでいたらしい。
笠原頼直は系譜が桓武天皇に繋がるらしい。そして治承の乱の時平家側の武将として活躍する。
笠原頼直は、木曾義仲の平家打倒の挙兵に抵抗して幾つかの戦いをするが、結局破れて高井郡に隠棲する.時を経て頼朝に臣下し、反乱の鎮圧に貢献して旧領を安堵され、笠原郷に帰り高遠城を築城する。この時から笠原郷を含めたこの地が高遠と呼ばれる。
笠原家は1330年代に、支配を木曽家に替わられて、蟻塚城に移住。この時の木曽家は?
笠原家は1520年代に、その頃勢力を拡大する諏訪家と戦い破れる。この時の諏訪家は諏訪信定で以後高遠城は高遠(諏訪)家の支配となる。
・・傍証は、鉾持神社伝承。鉾持神社は鎌倉期前後政府の官舎か官舎と神社の併設所らしい。そして笠原家と縁を持つらしい。そこの伝承は笠原氏の存在確認の第2の証拠となり得るので、笠原氏の牧監と木曽氏との抗争と敗北は信憑性を深めそうだ。・・・感想
木曽家親移住付高遠家廃興 蕗原拾葉11より 2013-04-20 15:37:52 | 歴史
木曽家親移住付高遠家廃興 現代語訳
その後、何年か経て九十五代の帝を後醍醐天皇と呼んでいた。
帝が鎌倉の執権北条高時を誅殺でき、ようやく北条一族の過去の悪政に報いができた。
しばらくしたら、高時の次男の相模次郎時行が、信濃の諏訪郡の三河守諏訪頼重の許に隠れて生き残り、時行と同志の北条残党を集め鎌倉へ反撃して復権する事を計画する。
旭将軍木曾義仲の六代目の後胤の木曽又太郎家村(・太平記大全には木曽源七)は出征し、時行軍と戦うが、木曽軍は少数なので敗北を喫し、ついに時行は鎌倉へ乱入する。
足利治部大輔尊氏は応戦するが、時行に反撃される。要所の鎌倉で幕府に反目するので、尊氏は新田左兵衛督義貞を節度使(この時は鎌倉の鎮圧軍)に任命して鎌倉へ出向かせた。義貞の軍勢は各所の北条残党を攻撃した。箱根の一戦でも勝ち、少し前の足利直義も打ち破り勝ちを誇って搦手に向かうが、官軍が、一宮の尊良親王に箱根の竹ノ下の戦いで敗北を喫したのを聞いて、義貞は力及ばずと思い帰京する。
尊氏は東国の幕府軍を率いて、再度北条残党に攻め向かっていった。木曽家村はその前から尊氏に追随し、大渡の戦いから山門の攻撃、京中の合戦、豊島河原難戦、また西国落ちの湊川の戦いに至るまで、数々の戦いに戦功があった。その功績で、暦応元年(1338)9月7日讃岐守に任官され、木曽谷とともに伊那郡高遠と筑摩郡洗馬を与えられ、帰国して長男を高遠に住まわせた。長男の名を高遠(太郎)家親といい、これが高遠家の始祖となった。
以下、木曽家の家系図
(箇条書き、に書き直して)
木曽義仲には四人の男児がいた。
・長男は、志水(冠者)義隆、頼朝の虜になり元暦元年(1184)4月21日武州・入間河原で殺害される。・次男は、原次郎義重。・三男は、木曽三郎義基。・末子は、木曽四郎義宗。・・母は、上州の住人の沼田家国の娘であった。
・・原義重、義仲が討たれた後、祖父の家国に育てられ沼田荘に隠れ住んだ。その子を刑部少輔義茂という・・義茂は義重のことか?。・源三郎基家は、原義重の子。鎌倉五代頼嗣将軍(摂家将軍藤原頼嗣)から名香山荘を貰う。鎌倉に出仕。・安養野兵部少輔家昌は基家の子。上野家の始祖。・熱川刑部少輔家満は、系譜。熱川家の始祖。・千村五郎家重は系譜。上州に住んで、そこが千村荘になる。・・六郎は早世。
*・木曽七郎・伊予守家道は系譜。木曽須原に住す。義仲以後絶えた木曽家を再興し祖となる。
・木曽佐馬頭義昌は、系譜。この時、南北朝が分かれて天下に動乱が起こり、以後しばらく騒乱が続いた。その中でも高遠郡は、南朝の皇子(一品征夷大将軍)宗良親王が大河原の香阪高宗の城郭を御所に見立てて、朝敵の追討の計画を着々と遂行していた。当信濃国の宮方には、上杉民部太輔、仁科弾正少弼、井上、高梨、海野、望月、知久、村上の一族が勢力を誇示し、近隣の敵に対して優勢であった。将軍側はそれぞれの城が孤立に陥り、防戦はするものの、反旗を降ろして宮方に従う。
*・木曽家親は義昌の子。やむを得ず木曽家親も降参して、大河原に長年にわたり臣下していたがやがて死去する。・・その年月は不詳。
