探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

古書は語る-----高遠記集成(蕗原拾葉

2013-05-29 15:24:15 | 歴史
古書は語る-----高遠記集成(蕗原拾葉)より

星野葛山常富
1774*-1813* 江戸時代後期の儒者。
信濃高遠藩士。大目付,郡代兼勘定奉行、侍講。編著に「高遠記集成」

この書の特徴は、後日談としての戦記物、木曽家系譜として読んだ方が良さそうである。したがって、当時の事実と当時の事実でないものが入り交じり、特定の家系に偏り、歴史の流れを歪めている部分も多い。勿論事実として認定する部分も多いが。
記述は江戸後期と思われる。ただ、高遠が武田の領国になった以降は精度が高まる。

笠原頼直略伝付高遠築城  蕗原拾葉11より 2013-04-15 22:36:42 | 歴史

笠原頼直略伝付高遠築城 現代語訳

さて、信州伊那郡笠原荘の高遠城は、元暦年中(1184-1185)に造られた城である。
笠原平吾頼直というものが築城したという。
頼直は、桓武天皇の末裔で信濃守維茂の曽孫にあたる。

笠原家の始祖は高井郡に住んでいたが、当笠原荘に移住し牧監(牧場の監督役)に任命され、天神山に居城を構えたという。
・・異説、年代は不明だが、(笠原)が高井郡に住んだという地を笠原村と呼んでいたというのは誤りで、笠原という村名は、(彼らの活躍した時代より)後世に付けられたものである。牧監は別当と同意の言葉である。

治承年中(1177-1181)笠原頼直が大番(御所などの守衛の役の意味か)で京都にいた時、一院(法王=後白河法皇)の第2皇子の高倉宮が以仁王と謀って、平家を誅殺して皇威を復興したいとの強い意思で、源(正三位)頼政入道を頼りに、勅旨を下した。少し前、六条判官(源)為義に命令して東国の源氏に平家征討の令旨を出していた。新宮氏と領民はすぐさま呼応して行動したが、その計画は露見してしまい、検非違使などの役人が宮殿に直ちに向かったので、(平家打倒に呼応したものは)円城寺に逃げ、なお南都(平安以降、奈良を南都と呼んだ)の七つの大寺院の僧達に都の警備を依頼し、治承四年(1180)5月25日、頼政(入道)の家来衆と(園城寺の)寺法師とともに三百人以上のものが南都に守衛兵として集結した。これに対して平家側は、(左衛門督)知盛と(右近衛少将)重衡と(前薩摩守)忠度を大将にして、御所守衛の武士を招集して二万八千人で防御に対応した。この素早い応戦で、予想より早めに宇治の郷で追いついてしまった。(宇治)平等院にて、一戦に及んで、平家打倒側は、頼政入道を始め、ことごとく討たれてしまい、以仁王?宮も光明山で流れ矢にあたり殺害されてしまう。笠原頼直は、この戦いで戦功を上げて、平家の勝利に貢献する。頼政入道の郎党や、以仁王宮は意味のない謀反をやって死んでしまい、戦いは終結して周辺は静かになったという。・・・治承の乱?

だが、東国に平家追討の命令を出し、挙兵を促せば、いずれか、諸国で、源為義(麒尾=優れた英傑)を頼って謀反の挙兵をする一族が密かに挙兵を企てている情勢になった。そこで、ここにいる平家守衛の人達は、それぞれ自分の領国に戻り、適切な行動を起こして反乱を鎮圧せよ、と御所の護衛の役目を解かれ、暇を貰って自国へもどる。この様な経緯で、頼直は6月下旬に領国(笠原荘)に帰る。そして隣国の同志と連絡を取りながら、挙兵の兆しを注意深く眺めていると、同年8月に伊豆国で流人であった(前右兵衛佐・源)頼朝は一院(後白河法皇)の院宣を奉って、蛭ヶ小島で挙兵し、目代(国司の第四等官の代理)の平兼隆の山本郷の館を襲って石橋山に登って与力加勢の連中を待って、平兼隆を討ち取ったことを宣告した。
東国の(平家打倒の)挙兵の勢いは下火にならず、ますます燃え広がる。
昔、久寿二年(1155)8月12日武蔵国で悪源太義平に討たれた源義賢がいたが、父の戦死の時わずか二歳であった木曽(冠者)義仲は木曽山中で成長していた。そして、さる5月に叔父の蔵人行家の勧めに応じて、令旨を賜った。叔父の行家は元の名を義盛と言うが、令旨を伝達する使いに任命されるとき、蔵人を官名され、その時に行家と改名した。木曾義仲が挙兵の旗を揚げようとするとき、高倉宮の平家追討の計画がばれて、頼政入道をはじめ、兄の蔵人仲家が戦死してしまったと聞いて、行家は落胆していたが、頼朝の挙兵を聞いて大変喜び、義仲とともに吉日を選んで9月7日に、急遽信濃国木曽谷で旗を揚げ、信濃国の源氏を招集するにいたった。
この日、笠原頼直は考えていた。木曽義仲は源氏の正当な嫡流だから、頼朝の挙兵を聞けば、必ずそれに呼応して挙兵し、天下に号令をかける人になろうとするであろう。それならば、勢力の小さいうちに誅殺した方がいいと決断し、甥の穂科権八と笠原平四郎を始めとする三百人余が下伊那へ出陣するこになった。
(ある説では、桜沢や平沢等の道はまだ未開発であった。その上で兼遠の妻子はこの時妻籠に住んでいたという。兼遠一作任?)

栗田寺別当である大法師覚範は源氏に縁がある者なので、この笠原直の動きを聞いて、急遽木曽義仲へ注進に赴き、木曽周辺の郷民を集めて、村上七郎義直とともに、総勢五百人余りで市原に出向いて一戦を交えた。だが日が西山に傾く頃になっても初戦は決着がつかなかった。だが事態が急を要したのは、村上義直軍の矢種が無くなり、再起を期して隠れて好機を待っていたが、夜半になって、片桐小八郎為安が軍勢を率いて義直の陣に加勢してくれたので、たちまち勢いを取り戻して、翌日の8日の明け方に、笠原の陣に攻め込み、鬨の声をあげるなどして乱戦になる。笠原頼直は、真っ先に馬を、戦いの中に乗り入れて、笠原軍を鼓舞て戦うと源氏方はたちまちに崩れだして一里ほど後退させられた。平家側は勝ちに乗じて追いかけ、散々に躍りかかる。源氏方は、昨夜より加勢した片桐軍を伏せておき、折を見て立ち回り、白旗や白印を靡かせて、鏃を敵に向けて、散々に矢を放つ。思いがけない敵の出現に、平家側はどっと崩れ、立ち往生してしまい、弓などを投げ捨てて雷が落ちるがごとく、隊列を抜け出して逃げる。その乱れに、前後より攻め込めば、平家方は大崩れを起こした。
平家側の管冠者友則は急遽旧領の大田切に逃げて隠れた。
源氏側は、残りの兵を集め、次の戦い方を協議をする。それは、木曽越えでやってくる覚範の木曽の援軍を待って戦うか、すぐに戦った方が有利か、評議は分かれた。だが、やがてやってきた義仲が言うには、凡軍は不意をつけばすぐ崩れるだろう。笠原軍は長征して表の道を来ているので、ここで味方は間道を通って笠原の根城を襲って焼き討ちにしよう、そうすれば当面の敵笠原軍は、逃げ場を失い敗北することは疑いの余地なし、と急遽決まって、殿原から木樵を捕まえて案内させ、駒ヶ岳を南に回り、道のない獣道を、岩石をよじ登り、葛や蔦のつるを頼って、険しい崖などを乗り越えて、苦労して伊那郡に討ち入りする。(現在この道は木曽殿越えという、かなり険しい)馬はみな乗り捨てて、歩行にて行進し、家に火を掛け、笠原の館辺りは、灰燼となり、馬も数百匹を解き放ち、そのあと木曽を目指して凱旋した。
笠原頼直は、笠原郷と自分の館が木曽軍に荒らされたのを聞いた。その時、笠原軍は多くの手勢が直が手元のあり、笠原荘の館を守る兵は少ししか残してこなかった。だから、ここの負け戦は仕方のないことで、大田切が奪われなかったのは勝ちに等しい、と負け惜しみを思ったが、怒りを抑えて、館が焼け落ちるのを悔しそうに遠くから見ていた。
・・・鉾持神社の伝承に、治承4年(1180)高遠・板町三十町の地頭石田刑部が鎌倉勢との戦いで敗北した、・とある。
同年11月、甲斐源氏の武田太郎信義と一条次郎忠頼の両勢は有賀口より攻め込んで大田切を攻撃する。伊那郡の源氏側の人達は挙兵して、後ろより矢を放って城軍の管冠者を殺害したが、笠原頼直は囲みの一方を破って、城四郎資永を頼って越後を目指して逃げていった。
・・・鉾持神社の家伝では、養和元年(1181)より鎌倉郡代として日野(喜太夫)宗滋は三十町を賜り板町に住む。その子は(源吾)宗忠という。

養和元年(1181)6月、越後国の城資永兄弟が、千曲川の近くの権田河原で陣を置き木曽勢と戦うが、笠原平吾頼直は城軍に加勢した。しかし城軍は木曽軍に敗れて、頼直は高井郡に逃げ、片山の目立たぬ所に潜んで住んだという。
(現在もその村は存在していて笠原村という。穂科権八も高井郡に隠れて住み、今の保科の祖になったという)

元歴元年(1184)、反目した木曾義仲を頼朝が成敗すると聞いて頼直は大変喜び、鎌倉に出向き、同5月に小山、宇都宮の軍に属して、清水冠者義高の軍を追討するとき功績があって、同6月に頼朝より本領安堵され、やがて故郷に帰り、各地に逃げ散らばっていた一族郎党を呼び返して、天神山では狭いので、東月蔵山の尾崎が好適地と決め、城郭を築き高遠と名付けた。この城は南側は岩石が急峻にそびえ、下方には三峰川の急流に臨み、西山側は山が険しく、松林が枝を張り密集して生い茂り、その下方は苔の生えた滑りやすい場所で、藤沢川も堀として通用する。東側は月蔵山の麓に連なっており、幾分平坦なところに塀と堀を幾層にして周りを囲み柵も設けて守りの堅固な城に適した場所であった。その形は兜釜に似ているところから甲山とも言った。
(一説に、山の鞍の部分の甲山の呼称は、築城の以前よりの名前であったという。)

頼直はここに移住し、子孫は代々相続したと言うが、年代は不明である。

暦応(1338-1432)の頃まで(笠原家は)連綿と続いたという。いま、笠原村の丑寅に蟻塚城という城趾があり、応永(1394-1428)の頃、笠原中務というものが住んだという。高遠が木曽に変わったときから子孫はここに移り住んだと言うが、文献が乏しく残念に思う。・・完

概略・・・
笠原頼直は笠原荘(今の高遠)に牧監として、平安時代末期に住んでいたらしい。
笠原頼直は系譜が桓武天皇に繋がるらしい。そして治承の乱の時平家側の武将として活躍する。
笠原頼直は、木曾義仲の平家打倒の挙兵に抵抗して幾つかの戦いをするが、結局破れて高井郡に隠棲する.時を経て頼朝に臣下し、反乱の鎮圧に貢献して旧領を安堵され、笠原郷に帰り高遠城を築城する。この時から笠原郷を含めたこの地が高遠と呼ばれる。
笠原家は1330年代に、支配を木曽家に替わられて、蟻塚城に移住。この時の木曽家は?
笠原家は1520年代に、その頃勢力を拡大する諏訪家と戦い破れる。この時の諏訪家は諏訪信定で以後高遠城は高遠(諏訪)家の支配となる。
・・傍証は、鉾持神社伝承。鉾持神社は鎌倉期前後政府の官舎か官舎と神社の併設所らしい。そして笠原家と縁を持つらしい。そこの伝承は笠原氏の存在確認の第2の証拠となり得るので、笠原氏の牧監と木曽氏との抗争と敗北は信憑性を深めそうだ。・・・感想


木曽家親移住付高遠家廃興 蕗原拾葉11より  2013-04-20 15:37:52 | 歴史

木曽家親移住付高遠家廃興 現代語訳

その後、何年か経て九十五代の帝を後醍醐天皇と呼んでいた。
帝が鎌倉の執権北条高時を誅殺でき、ようやく北条一族の過去の悪政に報いができた。
しばらくしたら、高時の次男の相模次郎時行が、信濃の諏訪郡の三河守諏訪頼重の許に隠れて生き残り、時行と同志の北条残党を集め鎌倉へ反撃して復権する事を計画する。
旭将軍木曾義仲の六代目の後胤の木曽又太郎家村(・太平記大全には木曽源七)は出征し、時行軍と戦うが、木曽軍は少数なので敗北を喫し、ついに時行は鎌倉へ乱入する。
足利治部大輔尊氏は応戦するが、時行に反撃される。要所の鎌倉で幕府に反目するので、尊氏は新田左兵衛督義貞を節度使(この時は鎌倉の鎮圧軍)に任命して鎌倉へ出向かせた。義貞の軍勢は各所の北条残党を攻撃した。箱根の一戦でも勝ち、少し前の足利直義も打ち破り勝ちを誇って搦手に向かうが、官軍が、一宮の尊良親王に箱根の竹ノ下の戦いで敗北を喫したのを聞いて、義貞は力及ばずと思い帰京する。
尊氏は東国の幕府軍を率いて、再度北条残党に攻め向かっていった。木曽家村はその前から尊氏に追随し、大渡の戦いから山門の攻撃、京中の合戦、豊島河原難戦、また西国落ちの湊川の戦いに至るまで、数々の戦いに戦功があった。その功績で、暦応元年(1338)9月7日讃岐守に任官され、木曽谷とともに伊那郡高遠と筑摩郡洗馬を与えられ、帰国して長男を高遠に住まわせた。長男の名を高遠(太郎)家親といい、これが高遠家の始祖となった。

以下、木曽家の家系図
(箇条書き、に書き直して)
木曽義仲には四人の男児がいた。
・長男は、志水(冠者)義隆、頼朝の虜になり元暦元年(1184)4月21日武州・入間河原で殺害される。・次男は、原次郎義重。・三男は、木曽三郎義基。・末子は、木曽四郎義宗。・・母は、上州の住人の沼田家国の娘であった。
・・原義重、義仲が討たれた後、祖父の家国に育てられ沼田荘に隠れ住んだ。その子を刑部少輔義茂という・・義茂は義重のことか?。・源三郎基家は、原義重の子。鎌倉五代頼嗣将軍(摂家将軍藤原頼嗣)から名香山荘を貰う。鎌倉に出仕。・安養野兵部少輔家昌は基家の子。上野家の始祖。・熱川刑部少輔家満は、系譜。熱川家の始祖。・千村五郎家重は系譜。上州に住んで、そこが千村荘になる。・・六郎は早世。
*・木曽七郎・伊予守家道は系譜。木曽須原に住す。義仲以後絶えた木曽家を再興し祖となる。
・木曽佐馬頭義昌は、系譜。この時、南北朝が分かれて天下に動乱が起こり、以後しばらく騒乱が続いた。その中でも高遠郡は、南朝の皇子(一品征夷大将軍)宗良親王が大河原の香阪高宗の城郭を御所に見立てて、朝敵の追討の計画を着々と遂行していた。当信濃国の宮方には、上杉民部太輔、仁科弾正少弼、井上、高梨、海野、望月、知久、村上の一族が勢力を誇示し、近隣の敵に対して優勢であった。将軍側はそれぞれの城が孤立に陥り、防戦はするものの、反旗を降ろして宮方に従う。
*・木曽家親は義昌の子。やむを得ず木曽家親も降参して、大河原に長年にわたり臣下していたがやがて死去する。・・その年月は不詳。
*・その子の太郎義信が後を継ぎ、応安2年(1369)10月に、上杉弾正少弼朝房と畠山右衛門佐基国入道が両大将として大河原の御所を襲った。これに対し宮方の諸将は塩尻の青柳の峠を守って防戦する。折しも、連日の大雪で双方の戦いが膠着していた時に、12月21日、伊那の諸将は青柳の畠山入道の陣に夜襲を掛けて追い払うに至った。上杉陣も勢いが衰え、同23日、和田まで退却し、それから武州の本田へ帰った。それで、伊那郡が平穏になった。だが、長引いて宮方の気運がだんだんと衰え、信濃国の諸将がほとんど宮に反旗を翻していった。康暦2年(1380)宗良親王は大河原を引き払って河内国にお帰りになった。
*・木曽義信も、守護の小笠原長基に臣下していたが、やがて明徳年中(1390-1394)に死去。・その子の(右馬助)義房が家を継いでいたが、応永28年(1421)に死んだ。
*・その子の上野介義雄の代になって、南朝の宮の尹良親王(宗良親王の第2皇子、吉野で元服して正二位大納言、元年(1386)8月に源氏姓を貰う)は、千野(六郎)頼憲の諏訪島崎城には入った。
伊那の松尾小笠原兵庫介政秀と神ノ峰城の知久(左衛門慰)祐矯と大河原の香阪入道を始めとする諸将は、守護臣下から変心して守護の背いて、尹良についた。
*・木曽義雄も宮方についたが将軍側にも属して日和見して孤立の難を逃れ、家を失わなかった。文安2年(1445)3月16日死去。法名義雄殿寺○宗と号す。・その子(左衛門慰)義建、文明(1469-1487)の頃没す。
*・その子を兵庫助義俊という。義俊は、武名が父祖より優れ、近隣の小豪族を従え、諏訪刑部大輔頼隣(ヨリチカ)を討って諏訪郡を手に入れようと野望した。義俊は、小條での戦いで、接戦を制し、いったんは勝利したが、大将の義俊が流れ矢に当たって討死、それで味方は敗北して退去するところを、頼隣に追討され、高遠城に逃げたが、囲まれ何度も攻められられる。味方は準備無い突然の籠城なので、兵糧に欠乏し、兵は飢えに苦しみ、やむなく降参をして、いったんの延命を図る。諏訪頼隣はこれを許しして、
*・義俊の幼な子の義嶺に元の領地を与える一方、義俊の旗本衆を諏訪家に帰属させ、代官として頼隣の次男右兵衛慰信定を天神山の城主に据えて諏訪へ帰る。信定は義嶺が幼少をいいことに、牧を横領して義嶺に与えなかった。義嶺が成長してこの不正を時の信濃守信有に何度も訴訟したが、言を濁し遅らせた。挙げ句に、義嶺を追い出してその跡地を信定の所領にしようとしたので、とうとう憤慨して、この不正を許さんと、信定に反旗を揚げて、多年の鬱憤を晴らそうと思っていた時、好機が到来してきた。信濃守政満(頼隣の孫、信有の子)が大祝高家に殺され、諏訪郡、諏訪家が二つに割れて争乱が起こった。義嶺はこの時とばかり与力の兵を集め、天神山に夜襲を掛ける。信定は、諏訪の騒乱を鎮める事にも気を遣い、郎党を双方に分けて派兵してきた。信定軍は少数だったので支えきれず、囲みの一方を破り、笠原山に逃げ登り、黒沢を峰伝いに諏訪へ退却する。これで、義嶺は元の領土を取り戻し、その地の領主を支配するに至った。・その子は豊後守義里。
*・その子左衛門慰義久に相続して繁栄する。天文(1532-1555)のはじめ、義久は、高遠の郡司小笠原孫六郎信定と不和になり小競り合いをするに及んで、隣の木曽谷の領主の左京太夫義康(・家村から八代あと、甲斐軍艦では左衛門佐義高)は、義久の軍が孤立し援軍がないのを確かめて、兵を潜めながら来て高遠を襲う。義久は突然のことで防御の時間と対策がとれず城を明け渡して落ちていった。哀れであった。これで高遠九代百九十年の歴史の木曽高遠が絶えた。木曽が木曽に攻略されたのである。

高遠治乱記では、永正年中(1504-1520)諏訪信定が天神山に城を構えて付近を領有していた。天神山城には信定の子息を城主にして高遠一揆衆を治めた。諏訪一族の統治に抵抗する貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部)は、天神山城に夜襲をかけたが、保科が天神山の信定に、夜襲があることを知らせたので、信定の郎党は諏訪の黒沢山の峰伝いに諏訪に逃れた。この夜襲に怒っていた諏訪信定は陣を立て直し、諏訪から藤沢谷を通り高遠に入って、貝沼と春日を討ち果たし、その両人の領地を、夜襲の知らせの礼として保科の与え城に戻った。これより保科氏は、高遠一揆衆のなかで一番の大身になった。
・・この保科は誰か、不明。藤沢谷の保科、若穂保科から流れた保科正則の可能性。
・・この時の高遠城は不明。天神山城が諏訪一族の城であった。諏訪家の家系に拠れば、諏訪信定は、諏訪頼隣(刑部太夫)の次男で、信有(信濃守)の弟である。
諏訪家の財力と武力は、かなり裕福だったので、他を軽んじて自身を信じすぎて、子孫などの力を信用しなかった。

ことに保科家は、従来からの諏訪家の家来ではなく、保科(正則?正俊?)の父は高井郡保科の領主であり、保科筑前守正則とその子の甚四郎正俊の代・・疑問・に、伊那郡に移り、正俊は文永二年83歳で卒する、と保科家系に記録がある。
逆に辿れば、正俊の出生は永正8年になる。このことを推測すると、永正年中に「高遠治乱」が起きたとすると、永正17年の永正末年でも正俊10歳の小児となり、10歳の正俊が武功を挙げて一家を興すというのは、無理がある。

一説には、木曽高遠家は木曽に負けて所領は減らされても、なお高遠に住んでいたが、まもなく病死する。子が無くて家系は断絶したともいう。
箕輪系図といって、伊那恩知集に記載された内容を見てみると、高遠家親の孫の右馬助義房になって、はじめて高遠と箕輪の両城を持ち、箕輪を家号とする。子孫に大膳義成というものが、天正(1573-1593)小笠原貞慶に従って青柳合戦で討死する。その系図はすべて高遠と同じであり、ただ義嶺と義里の間に刑部左衛門某が記載されておるが、これは何故なのか説明できない。これを記して後世に考察を乞う。

矛盾と疑問点
諏訪信定を攻撃したのは誰か、春日氏と貝沼氏なのか、木曽(高遠)義嶺なのか、また木曽氏と春日氏と貝沼氏の関係は?
天神山城の攻撃(最初)は木曽氏伝承でも高遠治乱記でも記載有り、名前のみ違う。
木曽伝承には二度目の信定の反攻の記載がない。その後の保科氏の活躍の前提や、高遠頼継の各書の存在をみると、木曽のその後の存続は疑問が残る。
定説としてある、諏訪高遠家の系譜も満継以前に疑問が残る。
高遠家は、鎌倉時代は笠原高遠家、室町前期は木曽高遠家、文明以降室町時代は諏訪高遠家、戦国期は武田(高遠)、森(高遠)、京極(代官岩崎重次・高遠)、保科(高遠)、幕藩の藩主と続いたのか。木曽と諏訪の繋ぎが不明?特に諏訪高遠の頼継以前が不鮮明
一品や二品は天台宗僧侶の最高位位階であり、宗門経験のない尹良には、これはおかしい、かつ、尹良に征夷大将軍が任命されたという事実は根拠がない。