*・その子の太郎義信が後を継ぎ、応安2年(1369)10月に、上杉弾正少弼朝房と畠山右衛門佐基国入道が両大将として大河原の御所を襲った。これに対し宮方の諸将は塩尻の青柳の峠を守って防戦する。折しも、連日の大雪で双方の戦いが膠着していた時に、12月21日、伊那の諸将は青柳の畠山入道の陣に夜襲を掛けて追い払うに至った。上杉陣も勢いが衰え、同23日、和田まで退却し、それから武州の本田へ帰った。それで、伊那郡が平穏になった。だが、長引いて宮方の気運がだんだんと衰え、信濃国の諸将がほとんど宮に反旗を翻していった。康暦2年(1380)宗良親王は大河原を引き払って河内国にお帰りになった。
*・木曽義信も、守護の小笠原長基に臣下していたが、やがて明徳年中(1390-1394)に死去。・その子の(右馬助)義房が家を継いでいたが、応永28年(1421)に死んだ。
*・その子の上野介義雄の代になって、南朝の宮の尹良親王(宗良親王の第2皇子、吉野で元服して正二位大納言、元年(1386)8月に源氏姓を貰う)は、千野(六郎)頼憲の諏訪島崎城には入った。
伊那の松尾小笠原兵庫介政秀と神ノ峰城の知久(左衛門慰)祐矯と大河原の香阪入道を始めとする諸将は、守護臣下から変心して守護の背いて、尹良についた。
*・木曽義雄も宮方についたが将軍側にも属して日和見して孤立の難を逃れ、家を失わなかった。文安2年(1445)3月16日死去。法名義雄殿寺○宗と号す。・その子(左衛門慰)義建、文明(1469-1487)の頃没す。
*・その子を兵庫助義俊という。義俊は、武名が父祖より優れ、近隣の小豪族を従え、諏訪刑部大輔頼隣(ヨリチカ)を討って諏訪郡を手に入れようと野望した。義俊は、小條での戦いで、接戦を制し、いったんは勝利したが、大将の義俊が流れ矢に当たって討死、それで味方は敗北して退去するところを、頼隣に追討され、高遠城に逃げたが、囲まれ何度も攻められられる。味方は準備無い突然の籠城なので、兵糧に欠乏し、兵は飢えに苦しみ、やむなく降参をして、いったんの延命を図る。諏訪頼隣はこれを許しして、
*・義俊の幼な子の義嶺に元の領地を与える一方、義俊の旗本衆を諏訪家に帰属させ、代官として頼隣の次男右兵衛慰信定を天神山の城主に据えて諏訪へ帰る。信定は義嶺が幼少をいいことに、牧を横領して義嶺に与えなかった。義嶺が成長してこの不正を時の信濃守信有に何度も訴訟したが、言を濁し遅らせた。挙げ句に、義嶺を追い出してその跡地を信定の所領にしようとしたので、とうとう憤慨して、この不正を許さんと、信定に反旗を揚げて、多年の鬱憤を晴らそうと思っていた時、好機が到来してきた。信濃守政満(頼隣の孫、信有の子)が大祝高家に殺され、諏訪郡、諏訪家が二つに割れて争乱が起こった。義嶺はこの時とばかり与力の兵を集め、天神山に夜襲を掛ける。信定は、諏訪の騒乱を鎮める事にも気を遣い、郎党を双方に分けて派兵してきた。信定軍は少数だったので支えきれず、囲みの一方を破り、笠原山に逃げ登り、黒沢を峰伝いに諏訪へ退却する。これで、義嶺は元の領土を取り戻し、その地の領主を支配するに至った。・その子は豊後守義里。
*・その子左衛門慰義久に相続して繁栄する。天文(1532-1555)のはじめ、義久は、高遠の郡司小笠原孫六郎信定と不和になり小競り合いをするに及んで、隣の木曽谷の領主の左京太夫義康(・家村から八代あと、甲斐軍艦では左衛門佐義高)は、義久の軍が孤立し援軍がないのを確かめて、兵を潜めながら来て高遠を襲う。義久は突然のことで防御の時間と対策がとれず城を明け渡して落ちていった。哀れであった。これで高遠九代百九十年の歴史の木曽高遠が絶えた。木曽が木曽に攻略されたのである。
高遠治乱記では、永正年中(1504-1520)諏訪信定が天神山に城を構えて付近を領有していた。天神山城には信定の子息を城主にして高遠一揆衆を治めた。諏訪一族の統治に抵抗する貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部)は、天神山城に夜襲をかけたが、保科が天神山の信定に、夜襲があることを知らせたので、信定の郎党は諏訪の黒沢山の峰伝いに諏訪に逃れた。この夜襲に怒っていた諏訪信定は陣を立て直し、諏訪から藤沢谷を通り高遠に入って、貝沼と春日を討ち果たし、その両人の領地を、夜襲の知らせの礼として保科の与え城に戻った。これより保科氏は、高遠一揆衆のなかで一番の大身になった。
・・この保科は誰か、不明。藤沢谷の保科、若穂保科から流れた保科正則の可能性。
・・この時の高遠城は不明。天神山城が諏訪一族の城であった。諏訪家の家系に拠れば、諏訪信定は、諏訪頼隣(刑部太夫)の次男で、信有(信濃守)の弟である。
諏訪家の財力と武力は、かなり裕福だったので、他を軽んじて自身を信じすぎて、子孫などの力を信用しなかった。
ことに保科家は、従来からの諏訪家の家来ではなく、保科(正則?正俊?)の父は高井郡保科の領主であり、保科筑前守正則とその子の甚四郎正俊の代・・疑問・に、伊那郡に移り、正俊は文永二年83歳で卒する、と保科家系に記録がある。
逆に辿れば、正俊の出生は永正8年になる。このことを推測すると、永正年中に「高遠治乱」が起きたとすると、永正17年の永正末年でも正俊10歳の小児となり、10歳の正俊が武功を挙げて一家を興すというのは、無理がある。
一説には、木曽高遠家は木曽に負けて所領は減らされても、なお高遠に住んでいたが、まもなく病死する。子が無くて家系は断絶したともいう。
箕輪系図といって、伊那恩知集に記載された内容を見てみると、高遠家親の孫の右馬助義房になって、はじめて高遠と箕輪の両城を持ち、箕輪を家号とする。子孫に大膳義成というものが、天正(1573-1593)小笠原貞慶に従って青柳合戦で討死する。その系図はすべて高遠と同じであり、ただ義嶺と義里の間に刑部左衛門某が記載されておるが、これは何故なのか説明できない。これを記して後世に考察を乞う。
矛盾と疑問点
諏訪信定を攻撃したのは誰か、春日氏と貝沼氏なのか、木曽(高遠)義嶺なのか、また木曽氏と春日氏と貝沼氏の関係は?
天神山城の攻撃(最初)は木曽氏伝承でも高遠治乱記でも記載有り、名前のみ違う。
木曽伝承には二度目の信定の反攻の記載がない。その後の保科氏の活躍の前提や、高遠頼継の各書の存在をみると、木曽のその後の存続は疑問が残る。
定説としてある、諏訪高遠家の系譜も満継以前に疑問が残る。
高遠家は、鎌倉時代は笠原高遠家、室町前期は木曽高遠家、文明以降室町時代は諏訪高遠家、戦国期は武田(高遠)、森(高遠)、京極(代官岩崎重次・高遠)、保科(高遠)、幕藩の藩主と続いたのか。木曽と諏訪の繋ぎが不明?特に諏訪高遠の頼継以前が不鮮明
一品や二品は天台宗僧侶の最高位位階であり、宗門経験のない尹良には、これはおかしい、かつ、尹良に征夷大将軍が任命されたという事実は根拠がない。
千村内匠守城付保科正俊逆心 蕗原拾葉11より 2013-04-23 01:33:03 | 歴史
千村内匠守城付保科正俊逆心 現代語訳
千邨(=村)内匠
時が過ぎて、義久が引退しても、高遠は木曽家の影響下にあった。高遠城は木曽からわずかに10里(40Km)余りだが、その間には険しい山や大きな砕岩だらけの場所があって、荷車などの往来は難しい道であった。諏訪家と小笠原家は領地を接しており、犬牙のように反目して領地を覗っていた。当時は両家が和睦し平穏を臨む思いも無くはなかったが、この時代の人の心は信用はできない。そこで、この城の要になる大将を選んでみた時、木曽一族の千村内匠を郡代として高遠の地方豪族を支配し、その中から武に強いもの選んで、溝口右馬介氏友(恩知集では溝口の祖は氏長で、氏友ではないという)、保科弾正正俊をして加増し、家老とし、隣郡に出陣がある時は、千村は城を守り、溝口、保科は配下の豪族を武装させて率いて出陣することと定めた。
その頃、甲州守護は武田大膳太夫晴信という。彼は武略、戦略にたけ賢者を尊び、譜代の家臣に、情をかよい腹心させ、父の左衛門慰信虎を追放して甲斐の一国を掌握する。
信濃国の強将は村上左衛門慰義清(・埴科郡葛尾城主)、小笠原大膳太夫長時(・筑摩郡深志城主)、諏訪刑部太夫頼重(・諏訪郡小條城主)、木曽左京太夫義康(・筑摩郡木曽谷福島城、王滝巣穴住)であり、信濃全体が一丸となって晴信に対抗し討伐することを合議した。