千村内匠守城付保科正俊逆心 蕗原拾葉11より  2013-04-23 01:33:03 | 歴史

千村内匠守城付保科正俊逆心 現代語訳

千邨(=村)内匠

時が過ぎて、義久が引退しても、高遠は木曽家の影響下にあった。高遠城は木曽からわずかに10里(40Km)余りだが、その間には険しい山や大きな砕岩だらけの場所があって、荷車などの往来は難しい道であった。諏訪家と小笠原家は領地を接しており、犬牙のように反目して領地を覗っていた。当時は両家が和睦し平穏を臨む思いも無くはなかったが、この時代の人の心は信用はできない。そこで、この城の要になる大将を選んでみた時、木曽一族の千村内匠を郡代として高遠の地方豪族を支配し、その中から武に強いもの選んで、溝口右馬介氏友(恩知集では溝口の祖は氏長で、氏友ではないという)、保科弾正正俊をして加増し、家老とし、隣郡に出陣がある時は、千村は城を守り、溝口、保科は配下の豪族を武装させて率いて出陣することと定めた。
その頃、甲州守護は武田大膳太夫晴信という。彼は武略、戦略にたけ賢者を尊び、譜代の家臣に、情をかよい腹心させ、父の左衛門慰信虎を追放して甲斐の一国を掌握する。
信濃国の強将は村上左衛門慰義清(・埴科郡葛尾城主)、小笠原大膳太夫長時(・筑摩郡深志城主)、諏訪刑部太夫頼重(・諏訪郡小條城主)、木曽左京太夫義康(・筑摩郡木曽谷福島城、王滝巣穴住)であり、信濃全体が一丸となって晴信に対抗し討伐することを合議した。

武田が犯した大罪・五逆の罪を糾弾すべきことを標榜して、まず諏訪と小笠原の両軍が、天文7年(1538)7月に、教来石を過ぎ、武田八幡を右手に見て、釜無川に沿って韮崎に進軍し、ついに同月19日、甲州勢と一戦に及んだ。甲州勢を追撃して勝利が目前に成った時、、武田軍の原加賀守は、近くの百姓を勝山に五六千人かり集めて見せかけとし、後方の撹乱を試みた。その多勢を見て狼狽した信濃の両軍は後退して敗北し、この一戦は武田の勝利になってしまった。晴信は両軍を追撃していったが、自軍も疲弊して士気が落ち、馬も疲れて喘ぎだし、動かなくなってしまった。そこで武田が敵軍をと見渡すと、信濃勢は白旗を掲げて五六百人が戦列を離脱し、甲州から退却を始めていたという。武田軍は八九町(=1Km弱)離れて追撃していたが、勝負の均衡が百姓を使った奇計で、あわよくも勝利してしまったが、兵馬は疲れ果てていた。もし少数の新手が加わわり、敵が逆襲を掛けたら、心許ない一戦になっていただろう。諏訪と小笠原の両軍はここで多少盛り返したが、形としては勝利のだし、負けるのもいやだと思い、軍勢をまとめて台より上に引き返すことを全軍に号令しようとしていた。
この敵部隊の一部の戦線離脱に、晴信は自軍の各将を招集して、この情勢分析を聞いてみると、敵は足並みを乱しているので、追討して攻撃しても面白い、という意見があった。、敵軍が、軍律も命令もなく敗走している中で、一軍だけは踏み留まっていた。このことを不審に思い、誰かに思うところを聞きやり、その返答次第では対応しようと言うことで、窪田介之丞に使い命じた。窪田は先頭に立って馬で行き、「この手勢は誰であるのか、合戦をするなら軍を寄せなさい、もう夕暮れなので合戦はやるもやらぬも良い」と大声で叫んでみたら、敵陣より武者が一人馬で乗り出して、「この一軍は信州伊那の者であり、信州の諸侯の合戦と聞き、双方の名門の戦いだから見物に出軍した。が、ゆめゆめ武田軍と弓矢を交えるつもりはなく、もう一戦が終わったので本国に帰国するのだ」と言ったので、窪田は信玄の許に飛んで帰り、このことを告げた。晴信は本陣を引いて様子を見ていると、伊那勢は備えを二分して退却を重ねていく。それで晴信も甲府へ凱旋帰国する。

ある日ある時、保科正俊が手勢を一カ所に集め、晴信の本陣を襲い、急襲と退却を繰り返し、本格的に攻撃しようと思っていたら、味方が攻められたので退却し離れた所に屯し、様子を覗いていたが、武田の陣は備えが厳重であり、これでは本陣を破れず、正俊は自分たちの勝利は無理だと思った。ある日は天文8年(1539)6月23日、台ケ原の合戦の時のことで、伊那郡への帰りは瀬沢山に入り芝平谷を通り退却したという。

それより、度重なる合戦は武田勢が勝利して、諏訪頼茂も和睦して、天文14年(1545)に頼茂は騙されて殺され、その跡(諏訪頼茂の領地と城)に板垣駿河守信形を郡代として置いた。武田左馬守信繁と秋山伯耆守晴近などは諏訪に在陣し、伊那と筑摩の両郡を押領しようと機会を覗い、時々藤沢や有賀の口より乱入して小競り合いを数回した。
高遠には、溝口右馬介、保科弾正、黒河内小八郎、同権平、非持春日、市瀬主水入道、同左兵衛、小原、山田の一党を集め、敵が寄せてくれば、青柳、杖突の嶺を固めて、藤沢の谷筋を通らせて、寄せくる敵を右に襲い左に槍を突いて苦戦させる作戦をとれば、過去に、攻めてくる敵に一度も負けたことはなかった。
だが、武田信繁と秋山晴近は別道の有賀口より乱入してきた。また馬場民部少輔信房を軍監にして四千人ぐらいが福与城を攻撃し、近在の小城は落とされた(この時福与城には藤沢治郎頼親を大将にして近在の士族が立て籠もったという)。この天文16年(1547)2月の事である。この知らせで、木曽は三千人を桜沢に進軍させ、小笠原長時は七千人を塩尻に陣地し、松尾の民部太夫信定、下伊那の知久と阪西は三千人を宮田に進軍させ、番をさせたが、武田軍は総数で及ばないと思い早々と引き上げてしまった。
同17年(1548)5月も、晴信自ら出陣して有賀と岡庭より進入して、樋口や竜ヶ崎の砦落として、今度は是非上伊那を押領したいと準備してきたので、上伊那豪族は高遠、箕輪の両城に籠もり、各地の援軍を要請したが、今度は櫛の歯が欠けるように援軍は減っていた。だが越後の国主の上杉喜平冶景虎は、早速小県郡に進軍して内山城を攻めたので、武田勢は引き返して小県に向かった。数多い戦いで勝敗はそれぞれであるが、互いに攻め取った城や砦は、軍が引くと、たちまちに元の領主に戻った。いまだ伊那では一城も武田に従わないので、計略を立てて回文を領主に回して、木曽や小笠原の連合に反旗して当家に従えば、その従心の浅深に関わらず倍の加増をするので味方せよ、として、まず高遠を手に入れようとし、合戦の時裏切ってくれれば十倍の加増を約束すると持ちかけ、さらに色々の手を使い調略したが、元来伊那の者は律儀で心は金鉄のように堅くて、少しも心変わりする者がいなかった。
しかし噂が入り乱れるのは世の習わし、如何なる人も奸智に負け、また武田反感の謀言もあり、松島対馬守が実は武田に通じて逆心の策謀がありそうだと伝聞があったので、木曽義康は大いに怒り、諸氏の前でこの是非を究明して懲らしめようと千村に命令した。千村内匠は、義康を畏れて、丸山久左衛門を松島の館に遣わして呼び出した。松島は何の疑いもなく翌朝の夜明けに宿所を出て、従者を十四、五人だけ連れて高遠に出向き、二の丸に入ろうとするところを、白木道喜斉、丸山九左衛門が武者だまりで待ち受け、左右より斬り殺した。松島の従者はこれに驚き、抜刀して防戦したが、木曽側は、前からの準備で討ち手が多く、包囲して一人残さず切り倒した。(松島の従兄弟に松島左内という者がおり、彼は比類無いくらい働き、城兵の多くを切り倒すがかなわず、丸山久左衛門に突き殺されたという)。殺害した松島と郎党の首は集められ木曽福島へ送ったところ、義康は笑って機嫌が良かった。逆心への懲らしめはこれで出来たと限りなく喜んでいたという。
心ある者はこれを聞いて、家臣への扱いに信義のない木曽殿の振る舞いに、忠はあるが情がない、松島への疑念が一度湧いたら、真実を糾すことなく誅殺に、疑念した。他人事だが辛いことである。今は他人事だが明日は我が身か、と郡中の心は木曽殿から離れた。このことで武田の家来になっても良いと思うものが少なくなかった。

御堂垣外の保科正俊は幾度となく武功を揚げ、槍弾正と異名を持つ強者の勇士で、居館に砦を築いて諏訪口を押さえていたが、この木曽殿の様子を踏まえて、深く考えた。武田の勢いは日を増すごとに強大になり、更にこの頃の木曽殿の振る舞いを見れば、今後の展望が開けないし悪い流れで武士道までが蔑ろにされる。この乱世では、時に家系が断絶することもあろうが、この人に従っていたら確実にそうなる。だったら武田勢を引き入れて高遠を乗っ取り、一族が後日繁栄するように計画した方がよいと、時に城番に来ていた非持三郎春日、淡路、小原某を呼んで密かに相談に及んだ。三人とも異議が無く了承し、我々は木曽の譜代ではないし、木曽が高遠を押領したので仕方なく従ったまでで、いずれ家を興し、かつ子孫のため、逆心した方が先祖の孝養にもなると四人は心を一致し、時節の到来を待った。


・・・概要と疑問点

木曽義久が引退した後の、高遠の統治について、ここでは木曽家の意向に沿った、高遠郡代が千村内匠に決まった経緯の記述である。そもそも木曽の高遠支配は、定説にない内容で、違和感を感じる。
ここには、諏訪信定の名前もないし、高遠頼継の名前も出てこない。何故か。高遠頼継との関係は別書で深掘りして証左を求めている。
その中で、松島対馬守が木曽を裏切り武田へつくという間違った噂で、木曽家の対応のまずさがあり、伊那の団結の崩壊、とりわけ高遠の人心の離反が語られて、武田の侵攻に繋がっていく。
確か千村内匠に殺されたのは松島対馬で、定説では伊那孤島の八人塚伝承で殺された中に松島がいたが、松島豊前守信友と言ったか、その関係?。
高遠満継も証左が難しく、諏訪信定が高遠を名乗ったかも確認が取れず、保科正俊の主はいったい誰かは、未だに謎で、整合性は更に険しい。
槍弾正と異名を持つ強者の勇士で・・はこの後の武田臣下時代のあだ名で、臣下前の記述はおかしい。
これは、後日談の戦記物?
・・感想


武田勢囲城付御嶽権現霊験 蕗原拾葉11より  2013-05-05 02:24:39 | 歴史

武田勢囲城付御嶽権現霊験 現代語訳

前文

これは、武田信玄が上杉謙信と対峙している時代の、同時進行の信州伊那制圧の始めの、高遠攻めの戦闘の様子を、当時高遠を支配していた木曽家から書いた戦記物語である。だが、これには異説があって、高遠を支配していたのは諏訪家だという説もある。

武田の信州攻め序章
武田晴信は信州を征伐しようと天文18年(1549)4月12日甲府を出発した。同13日諏訪郡小條の着陣。この報告を聞くと、保科正俊はすぐに晴信に使いを送り、武田軍と高遠軍が戦闘状態に入り、形勢が膠着した時は、高遠を裏切って武田の味方し参戦するむねの、一文を起請文にしたためて送った。晴信はこれを読んで大変喜び、了解して、伊那と木曽と松本に軍勢を三つに分けた。伊那方面へは浅利信友、馬場信房の2人を大将として、また足軽大将には山本勘助、安間三右衛門の2人を付けた。秋山伯耆守は諏訪に陣地し、伊那軍と度々小競り合いを繰り返し、軍立てや地形にも詳しいので、すでに先陣として出発していた。こんな時、同24日、越後の上杉が小県まで出陣してきたという報告が入り、急遽再び武田も海野平に進軍し、上杉と対峙した。同5月10日、上杉景虎が陣を引き払って帰国したので、晴信は諏訪に戻り、前述の大将達に命令して伊那口に侵入した。

武田の伊那侵入と高遠勢の対応
このことが高遠にも伝わったが、保科が裏切っているとは夢にも知らないで、前回のように、難所と思えるところに待伏兵を置いて、あちこちから武田勢を混乱させながら打ち勝とうと思っていた。城にはわずかの人数をのこすだけで、神宮寺には千村内匠を大将に残し、保科正俊、市瀬入道、同左兵衛、非持三郎、春日淡路、林式部、小原、山田の一族等の木曽の家来衆1200人を、杖突峠の嶺に敵陣を見下ろせるようにして備えた。金澤口へは溝口氏友を大将とし、青柳の嶺に300人と、わずかだが屯駐させ、敵が来たら、谷より神出鬼没に不意を突いて攻めかかる計画をたて、黒河内兄弟や原八郎や埋橋の一族には、道すがらの谷や嶺に5人、7人と別々に待ちぶせさせたが、その人数は3,400人に過ぎなかった。

武田の伊那口侵攻
武田の浅利や馬場は3000人の軍勢を二手に分け、青柳に攻めかかった。まえもって、保科が裏切りを内通していて、戦い半ばで反旗を翻すことを知っていたので、あえて、危険だと知っているところを登っていき、片倉の戦いでも、道の左右を伺いながら、ゆっくりと時たま脅かしの鬨の声を上げ、敵に挨拶するがごとく進む。溝口氏友は少人数なので無理をせず、にらみ合いだけでやり過ごす。杖突峠には秋山晴近の軍勢2000人が、7月4日夜明け時に、霧の中を攻め上っていく。互いに大声の鬨の声を発していく。鉄砲が数発発射されると、すぐに敵軍が魚が連なって泳ぐように、我先にと競って登ってくると、地理を熟知している味方の元気なものは、この岩陰やあそこの木立を盾にして弓矢を雨のように射かけていく。進軍してくる甲州勢の2,30人がすぐに射倒されるが、あとに続くもの注意深く防御しながら進軍していく。味方が嶺の陣地より隊列を整え槍先を揃えて突き進むと敵は先頭に槍先を受けて、戦闘状態になる。膠着状態が続き、甲州勢は波のように、引いては返し、また引いては返して、命を惜しまず戦ってくる。味方はその都度、引いて陣に戻り、さらに攻めていくので、場所が変わりつつ、弓や鉄砲で反撃し、敵が色めき立っているところを攻め込んでいく。双方とも、死を恐れずに戦っていたが、そこは味方のほうが地理に明るい山道なので猿やいたちのように、梢を伝いフクロウが木の上で戯れるように、逃げ隠れする。この様に、あちこちから攻めるので、敵は追い立てられてなかなか決着がつかない。日は昇り、すでに午後になろうという頃は、双方戦いに疲れ、陣を隔ててにらみ合いの状態が続く。

保科弾正の裏切り
保科弾正は前から武田に内通していたので、非持、春日、小原の武将達300人とともに打ち合わせて、戦闘場所を離脱して離れて、敵味方の戦いを傍観していた。そして頃合いを見て、軍の備えを逆に向けて立て直し、戦いで疲弊した高遠軍に向かって鉄砲を放ち、鬨の声を上げて攻め込んでいった。甲州勢は、保科の裏切るに呼応して、白地に黒い三階菱の軍旗を掲げて、まっしぐらに攻め込んでいった。市瀬入道は憎き保科の裏切りを見て大変怒った。状況は一変し、敵に取り囲まれ、逃げる道もふさがれてしまったので、皆が一丸になり、目前の敵の隊列の一点に絞りそこを突破して、その後に裏切りの保科を討って無念を晴らそうとして、殿原よ続け、剛の槍をつかみ取って隆々と振り回し、甲州勢の槍に中に突っ込んでいった。戦いは険しい細道で追いつ追われつの時、入道の槍は、突きの的を外して勢い余り、敵陣へつんのめり、14,5人を将棋倒して谷底へ転げ落ちた。甲州勢は串刺しになり、市瀬とともに岩に当たったり木の根に引っかかったりして、ことごとく死んだ。これが本格的な戦闘の始まりになった。

藤沢谷の戦い
高遠勢は死を覚悟した800人が城を守り、勝ちに乗じた秋山の手勢は、真一文字に進軍を開始する。だが、甲州勢は思いもよらず反撃されて、坂を下り、2,3町ぐらい敗走する。秋山の旗本が崩されそうになったので、自身で旗本を鼓舞して防戦し、激闘が続く。高遠勢は、新手の保科勢に隊列がだんだんと崩されていき、山田も林も討ち死にして大崩れになり、松倉を捨てて敗走する。秋山晴近は一計を図って、鉄砲隊を左右の山に配して待てば、敵が踏み留まり反攻してくれば、左右の山より鉄砲を放ち反撃をすれば、盛り返せずに敗走する。甲州勢は勝ちに乗じて、敗走の軍を追うと敗走軍の味方は、御堂垣外に退却しさらに追撃され、もはや逃れまじきと思う時、青柳を守っていた味方が劣勢を聞きつけ、御堂垣外に駆けつける。この戦いの状況を見た黒河内小八郎が真っ先に救援に駆けつけ、長い穂先の槍で、溢れるように多い多勢の敵に向かい、かまわずに切り込み、三騎の敵を倒したが、そのまま逃げずに踏み留まり、討ち死にしてしまった。この後敵は追撃を止めたので、高遠勢は虎口より城に戻った。

高遠城の戦い
千村内匠は剛のもので、ここまでは負け戦だが、意気消沈する兵士を見渡し、守りの薄いところに配し、虎口(危険箇所)に手勢を多くし、城兵1000人を集めて、油断無く敵を待った。甲州勢はその夜は保科の館の焼け跡に陣を張り、翌5日の巳の刻(午前10時頃)、3隊に分かれて軍勢が5000人ぐらいで、徐々に城に詰め寄り、向陣(対面陣)をしないで、月蔵山の山麓のやや平場に登り、一気の蹂躙を試みようとした。だが千村は、乾き堀の外に柵を設けて準備していたので、敵は柵のところで攻撃を妨げられ、そこへ城から矢や石を飛ばされ、敵兵が何人か討ち取られた。動揺した敵を見て、味方は城門を開けて打って出た。いきり立った敵を尻目に、さっさと兵を引き、城に戻り門を閉じる。この繰り返しを何度かやりった。虎口の人の多いところの防御はかなり厳重なので、敵の浅利、秋山、馬場の三大将は馬で見て回り、長期戦に切り替えて向陣(対陣)を張り、道を遮断して食料の尽きるのを気長に待つ戦略に方針を変えた。その後は攻めることを中断して長期戦に専心する。

晴信の動向
この時晴信は、佐久郡に軍を置き、景虎が出陣するのを牽制していたが、上杉の動向を見定めて、板垣(弥次郎)信里、日向(大和守)昌時、原(加賀守)昌俊は、足軽大将の小幡(織部正)虎盛、同弥次郎、原与左衛門、同総五郎、横田十郎兵衛、市川入道、梅印伝五郎の七騎とともに下諏訪に戻って布陣し、時どき塩嶺峠に登り、足軽を熊井や高出まで様子見させ、撹乱して深志勢の出方を待った。そこへ木曽勢が救援に来そうだと連絡が入り、井利藤蔵と内藤修理の手勢に、原美濃守と曽根七郎兵衛を加えて兵をさし向け、今回は必ず高遠を手に入れて伊那の拠点とし、そこから伊那全体の領有の足がかりとすると評定した。おりしも、高遠は籠城になって10日間になり、兵糧はすでに少なくなり、飢餓の状態になろうとしていた。木曽や小笠原の救援を命綱として頼っていると見た武田勢は、通じる道を塞ぎ、揚げ句に木曽にも乱入しようとした。

高遠城籠城
これを聞いた高遠の城兵は大変力を落とし、魚が濁水に息絶え絶えのように日に日に気力が衰え、取り囲まれて餓死するよりは、城を捨てて打って出て、差し違えて1人でも多くの敵を倒してから討ち死にする方がよかろうと決意し、決行は翌朝早朝に敵陣突入と決めたので、今宵限りの命だから、一杯の酒で生涯の思いを発散しようと友が身を寄せ合い、別れの酒で夜を過ごす。
天文18年(1549)7月16日、月夜の戌の刻(午後8時頃)を過ぎたあたり、霧がにわかに湧きだして辺りを覆い始め、細雨もしとしと降り出し、城内が物寂しくなり、虫の声が遠くに鳴く夜半に、東の城戸を密かに開く人があった。皆が驚いて素性を聞くと木曽谷より来たもので、千村殿に少し会って話しがしたい、と答えたので城中は、きっと木曽の救援の知らせであろうと耳打ちし、千村に知らせた。千村内匠はこの知らせで、急に起き上がり、腹巻きを外して肩に掛け、脇差しのみで門櫓に登り、松明を投げ落としてその人を見ると、年齢が80にもなろうかと思われる年老いた翁が、白い水干(狩衣)に烏帽子をつけて、内匠に向い、今夜の敵陣は長い遠征の為に疲れ切り、見張りまで怠って皆眠っており、とくに小原村にある陣地は、宵の頃より酒宴をしているので、今はほとんどが泥酔している状態で、急遽城を開けて、木曽へ向かって落ちていけば道筋の障害は何もないだろう、決断は早いほうがよい、と言い残して、何処かに去っていった。内匠は、一瞬茫然としたが、すぐに門櫓より飛び降りて溝口に相談したところ、溝口氏友も不思議な気分で居り、すぐ斥候を放って敵を探って時期について検討した方がよいと、実際に探って見たら、老翁の言葉の通りに敵陣は静かで、人がいるようにも見えなかった。

高遠城開城
しがらみが無くなったり捨てたりして気持ちを整理し、先に開城して急いで脱出することで、後日に後ろ指を指されたくないと三々五々に水の手に沿って河原に降りて、三峰川沿いを西に向かっていく。丑の中村を過ぎ、羽広村の仲仙寺着いて、集まってみて、此処までたどり着いた者を数えてみたら、630人であっと。そこからは、各別に落ちていく中で、溝口(右馬ノ介)氏友は、下伊那の、一族の松尾小笠原(民部太夫)信定の所に行き、寄食した。