武田が犯した大罪・五逆の罪を糾弾すべきことを標榜して、まず諏訪と小笠原の両軍が、天文7年(1538)7月に、教来石を過ぎ、武田八幡を右手に見て、釜無川に沿って韮崎に進軍し、ついに同月19日、甲州勢と一戦に及んだ。甲州勢を追撃して勝利が目前に成った時、、武田軍の原加賀守は、近くの百姓を勝山に五六千人かり集めて見せかけとし、後方の撹乱を試みた。その多勢を見て狼狽した信濃の両軍は後退して敗北し、この一戦は武田の勝利になってしまった。晴信は両軍を追撃していったが、自軍も疲弊して士気が落ち、馬も疲れて喘ぎだし、動かなくなってしまった。そこで武田が敵軍をと見渡すと、信濃勢は白旗を掲げて五六百人が戦列を離脱し、甲州から退却を始めていたという。武田軍は八九町(=1Km弱)離れて追撃していたが、勝負の均衡が百姓を使った奇計で、あわよくも勝利してしまったが、兵馬は疲れ果てていた。もし少数の新手が加わわり、敵が逆襲を掛けたら、心許ない一戦になっていただろう。諏訪と小笠原の両軍はここで多少盛り返したが、形としては勝利のだし、負けるのもいやだと思い、軍勢をまとめて台より上に引き返すことを全軍に号令しようとしていた。
この敵部隊の一部の戦線離脱に、晴信は自軍の各将を招集して、この情勢分析を聞いてみると、敵は足並みを乱しているので、追討して攻撃しても面白い、という意見があった。、敵軍が、軍律も命令もなく敗走している中で、一軍だけは踏み留まっていた。このことを不審に思い、誰かに思うところを聞きやり、その返答次第では対応しようと言うことで、窪田介之丞に使い命じた。窪田は先頭に立って馬で行き、「この手勢は誰であるのか、合戦をするなら軍を寄せなさい、もう夕暮れなので合戦はやるもやらぬも良い」と大声で叫んでみたら、敵陣より武者が一人馬で乗り出して、「この一軍は信州伊那の者であり、信州の諸侯の合戦と聞き、双方の名門の戦いだから見物に出軍した。が、ゆめゆめ武田軍と弓矢を交えるつもりはなく、もう一戦が終わったので本国に帰国するのだ」と言ったので、窪田は信玄の許に飛んで帰り、このことを告げた。晴信は本陣を引いて様子を見ていると、伊那勢は備えを二分して退却を重ねていく。それで晴信も甲府へ凱旋帰国する。
ある日ある時、保科正俊が手勢を一カ所に集め、晴信の本陣を襲い、急襲と退却を繰り返し、本格的に攻撃しようと思っていたら、味方が攻められたので退却し離れた所に屯し、様子を覗いていたが、武田の陣は備えが厳重であり、これでは本陣を破れず、正俊は自分たちの勝利は無理だと思った。ある日は天文8年(1539)6月23日、台ケ原の合戦の時のことで、伊那郡への帰りは瀬沢山に入り芝平谷を通り退却したという。
それより、度重なる合戦は武田勢が勝利して、諏訪頼茂も和睦して、天文14年(1545)に頼茂は騙されて殺され、その跡(諏訪頼茂の領地と城)に板垣駿河守信形を郡代として置いた。武田左馬守信繁と秋山伯耆守晴近などは諏訪に在陣し、伊那と筑摩の両郡を押領しようと機会を覗い、時々藤沢や有賀の口より乱入して小競り合いを数回した。
高遠には、溝口右馬介、保科弾正、黒河内小八郎、同権平、非持春日、市瀬主水入道、同左兵衛、小原、山田の一党を集め、敵が寄せてくれば、青柳、杖突の嶺を固めて、藤沢の谷筋を通らせて、寄せくる敵を右に襲い左に槍を突いて苦戦させる作戦をとれば、過去に、攻めてくる敵に一度も負けたことはなかった。
だが、武田信繁と秋山晴近は別道の有賀口より乱入してきた。また馬場民部少輔信房を軍監にして四千人ぐらいが福与城を攻撃し、近在の小城は落とされた(この時福与城には藤沢治郎頼親を大将にして近在の士族が立て籠もったという)。この天文16年(1547)2月の事である。この知らせで、木曽は三千人を桜沢に進軍させ、小笠原長時は七千人を塩尻に陣地し、松尾の民部太夫信定、下伊那の知久と阪西は三千人を宮田に進軍させ、番をさせたが、武田軍は総数で及ばないと思い早々と引き上げてしまった。
同17年(1548)5月も、晴信自ら出陣して有賀と岡庭より進入して、樋口や竜ヶ崎の砦落として、今度は是非上伊那を押領したいと準備してきたので、上伊那豪族は高遠、箕輪の両城に籠もり、各地の援軍を要請したが、今度は櫛の歯が欠けるように援軍は減っていた。だが越後の国主の上杉喜平冶景虎は、早速小県郡に進軍して内山城を攻めたので、武田勢は引き返して小県に向かった。数多い戦いで勝敗はそれぞれであるが、互いに攻め取った城や砦は、軍が引くと、たちまちに元の領主に戻った。いまだ伊那では一城も武田に従わないので、計略を立てて回文を領主に回して、木曽や小笠原の連合に反旗して当家に従えば、その従心の浅深に関わらず倍の加増をするので味方せよ、として、まず高遠を手に入れようとし、合戦の時裏切ってくれれば十倍の加増を約束すると持ちかけ、さらに色々の手を使い調略したが、元来伊那の者は律儀で心は金鉄のように堅くて、少しも心変わりする者がいなかった。
しかし噂が入り乱れるのは世の習わし、如何なる人も奸智に負け、また武田反感の謀言もあり、松島対馬守が実は武田に通じて逆心の策謀がありそうだと伝聞があったので、木曽義康は大いに怒り、諸氏の前でこの是非を究明して懲らしめようと千村に命令した。千村内匠は、義康を畏れて、丸山久左衛門を松島の館に遣わして呼び出した。松島は何の疑いもなく翌朝の夜明けに宿所を出て、従者を十四、五人だけ連れて高遠に出向き、二の丸に入ろうとするところを、白木道喜斉、丸山九左衛門が武者だまりで待ち受け、左右より斬り殺した。松島の従者はこれに驚き、抜刀して防戦したが、木曽側は、前からの準備で討ち手が多く、包囲して一人残さず切り倒した。(松島の従兄弟に松島左内という者がおり、彼は比類無いくらい働き、城兵の多くを切り倒すがかなわず、丸山久左衛門に突き殺されたという)。殺害した松島と郎党の首は集められ木曽福島へ送ったところ、義康は笑って機嫌が良かった。逆心への懲らしめはこれで出来たと限りなく喜んでいたという。
心ある者はこれを聞いて、家臣への扱いに信義のない木曽殿の振る舞いに、忠はあるが情がない、松島への疑念が一度湧いたら、真実を糾すことなく誅殺に、疑念した。他人事だが辛いことである。今は他人事だが明日は我が身か、と郡中の心は木曽殿から離れた。このことで武田の家来になっても良いと思うものが少なくなかった。
御堂垣外の保科正俊は幾度となく武功を揚げ、槍弾正と異名を持つ強者の勇士で、居館に砦を築いて諏訪口を押さえていたが、この木曽殿の様子を踏まえて、深く考えた。武田の勢いは日を増すごとに強大になり、更にこの頃の木曽殿の振る舞いを見れば、今後の展望が開けないし悪い流れで武士道までが蔑ろにされる。この乱世では、時に家系が断絶することもあろうが、この人に従っていたら確実にそうなる。だったら武田勢を引き入れて高遠を乗っ取り、一族が後日繁栄するように計画した方がよいと、時に城番に来ていた非持三郎春日、淡路、小原某を呼んで密かに相談に及んだ。三人とも異議が無く了承し、我々は木曽の譜代ではないし、木曽が高遠を押領したので仕方なく従ったまでで、いずれ家を興し、かつ子孫のため、逆心した方が先祖の孝養にもなると四人は心を一致し、時節の到来を待った。
・・・概要と疑問点
木曽義久が引退した後の、高遠の統治について、ここでは木曽家の意向に沿った、高遠郡代が千村内匠に決まった経緯の記述である。そもそも木曽の高遠支配は、定説にない内容で、違和感を感じる。
ここには、諏訪信定の名前もないし、高遠頼継の名前も出てこない。何故か。高遠頼継との関係は別書で深掘りして証左を求めている。
その中で、松島対馬守が木曽を裏切り武田へつくという間違った噂で、木曽家の対応のまずさがあり、伊那の団結の崩壊、とりわけ高遠の人心の離反が語られて、武田の侵攻に繋がっていく。
確か千村内匠に殺されたのは松島対馬で、定説では伊那孤島の八人塚伝承で殺された中に松島がいたが、松島豊前守信友と言ったか、その関係?。
高遠満継も証左が難しく、諏訪信定が高遠を名乗ったかも確認が取れず、保科正俊の主はいったい誰かは、未だに謎で、整合性は更に険しい。
槍弾正と異名を持つ強者の勇士で・・はこの後の武田臣下時代のあだ名で、臣下前の記述はおかしい。
これは、後日談の戦記物?