千村内匠 木曽へ逃避
千村は残党を率いて木曽に行き、木曽義康に会見し、合戦の経過を報告した。そして宿舎に戻り年老いた母と対面した。母は一度死んだと諦めた息子が生き返ったと喜び、めくらの亀が浮いている木にしがみついているように、手を握り、語り合った。さても今度は保科弾正が裏切り、味方がこの様な敗北を喫し、また兵糧が尽きて落城してしまったこと、時期が迫り、悪いことに木曽殿にはご無礼だが、臣下の者はやる気を失い、今後の攻勢を誰一人考えず、その指揮を執ろうとしない。これでは、高遠を亡びるのは当たり前だ。優しい殿(和殿?)は、討ち死にと知らせがある度に拉がれ、連絡が無いと知ると、もし老木の桜が散ってしまったとしても、若木の桜はこれからだと御嶽権現に祈願して17日間断食をして、内匠が戦死したのは世の定めで、仕事がうまくいかなくても、老いの命をもう一度復活させ、今一度内匠に会いたいと懇願し、満願の夜になって、願いが叶い、この様なけなげなことは本当に大権現の霊験であると思った。

穴尊の世は、桃李に至るといえど、神明の応護は変わらず。
穴尊の意味が不明。

別説1
木曽軍記には千村の開城は天文17年(1548)7月16日、とあります。

別説2
伊那温知集によれば、松島対馬の誅殺は木曽義昌の代で天正10年(1582)という、しかし打ち手に選ばれた丸山久左衛門は天文23年(1554)8月に、武田勢が木曽に乱入した時に討ち死にしている。信用しがたい。
甲陽軍艦に弘治2年(1556)5月、伊那へ進軍したとあり、溝口、松島、黒河内、上穂、小田切、伊那部、殿島、宮田を悉く誅殺したとあり、天文23年(1554)、下伊那の松尾が落城して、小笠原長時と溝口氏友が遠州高天神へ逃げ、小笠原信貴は武田へ降参したことが小笠原家伝にも伝えられ、下伊那の老いた友人にも言い伝えが残っており、城は小さいけれど数10の城を残しておいて、20里に長旅のあとで、峻険の城を攻め落とすことは無理なので、軍艦の説も信用できない。

別説3
黒河内家伝では高遠落城のあと、溝口とともに黒河へ逃げ、三羽根の嶺に見張りを置いて、保科に降参した市瀬左兵衛が高遠へ出仕するのを妨げ、百姓までをも殺害したので市瀬に住んでいる住民は道路を封鎖して大沢の山伝いに高遠に行った。その後、保科は兵士を連れて焼き討ちし黒河内を滅ぼしたという。年月は正確ではないが天文18か19年(1549.1550)は確かである。

別説4
溝口家伝には小笠原(信濃守)貞宗の孫の(弾正少弼)政長の三男(左馬介)氏長が始めて溝口村に住んだ。その五代孫が越前守貞信という。天文(1532-)の始め、家を氏友に譲り、自身は下伊那の松尾に行き、小笠原に寄食する。高遠義久とは嫁親なので高遠の滅亡を憤り、木曽に憤慨しているその後天文13年(1544)正月13日松尾合戦で貞信は討ち死にし、嫡男の氏友は木曽に従い、そのあとで松尾にやって来たことを本文に記入するが、松尾落城のあと遠州の高天神に逃げ、更に京に行き三好家の客となり河内国高安郡で討ち死にする。その子孫は紀州に住んだという。

古書は語る-----赤羽記(蕗原拾葉)より

2013-05-28 17:57:05 | 歴史
古書は語る-----赤羽記(蕗原拾葉)より

赤羽記(保科記)現代訳          2013-03-21 15:32:48 | 歴史

赤羽記序
中村元恒が、安政年間に、東京に来ていた高遠以来の会津藩士の黒河十太夫、広沢富次、高津仲三郎と、数年間にわたり、保科家の過去に関わる歴史談義をしたときの内容です。話は保科家の歴史の事になり、天正間の戦争(織田の高遠攻め)の話を聞く事になります。。この話には、つい身を身を乗り出し、柏手をしたり、耳をそばだてて訊いてしまいました。そこには自分は今まで初耳の新事実も聞くことが出来ました。話に、つい膝が触れるのも忘れ、つい乗り出してしまいました。その話は、赤羽記が出来た由来のことでもあります。その後に赤羽四郎が訪れ、「赤羽記」を貰いうけることが出来ました。その書にはいくつもの話が載っており、今まで知っていた内容と違う話が多くありました。その中に赤羽又兵衛の槍の功籍のこともありました。文明寺の謀略の話もありました。たぶん文明寺は金剛山峰山寺(ほうざんじ)の前身だろうと思われます。このことは詳細に記してあります。また、保科弾正正直が高遠城を去るときの経緯も詳しく説明され、この部分は旧記には無かった部分で、この書だけの言い伝えです。つまり、天正10年3月、保科弾正は高遠城内にいたが、森勝蔵(織田側)が奇策を計って、保科弾正を誘い出して逃がした経緯のことです。。この時、跡部氏から嫁いだ正直の奥方は高遠城内で自害を図りました。春日戸左衛門と伊沢清左衛門は殉死し、戦いの後満光寺の牛王和尚が亡骸を荼毘に付して弔ったということです。ことのに奥方は操を守り通した潔さは美しかったといいます。それで、以後保科家は香華を供え冥福を祈り、尊崇したといいます。この記述は以後の保科家の行事を見れば明白であり、当時の大将の自害や戦死の様子を思えば、弾正公のことを悪く言うものはほとんどいなかった、と聞きます。そうして、奥方は笹曲輪郭内にて自害なさったと聞きます。ですから、この書の記載するところを皆が納得していた事実でした。弾正が城を抜け出したことの些細の内容であり、この書の伝えるところは嘘のない事実です。この事実の伝搬がこの書のの目的であり、保科家の創業期の艱難の内容であります。また、創業期の艱難故に、このことを顕かにしていこうと思います。保科家の由緒を糾すことは愉しいことであります。そして今、十太夫、仲三郎、自分達こそが、故人の弾正公の為に出来ることです。富次は牧師の跡を継ぎました、自分は年をとりました。、明治の中頃になって、薩長のの明治になり、保科の系譜は逆賊の刻印を押され、皆が流離し生活が困難になり、社稜が幾つもなくなる時代になりました。しかし書に残せば、依然として真実は現存し現在に関わっていきます。さて、思いがけない災難で消失することは残念です。どうにか真実を後世に伝えることは喜びであります。自からこれを写し、蕗原拾葉の収録しました。併せてこの感激も記入しておきます。
明治11年10月23日信濃黒水老人中村元恒(中邨元起)書
於いて 東京小石川不如学舎

赤羽記

保科氏は,信州川中島の善光寺の西の方角に保科という所があって、ここが保科氏のご先祖の出生の地であります。
源頼朝の治世に、川中島近くの井上郷の領主に、井上九郎光盛という者がおりました。光盛は頼朝の家来になっていたのですが、甲斐国の一条忠頼(武田信義の嫡男)と共謀して頼朝に反旗を翻したのが露見し、京から戻る道の駿河で、頼朝により誅殺されました。保科太郎と小川原雲籐蔵は光盛の部下であり、光盛の同類として鎌倉に捕らえられましたが、保科と小川原は謀反の心が無いことを申しあげて赦されて、鎌倉幕府の御家人に加えられることになり、これより源頼朝から三代の将軍の御家人として仕えるようになりました。そうして北条(得宗)家の時代になると、地元の領土争いから保科家は浪々の身となり、後に親戚筋を頼って藤沢へ来て年月を送りました。弾正公より10代ばかり前のことで、藤沢の住人は「保科」という名前を貰ったり、籾や栗と交換して「保科」という名字を手に入れたという事です。「保科」家は源(頼季)を祖とする系譜の名門であり、弾正公の御代に入り乱れた系譜をことごとく改めて整理したということです。

・・・これによると、北条得宗家の時代に、若穂保科から保科一族は、三々五々に、藤沢谷へ移り住んだことが書かれおり、名門保科家の嫡流はどこかで途絶えて、保科でない者が「保科」の名字を貰ったり買ったりして混乱していたことが、ずっと保科に随臣している家臣団から語られています。・・その一人、赤羽記自体が保科家臣の赤羽家(おそらく辰野の赤羽地区の小郷主)の記録であります。・・・

(木曽家の系統の)高遠城の城主は断絶して城主不在となりました。この時、この地方の豪族は会議をして、高遠城主に諏訪家の惣領を申し入れて城主にしましたが、この城主は生まれつき愚かだでありました。この城主は、頼継より7代先祖に当たります(諏訪信員?)。頼継より三代前の城主の継宗は、生まれつき賢く武術にも通じており、伊那の郡を残らず平定し、領土は10万石にもなったといいます。更に遠江にも遠征し、狩野氏を臣下に加えてもいます。その頃より、保科氏は高遠城主に仕え始めています。この頃保科氏は北村という所に20石の知行が有り、そこの小領主であったみたいです。それでか、この頃の保科氏の代々の墓は北村にあるといいます。この高遠城主継宗は諏訪家の惣領筋で、諏訪一族の惣領の地位を奪おうと考えて、色々と対策を考えていた。弥勒地区の一妙という法華宗の僧が、いつも継宗に懇意にし、城主の諏訪惣領家の野望をきき、自分が惣領家の証しを奪ってくると言って金子城に行き、諏訪家の様子を覗っていななか、7月7日の朝に、諏訪家が重宝を外に出したのを見届けてから、諏訪家の城内へ様子を覗い、その後嫡子の証の「巻物」を奪って逃げました。城内を警備する者が一妙を見つけて追いかけ、伊勢並(場所不明)と言うところまで追い詰めました。そこは諏訪と高遠の境です。高遠勢は加勢で30騎出向いたが、諏訪方はそれより大勢が出向いたので、無事に戻れず僧侶は自殺をします。諏訪方は文書は取り戻せず、死体もそのままにして、戻っていきました。高遠の人達は、死人をそのまま放っておけば社殿の中の穢れ、弔いにもならないと思っていました。その後高遠城の者が検死すると、脇の下を貫いて傷口が尋常と違い、変だと思ってみると、怪しいものが少し見えました。詳しく見ると傷口に一巻の書があって、これが諏訪家惣領の系図である事が解り、これが、以来高遠家の宝物となり、この僧侶の着ていた血の付いた袈裟衣も、高遠家の代々の重宝と言うことにしました。
後に仁科五郎が高遠城に籠城した時に、高遠家の二つの宝をを亡失してしまったと言うことです。
これよりしばらくして、保科氏は上牧の郷の野底という所に70石の知行の領地を貰ったという言い伝えがあります。
頼継の親の満継は、かなり傲慢かつ無礼な人で、人心を掌握できず、直参や旗本は彼を嫌い軽蔑し、皆自分勝手になり、この為に勢力が衰えて瞬く間に領土が2万石に減ってしまいました。この時、高遠と伊那を高遠家と保科家は取り合って争いました。

・・ここでは高遠家と保科家は満継の時代に争ったことになっている。かつ、高遠家と争った保科は、保科貞親でなく、弾正と言うことになる。・・貞親と弾正の関係は?

この戦いで保科氏は筑後?と呼ばれていた、弾正の父(=正則?秀貞?)が討ち死にした。討ち死にの場所は、伊那の駒場と言うところである。その後和解があり、保科の子孫は取り立てられて、筑前守を名乗り、高遠頼継の家老として千石の領地の知行を貰うことになります。高遠頼継は時に勢力を拡大していた武田信玄の旗本になりました。

確認事項1
時代・1530年代は、小笠原長棟(府中)と小笠原貞基(松尾)の身内の戦いがあり、天文2年(1533)は長棟が伊那に出兵して下伊那で戦いがあった。松尾小笠原は知久頼元や高遠頼継が味方したが敗れた。・・この戦いで保科の誰か(正則?)が戦死した。
確認事項2
その時筑後と呼ばれたのは保科正則か?正則は頼継の名代家老として松尾小笠原に協力したのだろうか?正則はこの戦いで戦死したのだろうか?弾正と呼ばれたのは正俊か?

頼継は妾がいたが、正妻は嫉妬深くて城内に妾を置いておけなかった。そこで城下の武家屋敷に妾を置き、佐野清左衛門という侍を警護に就けた。頼継の正妻は、諏訪頼重の妹であった。奥方は妾のことを知り、兄の頼重に頼んで手勢を借りて妾を謀殺しようとする。諏訪より50人の手勢がある夜の夜更けに妾宅に討ち入った。清左衛門は枕元に置いてあった3尺あまりの刀を抜いて、手勢に斬りかかった。
諏訪の手勢を8,9人切り伏せ尚も大勢にキズを負わせたが、自らも右の腕を切り落とされて、刀を左に持ち替えて、妾を肩に背負いこの屋敷を立ち退いて、その後月岡庄兵衛の宅へ逃げ込んだ。月岡は若い頃からの知り合いである。その後佐野清左衛門は取り立てを断り、片輪になってしまったので在郷に引き込み農夫になったという。大男で、顔面傷だらけのすさまじき面だったという。

右のこれまでは、高遠城主の大筋と保科氏の加増の様子のことである。

頼継の重臣は上林上野入道と保科筑前守の両人である。筑前守は宮田に七百石と野底に五百石、併せて千二百石を領有していた。上林は、高遠頼継は謀反の気持ちがあることを、信玄に伝えた。この為に頼継は信玄から甲府に呼び出され咎め殺された。上林が頼継を讒言したのは、主人を廃し自分が取って代わって領主たらんと欲したためである。筑前守殿は上林と相談して讒言したのではないか、という噂が流れた。上野入道の子は彦三郎という。彼は筑前殿の聟でもある。この讒言のことを、筑前殿は毛頭聞かされてなかった。だが、筑前殿は信玄より、以下のように不審をもたれた。上野入道は忠義で謀反を報告してくれたが、筑前は報告してこなかった。そこで筑前は、仏法寺の禅寺で1年間を過ごす羽目になったが、事実が段々露見していき、筑前守は信玄の信頼を取り戻していった。上林へのお咎めはなかった。

信州佐久郡に志賀と言うところがあります。そこの領主に志賀平六左衛門という者が居りました。信玄に背いたので、信玄は保科筑前を招集して、先導させて彼を討伐に志賀の町に討ち入りました。角屋の蔀の蔭に潜んで居った家来の北原彦右衛門が打って出ました。平六左衛門は栗毛の馬に乗り、大勢を引き連れて町中を乗り回しておりました。北原彦右衛門は、志賀平六左衛門の馬の太っ腹に長刀を突きだすと、馬は倒れて平六左衛門を降り立ったところへ、筑前殿は走り寄って首を打ち落としました。首を打ち落とすところに大髭があったが髭もごっそりそぎ落としてしまいました。そして信玄の御前へ平六左衛門の首を持参したました。信玄は上ノ山よりこの筑前の働きをご覧になっており、御前に出たときにご褒美としてその刀は髭切りと名付けられ、、刀の作者の基重も確認しました。また刀を保科家の重代の宝とせよと申し感状も与えられた。また盛景という長刀を使った家来の北原彦右衛門の働きにも感状を下されました。
これより筑前殿は信玄の直参に召し抱えられた。
・・・追記 7/26
上林入道は信玄からの印象が悪く、その為に引退して、子の彦三郎を信玄のもとに出仕させた。信玄が崩御に後、勝頼の時代になって、上野入道は死に、跡は彦三郎が相続したけれど、かっての主人を讒言により陥れた、忠信のない家系として、後ろ指を指される状態が続いた。だからか、勝頼からもよく思われず、そんな周りの空気を一身に背負って、もし戦いがあれば、一挙にそんな空気を一変させてやろうと思っていた矢先、長篠の一戦が
起こる。彦三郎は、待ってましたと喜び、これが最後の戦いだと覚悟を定め、出陣に身を清めて香をつけ、爪までも切りそろえて立ち向かう。
それを脇から見ていた者が
・・みがけやみがけ、爪の先まで・・・と声をかければ、彦三郎は直ぐに
・・とくさかる、その原山はみのさかい(・美濃境?)・・・と言い捨てて飛び出していき、小高い丘に旗指物を立てて陣し、壮絶な討ち死にをした。その旗指物には
・・咲く時は花の数にはあらねども、散るにはもれぬ山桜かな・・・覚悟をしるした辞世の句が書かれていた。
彦三郎は歌人でもあったが、これが彼の最後の様子で、これをもって、上野一族は家系が絶える。これは、高遠頼継の怨霊、たたりだと人は言う。
筑前守(正俊)は、勝頼の代になって病気になり、息子の昌月の居城箕輪城に、療養をかねて隠居します。この時、昌月は内藤修理の養子になっていました。経緯は内藤修理が長篠に出征する前夜、勝頼を訪ね、昌月を養子に迎えたい旨を直訴します。この時から正直の弟の昌月は大和守と呼ばれるようになりました。
勝頼の長篠合戦には、保科正直の出陣はありませんでした。その訳は、昌月が勝頼の小姓として仕えており、昌月が美質なので勝頼に気に入られ、合戦の出陣にも連れて行ったのであります。勝頼の昌月贔屓で、出陣に呼ばれない正直は、こんな気持ちでは奉公できないと思って子の甚四郎(正光)を連れて信州の居城に引き籠もります。甚四郎はこの時は勝頼の子が同年代であったので、九歳より奉公で出仕していました。これより直ぐに、保科正直は労咳を患い、一間四方の板塀に囲まれたところに押し込められ、外から釘や鎹で頑丈に閉ざされ、雪隠(便所)はひとつと食事を差し入れる「通い穴」ひとつは用意されていました。ここに三年蟄居させられていました。正直の面倒は當雪という医者だけで、その辺りへ近づく者さえ無かった。
ここに、長篠の合戦で、勝頼が大敗北を喫したことを、病気の隔離牢で聞いて、正直はこの牢を破って出たいと思い、まさかりなどをもってこさせて、牢を破壊し、そこから出て、まずは湯漬けを召し上がり、次ぎに鎧と腹巻きをして早速装束を整え、周りに馬はあるかと尋ね、あると分かれば馬を引き出して、そのまま乗馬して、志のあるものは自分に続けと叫んで、駆けだしていったのでございます。・・・正俊、正直の病気は何となく嘘くさい。根拠は次ぎに起こした行為が、病気明けを感じさせない・・正俊は、勝頼の危うさを見通して無駄死にを避けるため本人と長男を危険から待避させたのではないか、と思う。
それと、結核菌は空気感染で、完治の判断が不明の時、あえて人と接するのは理解不能。以上の点から、仮病ではないかの疑問が感じられます。
保科正直はこうして、三州の根羽村で勝と邂逅します。長く馬を走らせた正直は、勝の存在を眼に確認すると、道の傍らに馬を下りて勝に接見します。勝はこれを見て、保科かと確認し、勝も馬から下りて、弾正公の側により、長篠の合戦は大敗北を喫してしまい、山形や馬場や内藤をはじめ、当家の勇者や重臣がほとんど討ち死にし、手足がもがれるようになり、もはや運命が尽きたと思うところに、その方の生きているのを見て、幸せに思う。その方は、まだ頼もしく思えるので、飯田の城へ入り、残っている伊那の兵力を率いて、平谷浪合に打って出て、織田への防衛戦を戦ってくれ、と指示を戴く。弾正公は畏まってこの命令を聞き、直ぐに飯田の城に入り、伊那衆をまとめて戦闘態勢を作ろうとする。伊那衆の中に、阪西(萬才)というものが勝に背き、一族を引き連れて、一瀬と言うところに籠城する。一瀬は、飯田から木曽の妻籠への道途中にあり、弾正公は、これを聞いて、直ぐに追いかけて、籠城してる建物に押しかけて、悉く退治する。これは正直の今回の武功の一つである。正直は信忠軍を暫く防戦していたが、大河のように押し寄せてくる大軍には叶わず、ひとまず高遠に退くことになる。正直はこの時別名を越前公とも呼ばれた。
高遠城は、仁科五郎が城主としており、信玄の子で勝の弟であった。城内へは人質で団結するべく、配下の奥方なども入れており、弾正の奥方も城内に取り込んでいた。この時正直の子の甚四郎(正光)は、勝の居城の新府(韮崎)に、やはり人質であった。
織田信忠は、数万の兵力で高遠城を、十重にも二十重にも取り囲み、落城は目前の状態であった。
しかるに、織田軍の森勝蔵は、信忠へこんな提案をする。高遠城の籠城の中に、保科弾正がおるが、何とか工夫して弾正を城外に出して、その後に城攻めをしたらどうか、と。信忠が、何故だと問うた時、この後のことを考えると、弾正が欠ける方が当方の損害も少なく、さらに上州箕輪の内藤昌月は弾正の弟でもあり、弾正を味方にして弾正から箕輪を誘えば箕輪も味方になることは必定、そうすれば小田原北条への手引きは大成功となる方法だという。これで信忠は納得し、これで戦いは一旦停止し、和の状をもって、飯島民部を通して、この旨を申し入れる。民部と上島川兵衛の
母の親が高遠出身者であり、この和睦は保科弾正が城外に出ることを条件にし、成功の後に信忠に仕えようにすると言うものだった。
高遠城内では、色々な議論が交わされていた。<ここで交わされる議論は当然強硬派の籠城と和戦開城派との議論と思われる。文脈を辿ると強硬派が強く和平派は少ないように見える。>小山田備中守はこの議論になっとくしなかったが、色々な議論には参加していた。弾正公はというと、二の丸まで出てきていた。仁科籠城の時の勝からの命令は、渡辺金太夫と小菅五郎兵衛になされ、この二人とも歴戦の勇者であった。
この金太夫は、飯島民部の様子を怪しみ、民部を問い詰めながら長刀で殴り倒す。この時弾正へは、北原彦右衛門、上島川兵衛、田畑善右衛門、文明寺和尚の四人が付き添っていた。この四人は二の曲輪へ出て、皆で一斉に後を塞ぎ、弾正が城内に戻ろうとしても入れなくした。
渡辺と小菅は互いに言葉を交わしながら、織田の防戦に懸命であったが、小菅はついに城から逃げだし、渡辺は言葉をかけるが、小菅は顧みずついに何処かへと落ちていった。金太夫は小和田出羽守に従って奮戦したがついに討ち死にする。ここに、仁科城主をを始めとする大勢が死に、その死者は籠城の半数を超えたという。
この時、籠城を強いられていた弾正の奥方は、跡部越中守の娘でありました。この時同時に籠城していたのが、春日戸左右衛門こと今野戸左右衛門であり、母方の祖父は伊藤清左右衛門でありまして、この者が付き添いましたが、城に火を掛けられて櫓の下へ逃げてきたが、逃げるべきもなくなり、差し違えたり切腹したりしました。
その後満光寺の住職の牛王和尚がここに来て見れば、正確にご遺体の素性を知っており、ご遺体を運び出して火葬にし、御戒名を柏心妙貞と名付けたという。このことは、後で知れ渡り、道儀公(保科正光の法名)は母上でもあり、手厚く弔ったという。この落城は天正十年(1572)3月2日の事である。
このことが新府(韮崎)にまで伝わり、甚四郎(正光)も覚悟を決めて新府城に行きかけたところ、小山田将監から使いが来て、父正直は城から逃げ出している、といい、正直は再起を期して逃れたことを伝え、早々にここから立ち退いて甚四郎(正光)は箕輪の城に逃げ、正光の奥方は親の真田安芸守のもとに逃げよという。
暫く経ってから・・
勝が亡くなってから、内藤昌月は小田原北条に臣下して時を過ごし、保科正直はしばらく浪人の身となる。これは森庄蔵は、自分に従って上方に来いというが、文明寺和尚が弾正に聞いたところ、上方は言葉使いも異なり、幼い頃より育ち、慣れ親しんだこの地を棄てて、他国に行っても成功は覚束ないだろう。それならば、こちらにいて、高遠の城主になるというのが希望だという。文明寺和尚はこれを聞いて、正直の希望に自身も掛け、正直を高遠城の城主にさせることを誓い、この意に違える時は差し違えるといい、この思いが大事だと確認する。この実現に向けて正直が浪人の内は、正直の側から離れないと言う思いの北原彦左衛門、上島川兵衛、田畑善右衛門、文明寺の四人であった。この時は動乱の時で何があってもおかしくない時なので、この四人は弾正の側を片時も離れなかった。弾正は、松本の小日向源左衛門と言って、妹の婿になっている小日向家に居候することになる。
真田阿波守は上田と小県の5,6万石の領主で、後に沼田も領していた。勝が亡くなってからは、小田原北条に従っていた。正直の子甚四郎(正光)が無事箕輪城に匿われたことを阿波守から聞かされたが、甚四郎が新府(韮崎)落城の時、妻を見捨てて逃げたことの恥辱に、阿波守に申し訳が立たないで何をもって面目をそそがんか思い悩んでいることを阿波守が聞いて、何度も言うのは、武士が局面に出会った時に親子兄弟妻までも棄て去ることを恥辱と思うな、これを伝えるため上田に来て貰ったのだ、と真田阿波守は言ったという。
・・・続く




赤羽記 付録               2013-03-26 17:04:47 | 歴史

付録には、興味深い記述が多くある。

伝聞では、藤沢に移住したのは正則公である。弟の与次郎一同は、長いこと春近という所に5つの村を領有して住んでいたが、藤沢の台に一緒に移住した。後に、与次郎殿は北村家の先祖となった。与次郎の息子は保科三左衛門に、三左衛門の息子は保科十郎右衛門(会津)に、十郎右衛門の息子は北村十右衛門と北村権蔵と言う系譜である。・・保科家は藤沢の前は春近に住んでいたのか?また北村家も保科一族なのか?