・・感想
武田勢囲城付御嶽権現霊験 蕗原拾葉11より 2013-05-05 02:24:39 | 歴史
武田勢囲城付御嶽権現霊験 現代語訳
前文
これは、武田信玄が上杉謙信と対峙している時代の、同時進行の信州伊那制圧の始めの、高遠攻めの戦闘の様子を、当時高遠を支配していた木曽家から書いた戦記物語である。だが、これには異説があって、高遠を支配していたのは諏訪家だという説もある。
武田の信州攻め序章
武田晴信は信州を征伐しようと天文18年(1549)4月12日甲府を出発した。同13日諏訪郡小條の着陣。この報告を聞くと、保科正俊はすぐに晴信に使いを送り、武田軍と高遠軍が戦闘状態に入り、形勢が膠着した時は、高遠を裏切って武田の味方し参戦するむねの、一文を起請文にしたためて送った。晴信はこれを読んで大変喜び、了解して、伊那と木曽と松本に軍勢を三つに分けた。伊那方面へは浅利信友、馬場信房の2人を大将として、また足軽大将には山本勘助、安間三右衛門の2人を付けた。秋山伯耆守は諏訪に陣地し、伊那軍と度々小競り合いを繰り返し、軍立てや地形にも詳しいので、すでに先陣として出発していた。こんな時、同24日、越後の上杉が小県まで出陣してきたという報告が入り、急遽再び武田も海野平に進軍し、上杉と対峙した。同5月10日、上杉景虎が陣を引き払って帰国したので、晴信は諏訪に戻り、前述の大将達に命令して伊那口に侵入した。
武田の伊那侵入と高遠勢の対応
このことが高遠にも伝わったが、保科が裏切っているとは夢にも知らないで、前回のように、難所と思えるところに待伏兵を置いて、あちこちから武田勢を混乱させながら打ち勝とうと思っていた。城にはわずかの人数をのこすだけで、神宮寺には千村内匠を大将に残し、保科正俊、市瀬入道、同左兵衛、非持三郎、春日淡路、林式部、小原、山田の一族等の木曽の家来衆1200人を、杖突峠の嶺に敵陣を見下ろせるようにして備えた。金澤口へは溝口氏友を大将とし、青柳の嶺に300人と、わずかだが屯駐させ、敵が来たら、谷より神出鬼没に不意を突いて攻めかかる計画をたて、黒河内兄弟や原八郎や埋橋の一族には、道すがらの谷や嶺に5人、7人と別々に待ちぶせさせたが、その人数は3,400人に過ぎなかった。
武田の伊那口侵攻
武田の浅利や馬場は3000人の軍勢を二手に分け、青柳に攻めかかった。まえもって、保科が裏切りを内通していて、戦い半ばで反旗を翻すことを知っていたので、あえて、危険だと知っているところを登っていき、片倉の戦いでも、道の左右を伺いながら、ゆっくりと時たま脅かしの鬨の声を上げ、敵に挨拶するがごとく進む。溝口氏友は少人数なので無理をせず、にらみ合いだけでやり過ごす。杖突峠には秋山晴近の軍勢2000人が、7月4日夜明け時に、霧の中を攻め上っていく。互いに大声の鬨の声を発していく。鉄砲が数発発射されると、すぐに敵軍が魚が連なって泳ぐように、我先にと競って登ってくると、地理を熟知している味方の元気なものは、この岩陰やあそこの木立を盾にして弓矢を雨のように射かけていく。進軍してくる甲州勢の2,30人がすぐに射倒されるが、あとに続くもの注意深く防御しながら進軍していく。味方が嶺の陣地より隊列を整え槍先を揃えて突き進むと敵は先頭に槍先を受けて、戦闘状態になる。膠着状態が続き、甲州勢は波のように、引いては返し、また引いては返して、命を惜しまず戦ってくる。味方はその都度、引いて陣に戻り、さらに攻めていくので、場所が変わりつつ、弓や鉄砲で反撃し、敵が色めき立っているところを攻め込んでいく。双方とも、死を恐れずに戦っていたが、そこは味方のほうが地理に明るい山道なので猿やいたちのように、梢を伝いフクロウが木の上で戯れるように、逃げ隠れする。この様に、あちこちから攻めるので、敵は追い立てられてなかなか決着がつかない。日は昇り、すでに午後になろうという頃は、双方戦いに疲れ、陣を隔ててにらみ合いの状態が続く。
保科弾正の裏切り
保科弾正は前から武田に内通していたので、非持、春日、小原の武将達300人とともに打ち合わせて、戦闘場所を離脱して離れて、敵味方の戦いを傍観していた。そして頃合いを見て、軍の備えを逆に向けて立て直し、戦いで疲弊した高遠軍に向かって鉄砲を放ち、鬨の声を上げて攻め込んでいった。甲州勢は、保科の裏切るに呼応して、白地に黒い三階菱の軍旗を掲げて、まっしぐらに攻め込んでいった。市瀬入道は憎き保科の裏切りを見て大変怒った。状況は一変し、敵に取り囲まれ、逃げる道もふさがれてしまったので、皆が一丸になり、目前の敵の隊列の一点に絞りそこを突破して、その後に裏切りの保科を討って無念を晴らそうとして、殿原よ続け、剛の槍をつかみ取って隆々と振り回し、甲州勢の槍に中に突っ込んでいった。戦いは険しい細道で追いつ追われつの時、入道の槍は、突きの的を外して勢い余り、敵陣へつんのめり、14,5人を将棋倒して谷底へ転げ落ちた。甲州勢は串刺しになり、市瀬とともに岩に当たったり木の根に引っかかったりして、ことごとく死んだ。これが本格的な戦闘の始まりになった。
藤沢谷の戦い
高遠勢は死を覚悟した800人が城を守り、勝ちに乗じた秋山の手勢は、真一文字に進軍を開始する。だが、甲州勢は思いもよらず反撃されて、坂を下り、2,3町ぐらい敗走する。秋山の旗本が崩されそうになったので、自身で旗本を鼓舞して防戦し、激闘が続く。高遠勢は、新手の保科勢に隊列がだんだんと崩されていき、山田も林も討ち死にして大崩れになり、松倉を捨てて敗走する。秋山晴近は一計を図って、鉄砲隊を左右の山に配して待てば、敵が踏み留まり反攻してくれば、左右の山より鉄砲を放ち反撃をすれば、盛り返せずに敗走する。甲州勢は勝ちに乗じて、敗走の軍を追うと敗走軍の味方は、御堂垣外に退却しさらに追撃され、もはや逃れまじきと思う時、青柳を守っていた味方が劣勢を聞きつけ、御堂垣外に駆けつける。この戦いの状況を見た黒河内小八郎が真っ先に救援に駆けつけ、長い穂先の槍で、溢れるように多い多勢の敵に向かい、かまわずに切り込み、三騎の敵を倒したが、そのまま逃げずに踏み留まり、討ち死にしてしまった。この後敵は追撃を止めたので、高遠勢は虎口より城に戻った。
高遠城の戦い
千村内匠は剛のもので、ここまでは負け戦だが、意気消沈する兵士を見渡し、守りの薄いところに配し、虎口(危険箇所)に手勢を多くし、城兵1000人を集めて、油断無く敵を待った。甲州勢はその夜は保科の館の焼け跡に陣を張り、翌5日の巳の刻(午前10時頃)、3隊に分かれて軍勢が5000人ぐらいで、徐々に城に詰め寄り、向陣(対面陣)をしないで、月蔵山の山麓のやや平場に登り、一気の蹂躙を試みようとした。だが千村は、乾き堀の外に柵を設けて準備していたので、敵は柵のところで攻撃を妨げられ、そこへ城から矢や石を飛ばされ、敵兵が何人か討ち取られた。動揺した敵を見て、味方は城門を開けて打って出た。いきり立った敵を尻目に、さっさと兵を引き、城に戻り門を閉じる。この繰り返しを何度かやりった。虎口の人の多いところの防御はかなり厳重なので、敵の浅利、秋山、馬場の三大将は馬で見て回り、長期戦に切り替えて向陣(対陣)を張り、道を遮断して食料の尽きるのを気長に待つ戦略に方針を変えた。その後は攻めることを中断して長期戦に専心する。
晴信の動向
この時晴信は、佐久郡に軍を置き、景虎が出陣するのを牽制していたが、上杉の動向を見定めて、板垣(弥次郎)信里、日向(大和守)昌時、原(加賀守)昌俊は、足軽大将の小幡(織部正)虎盛、同弥次郎、原与左衛門、同総五郎、横田十郎兵衛、市川入道、梅印伝五郎の七騎とともに下諏訪に戻って布陣し、時どき塩嶺峠に登り、足軽を熊井や高出まで様子見させ、撹乱して深志勢の出方を待った。そこへ木曽勢が救援に来そうだと連絡が入り、井利藤蔵と内藤修理の手勢に、原美濃守と曽根七郎兵衛を加えて兵をさし向け、今回は必ず高遠を手に入れて伊那の拠点とし、そこから伊那全体の領有の足がかりとすると評定した。おりしも、高遠は籠城になって10日間になり、兵糧はすでに少なくなり、飢餓の状態になろうとしていた。木曽や小笠原の救援を命綱として頼っていると見た武田勢は、通じる道を塞ぎ、揚げ句に木曽にも乱入しようとした。
高遠城籠城
これを聞いた高遠の城兵は大変力を落とし、魚が濁水に息絶え絶えのように日に日に気力が衰え、取り囲まれて餓死するよりは、城を捨てて打って出て、差し違えて1人でも多くの敵を倒してから討ち死にする方がよかろうと決意し、決行は翌朝早朝に敵陣突入と決めたので、今宵限りの命だから、一杯の酒で生涯の思いを発散しようと友が身を寄せ合い、別れの酒で夜を過ごす。