弾正公の攻め滅ぼした伊那の万才(阪西)は、信長記に伴西(阪西)星名(保科)と連署していた。・・飯田城の阪西家と保科が戦った記録はあるのだろうか。知久家と阪西家と戦った記録はある。又武田家の下伊那攻めの時は知久家以外に武田に抵抗した豪族があったのか。武田の秋山配下の阪西が松尾小笠原の領土に進出して、松尾小笠原と武田連合軍が年1564年に阪西を攻めたときの武田方に保科正俊はいたのか。信長公記の信長記に阪西保科は信長の信濃武田攻めのこと。この時の弾正は正直。

高遠城の後詰めとして、渡辺金太夫、畑源左衛門が派遣されてきた時に、(飯田城大島城から逃げて高遠城に入城した)飯島民部がいたが、弾正公を繋ぎ止めるため、民部を質にした。金太夫は、警備で巡回して本丸に戻ったが、正直弾正公がいなかったのに腹を立て、飯島民部を長刀で殴り倒した。その上で弾正公の盟友の民部からの目を離すなと命令した。・・正直はこの時すでに武田の命運を悟り、渡辺金太夫には余り信頼されていなかったらしい。(松尾小笠原は先に織田に降参し、織田の高遠城攻めに案内役として、すでに織田方で参戦)。少し前、奥方(誰かは不明)のご自害に付き添いをした重臣達は、弾正公が出て行ったきりで帰ってこないのを不審に思い始めていた。皆が顔色を伺い、あれこれ詮索してみると、弾正は、上着を裏返して、病気の下女労る素振りをして南曲輪へ行ったらしい。また春日戸左衛門は胴服を脱いで頭から被ったいたという。いま甲斐国は敗れて、攻め手の包囲網の薄い所から出て、廊下と櫓(やぐら)の下を隠れて脱出したらしい。以後の様子は本書にある通りです。

ただし城主や奥方達の御生害は、3月朔日(ついたち)、葬儀は同6日の暮れのこと。

かつ新府の韮崎より後詰に来た畑源左衛門は、正直弾正公とは従兄弟に当たり、山田源左衛門ともいう。山田伯耆守は筑前守正俊公、井原淡路守、小原美濃守、金子某、山田伯耆守は婿という。

滝川は上方に軍を帰すとき、人質のため内藤家より亀千代を、筑前守より甚四郎殿を同道させ、三河殿より九十郎を出させた。九十郎は後の(飯島)民部のことである。人質を滝川から取り返した所は、この本文には和田ということになっているが、実際は一宮と言うところで、一宮の神社の神官が協力してくれて、亀千代と九十郎の両人を一宮で取り返した。翌日の夜には、小田井という所で、茂右衛門が甚四郎正直を救い出した。
・・・この一文と先記の渡辺金太夫の下りを見れば、どうも飯島民部は、保科家の係累に読めてしまうのだが。片桐一族の飯島家に、保科正直の弟が養子に入っていたのでしょうか?

小笠原貞慶の復活の部分 略

小笠原貞慶が高遠の保科を攻撃したが敗北する。
この時何者かが松本の大手に高札を書いて立てた。その高札の一首の歌は
  高遠の二ぶの(三峰川?)の川風はげしくて、破れて北る小笠原かな

兵部殿討ち死の時 以下略

伊奈忠次の出自を探る

2013-05-26 00:31:30 | 歴史
伊奈忠次の出自を探る

伊奈忠次の出自を探る 2012-08-17 03:42:54 | 歴史

伊奈忠次の祖父忠基 以前。

荒川易氏のとき、将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、易氏の孫易次の代に伊奈熊蔵と号した。易次は叔父の易正との所領争いに敗れて居城を奪われたため三河国に移り松平家の家臣となった。その子忠基は松平広忠・徳川家康に仕えて小島城を居城とした、・・・説。

易氏は太郎市易次を伊奈郡熊蔵の里に、次男易正を保科の里に住まわせた。太郎市易次没後は、子金太郎が幼少のため、叔父易正が後見人として管理、金太郎易次が成人後も返却しないため、金太郎易次は抗争を避けて祖先の地の三河で浪人、伊奈熊蔵易次と称した、・・・説。

後説の方に易次が二人出てきた。
叔父が易正だとすれば後説の方が、整合性がある。
さらに、金太郎易次は伊奈忠基の可能性がかなり高くなる。伊奈忠基の幼少名はなんと呼んだのだろうか。

武将系譜辞典 足利文書・・
荒川易氏戸賀崎氏元裔?四郎
易次易氏子太郎熊蔵

以下、つじつまが合うかどうかの考査。並びに、当時の状況把握。

伊奈忠基 不詳~1570
姉川の戦いで戦死 70過ぎとも72歳で戦死ともいわれている。
伊奈忠基は、元服を過ぎても後見人の叔父易正が城を戻して呉れないため為、三河に出たとある。
元服(15歳前後)とすると、1498年から1514年頃は、まだ信濃・伊那にいた計算になる。
保科正俊が生まれたのは1509年だから、5年間の「熊城(熊蔵)」での重複の共同生活の可能性ある。
易正には正則という子があり、正則の子が正俊であるから、伊奈忠基は易正・正則・正俊の3人共に面識があるということにもなる。その頃、叔父易正は保科家を背負い活躍していたのだろう
保科正則は筑前守とも称し高遠(諏訪)頼継の家老。続いて、保科正俊(1509-1593)も、弾正とも称して、高遠家の筆頭家老の地位にあった。

さらに、年代の考察・・
忠基の祖父荒川易氏は、足利義尚から信濃に領地を貰って移り住んだと言われている。この時期も不詳だが。
足利義尚の将軍在籍期間は1473~1489年、たぶんこの間に、荒川易氏は信濃の伊那に来たと思われる。
その場所は、信濃守護の幕府直轄の代行所が有っただろう場所、信濃の河野(豊丘村)あたり。このことは、あとで追いかけてみる。

仮に、年代・年齢からの推論・・
この時代、結婚年齢は今より若かったようだ。男子は元服(15歳前後)をすぎて5年ぐらい。女子は省く。結婚してから、長子は1,2年後、次子はその2,3年後に生まれる。もちろん、例外は当然ある。12歳男子と8歳女子の結婚も歴史書に記載があるが、この様な政略結婚等は省いて考える。
荒川易氏が1475年頃に30歳前後で信濃・伊那に来て、子供の易正を保科の里に、易次を熊蔵の里にすまわせた。そして生誕の年を探れば、太郎市易次が1470年代前後、易正は1472年前後か。伊奈忠次の祖父の忠基(=金太郎易次)の生誕期は、父の太郎市易次の28歳前後の時、1498年頃(+-2)と考えられる。また、保科正則の生まれた時期は、1490年前後?と推測される。そして、正則の子保科正俊は1509年に生まれる。
そして、荒川易氏とその子の太郎市易次は伊那か、少なくとも信濃で死んだと思われる。三河まで遺体を運ぶという習慣が無いとすれば、墓はその地のどこかにあるのだろう。伊奈忠基は当然墓の場所を知っていただろうし、子の家次や孫の忠次に語り継いでいただろう。
こう書いても、若干の疑問が残る。
名前からの疑問、易次の次は通常は次男の意味で、太郎市の太郎は嫡男の意味。
太郎市易次の子は金太郎易次。太郎市易次は金太郎の元服を待たずに、若くして亡くなっている。その場合、この時代は、名前を引き継ぐのだろうか。
易正が長子で、易次が次男であれば、年齢の推論からも、疑問が小さくなる。

歴史書で確認されていることは、「伊奈忠基 不詳~1570」。「正則の子保科正俊は1509年に生まれる」。

後は、「両家、荒川家と保科家の家系図」。
その間の年代は、すべて推定・・・だが、「当たらずといえ、遠からず」と、確信がある。

時を経て、1563年に三河一向一揆が起こる。
場所は、東三河の碧海郡、矢作川の西岸地域である。矢作地方の郡代を勤めた伊奈忠基一族は、家康側と一向一揆側に二分する。やがて1564年に、家康側が勝利すると、一向一揆側にいた伊奈家の家次や貞吉や忠次は三河を追われるように離散する。家次や貞吉は堺に、忠次は伊那に、逃避する。伊奈忠次が14歳の時である。

この頃、伊那には保科正俊がいた。当時保科正俊は55歳である。1552年に高遠家が武田信玄により滅ぼされて以降、保科正俊は槍弾正として、武田の臣下にいた。高遠城の城将として、身分は先方衆(120騎持ち)としてである。以来正俊は、信玄に従軍し、数々の戦いに参戦している。高遠城は高遠家が滅亡して以来、秋山信友が城代を勤めた後、秋山信友は飯田城に移り、信玄の子の武田勝頼が高遠城主となった。1570年勝頼の後に、高遠城主となった武田信廉が高遠城主になった折、保科正俊は嫡男の正直に家督を譲り、次男の内藤家の箕輪城に引退した。保科正直は1574年には高遠城守備を命じられている。

*先方衆(120騎持ち)とは、大名領国の外に知行地を持ちながら、その大名に臣下することをいい、戦国大名は、およそ1万石で正規軍250人と数えられることから、逆算すると5千石弱くらいの、小豪族と思われる。

そして、伊奈忠次は伊那に逃避した。伊那の何処だろうか?。
塩尻の元荒川家家臣のところ、さらに明科の熊倉の里にいった、という説があるが、少し無理があり、説得力を感じない。あまり合理的で無い様に思う。
伊奈忠基が存命でもあり、その祖父から伊那行きを勧められたのではないか。同じ血を引く保科正俊・正直のところへ行ったのではないだろうか、と考えている。藤沢を含む高遠近辺である。そして、治水の研究もかねて信玄堤、釜無川・笛吹川などの近辺なども可能性を感じる。この時、武田信玄の有力な家臣となっている保科正俊の「つて」で、である。保科正俊は、すでに「槍弾正」と呼ばれ、高遠城将であり、藤沢城に住んでいた可能性がある。

1564年から5年間、正俊が55歳から60歳まで、伊奈忠次が14歳から19歳までの5年の間の話である。


伊奈忠次の出自を探る2 2012-08-21 14:15:11 | 歴史

伊奈家の家紋の話

関東代官頭、伊奈忠次の先々代は荒川と名乗っていた。

所は、高遠の山深く、三峰川の支流、山室川の上流に芝平の里があり、そこに諏訪神社がある。そこで不思議なものを見た人がいる。二つ巴紋である。もともと諏訪神社の家紋は「梶葉紋」とされているのにだ。灯籠の宝珠の下に巴紋がある。正式名称は「二つ頭左下がり巴紋」というのだそうだ。宝珠とは玉葱状の石細工で、灯籠の笠の上に存在する。
芝平諏訪神社の、ごく近くの地名に荒屋敷がある。荒のつく名前の屋敷がそのまま地名になったのだろう。
残念なことに、この芝平地区は廃村になっている。度重なる土石流災害と川の氾濫が原因だそうである。諏訪神社の歴史を知る人や荒屋敷の名の由来など知る古老はますます少なくなりそうだ。

信濃国高遠。

伊奈忠次は、この地に二回来た可能性がある。一回目は、三河一向一揆の後で、一揆側に付いた忠次の敗戦逃避の時、祖父忠基(易次)は元気でおり、叔父易正の孫の保科正俊も現役の頃。二回目は、武田戦に勝利した織田・徳川家が信濃を織田領に、甲斐を徳川領に分けてまもなく、本能寺で信長が殺されて、家康が信濃を徳川領にと動いたときである。この時、伊奈忠次は、その作戦の主力メンバーであった。この時、保科正俊は、北条家の後押しもあり、高遠家の城主であった。この保科正俊の懐柔の役目を伊奈忠次が担った可能性は極めて高い。この時のチームリーダーの酒井忠次への取次も伊奈忠次が行ったのだろう。もちろん、親戚同様に仲の良かった真田家の信之からの斡旋もあった。真田信之は父と違い、家康の家臣であった。この保科家と真田家の親戚つきあいは、共に武田家臣の時の川中島の合戦以来と思われる。武田家臣の三弾正のうちの二人、槍弾正の正俊と攻め弾正の真田幸隆。真田幸隆が川中島で上杉勢に囲まれた絶体絶命の時、単騎で幸隆の所へ飛び込んで助けた、とあるが、この時以来と思われる。

伊奈忠次は、家康が信濃経営に乗り出す前、駿河に呼び出されて、家紋の変更を命令されている。この時から、九曜紋から二つ巴紋に変わる。これで二度目。一度目は、家康に反抗して、一向一揆に参加し、後に許されて、家康の子、信康に仕えたとき、(たぶん自主的に)葵紋を止め、九曜紋にしたのだろう。
前の葵紋が双葉葵なのか、茎葵なのか、不明。さらに、二度目の九曜紋は、角九曜紋なのか、九曜紋なのか、不明。
つまり、荒川家から伊奈家へと続く伊奈忠次の家紋は、最初「葵紋」次ぎに「九曜紋」最後に「二つ巴紋」そして替紋として「剣梅鉢紋」と変遷した、という流れであるが、前の二つは、書に記載があると言う程度の話で、信頼度は少し薄い。巴紋は墓などに彫られているので、確定的であろう。家紋に替紋もある、と言う事実も最近知った。
伊奈家の以前の葵も気になるが、保科家の家紋は角九曜紋だから、さらに気になるのは九曜紋のことである。

鴻巣に勝願寺という寺がある。
伊奈忠次はこの寺の墓に埋葬されている。また、この寺には、真田信之の正室と子供の墓もある。
鴻巣の勝願寺に、伊奈忠次と三代目の関東郡代となった伊奈忠次の次男忠治とあと2つ、計四つの 宝篋印塔の墓ががある。

控え室の雑談記 伊奈忠次の治水技術・知識の原風景を探る 
2012-09-04 13:27:19 | 歴史
知識や技術とか強烈な精神構造がどのように培われたか、を探ることを、出自とは言わない様だ。突然に、強い精神が生まれることも、急に知識や技術が身につくことも、無いとすれば、その人の、生まれてこのかたにあるのは必然、それを、原風景と呼び、探ってみる。

祖父忠基の三河

元服を終えた金太郎易次は信濃を離れ、三河に行く。そこで名前を伊奈熊蔵忠基と変える。伊奈熊蔵忠基が小島城の城主となるのが、後年の約60歳(1561年)の時だから、およそ45年間三河のの何処かに生活して、徐々に一族郎党を増やし、地元と密着し、小豪族としての体裁も整えていったのだろう。頼ったのが、荒川・戸賀崎の吉良一族であろう事は、後の一向一揆の時、一族の約半分が、東条吉良家の荒川義広(弘)に与したことからも伺われる。この三河一向一揆のリーダーは荒川義広の実兄の吉良義昭である。三河の新参者の伊奈熊蔵忠基は、おそらく、絶えず氾濫を繰り返す矢作川の河川敷の荒れ地か、荒れ地の近くを領地として与えられたのではないか、これは想像であるが、後に散見される治水の知識や堤防の技術から伺える。矢作川の河川敷荒れ地を耕作地に替えながら、少しずつ力を増大していったのではないか・・・祖父熊蔵忠基から始まる、伊奈熊蔵忠次の伊奈流と言われる治水技術の原風景である。
西尾市の歴史人物の「偉人録」の伊奈熊蔵忠次の項に、本多清利さんの「家康政権と伊奈忠次」の紹介文がある。
「三河一向一揆の反乱に連座して父子ともども小島から追放された。・・・各地を転々として渡り歩く放浪生活・・・忠次は質実剛健の士分であったが、なりふりかまわず食を求めて雑役に従事した。すなわち行く先々で、地頭や地侍が河川の堤防や、用悪水路の補修を施工していれば、一般農民とともに人足として働き、・・・忠次なりに堤防や用悪水路のより有効適切な施工技術を生み出し、地頭や地侍層を驚かせた。・・・」
本多清利さんは、西尾市や付近各地に残る伊奈忠次の風聞を言語データとしてつなぎ合わせて、上記の本を書いたのだろう。
伊奈忠次の足跡を追いかけてみても、治水の基礎知識、施工技術のレベルの取得は、この時期でしかあり得ない。


伊奈家の精神風土 2012-09-13 01:59:09 | 歴史

三河一向一揆

伊奈熊蔵家・伊奈半十郎家が関東代官頭時代・関東郡代時代に業績を残した各地には、地名を残したり、伊奈を冠にした神社や、銅像を残したりしている。いわゆる「官」のリーダーを民衆の手で、尊び懐かしんで、のことで、このことは、他にほとんど類を見ない。業績に対する尊敬や人気は、神様仏様伊奈様と称せられ、事あるとき(災害や飢饉)、幕府よりも郡代様頼りだったことが、当時の各地に残る資料からも伺われる。

時には、幕府の意向をも無視して、窮民救済を行った伊奈家(熊蔵家・半十郎家)の精神構造とは、どんなものだったのだろうか。家康や将軍に対しての距離感、窮民に対しての距離感は、幕府のトップ官僚の立場であったから、余計に興味がわく。そこに宗教は存在するのだろうか。
代々、関東移封後の伊奈家は、浄土宗の有力檀家であった。伊奈熊蔵家は忠次を中心に前後四代の墓を、鴻巣の勝願寺に持っている。忠家、忠次、忠政、忠冶(半十郎)の四人である。忠克以降の半十郎家は、川口市の源長寺にある。また、忠政の嫡子の忠勝は九歳で病死しいるが、伊奈町小室の願成寺に葬られている。三寺とも浄土宗である。
・・・この項の目的とは違うが、熊蔵家と半十郎家の関係を少しだけ説明しておきます。忠次の嫡男の忠政が亡くなったとき、忠政の子の忠勝も九歳で亡くなり、熊蔵家はここで改易になり断絶する。後に、忠勝の弟忠隆が成人を迎える頃に許されて、旗本として復活するが。幕府天領と関東治水事業は伊奈家の名声と業績を惜しむ声が多く、忠次の次男の忠冶が関東郡代として引き継ぐこととなる。なお、将軍家光の相談役だった保科正之(家光の弟)が行った、末期養子の禁の緩和(嫡子法の改革)は、由井正雪の乱のあとだから、この数十年後のことで、伊奈家の改易・復活には関わっていない。医療の貧弱だったこの頃は、領主(城主=大名・小名)が若死にする場合が多く、改易となれば、配下の大量の武士が浪人し、多大の政情不安が起こり、この因で由井正雪の乱も起こった。保科正之の嫡子法の改革は、数ある保科改革の善政の一つといわれている。・・・

伊奈熊蔵忠次を祖とする、伊奈家は代々、敬虔で真摯な仏教信者であったと聞く。
では、伊奈熊蔵忠次が若くして経験した、三河一向一揆とは、何であったのか。
三河一向一揆については、簡単な解説や大久保彦左衛門の「三河物語」などで、実際よく分からなかったが、、最近、杉浦幹雄さんのブログで「父なる教えー浄土真宗ー」を読ませてもらった。分かりやすい解説だ。
それを基に、要約しながら考査してみる。