天文18年(1549)7月16日、月夜の戌の刻(午後8時頃)を過ぎたあたり、霧がにわかに湧きだして辺りを覆い始め、細雨もしとしと降り出し、城内が物寂しくなり、虫の声が遠くに鳴く夜半に、東の城戸を密かに開く人があった。皆が驚いて素性を聞くと木曽谷より来たもので、千村殿に少し会って話しがしたい、と答えたので城中は、きっと木曽の救援の知らせであろうと耳打ちし、千村に知らせた。千村内匠はこの知らせで、急に起き上がり、腹巻きを外して肩に掛け、脇差しのみで門櫓に登り、松明を投げ落としてその人を見ると、年齢が80にもなろうかと思われる年老いた翁が、白い水干(狩衣)に烏帽子をつけて、内匠に向い、今夜の敵陣は長い遠征の為に疲れ切り、見張りまで怠って皆眠っており、とくに小原村にある陣地は、宵の頃より酒宴をしているので、今はほとんどが泥酔している状態で、急遽城を開けて、木曽へ向かって落ちていけば道筋の障害は何もないだろう、決断は早いほうがよい、と言い残して、何処かに去っていった。内匠は、一瞬茫然としたが、すぐに門櫓より飛び降りて溝口に相談したところ、溝口氏友も不思議な気分で居り、すぐ斥候を放って敵を探って時期について検討した方がよいと、実際に探って見たら、老翁の言葉の通りに敵陣は静かで、人がいるようにも見えなかった。
高遠城開城
しがらみが無くなったり捨てたりして気持ちを整理し、先に開城して急いで脱出することで、後日に後ろ指を指されたくないと三々五々に水の手に沿って河原に降りて、三峰川沿いを西に向かっていく。丑の中村を過ぎ、羽広村の仲仙寺着いて、集まってみて、此処までたどり着いた者を数えてみたら、630人であっと。そこからは、各別に落ちていく中で、溝口(右馬ノ介)氏友は、下伊那の、一族の松尾小笠原(民部太夫)信定の所に行き、寄食した。
千村内匠 木曽へ逃避
千村は残党を率いて木曽に行き、木曽義康に会見し、合戦の経過を報告した。そして宿舎に戻り年老いた母と対面した。母は一度死んだと諦めた息子が生き返ったと喜び、めくらの亀が浮いている木にしがみついているように、手を握り、語り合った。さても今度は保科弾正が裏切り、味方がこの様な敗北を喫し、また兵糧が尽きて落城してしまったこと、時期が迫り、悪いことに木曽殿にはご無礼だが、臣下の者はやる気を失い、今後の攻勢を誰一人考えず、その指揮を執ろうとしない。これでは、高遠を亡びるのは当たり前だ。優しい殿(和殿?)は、討ち死にと知らせがある度に拉がれ、連絡が無いと知ると、もし老木の桜が散ってしまったとしても、若木の桜はこれからだと御嶽権現に祈願して17日間断食をして、内匠が戦死したのは世の定めで、仕事がうまくいかなくても、老いの命をもう一度復活させ、今一度内匠に会いたいと懇願し、満願の夜になって、願いが叶い、この様なけなげなことは本当に大権現の霊験であると思った。
穴尊の世は、桃李に至るといえど、神明の応護は変わらず。
穴尊の意味が不明。
別説1
木曽軍記には千村の開城は天文17年(1548)7月16日、とあります。
別説2
伊那温知集によれば、松島対馬の誅殺は木曽義昌の代で天正10年(1582)という、しかし打ち手に選ばれた丸山久左衛門は天文23年(1554)8月に、武田勢が木曽に乱入した時に討ち死にしている。信用しがたい。
甲陽軍艦に弘治2年(1556)5月、伊那へ進軍したとあり、溝口、松島、黒河内、上穂、小田切、伊那部、殿島、宮田を悉く誅殺したとあり、天文23年(1554)、下伊那の松尾が落城して、小笠原長時と溝口氏友が遠州高天神へ逃げ、小笠原信貴は武田へ降参したことが小笠原家伝にも伝えられ、下伊那の老いた友人にも言い伝えが残っており、城は小さいけれど数10の城を残しておいて、20里に長旅のあとで、峻険の城を攻め落とすことは無理なので、軍艦の説も信用できない。
別説3
黒河内家伝では高遠落城のあと、溝口とともに黒河へ逃げ、三羽根の嶺に見張りを置いて、保科に降参した市瀬左兵衛が高遠へ出仕するのを妨げ、百姓までをも殺害したので市瀬に住んでいる住民は道路を封鎖して大沢の山伝いに高遠に行った。その後、保科は兵士を連れて焼き討ちし黒河内を滅ぼしたという。年月は正確ではないが天文18か19年(1549.1550)は確かである。
別説4
溝口家伝には小笠原(信濃守)貞宗の孫の(弾正少弼)政長の三男(左馬介)氏長が始めて溝口村に住んだ。その五代孫が越前守貞信という。天文(1532-)の始め、家を氏友に譲り、自身は下伊那の松尾に行き、小笠原に寄食する。高遠義久とは嫁親なので高遠の滅亡を憤り、木曽に憤慨しているその後天文13年(1544)正月13日松尾合戦で貞信は討ち死にし、嫡男の氏友は木曽に従い、そのあとで松尾にやって来たことを本文に記入するが、松尾落城のあと遠州の高天神に逃げ、更に京に行き三好家の客となり河内国高安郡で討ち死にする。その子孫は紀州に住んだという。