三河地方の浄土真宗の根付き方。
三河地方には従来より、聖徳太子信仰と善光寺信仰が、多く見られるようだ。今もお寺や旧家には聖徳太子絵像と長野善光寺絵馬がかなりの数、残っているそうな。この人達は、念仏集団を作り、講という形で集会を行っていた。
15世紀、三河浄土真宗の萌芽は親鸞の矢作での説教に始まった。時が経ち、蓮如の時代になると、蓮如の弟子に如光が現れて、精力的に真宗の布教を行うようになる。彼は油ケ淵の伝説のボスとも呼ばれ、入り江の油ケ淵の漁業権、内陸の寺町の商業権、城の出入りも統轄したようである。如光は佐々木上宮寺で息女と結婚し、上宮寺の住職となり、ここを拠点に、オルガナイザーとして、布教拡大に力を発揮してゆく。門徒は百姓だけでなく、武士・町民、さらに職人や漁業関係者も多かった。宗教活動は、矢作地方で、縦割りに組織を超え、横割りの宗教的連携活動をしている。浄土真宗の信者には家康の家臣も多くあった。
三河一向一揆
人質生活から、岡崎に戻った家康が、まず目論んだことは、西三河の支配と領国造りであった。真宗の寺がかなり多く、年貢徴収には何かと文句が多い。本願寺には喜んで寄進するし、寺内町は商業が繁盛しているし、「不入」特権があり既得権が他にもあった。家康22歳の時の決断は、真宗の寺をけしかけて、門徒を分散させ、蹴散らすことであった。家康の直参家臣で真宗門徒の石川・本多・鳥居などの一族は敵味方に分かれた。東条城の吉良義昭は非門徒であったが、一向一揆に組みして蜂起した。伊奈熊蔵忠基は家康側についた。孫の忠次と父は吉良(荒川義広)の一向一揆側についた。家康はまずここから攻めた。戦況は、一揆側の直参の家臣団は家康とは戦いぬくいし戦意も喪失する。圧倒的に家康有利に進んだ。リーダーの吉良義昭は早々と降参してしまう。
ここで、家臣の大久保が和議を提案し、1562年に和議が成立する。条件は、坊主を除き、一揆参加者は赦免、一揆張本人の助命、「不入」特権の承認であった。この様にして、三河一向一揆は終結する。
伊奈熊蔵家は東条吉良の同族の吉良(荒川)義広との義で、一向一揆側に加担したと言われている。配下に真宗信徒を多く持っていただろうことは、想像できるが、熊蔵自体は真宗信徒であると言う資料は出てこない。
・・・家康の参謀・本多正信も三河一向一揆に一揆側で参加した。あと各地を放浪し、後に家康に帰参した。後年に死しての墓は、京都東本願寺に埋葬されて、ある。改宗しなかったようだ。・・・
時をほぼ同じくして、一向一揆が各地で起こっている。代表的なのは、三河一向一揆を含めて三つ。加賀の一向一揆、長島(伊勢)の一向一揆。織田信長は、長島一向一揆で二万人、比叡山の焼き討ちで三千人、高野山金剛峯寺で千人の、世界でも類を見ない大量殺戮を行っている。この頃も、織田信長は、石山合戦で、本願寺門徒と対峙していた。京にある僧侶寺院・貴族・朝廷は、この怨恨を明智光秀に託した。これが、世に言う「本能寺の変」である。この背景分析は、教科書で習ったことと違った結論だが、合理的で、ある意味正しいと思っている。

さて、伊奈忠次の精神風土だが、一向一揆に参加して敗れたが、浄土真宗への信仰の宗教心はどうも見えてこない。
改宗したという痕跡も見つからない。伊奈忠基の、一揆が起こったときの檀家寺が何処だったが分かれば、話は別だが、資料は今のところ見つかっていない。以後の伊奈熊蔵家は一貫して浄土宗徒である。

関東天領を預かる代々の伊奈家に貫流する、民政への思い、困窮する民への暖かい思い、はどこから来るのだろうか。
仮説する。
小田原の役(北条征伐)のあと、五国大名となり巨大化した家康を危険視した秀吉は、関東移封を命じた。家康の重臣達は、荒廃している関東をみて、こぞって反対した。その中で唯一関東に行くべき、と主張したのが、伊奈忠次であったという。
その時、伊奈忠次の頭の中には、すでに利根川の東遷、荒川の西遷の青写真があり、関東平野中央部の広大な河川敷的荒れ地を、豊穣の作地に替えうる方策があり、伊奈家代々の仕事とする自負もあった。この自負があったからこそ、関東に行くべし、と主張したのだろう。優れたテクノラート官僚の、グランドデザインでもある。事実、関東移封当時、180万石とも、250万石ともいわれた家康の所領は、後に400万石になった、と言われている。
そのすべてが、伊奈家の業績では無いだろうが、中核は、常に伊奈関東代官頭・郡代であった。
民を豊かにし、徳川家を豊かにする事を絶えず冠にした職業倫理観は代々引き継がれる。この職業倫理観は、民政への思い、困窮する民への暖かい思い、と共通する。度々起こる自然大災害の際、この救済は伊奈家以外できないだろうという自負と倫理観をもって対応する。それも歴代である。
上記は、仮説である。


芦川殿館 2012-10-26 01:24:52 | 歴史


伊那忠次から5代前の荒川易氏の信濃入りの場所は何処であったのだろうか?
・・・6代前の説もあるが、伊奈家の祖は荒川易氏・荒川太郎市易次・荒川金太郎易次=伊奈忠基・伊奈家次・伊奈忠次という系譜が、合理性が高いと思うので、5代前とする。

荒川易氏は足利義尚より信濃に領地を与えられた、とある。場所は、将軍足利家の領地と考えるの自然に思う。当時の幕府直轄地の可能性の高い郷は河野・伴野庄(今の豊丘村)あたり。承久の乱の歴史に名を残して以降、河野氏・伴野氏の名前は歴史から消えていく。小豪族になったのか、家が廃絶したのかは不明。その頃、信濃を代表する大豪族は、信濃四大将と言われる四家、小笠原家、諏訪家、村上家、木曽家である。この豊丘村は不思議な地域で、他藩の飛び地領土だったり、幕府直営地であったりして、隣接しているにもかかわらず、信濃守護の小笠原家の領地でなかったようだ。これは、小笠原が足利尊氏の臣であり、信濃守護も将軍足利家より任命されたことに由来することに思う。
河野の地に、芦川殿館の遺構がある。館と城の違いは、単なる大きな住居とその住居に戦闘(争)・防御機能を付加しているかどうか、による。また、芦川の名乗りは、足利氏が地方に出て名乗るとき、足利を名乗るのが憚られるとき、と聞く。つまり、足利氏(足利傍流)の別称と考えていい。
荒川易氏は足利傍流である、と言うことを踏まえれば、荒川易氏は、芦川館に住んだ可能性高い。

時は、文明の内訌。
信濃四大将の二つ、小笠原家は松尾・鈴岡・府中(松本)で三つ巴の内乱、諏訪家は、上社・下社・惣領家、しばらくして高遠家も加わり、内乱、やや早めの、戦国時代に突入した時期。
荒川易氏は、子供二人を豪族に、の思いを託して養子に出す・・・推測。
易正を保科の里、易次を熊城(蔵)の里へ。


易正を保科の里へ 2012-10-26 20:10:38 | 歴史

文明の内訌

文明15年(1483年)に諏訪家(諏訪大社の上・下社の大祝と惣領家)に一族間の勢力争いの内乱が起こった。
これを、文明の内訌(内乱)と呼ぶようになる。
諏訪一族の内乱は、中世の歴史に詳しい人でも、すぐには頭に入らない、複雑で特異な事情を含んでいる。また、神社や神道を理解していなくては、解けない状況もある。さらに、鎌倉期の幕府と諏訪家の関係も特殊だ。それを踏まえて、比叡山や高野山の寺が兵を持ったように、神社が兵を持つようになる。僧兵ならぬ神兵(=諏訪神党)だ。この諏訪神党の中核は、大祝の継承権を持つ嫡子以外の次男や三男など、惣領家も同じ、さらに諏訪家の有力な氏子などであったが、諏訪家が北条得宗家と御身内関係を持ち、養子などで血縁関係を持つ頃に、諏訪神党は信濃各地に勢力を拡大増殖した。この諏訪神党のうち、有力のものは、諏訪大社の神事・祭事を経済的なものを中心にプロデゥースした。この役に就く諏訪神党の豪族は、有力豪族として神党内の支配的な立場につくと言われる。
権力の二重構造である。
個人的には、この複雑な権力構造が、守護小笠原家の大大名への道を妨げ、甲斐武田の信濃侵略を招いたと思っている。

易正を保科の里へ

荒川易正が保科の里へ養子にいったことは、史実から確認されている。保科の里は、川田郷保科(長野市若穂保科)であろう、というのが、各書にある一般論のようだ。
だが、そうであろうか?
保科の里は、川田郷保科の他に、1500年前に、藤沢郷に幾つかの保科の痕跡を見ることができる。1482年保科貞親は荘園経営で、高遠城主高遠継宗と対立。この時保科貞親は高遠継宗の代官であった。高遠家の荘園の範囲は、藤沢・黒河内地区プラス近辺と見るのが妥当に思う。そうすると、保科貞親の居城はこの範囲内。同年の守屋満実書留によれば、藤沢台の八幡社が保科家の鎮守とあり、また七面堂に保科家の墓がある、とある。この地も保科の里である可能性がでてきた。
ここにたどり着くのを妨げた要因は、藤沢の名前である。鎌倉初期に納税を怠った藤沢黒河内荘園主の藤沢氏は、その咎めで比企能員に殺される。だがその係累の藤沢氏がずっと藤沢郷にいたのだろう、と思い込んでいたが、これは大きな勘違いで、後の、福与城の戦い(武田信玄と藤沢頼継)の藤沢氏と鎌倉初期の藤沢氏を結ぶ関係資料は、探したところ出てきていない。どうも別流らしい。藤沢頼継等の藤沢家の地盤は箕輪六郷とあり、高遠とは近接だが、境界線は出入りがあったのだろうが、藤沢郷や高遠が地盤ではない、と言うのが推論の結論だ。
信濃に来て間もない荒川易氏が子供を養子に出す先が、川田保科の里は遠すぎて、やや不自然で、秋葉街道を北上すること約50kmの藤沢郷保科の里の方が理にかなっている。
高遠継宗が城主・荘園主で代官の保科貞親と対立したのが1482年、保科家親・保科貞親(筑前守)・正秀・正則・正俊と続く藤沢郷保科家の何処に、易正は位置づけがあるのだろうか。それは、貞親の養子であり正秀=易正となり、やがて代代高遠家の重臣の地位を上げていく。途中、1488(前後1)年に村上顕国の侵攻で、川田郷保科の保科正利が合流してくる。・・・この様な流れであろうと推測する。ここに資料はない。

だが、どうして諏訪神党と接点をもったのだろうか?・・いつ・どこで・なにが・なぜ・だれが・だれと・・疑問符は少しずつ真実近づけてくれる、と信じている。その危うい思考の過程を記録していくことは、後年に同じ疑問を持った人(=後輩)に、多少の時間の余裕と道筋を示すことができる、と思っている。結論は当然違ったものでもよい。

当時、河野・伴野(現在の豊丘村)にいた諏訪神族は、知久家一族と思われる。箕輪の知久沢を源流とする知久家は、伴野地頭を経た後、この頃はすでに、より領地の広い知久城に移っていた。神ノ峰城の築城はこの頃より後である。この地に残っていたのは同族の虎岩氏である。虎岩氏もまた諏訪神族である。
荒川易氏と虎岩氏が接点を持ったという資料はないが、同時代の同場所で接点を持たなかった、と言うのも不自然であろう。当然ながら、虎岩氏は諏訪神族の内情にも詳しい。家系存続が最優先課題の時代に、その問題を抱えた保科家と繋いだ可能性はある。それが虎岩家の本家の知久氏であったのかもしれない。偶然かもしれないが、知久氏の系譜の中に、易を名前に取り込んだ系譜がある。・・資料がほぼ無い、推論である。


易次を熊城(蔵)の里へ。神稲。 2012-10-27 17:29:41 | 歴史

熊城(蔵)の里
伊奈忠次の祖父伊奈忠基は、三河に流れて、それまでの荒川(金太郎=幼名)易次から伊奈熊蔵忠基と改名したと言われる。そのいわれは、伊那の熊城の城主だったことを、誇りに思い、懐かしんで付けた名前だとされる。城を蔵に替えて。確かに、城を名前に使うのはおかしい。徳川家康の家臣になった折りにも、問われれば、答える内容だったと聞く。以後、五代にわたり、関東郡代頭(小室丸山)時代まで、伊奈熊蔵家は続く。

では、熊城は何処にあったのだろうか?
熊城の場所の特定は、極めて困難な作業であった。今でも、確信まで行っていない。

伊那の古城で熊城と名前が付いている城は幾つかある。
一つは、長谷にある、市野瀬氏築城と言われる「熊野城」、あと二つは、諏訪大社近くの文明の内訌で戦争の拠点になった諏訪の「新熊城」、さらに向城(別称小熊城)。諏訪を伊那とは呼びませんが、中世は藤沢・高遠地区と諏訪は同一文化圏・生活圏なので、少し無理して範囲を広げています。この三つの城とも、荒川・保科家の流れから可能性を感じるが、否定する要素も多い。

神稲

以前から気になっていた地名がある。豊丘村神稲だ。神稲は「クマシロ」と読む。この読み方は、クイズで出されても、正解率が極端に低そうな難しい読み方だ。、稲を「シロ」と読める人はほぼ無いように思える。熊稲の成立は、明治8年に、近在の田村・林・伴野・福島・壬生沢の5村の合併により生まれた。当時は、熊稲村と呼ばれた。
この熊稲の壬生沢と言うところに、芦川館と浅間城の古城が二つある。地元では、足利一族が隠棲したと伝承されているようだ。隠棲とは、字のごとく、隠れ住むことを意味する。

以下、推論である。
壬生沢の芦川館(中心)に住んでいた荒川易氏・太郎正易次・金太郎易次の一族の居城では、1510年前後は、すでに易氏・太郎正は死んでいたと思われるが、叔父の易正は、保科一族ともども壬生沢の荒川家に合流してくる。高遠家は満継の時代になって衰退し、代官職の保科家も藤沢郷を離れざるを得なかったようで、幼少金太郎易次の後見役としてこの地に居座った。金太郎が成人しても出て行かない叔父易正に悲観して、金太郎易次は伊那を離れ、三河に流れたようだ。一方保科易正(正秀/正利/正尚)は小笠原家に合力し、やがて駄目な満継が引退し、頼継が継承すると、息子の正則を高遠頼継の旗本として送り込み、弾正正則は重臣の家老職になる。壬生沢は保科家が継承し、小笠原家の先付衆としても、又諏訪神党としても、この地に存在したため、壬生沢の城は神城(カミ、クマとも読む)とも呼ばれた。
・・・証拠となる資料はない。神城=熊城=熊稲の語源の推理である。稲は城の当て字。あくまで推測である。

状況証拠として
1545年、武田と対峙した福与城の戦いの中に、藤沢方を応援した小笠原信定(鈴岡)の家臣団、下伊那・中伊那の旗本衆のなかに、保科弾正があります。・・・小平物語
1548年、藤沢頼継が保科因幡に、保科旧領の藤沢御堂垣外200貫を安堵したとあります。保科因幡が誰であるか、不明ですが、保科一族と見ています。換算式(1貫=5石)に従えば、で、1000石。・・・御判物古書の写し(守谷文書)
1552年、戦功により、保科筑前(正俊)は武田信玄より旧領に加えて、宮田700石、諏訪沢底500石を与えられています。
武田の軍役で、保科弾正(正俊)は120騎の兵力を持っていたと書かれています。換算式(1万石=250人の兵力)に従えば、、120騎は4500石ぐらい。上記以外に領地が2300石ありそうで、そこが何処かは不明ですが、本拠地藤沢以外で宮田が飛び地であることから、宮田近辺もが想像されます。前述の流れから豊丘や長谷が可能性高い、と思われます。

上記を書くに当たって、こんなに資料の少ない、推理推論の多いストーリーを晒していいものか、悩み、論理整合性に欠けてはいないか、読み返し、個人的な多忙もあり、筆がほとんで進みませんでした。


伊奈忠次の源流の再資料
5代前の荒川易氏の信濃国 2012-12-17 00:41:22 | 歴史


頼んでおいた資料が届いたと近くの図書館から連絡が来た。
「豊丘村村誌」である。知久氏と芦川氏館の項をを調べたいので、取り寄せをを頼んでおいたのだ。
埼玉県に住む者が長野県の図書館に蔵書されている資料を見るには、近くの図書館を経由する方法があるのは最近知ったことである。

以下、原文をそのまま記載する。
「豊丘村村誌」上巻、P143-P144・・
第1章第8節 壬生沢の足利殿
これより先、天正元年京都の室町幕府の第十五代将軍義昭は、武田信玄と結んで織田信長を討たんと画策し、却って信長のために追われ、将軍はここに亡びてしまった。この時に足利氏の一族の者が亡命して、信州の山奥の壬生沢の天険、字あしかわに拠り、その名あしかがをかくしてあしかわと言ったという伝承があって、村内ではこれを知り「足利殿」と言い、京都から来た足利氏であると伝えている。これを明らかにする文書はないが、足利氏の遺品と称するものを見れば単なる伝承ではないと思われる。足利一族が亡命して隠棲したと言う所は壬生沢中心の高台を利用した天険の地に構築された城砦である。正面から城址が見えず、南と北に開け、東方は山地につづき、館の址は今水田となっている。付近には土塁の址、物見台、すずみ場、碁打場、馬屋のつるねなどの地名があり、無名の墓もある。東方の渓谷から引水した井桁の址も残っている。この城址から足利時代の茶臼が発見されたが、俗鄙では到底見ることのできない大型のうすで、しかも精巧にできている頗る貴重なものである。足利殿はここで農耕しながら武技を練り、したたかの黄金をためたらしい。そして勢いにまかせて矯慢な振舞があったから郷民に憎まれ、終に追放されてしまった、と言うのである。この時のこして行った馬の鞍、青貝ずりの矢筒、弓矢、画軸などがあるが、いずれも室町時代のものと見られる。足利殿は山伝いに帰牛原へ出て西国を目指して逃げ去ったという。遺品は壬生清美氏方に保管されている。」
P701-P702
第2章 伝説 芦川館
「壬生沢の字芦川という所に芦川殿の館あとというところがあって、そこを中心にしていろいろのいいつたえをもつ地名が散在し、それに関係した遺物が保存されております。
芦川殿は足利殿という殿様であったといわれております。むかし遠い西の方から世をのがれてはるばる壬生沢の山中へ入り込んで来て、ここにおちついて、りっぱな館をかまえ一族が大へんはびこり武士の権利をふりまわしました。あんまり威張りましたから土地の人々からいどまれておることができなくなり、長い間すみなれた館をすててどこかへ逃げて行ってしまいました。その時のこしておいていったという弓の矢二本と青貝ずりの矢筒の馬のくらがのこっております。館あとの東の丘の上の天伯さまの森の中に芦川殿の使ったという茶臼がまつってあります。それでこの近所に一族のお墓らしい古い墓石がいくつもならんでおり、屋敷あとにあったお墓からは刀が出ました。その近くに弓のけいこをしたというまとうずるね、敵の弓矢をふせいだというどるいのあと、物見台のあとらしい涼み場、碁うちば、馬屋のあった馬屋のつるね、井戸のあと、水を引いた井水のあとなどがのこっております。
今でも春になるとお姫さまの大事にしていたという紫色のかわいらしい百合の花がこの森のあたりに咲いて、その昔をかなしげに物語っております。芦川殿が館をすてて逃げる時にたくさんの黄金を埋めておいたという所にこんな歌がのこされました。
   朝日さす 夕日かがやく 芦川の ちがやのもとに 黄金千両
芦川殿は大切にして持っていたお薬師さまと籾だけは途中の農家へあづけておき、いのちからがら逃げていきました。それから何年かの後こっそり牛を引いて取りに来ましたが、その籾はもうありませんでした。仕方なく牛を引いて帰って行きました。そこが帰牛原でした。」

第1章は、第2章の基本構成を基にして、この筆者独自の足利氏解釈を被せて書いた解説文とみえます。
筆者独自の足利氏解釈は15代将軍の足利義昭の経歴の所ですが、私の知識では、足利義昭は織田信長と途中で対立して西国に逃げたが、本能寺あと、連絡を取り合っていた秀吉の九州征伐など助け、関白・将軍時代を少し続けたあと、朝廷に秀吉に連れられて将軍職辞退した、そのあと、秀吉に一万石の領地をもらって大名になっている。
・・・記憶が正しいか、そのあたりの歴史の再確認もしてみたい。
第1章も2章も、足利氏が「武士の権利をふりまわしました。あんまり威張りましたから土地の人々からいどまれておることができなくなり、長い間すみなれた館をすててどこかへ逃げ」ました。
あるいは、「矯慢な振舞があったから郷民に憎まれ、終に追放されて」しまいました。
・・・武士の権利や傲慢な振る舞いや威張ったことで、郷民に追放されるのだろうか、という疑問である。これが、隣接する「武力をもった」領主などだったら、話が別なのだが。


荒川易氏が将軍義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ
・・についての疑問 2013-02-18 14:24:29 | 歴史


荒川易氏が信濃に来たという定説について、以前より、かすかな違和感を感じていた。

定説・・・
足利氏の支流である戸崎氏の分家といわれ、初め荒川氏を称していたが、荒川易氏のときに将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、易氏の孫の易次の代に伊奈熊蔵と号した。易次は叔父の易正との所領争いに敗れて居城を奪われたため、三河国 ..

悪い癖で、定説・・・足利氏の支流である戸崎氏の分家といわれ、初め荒川氏を称していたが、荒川易氏のときに将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、易氏の孫の易次の代に伊奈熊蔵と号した。易次は叔父の易正との所領争いに敗れて居城を奪われたため、三河国 .に違和感を感じている。
この違和感に事実の根拠は無い。もとより根拠は状況証拠であり、思いつきであり、想像である。

足利将軍9代義尚は、将軍在位は比較的短い。在位は1473-1489年の16年間である。覚えでは、日野富子の子として生まれた義尚は、将軍職がほぼ決まっていた義視を、日野富子が無理矢理押しのけて、山名宗全の後ろ盾で、将軍職に就かせたという。将軍職に就いた当初は、政務や政権に熱心で執着し精力的であったという。後半思いが侭ならずに諦観し、自堕落であったという。
義尚を取り巻く政治の状況はどんなであったのだろうか?
時まさに応仁の乱の最中である。足利義視派の細川勝元と足利義尚派の山名宗全が、義尚の将軍就任の直前に、相次いで没すると、将軍家も、次ぎに控える大豪族も、次々と一族を二分する対立構造を生み出して、戦乱するのが、応仁の乱の特色である。畠山家も、斯波家も、信濃小笠原家も、美濃土岐家も、諏訪家も同族内争いが起こっている。東軍と西軍の対立の戦乱である。だが、応仁の乱は、当時の人も現在も、要因の分からない戦乱である。幕政の中心人物である勝元と宗全が争ったため、結果的に幕政に関与していた諸大名は戦わざるを得なくなり、戦い自体にはさしたる必然性もなく、戦意がない合戦が生み出された。当時の人間にとっても理解が困難であったらしく、尋尊は「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」と「尋尊大僧正記」に記している。
応仁の乱は京都が主戦場であったが、後半になると地方へ戦線が拡大していった。これは勝元による西軍諸大名(大内氏・土岐氏など)に対する後方撹乱策が主な原因であり、その範囲はほぼ全国に広がっていった。
ここでは東西両軍に参加した信濃に関係する守護大名や豪族を名前を挙げる。
東軍;斯波持種、小笠原家長、木曽家豊、松平信光、吉良義真、斯波義敏・斯波義寛
西軍;小笠原清宗:信濃、土岐成頼:美濃、吉良義藤

この様なときに、将軍義尚は荒川易氏に信濃に領国を与えたのだろうか?が疑問であり、かすかな違和感の要因はここであろうと思いつく。果たして、天領(足利家領地)が信濃にあったのだろうか。あるとすれば春近領だが、すでに小笠原領に帰している。室町時代前半中盤を通して、信濃国の豪族で、足利家側に属していたのは小笠原家、(大井家)、村上家、市河家であり、北条残党を駆逐して領地化したのは、ほぼこの四家であろうと思う。この四家が足利家に寄進したのであればいざ知らず・・・。ここで思いつくのは、西軍諸大名に対する後方撹乱策なるもので、軍勢催促状や感状の発給や軍忠状の加判や御教書等の発給である。
歴史書に、応仁の乱の時、東軍の将であった足利義尚は、松尾小笠原家長に、西軍の府中小笠原清宗と美濃土岐成頼の成敗を命じた、とあったことを思い出す。この時代の背景を鑑みれば、御教書である可能性が高く、形は義尚発給であっても、実際は細川勝元か子の政元の発給であろう。これで、荒川易氏は信濃に出向いたとすれば、辻褄が合ってくる。つまり、西軍の成敗の御教書か軍忠状を持った将軍名代の荒川易氏が、松尾小笠原家に訪れて援軍し、勝利すれば領地の一部を獲得するという図式であろう。その後、松尾小笠原家が府中小笠原や美濃土岐家と戦ったという事実はあるが、勝利したという事実はない。なお、土岐成頼は美濃の守護であり、臣下に後の明智光秀の先祖をもち、府中小笠原清宗は信濃の守護であった。そして、荒川という豪族が信濃に誕生したという資料もない。
だが、注目すべきは、この頃に荒川易氏の系譜が諏訪一族に養子に入り、また諏訪上社と松尾小笠原が同盟したという事実が歴史書に見られる。対抗上か、府中小笠原は諏訪下社との関係を深めている。
ここで、荒川易氏の前の系譜を確認しておく。
荒川氏は足利氏傍流で足利義兼の子の義実が戸賀崎氏を名乗り、戸賀崎義実の子の満氏の次男が荒川を分家した。
以下 荒川頼清, ─, 荒川頼直, ─, 荒川詮頼, ─, 荒川詮長, ─, 荒川詮宣, ─, 荒川易氏, ・・と流れる。
特に、荒川詮頼とき、足利尊氏に貢献し、石見の守護を短期勤める。その後、同族の吉良家などと大豪族の細川家の勢力下にあったものと思われる。拠点も同じ三河で、細川氏とは祖先兄弟であったらしい。荒川氏の一部はあるとき細川氏の氏神の村積神社(岡崎市)の神官でもあった。
以上の背景を考慮すると、細川氏の御教書か軍忠状の可能性は、信憑性が増してくる。

荒川易氏を「えきうじ」と読むか「やすうじ」と読むか、不明である。検索では「えきうじ」でヒットする。
ならば、嫡子の易次と次男の易正も読み方が変わる可能性がある。

ここで確認したことは、荒川易氏が信濃に来た目的や理由、その時行ったことや残っている事実、その後に行ったことや残っている事実で、子孫と思われている人を含めての検証である。
応仁の乱前後の、9代将軍義尚の時代の、荒川易氏を取り巻く背景を確認しながらの、整合性を意識した「想像」である。

雑談記 山と川と道のある風景-三州街道-

2013-05-24 18:42:37 | 歴史
雑談記 山と川と道のある風景-三州街道-

雑談記 竜東と竜西 あと雑感  2012-07-25 23:24:35 | 歴史

テンプレートの使い方も知らないままブログを始めて、間違いに気付いても、編集修正方法も知らないままここまできました。
いまは少しだけ解りかけてきたので、折を見て修正していきます。

ブログに興味を覚えたのは、「比企の丘から」に多少触発されたところがあります。
ここで「比企の丘から」のブログの方に感謝しておきます。

また樹堂さんから出典資料のご教授をいただき、感謝しております。
また混迷したときは、お世話になりたいと思っています。

次は、三州街道を南下します。
街道を上る、下るとは、京都に向かって、と聞いたことありますが、この場合は、天竜川の沿道とする故に、南下としておきます。

竜東とは何か?という軽い質問がありました。
これは、天竜川を挟んで東側を指し、地名としては藤沢・長谷・高遠・河野(豊丘村)、阿島(喬木村)・知久(下久堅。上久堅)などで、その多くは、諏訪一族が領主とした地域で、諏訪神党の聖地でありました。
河野(豊丘村)は少し複雑です。
竜東は、対岸よりも山が川縁までせり出してくる割合が多く、その分、作物耕地が少ないようにも思えます。
対して対岸は竜西と呼び、教科書にも載るくらいの典型的な河岸段丘で、上部は果樹園の好適地、その下の地域は水田の好適地になっています。この竜東と竜西を総じて伊那谷とよんでいます。いまは、竜東と呼ぶことは多くても、あまり竜西とは呼んでいませんが。
「信濃の国」の県歌に、松本伊那佐久善光寺、四つのたいら(平)は肥沃の地・・・とありますが、伊那谷は伊那平(たいら)とは、昔も今も呼びません。

次のテーマは伊奈忠次から四代前の伊奈易氏・易次の信濃の国の赴任地を探っていこうと思います。その前に、少し寄り道をします。まさに道草ですが、三州街道から少し離れていますが、三河の豊川です。・・・豊川・伊奈城、ですが、編集で記述位置を変更。


雑談記 木曽山脈と知多半島 渥美半島と柳田国男 椰子の実
                    2012-11-08 01:15:14 | 歴史

木曽山脈と知多半島 渥美半島と柳田国男 椰子の実

三州街道は赤石山脈と木曽山脈の間を貫流する天竜川の西岸沿いの道筋です。飯田を少し下ると、天竜川と離れて、やがて木曽山中に入り、東山道古道と分かれて、足助の方に降りていきます。
木曽山脈は木曽駒ヶ岳(日本百名山)を主峰に、宝剣岳、三ノ沢岳、空木岳などの頂を連ねていきます。この稜線を繋ぐと、不思議なことに、知多半島に繋がります。まさか、知多半島までを木曽山脈とは言わないが、この山脈の骨の構造がほぼ直線的に連なっているのだろう、と思われます。

三河湾から突き出た半島は二つ、渥美半島と知多半島。
この渥美半島の先端付近に、伊良湖岬があります。

椰子の実

名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷の岸を離れて
・・・
・・

島崎藤村の詩です。
この詩が作られた逸話を、昔、国語の教師に聞いた覚えがあります。
柳田国男が詩や小説など文学に情熱を燃やしていた若い頃、病気療養で約一ヶ月ぐらい伊良湖に滞在したとき、浜に流れ着いた椰子の実のことを、当時の文学仲間の島崎藤村に話して、島崎藤村が「椰子の実」の詩を作ったんだ、と教えられました。島崎藤村は、渥美半島も、まして伊良湖岬も行ったことが無いんだよ、と言ったのを、うろ覚えに記憶しています。
柳田国男は後に文学を嫌って民俗学の大家になりましたが、職業としては、政府の農政官僚です。どちらが本職だ?なんて分かりません。柳田国男は、明治政府の大審院の判事の柳田家に養子に入り姓を変えました。柳田家は旧飯田堀藩の藩士であり、その頃は東京にも飯田にも家があったみたいです。柳田国男の本籍地は、以来三州街道の飯田になっています。

柳田国男の「海上の道」に愛知県の名前の由来が書かれています。
「あえ」の「よる」「ち」
=珍しいものが;寄ってくる;地 ・・・・・ あいち(愛知)
となるそうです。・・・・・*「海上の道」柳田国男全集(4)

椰子の実の浜辺での発見で、柳田国男は、日本民族の祖は「南洋諸島」であると確信したと言っています。・さて、どうでしょうか。


雑談記 三州街道と木曽山脈  2012-11-17 18:49:54 | 歴史

三州街道と木曽山脈

11月初旬、山岳の広葉樹が紅葉し、山里の街路樹が色付き始める頃、山懐深くから、群れた野生の猿が食料を求めて果樹園に出没してくる。昨年同様、今年の秋の南信濃の風景だ。被害総額○○円とテレビが報じています。

木曽山脈は赤石山脈と平行するように山岳を連ねる。間には、天竜川が貫流し、川に寄り添うように、三州街道が走る。
木曽山脈は、木曽駒ヶ岳(西駒)宝剣岳を主峰とし南下するにしたがい、山容は丸みを帯び、山頂を低くしていく・・。
これには理由があります。木曽駒以北の山を構成する岩石は、頁岩、石灰岩、砂岩など比較的強度が強いのに対して、以南の山は、花崗岩を主として比較的弱くもろい。その結果を、木曽山脈の幾つかの特徴に見いだすことが出来ます。山頂が低くて山容が丸みを帯びているのは、花崗岩が風雪に耐えかねて崩れやすかったのだろうと思います。同じ理由で、山から流れ出る谷川は、山を削りながら土石を運び、里に広大で層の厚い扇状地を造成したのだと思います。時には、激しく山崩れを伴った土石流も当然あった。この層の厚い扇状地を削りながら流れる谷川は、深い谷も作ったのだと思います。そして、この扇状地を深く切り込んでいく川を「田切川」と呼んだ。昔は、田の意味は耕作地であり、畑も水田も含まれていたそうで、畑と水田が区分は後年であるそうです。

伊那谷の扇状地は、果樹園好適地であり、リンゴ、なしの他様々な果物が生産されてます。先述の野生の猿の食料の果物はまさにこの地の生産物です。猿も生きることに大変ですが、果樹園生産者も損害が甚大です。

三河高原のことを、通常は木曽山脈とは言わないが、木曽山脈に連綿と連なっていて、構造は同じです。矢作川、巴川、足助川は、この三河高原を水源とする川であります。この三河高原は南部木曽山脈と同様に花崗岩を主構成とする岩石で出来ています。矢作川の氾濫は、三河高原から削り散られた花崗岩土石が、比重の重い石英部分を主に、川床を高く堆積してきた故の氾濫だと言われています。矢作川洪水への対策、治水技術が、技能集積して伊奈忠次に伝わり、やがて利根川・荒川の東遷・荒川の西遷へとつながったのだろう、と感慨をもって木曽山脈を眺めています。

*門外漢なので、花崗岩の性質につては、かっての理学部地質学科の友人に確認しました。花崗岩は、特に酸性雨に弱いみたいです。
*山崩れの土石流災害をこの地方では昔「蛇ぬけ(ジャヌケ)」と呼んでいたそうです。「言い得て妙」と思っています。

大田切川、中田切川、与田切川など

寧比曽岳1120M・・三河高原最高峰。
恵那山2191M・・通常、木曽山脈最南端。
ただし、御嶽山・・独立山岳(活火山)、木曽山脈ではありません。

雑談記 赤石山脈・木曽山脈 2012-11-20 18:14:30 | 歴史

赤石山脈・木曽山脈  天竜川と三州街道

諏訪湖を水源とした天竜川は太平洋へと流れ出す。
諏訪湖釜口水門から浜松市までの213KMの長さだ。
天竜川を下流に向かって、左に赤石山脈、右に木曽山脈と、日本でも有数の山岳の間に伊那谷があり、川治沿いに三州街道は走っている。昔は、この三州街道は、東山道の脇往還であり、信濃からの京の都への道であった。
また、この道は、平安時代から、物流の産業道路として存在し、最初は細々と、やがて室町時代頃から大量の物流の道として栄え、山国の農産物や工芸品と三河湾の海産物の運搬に使われる道となる。この状況は、東海道線・飯田線の鉄道が敷設される明治時代まで続き、産業道路としての役割を終焉する。

赤石山脈と木曽山脈と飛騨山脈の三つを総称して日本アルプスと呼び、赤石山脈を南アルプス、木曽山脈を中央アルプス、飛騨山脈を北アルプスと呼ぶ別称もあるが、個人的にはこの別称は好きでない。

赤石山脈

赤石山脈は、深田久弥さんの選んだ日本百名山の約1割の名山を持ち、3000Mを超す七つの高峰を誇る。その主峰は日本第二の高峰の北岳だが、地元では盟主はあくまで赤石岳である。赤石岳の名前の由来はラジオリヤチャード岩盤が赤かったためと言われる。ラジオリヤチャードとは放散虫、赤い虫(ラジオラリヤ?)のこと。赤石山脈は、かなり地味で、富士山に次ぐ第二の高山を持ちながら、なぜか登山家の人気でも飛騨山脈に後れをとっています。
昔、登山好きな友人(誰かの記憶が薄れて)が聖岳(?)に登ったときの話。
聖は急峻ではないが、行けども行けども木立のなかを歩き、疲れてへとへとになり、やがて視界が開けたら、辺り一面お花畑で、それは見事で絶景であった、雷鳥もいた、
と話してくれたのを覚えています。
これは、聖岳に限らず、赤石山系の山全体の、山麓の深さとそこを抜けた中腹のお花畑の様子を物語る特徴です。
飛騨山脈が火山の山脈で、溶岩を積み上げた構造を持ち、急峻になり、ある高度から視界を遮るものがなくなるのに対し、赤石山脈は地盤隆起型の山脈で、山懐がやたらと深い、更にかなりの高度まで、山林を持っているのが特徴のようです。
これでは、素人受けはしないし人気も出ないことも頷けます。登山を趣味としない、山に登らない僕が、登山家にひんしゅくを買うことを覚悟で言えば、赤石山脈の山林をショートカットする登山方法を開発すれば、絶景のお花畑や雷鳥は苦労せず見たい風景で、一挙に人気化するのでは、と思っています。
飛騨山脈と赤石山脈との違いは、山頂付近の浸食された形状は似ているとしても、下部に行くにしたがい、浸食の歴史にかなりの差があります。赤石山脈が高山植物の宝庫で、お花畑の広大さや、雷鳥や鹿や熊などの今では珍しくなった動物たちの楽園を数多く残しています。逆に言えば人を近づけない条件がいくつもあるからだと思います。

その分野で有名な動物写真家の宮崎学さんのホームグランドは赤石山脈・山系です。

前述で、花崗岩で出来た山岳の特徴を、かなりの独断で木曽山脈を題材に書いたが、同じ視座で赤石山脈を眺めると、北部の甲斐駒ヶ岳や鳳凰三山(地蔵岳・観音岳・薬師岳)が花崗岩を主の地質とした山岳であり、北岳(日本2位の高峰)や間ノ岳以南は頁岩・砂岩・石灰岩などの地質となっています。
この為か、古くから、北部赤石山脈を源流とする三峰川や藤沢川、山室川は土石流災害が頻繁に発生したと言われています。また北岳あたり以南の山岳を源流とした谷川に大きな扇状地を見ないのは、やはり地質の関係があるのだろうと想像しています。ただし、天竜川の支流の谷川の地形を見ている限りでの話で、山の反対側の太平洋に流れ込む川の地形は確認していません。富士川や大井川、阿部川など、どの山岳を水源にしていて、どのような地形なのか、大変興味をもっています。

今ひとつの特徴は、赤石山脈と天竜川の間の山岳地帯に、中央構造線(糸魚川静岡構造線)が走っています。いわゆるプレートとプレートがぶつかり合う所の境界線で、赤石山脈の地盤隆起型にも関係が深く関わっているのだろうと思っています。中央構造線は、長い谷を作ったり、所々に太古の地層を露頭したりして、地質学者や太古の歴史に興味を持つものの、垂涎の場所にもなっています。地盤隆起は今も続いており、2,3年で約1cmぐらいの隆起があるそうで。この太古の地層は新第三紀の地層で、海の地層とも呼ばれ、海に関する物が発見されています。赤石の名の由来となった「ラジオリアリチャード(放散虫=赤い虫)」や大鹿村の*「塩泉」などが、太古このあたりが海であったことを示しています。貝などの化石も探せばあるのかもしれないが、秩父地方で発見される化石は、第四紀地層から発見されるそうです。
*「塩泉」・塩分を含んだ泉が湧き出し、煮詰めて塩も作っている、岩塩は探したが見つからなかったそうだ、鹿塩温泉

雑談記 塩の道 南塩

2013-05-24 10:54:56 | 歴史
雑談記 塩の道 南塩

雑談記 三州街道・塩の道  2012-09-26 10:04:52 | 歴史

三州街道は信濃と三河の往還道であり、塩の道であり、宗教の道であり、野望と失意が往来する道でもありました。

以下の文は、オリジナリティが、ほぼ有りません。話してみると、知らない人が割と多いのと、各時代の風景像をごっちゃにしていて、気付いていない部分もあったのであえて書いてみます。

塩尻から岡崎までの道のうち、「塩の道」ととらえれば、足助から河口までの矢作川もまた、塩の道であったわけで、この道すがら、なんと塩の名残の地名の多いこと。三河の西尾が「煮塩」を語源としていることも最近知りました。たぶん、雨の多いと、海岸で天日だけだと時間が掛かりすぎるから、海水から濃縮する方法で、大鍋で煮る方法が開発されたのだろうと思います。それで、塩水を煮て濃縮する場所が煮塩で、のちに西尾になったと聴きました。

三州街道の中心は、信濃では飯田、三河では足助でありました。鎌倉時代、室町時代、この時代としては、まれな商業都市の出現です。飯田や足助に城があったから城下町だとする説は暫く後世の話で、城と城下町が機能する時代は、織田・豊臣(織豊)時代を待たなければ出現しません。城下町は、刀狩りと兵農分離によって始めて成り立つ町機能であり、戦国までは、武士も稲を植え、田を耕していた、と見るのが自然です。そうすると、武士(領主)は、各の領地の中心にいたわけで、人口集積を要素とする町はこの時代に無かったと思います。領土争いが頻繁に起こったこの時代は守るのに厄介な橋は、領主に嫌われたわけで、大河川に橋は架かっていなかったと思います。

昔に聞いた話(漫画かも)に、秀吉の幼名の日吉丸時代、蜂須賀小六との出会いが矢作大橋だったと思いますが、そもそも矢作大橋はその時代に無かったはずで、これは明らかな作り話です。また、蜂須賀小六の在所は、木曽川流域にあったはずで、矢作近辺で日吉丸と出会う確率は極めて低いと思います。たまたま来ていたとも考えられるのですが。

塩と言えば、この西尾の昔の殿様はいつも年末に放映される忠臣蔵の敵役の吉良様です。大学時代にこの近辺出身の友人が多かった所以で、彼らの話をもとに、多少反論をしてみます。
吉良の殿様は、駿河今川家とほぼ同等の格式を持つ、足利家庶流(分家筋)といわれています。三河に徳川家(前身の松平家)が台頭すると、敗れて徳川臣下になるわけですが、所領は許されて、この碧海郡の一部に長く居着くわけで、この所領での治世は領民にかなり優しかったといわれています。なかでも殖産に熱心で、塩産業に力を入れて、従来の塩より格段と味の良い焼き塩をあみだし、世に広めたといわれています。
時に、常陸から赤穂へ移封された浅野家は、赤穂に産業が無いのを憂い、塩の製法を吉良家に問い、吉良家は、惜しみなく製法を教えたと聞きます。時が経ち塩産業が軌道に乗り、品質も吉良の塩を超えるようになった赤穂藩は、自藩で作った焼き塩を江戸幕府に献上するようになり、品質が評判になり、広大な江戸の市場から吉良の塩を駆逐していきます。当時の吉良家は、米沢上杉家に養子を送り、経済援助もしていたので、財政的にもかなり苦しくなり、輪を掛けて江戸の塩の顧客を奪われたものだから、恩を仇で返した礼儀知らずとして、浅野家につらく当たった、というのが真相のようです。
吉良の塩が産業として定着するのは、昔から信濃野国が顧客として存在していたからと言われています。当たり前ですが、当時の沿岸地域は塩は自家生産で自家消費が原則です。客としては存在する訳がありません。そこに海無し国としての信濃国が、三州街道でつながっており、冬の長い信濃国は、貯蔵食品としての味噌や漬け物を他国より多く消費していたわけで、この味噌も漬け物の塩が無くてはできない、かなり重要な物だったのです。
三河の、岡崎西尾刈谷奥三河出身の友人達はこぞって、吉良さまを悪くは言いません。

塩の道は、昔から、沿岸から内陸へ、数多く存在していたと思われます。だが、三州街道の塩と海産物の物量の多さは他を圧していたと考えられます。運搬方法の中馬の多さと、塩尻の名の由来を考えると、その論拠になると思います。
鎌倉・室町(戦国後期まで)に、封建社会では当たり前ですが、信濃国の商業集積は、善光寺の門前町界隈と飯田が抜群で、特に飯田は中馬従業員の多さと蔵が建ち並ぶ小京都と呼ばれる風景をもった特異な町であったようです。大火災で、小京都の雰囲気はほぼ無くなってしまったが。
中馬とは、賃馬から変化した言葉で、中継地から中継地まで荷物を、一定の料金を払って馬で運ぶ運送形態を指す言葉で、現代のトラック輸送の、トラックを馬に置き換えれば、ほぼ同様と思っていい。その中継地が飯田であり足助であったようです。

控え室の雑談記 塩の道 塩尻  2012-09-30 01:40:19 | 歴史

塩尻
承久の乱に塩尻弥三郎の出陣の記録がある。またそれより30年前に、諏訪大社の神事に、塩尻郷の記録がある。彼は、塩尻郷の領主と思われることから、承久の乱(1221)より30年前の、1181年には、すでに塩尻が郷名として在ったこと推測される。時は平安時代にあたる。いや、それ以前かもしれない。
塩尻が、塩の道の終着地として思われがちだが、どうも事実と違う様である。つまり、塩の道と無関係に、塩尻の地名が生まれたようだ.

北塩・南塩

信濃に運ばれる塩のルートは、大きく分けて二つのルートが確認されている。
一つは、日本海の糸魚川を起点とする千石街道、千石街道の塩を北塩と呼び、
もう一つは、吉良周辺を起点とする三州街道、三州街道の塩を南塩と呼ぶ。
この二つのルートとも、塩の道の終着地が塩尻だとする説は、どうも誤りで、千石街道では松本(当時は府中)に、三州街道では高遠への入り口あたりの伊那に、塩溜が在ったと確認されている。
塩尻は、諏訪大社の勢力下、諏訪神党地域であり、南塩の地域でもある。

北塩の背景を深掘りしてみると、新潟の塩生産(塩田)は、河崎(佐渡)寺泊(長岡)糸魚川に生産の痕跡を見ることができるが、極めて貧弱で自国の需要もまかなえなかったようだ。それで十州(瀬戸内海)より塩を船で運び、需要に応えていたようだ。
これでは、塩を信濃に運ぶことは、産業を意味しない、いわゆるバイパスである。むしろ千石街道の物流は、日本海の海産物が主力に思える。千石街道に散在する馬頭観音は、馬で海産物と塩を運搬したことを想像させるが、行商が主力であったのであろう。

一方、南塩の三州街道は、西尾あたりから、塩を船で足助近くまで運び、馬の背に左右均等に乗せられるように袋に詰め替えた場所、足助からは馬で運んだという中馬の賃金帳、馬宿(中馬宿)などがかなり多く残っている。吉良の塩は三河の大きな産業でもあった。

北塩を有名にしたのは、武田が今川・北条と対立した時、今川・北条から「塩止め」という報復を受け、困窮した武田を上杉謙信が塩を送って助けたという、いわゆる「敵に塩を送る」という故事があり、この道が千石街道だというところから、のようである。
だが、今川・北条の「塩止め」の事実は確認されず、謙信が塩を送った事実も無い様だ。
つまり、故事にならう、作り話。

雑談記 本を読んで、ほか

2013-05-24 01:02:19 | 歴史
雑談記 本を読んで、ほか

雑感;白州松原のこと、写本のこと  2013-02-04 01:15:52 | 歴史

白州松原のこと、写本のこと

白州松原のある北杜市は、数回立ち寄り、数十回以上通過している町である。
かっては電車の方が多く、今は車がほとんど。、小淵沢には小海線の利用した時に、清里には大学の農学部の農場もあった。八ヶ岳PAはドライブの疲れを休めて駐まった。その頃の白州松原はほぼ記憶にない。

今回色々な文献に当たり、あるいは付近の写真を見て、ある種の感慨を持つに至った。
白州松原は白砂青松を連想させる。事実、中世まで釜無川の河原は白砂であり松林があり、海岸ではないが白砂青松の風光明媚な地域であったようである。
少し前に赤石山脈の北部の岩石地質のことを書いた覚えがある。北部赤石山脈は西駒ヶ岳や鳳凰三山以北の、釜無川の源流の山を意味する。この山は花崗岩が多く、花崗岩は表面は堅そうに見えて、膨張率の異なる組成を持ち時を経ると分解しやすくなる。分解すると岩石は川へ流れ出し河床に積み上がる。いわゆる川の氾濫の主たる要因になり、釜無川の名の由来もそこから来たのかもしれない。釜無川やその支流の川の河床や河原は比重の重い石英の結晶粒が残り穏やかな普段は透明な川水と白砂の河原河床があり、また松原があって、白州松原となった。

文献と写真しか見ていないし、河原の砂の組成も調べていない者の勝手な想像ではあるが。

武田信玄は、度々氾濫する釜無川を御する堤防を築いたとある。世に名高い信玄堤のことである。信玄の時代、農民と武士に区分はない。平時は農民であり事あらば武士というのが、この時代の常であった。信玄と信玄家臣団との共通の敵の自然災害への対処・防御は、信玄堤を作ることにより、強固な団結力と強靱な武士団への基になった。

ドライブで2度、上から甲府盆地を眺めたことがある。

青梅から奥多摩湖を抜け、山梨市へ降りるとき、桃の果樹園の花盛りの頃で、桃の花が美しかったことを覚えている。
最近で、河口湖のミューズ館お人形がみたいと云うことで、アッシー君として参加し、帰りは御坂インター経由で帰ろうと云うことになり、一般道の山道を降りたことがある。御坂だと思っていたとこが笛吹市に変わっていた記憶がある。
2度ともに、甲州盆地は、思いのほか小規模だと思った。松本伊那佐久善光寺の四つの盆地や河岸段丘の豪族がなんで武田信玄に敗れたのか、経済力では説明が付かないと思った。

武田信玄の釜無川対策の信玄堤のことで、矢作川の氾濫対策の三河武士の団結と家康への忠臣を連想して、似ていると思った。家康は終生、武田信玄を恐れ敬い、信玄の政策をまねて師と仰いだとされる。矢作川も又、花崗岩のため苦労した河川だった。

「かりそめの行通路とは きゝしかど いざやしらすの まつ人もなし」
李花集 岩波文庫
「かりそめの行かひぢとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし」
白州松原諏訪神社 案内文

上記は、同じ和歌で、作者宗良親王である。
掛詞が幾つかある。行通路は、行く甲斐路でもあり、行き交う道でもある。しらすは白州でもあり、知らすでもある。まつは松でもあり、待つでもある。また行き交うは人もなし、につづく詞である。白州町は甲斐を強調したかった。

写本のこと

宗良親王は晩年吉野へ行き、「新葉和歌集」と「李花集」を編纂して時の南朝の天皇の長慶天皇に進呈した。
この時代印刷技術も無いことから、原本は一冊だったのだろう。人気と評判で原本を借りた人は写本したと考えて良い。法界で云えば写経だ。その後に続きを考えれば、写本した人はまた次ぎに貸し、写本は累々と続いたのであろう。希少品なるが故の作業が、書籍への愛情と理解と深い読解力となる場合は多い。だが原本と後世の写本とは、必然的に違う箇所が出てくることがある。
例題のように、二重の意味の場合、一方の強調の偏りがあったり、又読み違えの為の誤記もある。同発音のの異語は多々見られる。地方の地名などは、写本する人の知的レベルから、偏見独断から勝手に書き換えてしまうことも多い。人名などにもこの様な間違いが多い。保科氏が星名であったり、穂科であったりする。保科正信を字形の類似で正倍とする様な間違いを何度も見てきている。写本の明らかな写し間違いを「ママ」という表現で注意を促す場合もある。
この時代は、印刷技術や製本・出版する術がなかった。写本のみが文章伝達の方法だった。
この様な古書を見分けと是正の方法論を確立し、「偽書」として葬り去らないようにできないものだろうか、と思う。

雑記;李花集(宗良親王私撰和歌集)岩波文庫のこと  2013-02-03 01:01:06 | 歴史

李花集(宗良親王私撰和歌集)岩波文庫のこと

白州松原(北杜市白州)をすぎて信濃に入る時、富士見から左折し入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬より大河原へ至るルートを取ったとされる。この時に入笠山近辺を支配して宮方だった領主が保科氏であり、宗良親王は保科氏を頼ったとあります。

甲斐 松原諏訪神社(北杜市)征東将軍宗良親王
白須松原は南北朝時代、宗良親遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよって山伏姿に変装しこの松原にしばし休まれた。

~御歌~
「かりそめの行かひぢとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし」白州町教育委員会

根拠は、 松原諏訪神社(北杜市白州(はくしゅう)町)の案内板です
・・・其他 白須松原は南北朝時代、征東将軍宗良親五遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよっ山伏姿に変装しこの松原にしばし休まれた。

その検証のために「李花集」を入手しました。
「李花集」(岩波文庫)絶版、古書として少数存在するらしい。

李花集を入手する方法としては、「群書類従」の中に登録されている。又抜粋ものとして「宗良親王全集」著者黒河内谷右衛門がある。他には、解説本の中に数種類存在を確認する。
例えば川田順。川田順は「李花集」を研究していた。・・川田順は老いらくの恋で有名な人。

「李花集」(岩波文庫)絶版。ようやく探して、宗良親王が30余年在住したという長野県内図書館を検索し見つけて、借りました。
最終2ページに、昭和16年6月5日印刷、昭和16年6月10日発行、定価40銭と書かれています。製本の上揃えが悪く、印刷は所々かすれ、シミもあります。諏訪図書館の蔵印があります。大切に拝見します・・・。

P128
詞書き 甲斐国いらすと云う所の松原のかげにしばしやすらひて
731 かりそめの行通路と きゝしかど いざやしらすの まつ人もなし
です。
白州松原(北杜市白州)をすぎて信濃に入る時、富士見から左折し入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬より大河原へ至るルートを取ったとされる。この時に入笠山近辺を支配して宮方だった領主が保科氏であり、宗良親王は保科氏を頼ったとありますが、

白須松原は南北朝時代征東将軍宗良親五遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよっ山伏姿に変装し
は、李花集の詞書きにはありませんでした。

別項に、古くからの伝承で「遠州伊井谷から信濃の保科氏に赴くときに山伏の姿に変装していた」という言い伝え、を確認しています。
白州町教育委員会 の歴史担当が、松原諏訪神社(北杜市白州町)の案内板を書く際に、伝承と詞書きを一緒にした文を書いた、と言うことでしょう。

このことで、前に書いた黒河内の荘園が宗良親王の領地であり、そこの荘官=代官が保科氏であったとする説の根拠が、多少薄くなったと言えます。だが否定ではないので、そのまま黒河内は宗良領で保科はそこの荘官説を続けます。

雑感;宗良親王のこと
近くの10人ぐらいに人に、宗良親王のことを訊いたら知らないという。その中に歴史好きの方が2人いる。この分だと100人に訊いても知らなさそうだ。要するに南北朝期の皇子達には、現代人はほぼ関心がない、極めて「マイナー」なテーマなのだろう。後醍醐天皇、建武の新政、足利尊氏、新田義貞、楠正成、北畠親房、神皇正統記などは歴史好きは知っている。これが、後醍醐天皇と足利尊氏の蜜月時代とその後の反目や、新田氏と足利氏の反目の理由や経緯も余り分かっていない。まして、後醍醐の皇子達の南北朝もほとんど知識がないみたい。

「マイナー」なブログを見に来てくれて、本当にありがたく思っています。

感じていることは、諏訪、藤沢黒河内、大草大河原など、時の権力者に敗れた一族が逃げ込み、これを隠しきって再起を促すという、この地の伝統みたいな優しさです。
諏訪神社の縁起しかり、守屋も宗良も時行も再起を秘めて隠棲し、護った山を感じます。
懐の深い山です。


雑談記 のぼうの城 外伝 雑談記 2012-11-03 15:44:22 | 歴史

のぼうの城 外伝

「のぼうの城」という映画が公開され始めた。

のぼうの城(忍城)城主成田長親の兵五百(一説には二千?)、秀吉方の石田三成軍二万、歴然とした兵力の差から、忍城が落とされるのは瞬く間だと思われていた。が、なかなか。
そこで石田三成は、備前高松城で成功した「水攻め」に切り替える。それでも落ちない・・。
結局、主家の小田原の北条家の敗北を知り、これまでと、忍城は開城する・・・。
でくのぼうの「のぼう」と言われた、成田長親を主人公にした、城内、城外の悲喜あふれる人間模様と城主の人気をコミカルに描いたドラマであります。

のぼうの城とは行田にある忍城のこと。
石田三成の取った「水攻め」が戦術上の誤りだった、と言われています。
そもそも、行田付近は、江戸時代前、利根川と渡良瀬川が別流として江戸湾(東京湾)に流れ込んでいました。さらに、荒川は、利根川の支流として合流しておりました。この三つの大河が、雨期(梅雨)や台風の時に氾濫して合流すればどうなるか、この想像は容易です。関東平野は広大です。氾濫は、水深は浅いが範囲は夥しく広がっていきます。この地に生きていく者は、それでも何とか工夫して生活していきます。浅いところも深いところも高台も熟知しています。度々なので小舟の用意もあります。知らない武将よりも、近在の殿様の方が親近感もあります。「のぼう」様は特に人気もありました。三成の作った堤防は領民に壊されて、多大の被害が出ました。

秀吉軍の先鋒隊の家康軍にいた伊奈忠次は静かに冷ややかにこの様子を見ていたのでしょう。

小田原の役あと、家康は秀吉より、関東移封を命じられる。
この時家康家臣団は、伊奈忠次を除き、秀吉の関東移封命令に反対したと言われる。伊奈忠次が賛成した理由は、この時すでに、利根川の東遷、荒川の西遷の青写真(グランドデザイン)があったと思われます。

江戸幕府が出来てすぐ、1603年、利根川を合の川で締め切り東へ、さら渡良瀬川と繋ぎもっと東へ、・・
荒川は利根川への合流を変え、吉野川、入間川へと繋ぎ、西へ、やがて隅田川で東京湾に流し込む。
川底を掘り、削岩して川を作り、堤防を作り、関東中央部を洪水の氾濫から守り、耕作地に替えていく。この工事は延々と約50年にわたり、関東郡代の代々の仕事になっていく。
合の川は加須だったと思います。元荒川や古利根は、瀬替えの前のかっての名残です。

忍城へは行ったことがあります。その日の目的は行田の古代蓮を見に行くことでしたが、遅くなったので、目的地を替えて忍城へ行きました。暗くなって、ライトアップされた城は、こぢんまりとし、きれいでした。もちろん後年に改築された城でしたが・・。別名 忍の浮き城。

雑談記 「怒る富士」を読んで   2013-04-07 12:40:33 | 歴史

「怒る富士」を読んで

「怒る富士」の作者は新田次郎という。「強力伝」小説でデビュー、その後「山」を扱った小説を数多く書く。「怒る富士」もその一つだが、少し異質。世間的には「武田信玄」の小説で有名かも。書評は僕など及ばないものが数種あるので書かない。
数学者の息子も有名だが、僕の中では奥さんの方が強烈な印象を持ち続けている、あるいは新田次郎以上に。・・藤原てい。

再びなので、演劇の前進座「「怒る富士」の方と思ったがかなわず、脚本も無いようで全集の方で読む。
内容は、関東郡代7代目の伊奈忠順が、富士山の大噴火の降り積もった降灰で、生産不能となった富士山麓の農民を励ましながら、命を繋げるように援助し復興に奔走する生き様を書いた小説。そこには地元に残る史料を発掘精査しながら、何があったのかを手探りで探していく歴史の証人のような「語り部」としての姿勢が際立つ。そこが彼の他の小説との異質に見える。
「3.11」があり、悲惨さに多くの義援金など援助や復興予算が他に流用されている現実をこの小説にも見ると、何とも情けない気分になる。伊奈忠次を初めとする伊奈家の「こころ」は、もとよりこのブログのモチーフでもある。
この小説を通して、当時の老中や勘定奉行のやり方を見て、農民に対する姿勢を見てみると、徳川幕藩体制の一貫した農民への租税に対する姿勢を垣間見ることが出来る。いわゆる「生かさず殺さず」という姿勢で、この様な大惨事に対しても、自分たちは彼岸にいて、最低限にも及ばない救民援助しかしない、そして集めた義援金を体裁やその他に流用する官僚主義を、この小説に見る。

ついでだが、「生かさず殺さず」は家康の参謀の本多正信の言葉として知られる。が、調べてみると本多正信の書物では『百姓は財の余らぬように、不足になきように治むる事道也』とあり(本佐録)、「生かさず殺さず」とは意味が違うように思える

雑談記  歴史のサイドストーリー

2013-05-23 19:02:05 | 歴史
雑談記 竹之内波太郎   2012-08-07 23:34:12 | 歴史

竹之内波太郎は、小説の中の架空の人物である。

山岡荘八の大河小説に「徳川家康」がある。
約25年も前に読んで、それまでの家康イメージ、・・狸親父ぽくて、暗くて、あまり好きになれない、を変えた小説である。大げさに言えば、歴史観がかわった小説である。

「徳川家康」の初めの頃から戦国武将と異なる三人の登場人物がいた(正確には本阿弥光悦を入れて四人だが)。
竹之内波太郎(後の納屋蕉庵)、随風、茶屋四郎次郎である。

随風(後に天海)と茶屋四郎次郎は実在の人物。
竹之内波太郎は架空の人物とされてきた。そのとおりだと思うが、どうも、頭の中だけの、想像の人物ではなさそうだ、モデルが複数いたようだ、というのがこの項の目的だ。

徳川家康を読んだ人は、分かると思うが、この三人の誰かが、時代の節目に登場し、その時々の状況分析や力関係を分析し、家康のとるべき道を暗示する役割を果たしている。
この様に書くと、いわゆる軍師の役割だが、この三人の役割はもっと広い。
軍師といえば、武田信玄のもとの山本勘助、秀吉の竹中半兵衛、黒田勘兵衛、今川義元の太原雪齋など有名だが、家康が若い頃接した太原雪齋は、家康の師として軍師の範疇を超えている。家康の知恵袋といわれた、本多正信も軍師としてのイメージにあわない。
在にあって、徳川家臣団の外で、客観的な、普遍的な、ものの見方や情勢を、この三人随風・茶屋・竹之内波太郎から教えてもらっていた、と思われる。

随風 後に 天海
戦国時代に、各地を放浪、、後に川越の無量寿寺の北方の屋を借りて偶居(北院)、天海と変名して、家康の朝廷政策や宗教政策の相談に乗り、またこの地に知行されて経済的安定も得る。のちに、北院で、三代将軍の家光が生まれたことにより、「北」院ではまずかろうということで、寺名も喜多院となり、現在に至っている。
天海の業績は、略。
尚、川越の名の由来は、川を越さなければたどり着けなかった場所という意味で、その川は現在の荒川ではなく、おそらくは入間川であろうと思われる。伊奈忠次に始まる荒川河川の付け替え工事(荒川の西遷)、荒川を鴻巣あたりから流れを変え、入間川につないだとされる工事、は、しばらく後のことである。隣の川島町も同様に、川と川の間の島が由来、おそらくは、入間川と越辺川と思われる。

昔、雨期の時、大河の利根川と荒川は合流して、川沿いに夥しい洪水を引き起こし、付近が大泥土と化し、災害と不毛の地を作り出したことは、度々あった。この利根川を東に流し、常陸の海につなぐ、荒川を西に流し、入間川とつなぎ、災害を防ぎ、不毛の地を豊饒の土地に変える、利根川の東遷、荒川の西遷の発案者、実行者が伊奈忠次である。

茶屋四郎次郎
本名中島明延、元小笠原藩士、小笠原長時の時、武士を廃業し、京都に出て呉服屋を開業、茶の縁で千利休とも友誼があり、茶道にも通じており、時の将軍の足利義輝が茶を飲みに足繁く通ったことから、茶屋四郎次郎を屋号に決めたとされる。
ここからは、家康との接点は見いだせない。時系列的にも、開業から屋号設定までも、若干不自然で、誰かの援助を想像させる。信濃守護小笠原長時は、信濃守護小笠原長棟の嫡子で、出家した長棟の後をついだ、わずか1,2年後に、中島明延は武家を廃業したことになる。明延が仕えたには、主として長棟の方ではなかったか?!。出家した長棟の心中は不明だが、その頃勃興する武田勢力、荒れる同族間争い(府中・松尾・鈴岡)、荒れる諏訪一族間、そのすべてに、守護としての役割・・平定ができない。こんな時に小笠原長棟は出家してしまう訳で。

京都にも、小笠原家がある。府中・松尾・鈴岡と同祖の京都小笠原家である。

京都小笠原家は礼儀作法の家元である。礼儀作法の元は弓道にあるらしい。弓取りといって、武士・武家の頭を意味した。この礼儀作法をもとに、武家社会の礼儀作法を定番化し、さらに、華道(生け花)や茶道など加えて、小笠原流なるものをつくった家であるそうだ。

中島明延が誰かの援助を得たとすれば、京都小笠原家の可能性が高い。
小笠原長時が武田に追われて、同族の三好家に身を寄せるあたりのころに、たびたび茶屋四郎次郎の茶に訪れている。

家康と茶屋四郎次郎家が接点を持つのは、明延の子清延の時からと思われる。風流人の道を選んだ明延と違い清延は、たぶん若い頃は山っ気もあったのだろう、家康に武士として仕える。伝手は、下条家につながる酒井忠次?この下条家には、小笠原家は養子を送り込んでいる。清延は、三方ケ原の戦いで活躍したそうだ。はやがて、武士を止め、茶屋を継いだ清延は、呉服全般の御用達商家として、京都大阪の政治情勢の報告を兼ねながら、徳川家と深くつながっていく。。特に、本能寺での信長の死後、その時、配下の少なかった家康の護衛団に、清延の配下を多勢加えて、清延自らも、家康を守って、危機脱出の伊賀越えを行う。
この件あって、家康の清延への信頼はさらに深まり、呉服のみならずの御用達(たぶん鉄砲や弾薬なども)、さらに御朱印を貰うことによる海外貿易で日本屈指の大富豪へ成長していく。
茶屋四郎次郎の初代は、(中島明延ではなく)この中島清延である。

さて、本項の目的。
竹之内波太郎(後の、納屋蕉庵)

山岡荘八は徳川家康を書くにあたり、あえて、架空の人物とわかりやすい、竹之内波太郎という名前を使ったと思われる節がある。当然ながら、実在の人物に、竹之内波太郎の確認はない。
このことを、ブログの中で、多少悪意のあるような説明文が見受けられるが、あまり気持ちのいいものではないし、わたしは、そうは思わない。
架空の人物だが、モデルの存在を示唆する項目を少しだけピックアップしていきたい、と思う。
山岡荘八の書斎を探索できれば、かなり精度が上がるのだが。こんな、架空の人物のモデル探しなど誰もやらないが、あえて、探してみる。

竹之内波太郎の経済力。
竹之内波太郎は、どうも領主としては小豪族であった、が、経済力は大きかったようだ。川衆・海衆に支配が強く配下の人数は多かったようだ。川沿いに、屋敷を持っていたことも考え合わせれば、この地は塩産業の近くであり、矢作川は塩運搬の、塩の道でもあり、この塩産業の、生産・運搬に携わった家系の中に、モデルの影がみえる。
該当の範疇は、水野家(刈谷)、吉良家、吉良家から派生した、荒川家など。これらは、碧海郡に属する。また矢作川の西沿岸にある。当時は、西尾と刈谷は地続きであり、流れを変えた現在の矢作川とは、風景を異にする。
このことは、裏社会の支配者、織田の海賊と揶揄されたことと、意味を同じくする。

伊奈忠基は伊奈忠次の祖父である。矢作川代官の忠基は矢作川の河川治水に功があったと聞く。崩れやすい堤防護岸工事に「粗朶沈床」「柳枝工」をつかった、とある。伊奈家は、矢作川と深く関わっていた家でありそうだ。伊奈家の住んだ小島城は、矢作川沿いにある。

このことも、竹之内波太郎のモデルを暗示しているように思えるのだが。

碧海郡の熊の若宮。
竹之内波太郎は、どうも神道に通じていたようだ。屋敷には、神社にあるような祭壇があり、定期的に祭事を行っていた、とある。若宮には、神社の嫡男の意味があり、南朝の残党ということを考えると、熊と一部に名前を持つ神社の若宮が、何かの理由で三河の碧海に流れてきて住み着き、熊の若宮を名乗ったのではないかと思う。
熊の名が付く神社は一般的には熊野神社だが、単に「熊」といったとき、熊=神(クマ)に通じ、南朝の残党ということを考え合わせると、諏訪大社を思い起こしてしまう、考えすぎだろうか。

そして
堺の豪商 納屋蕉庵。
一向一揆側で一揆に参加した竹之内波太郎が、その敗北で、堺に逃れ、後に豪商になり、納屋蕉庵と名を変えて再登場する。これには確実にモデルがいる。
伊奈忠次(この頃は家次;14歳)の伊奈家は一向一揆が起こったとき、分裂して、家康側と一揆側に分かれた。家康側には、祖父の伊奈忠基、長女の富、長男貞政、次男貞次、六男貞国、七男忠員、八男貞光、九男康宿、十男真政、一方一揆側には、父の忠家、三男貞平、四男貞正、五男貞吉、11男忠家(後の伊奈忠次)。
この一向一揆で伊奈家は双方に多数の死者を出した。この後、一揆側の伊奈家は、分離離散する。父忠家と五男貞吉は堺へ、11男家次(伊奈忠次)は、信濃伊那へ、逃避する。
この五男貞吉は後に、外記助貞吉と名乗り、堺で堺衆となり、茶器と骨董を商うようになる。
他に、一向一揆の後、堺で商人になった人が見当たらない。たぶんこの外記助貞吉が、納屋蕉庵のモデルであろうと思われる。ただ、貞吉のの経歴的な部分であって、思想信条や人となりが不明のため、人格などは別人の可能性が高いが。

ただ、竹之内波太郎のキャラクターは、伊奈家の人達と違うように思えてならない。一向宗への親派・あるいは参加のこと。状況分析と情報把握のこと。武芸達者なとこ。柔と剛。そして何より、ストイックなところ。
なぜか、本多正信を思い起こしてしまう。あり得ないと思いつつ。

竹之内波太郎は、山岡荘八が作った「架空」の人物であることだけは事実。そのモデルは、数奇な運命を辿った伊奈家を題材に、ストイックで神秘的なキャラを被せた、架空の人物。

テレビの大河ドラマ「徳川家康」で、竹内波太郎役は、石坂浩二がやったそうです。演技・内容とも、かなり好評で、竹之内波太郎は、魅力的な人物に思えたそうです。

蛇足、一揆で二分した伊奈家の人達のなかで、女性の名を書いたのは、家康の正妻の築山殿が、信康のことで、殺害されたとき、後を追って築山殿と一緒の墓に入ったのが、伊奈忠家の長女お富であります。


雑談記 伊奈城 2012-07-31 15:58:36 | 歴史

豊川市伊奈町に本多家の伊奈城がある。

本能寺で信長が明智光秀に殺された後、信長の勧めで堺にいた家康は、伊賀を抜けて三河に逃げ帰った。家康を助けたのが、茶屋四郎次郎や堺衆の一部や服部半蔵などの伊賀の人たちであった。堺衆のなかに「伊奈忠次」もいた。この功績もあり「伊奈忠次」は徳川家への帰参が許されることとなった。そして小栗氏の配下で、地方として働くようになる。
---地方(じかた)とは、土地及び租税制度の双方の農政全般をみる地方官のこと。

やがて、家康は、信濃の信長の旧領を獲得すべく、動き始める。最初は三河から、今川が滅んだ後三河・遠江・駿河の三国、そして信長から貰った甲斐を加えて四国、謀殺された後の信長旧領の信濃獲得で五国太守への胎動である。
信濃の経営獲得に、信濃に関わる三人が任命された。
酒井忠次を頭に、家康の知恵袋の本多正信と帰参が許された伊奈忠次である。
さて、この三人の信濃への関わりだが、酒井忠次は信濃に姻戚を持つ。伊奈忠次は出自が信濃国伊那である。さて本多正信だが、しばらく分からない。
酒井忠次と信濃の関係は、まずは、酒井家と信濃の下条家と姻戚関係にあったこと。その下条家は武田家臣として、奥三河の足助城の城代を勤めたこと。さらには、今川家が滅んだあと、武田の密使として下条信氏が酒井忠次を取り次ぎとして、家康と密約を結んだこと(大井川以西は徳川家のもの・・・)。この密約があって家康は、三河・遠江・駿河の三国の大大名となった経緯。
だが、本多正信だけは、分からなかった。
一向一揆のあと、本多正信の放浪の期間がある。その頃信濃に行ったのかとも思った。

本多正信の信濃との関わりを別の角度で追ってみたい。

善光寺と善光寺縁起

前段略
阿弥陀如来は印度から百済へ、百済から日本の欽明天皇のところへと送られてきました。時に日本では、古来から伝わる神道を守る物部氏と仏教を受容する蘇我氏との争いがあり、如来像は蘇我氏の屋敷に安置されていました。やがて、悪い病気が流行し、物部氏は「外国の神を拝んだため、日本の神々がお怒りになったのだ」と言って、如来像を難波の堀へ放り込んでしまいました。
何年かして、信濃国麻績郷(飯田市座光寺)の本田善光(よしみつ)という人が、用あって都にのぼり、帰りがけに難波の堀の近くを通ると、堀の中から「善光、善光」と呼ぶ声がします。不思議に思って立ち止まると、水の中から仏が飛び出して善光の背中におぶさりました。そして「善光、お前は印度では月蓋長者、百済では聖明王、そして日本ではお前に生まれ変わっているのだ」と教えてくださいました。
善光は自分の故郷へ仏様を運んで安置しておきました。そのうち、仏様は、善光の夢枕にたち、「水内群芋井の郷へ移りたい」とおしゃいました。そこで善光はいまの長野の地へ移り、そこに家を建てて仏様を家の中にご安置しました。
後段略

この善光寺縁起は、後世に整形されたきらいはありますが、概ね、座光寺、元善光寺周辺に残っている逸話とも合致します。この本田善光がかなり貧しい人だったり、難波の堀というところが「猿沢の池」だったり、三国(印度・百済・日本)阿弥陀のところが抜けていたり、が地元の逸話と違っているところです。後年に、本田善光の郷に、同型の阿弥陀如来を作って安置し、元善光寺と名付けました。善光寺の阿弥陀如来は一光三尊像というのが正式な名前だそうです。

以来、善光寺参りは、自国はもとより、他国からの人気もあり、大変な賑わいだったと聞いています。特に、三河からの参詣は多かった様です。善光寺の阿弥陀如来は時々里帰りして、元善光寺に帰る、留守にするとの言い伝えもあり、三河辺りからの参詣は、元善光寺と善光寺両方にお参りをする習慣がありました。片方だけにすると片参りといって、御利益が半減するという言い伝えです。

本多善光が辿った道は、三州街道に重なります。その時代に三州街道はなかったと思いますが、塩の道として整備された室町時代後期以降は、参詣の旅人も多かったと思います。

そして、
本多家 家紋の話

徳川家臣の本多家系は13の大名家と45の旗本家を持つ、他に類を見ない、大家臣団になっている。この本多家の家紋の「葵」紋と徳川家の「葵」紋の関係も、研究を尽くされているように思える。
葵紋は大きく三分類される。双葉葵と立葵と茎なし葵だ。
双葉葵は別名賀茂葵といって賀茂神社に由来する。茎なし葵は三つ葉葵が代表で徳川家の家紋である。
そして、立葵は、本多家の家紋であり、善光寺、元善光寺の家紋でもある。
本多家と本田善光(善光寺の祖)はつながっているにだろうか?

その疑問には、ネット上のベストアンサーをそのまま載せます。
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奈良時代の本田善光の名跡を継いだのは・・
平安中期、関白太政大臣・藤原道兼の側室の子が本多(田)の名跡を継いで立葵を用いたらしい。それから12代目の助秀が豊後の国に移り住んでいたが、足利尊氏が戦いに敗れ九州に落ち延びて時を待ち、再度京都に攻め上がるときに足利軍に従軍、その後、足利尊氏に仕え助秀の子・助定は尾張国の横根・栗飯原の両郷を領し、その孫に至って長男・定通、二男・定正の二家に分かれた。両家とも、後に、三河に出て、松平家に仕え---

豊川市伊奈町に本多家の伊奈城がある。

伊奈城は本多宗家(定通系)の居城である。
ここでは、歴史の真偽を問う立場ではないし、そのつもりも知識もない。
ただ、本多家の一族が、本田善光を家系の祖として誇り敬愛し、善光寺・元善光寺を懐かしみ、、立葵を大切にした事実が伺われる。本田善光の業績を「よすが」として伊奈城は名付けられたのだろうし、彼らにとって、伊那や信濃国は、源流であり、ある意味聖地であり、心の故郷だったと思われる。本多正信は、言わずもがな、その本多一族の一員であり、上記の思いは、共有していたと思われる。

家康と正信は幼少時代(駿河の今川家への人質時代)から共に過ごした。当然ながら、本多家の生い立ちや家紋のことなど話題にのぼったに違いない。まして、家康は無類の歴史好きと聞く。愛読書の吾妻鏡を手放したことが無いくらい、ともきく。家康に、この前提があればこそ、信濃にかかわる人選に、本多正信が浮かんだのだろうと思う。本多正信が信濃にかかわりがある人として人選した家康と受けた本多正信、両人ともそれを当然としていた節がある。

信濃・甲斐経営に乗り出す時のこの三人の人選は、さすがの妙手である。短期間で、それもほぼ無血で、次々と徳川方に付いていく旧武田の家臣団をみれば、それを物語っている。これは、領土という経済基盤だけの話ではない。軍律や鉱山採掘技法や信玄堤など地方技法、その人材など、それが優秀だと見抜く力が無ければ、これを発掘などできない。本多正信の人を見る目と伊奈忠次の技術を見る目、が大きく役だった、と思われる。

信濃を手に入れて、五国太守の大大名化する家康に対して、快く思わない人がいた。強大化する家康に危機感を持った秀吉である。小田原城攻めのあと、関東移封を命じる直接の原因となる。功績に応えて、加増という隠れ蓑の裏事情のことである。


雑談記 戦国初期の名前の付け方、資料の信憑、税制のことなど   
                      2012-10-31 18:29:22 | 歴史


少し、話を変えてみる。

歴史を観るうえで、肝心なことは何なんだろうか。・・常に考える。
歴史は、常に勝者の歴史であるようだ。勝者の記述した歴史資料は、自分の故実を誇張したり、対立の敗者を無視したり、悪者と言ったりする。
信長記、太閤記、甲陽軍艦、三河物語など。これらは勝者のお抱え、及び勝者側の記憶・思い出による物が多い。これを偽書という人もいるが、半分以上は真実で、誇張のところと敗者のところは心して読まなければならない。小平記や赤羽記などは、勝者側の思い出や先祖からの伝承が多く、これを家の伝承記録とした。このため、事実の誤認や誇張や相手の無視や悪意も、少し散見される。
一方、守矢文書のように、諏訪神社の祭事の記録を主としながらも、1年ごとに、その時の主な出来事を、ついでながら記録する文書は、かなり客観性が高そうだ。

中世における武家社会での名前についても、かなり悩まされる。
通称「大石内蔵助」と呼ばれた忠臣蔵の家老は、大石内蔵助藤原良雄が正式名である。
この場合大石は家名(名字)、内蔵助は官名、藤原は氏名、良雄は実名となる。
また、織田信長は正式には、織田弾正忠平朝臣信長で織田は家名、弾正忠は通称、平朝臣(たいらあそん)は氏名、信長は実名となる。
商家では茶屋四郎次郎中島明延は茶屋四郎次郎が屋号(=名字)、中島は氏名、明延は実名となる。
さて、中世の武家社会での名前の構造を踏んでから、保科正俊の名前を分析すると、彼は保科弾正(忠)筑前守正俊が正式名称で、筑前守は官名(高遠藩家老職の別称?)、弾正(忠)も官名で、高遠家が滅亡後、武田の家臣になった後は、弾正は使われたが、筑前は使われなくなった。
そう考えると父の保科正則も高遠家家臣のとき、当然筑前を名乗り家老職にあったと思って不思議はない。
保科を名乗って、小笠原家臣団にいて、福与城にいた藤沢頼親を応援して武田と戦った保科因幡守を類推すれば、高遠家と違う領主の元にいた別系の保科とみていい。つまり、福与城の藤沢親を応援して参戦したのは、保科正俊ではない。

さらに悩ませるのが、保科正則の父とされる、保科易正だ。この易正を指すと思われる名前の多いこと。荒川易氏の子、易正は保科の里に養子にいった。たぶん養子先の保科家には嫡子が無かったのだろうか。戦役で嫡子が戦死したのかもしれない。
この場合の改名は、家系の継承性や正当性から、先代の名前を通字として引き継ぐ。それで、一族郎党の勢力維持や団結も計った。改名の儀式もたぶん重要な要素だ。
そこへ北信の雄村上顕国に追われた、川田郷保科の正利一族が逃げ込んでくる。この時、保科正利一族は混乱が多い。本人を含めて嫡子ともども逃げる途中で、誰か戦死した可能性は高い。そこで易正は、若穂保科の保科家の正利をも継承し、さらに改名して若穂保科家の一族郎党の離散を防ぎ、勢力を維持しながら、やがて、一族を合流していったのではないか。そこには、時々に名前が必要となり、時系列的に名前は改名したのだろう。

易正が養子にいった時期は、藤沢保科家も川田郷保科家も、見方によれば、一族存亡の危機であった。藤沢保科家は、主家高遠家と対立。川田郷保科家は、村上一族に領地を追われている時期である。おそらく、この期に何らかの活躍があり、これが神がかり的である事から、神助というあだ名を付けられたのだろう。
この推論は、家長制度の継承性や正統性を前提とし、正統性は先代の名前の一字を組み入れながら存続していく、この時代の名付けの方程式で、戦国の時代の当主と嫡子の戦死は常であり、家を生き延びさせる方策であった。


雑談記 私的な題;16弁の菊の木地師  2013-01-21 15:02:38 | 歴史

母の祖母の出自について
母が昔語りに話したという。
母の祖母は大鹿村の「からやま」と言うところに生まれたと言う。先祖の墓に16弁の菊が刻印され、16弁の菊の書き付けがあり、五七の桐紋を紋付きとし、大蔵という姓であったという。母の兄弟の家に確認すると、生田の「からやま」で、あとは同じだという。大鹿村と16弁の菊が宗良親王を想像し、調べてみようという話になった。

私的な題である。
当初「からやま」は唐山と思っていた。

柄山(からやま)について

 柄山の地名は、2カ所たどり着く。
 一つは生田柄山(松川町)で、こちらは簡単に、もう一つは北川柄山で、こちらはたどり着くまでにかなり難儀をした。
 生田柄山は、小渋川に沿って山中の峠道にあり、付近は伝承の多いところらしい。近くの桶谷は、古くは王家谷と書き、北条道や北条坂の地名が残り、北条を名字とする四家(1家は分家)があり、頭(上)屋敷、別当、木戸口を名乗っていたという。だが、昭和に「小渋ダム」が出来て沈んだ。さらに奥が四徳で、昔北条時行が潜んだと言われる四徳小屋があったという。ここも昭和に廃村になった。昭和36災害が因であるそうだ。
 北川柄山(大鹿村北入地区)は、現在存在しない地区である。明治になって、山の生業でまず3家が住み、やがて入植が増え、最高時40戸弱を数え、やがて全村移転で消えた地区であるからという。昭和36災害によって、家屋全財産が流され、再建が不可能とされたからである。明治以前、北川は小渋川の支流の沢(川)の名前であった。勿論以前は、人が住んでいなかった地区である。移り住んだ人達のもとは、中川村や生田の山の人が多かった、と書いてあった。
北川柄山に住んだ人達は、もと生田柄山のひと、と考えるのは、あながち無理な筋道でも無さそうだ。この北川柄山に最初に住んだ家は、2人は大蔵と呼び、1人は小椋と呼んだ。木地師であったという。・・・大鹿村誌より
 生田柄山に大蔵姓と小椋姓を名乗る家もあるそうだ。そこの大蔵家と小椋姓も木地師をルーツに持つとあった。この生田柄山は、江戸時代元禄の頃まで人家と地名を確認できていない。それまで長峯あるいは長峰とだけ呼ばれた地域だったらしい。・・松川町史
 生田と大鹿を分離して考えるのは地元の考えと違うようです。大鹿村誌でも生田柄山も生田桶谷も、あたかも自分の村のような記載です。それと桶谷の神社遺産は小渋ダムに沈む前、保管を依頼されたのは大鹿の民族館だそうです。)
 なお、大鹿村は山村で寒村であるのは確かですが、一時繁栄した時期があったそうです。中央資本の製材会社(久原鉱業株式会社)がこの地に出来ました。この地方としてはかなりな大会社だったそうです。だが、不景気とともに、製材会社は撤退し、大鹿の繁栄もそこで終わったと言います。残ったものは伐採された禿げ山で、保水力を失った山は脆く、昭和の36災害に繋がったのではないか、と思ったりもします。大西山の山崩れの爪痕は現在も残り、写真を見ましたが痛々しい限りです。この製材会社の後裔は、主人が替わって、日産(自動車)と大成(建設)になったそうです。
・・・悲話は書くつもりは無かったのですが、調べたらかなり切なくなりました。
 
木地師 について

 木地師と言う者がある。
 生業を木にもとめ、山に住み、主に食器としての椀や盆をつくり、それを里に売って生活していた者達のことである。この者達は、「轆轤(ろくろ)」を使い、円形の器を造ることを得意とした。木も選ばれた。しゃもじやさじやへら等は堅い桜木を、椀や盆などはほうやとちを、箸などは杉を材料とした。生活は小集団単位で3から5家族ぐらいが多かったらしい。
 年代は古く、平安時代の話、文徳天皇の長男に惟喬親王(これたかしんのう)がいた。文徳天皇は長男の惟喬に天皇を継がせたかったが、弟に天皇を継がせることになった。異母兄弟の弟の方が外戚の力がかなり強かったためとされる。惟喬親王は滋賀県神崎郡永源寺町の小椋谷に逃れたという。この地の小椋谷で惟喬親王は、木材の木地を荒挽し、轆轤を使って盆や椀などを作る技法を伝えたとされる。また、木地師の伝承では文徳天皇の第一皇子惟喬親王を職能の祖とし、その側近藤原実秀の子孫が小椋氏、惟仲の子孫が大蔵氏になったという。近江の小椋谷にある君ケ畑と蛭谷は、羊腸たる山道の果てにあり、とりわけ木地屋(師)が自分たちの先祖と称している蛭谷の惟喬親王の墓のあたりは、南北朝時代の宝篋印塔が残っており、深山幽谷の気配が濃くたたようところであった。君ケ畑の地名は惟喬親王が幽開された所ということからつけられたというが、さだかではない。
 木地師文書と言うものがある。
 この木地師文書というもの、「文徳天皇の大一皇子、小野宮惟喬親王が祖神で、この一族の小椋、小倉、大倉、大蔵の姓のものは木地師であるから、この文書を所持しているものは全国の山の樹木を切ることを許す」という免許状である。この文書を持った木地師は日本の各地に散っていった。食器を作る木を求めての旅であるから、ほとんど山岳である。木地屋(師)は関所の通行手形のかわりに、近江の君ケ畑の高松御所の十六の花弁の菊の焼印を押した木札を見せて、関所をまかり通っていたことが、「伊勢参宮道中記」(会津の小椋長四郎家に伝えられた嘉永三年(1850))に記されている。求めた木の多い山を見つけ住み、山の木を伐りつくすと、次の山に移っていった。これを「飛」と称した。木地屋(師)の移動するところ、その足跡を印す地名が生まれた。各地に残る轆轤、轆轤谷、六呂山、六郎谷、六郎丸、六九谷、六六師、鹿路などの地名は彼らの居住したところである。
 従来、山はその村里の共同所有地であり、個人所有地でなかった。そのため、その地の領主か村長に了解を取れば入山が可能であった。山を渡り歩けたのは、この為であったが、明治になって山の所有権が決まってしまい、木地師は定住を余儀なくされる。一族の小椋、小倉、大倉、大蔵の姓のものは全国に多いが、ほぼ山岳に祖を求めることができるという。長野県では、大鹿村も勿論だが、長谷(昔は黒河内)、木曽(小椋より大蔵姓の木地師祖先が多いらしい)、大平村(飯田市大平・・昔大平宿現在廃村?)に、この姓を多く持つ。なお、大平峠を越して南木曾に入ったあたり、漆畑という地区がある。たぶん地名からして、良質の漆の木をもっていたと思われる。更にこの地は、地区民全員が「大蔵」と「小椋」を名乗り「大蔵」姓の方が多いという。さらに、この地の生産は椀などの漆器であり、この器は優秀であるという。また彼らの祖は木地師でもあるという。あるいは、加賀の輪島も同様な成り立ちかもしれない。
 木地師と入山の地もととの関係は、概して冷たかったと思われる。山間の米を生産しない地区は、「樽木」といって年貢を木で納める天領が多かった。大鹿村や木曽の山林が、そのようである。御樽木成山と呼ばれた。それ以外の山林でも地元の山人の既得権を侵す存在あった。その為か、地元には馴染まず、木地師は孤高の民であり、団結力だ強かったようだ。

木地師と御所車紋
 「柳田国男もまた『史料としての伝説』のなかで、「信州伊那の大河原村は、宗良親王御経過の地であり、吉野に劣らざる南朝方の根拠地であっただけに、郷人思慕の情を基礎にして、その口碑に注意して見ると、浪合記一流の無理な伝説が幾らも出来て居る。小椋一族がこれに参与した確かな痕跡はないが、この辺も亦彼等(木地師)活動の舞台であった」と述べて、木地屋の痕跡を暗に認めている。
 また,十六の花弁の菊のことを、「柳田はこの円盤紋様を描くのに、木地屋のもっていた轆轤をたぶん使ったのだろうといっている。それが菊花を思わせるところから皇室とのむすびつきの証拠として木地屋によって強調されることになったようである。」(谷川健一)
 どうも、柳田の「ろくろ=菊紋説」は間違いのようだ。発見された惟喬親王時代とそれ以降しばらくは、ろくろは引き網式であり、円系図柄には向かない。これを裏付ける掛軸が発見されている。
 柳田国男は、越後小川荘の高倉天皇陵の石塔に彫られた16の輻(やがら)をもった車輪紋から、これが木地屋の携えていた轆轤の応用で、菊の紋章の前身である(「史料としての伝説」)と想像している。しかし掛軸図に見られるようにこの時代の轆轤は引き綱式であり、車輪が用いられたのは水車を動力とした明治以降であるから、柳田説は誤りとなる

雑談記 高遠の寺の市との関わり・・・中世

2013-05-23 13:21:51 | 歴史
雑談記 高遠の寺の市との関わり・・・中世

中世を読んだり調べたりしていると、分からなかったり、判断を誤ったりすることがある。そのほとんどが、中世に常識とされていた習慣や儀式、あるいは価値観等々。例えばその一つに、領土争いを繰り返していた頃、防衛の要と認識されていた、大きな川には橋がなかった。従ってこの常識を知っていれば、藤吉郎(秀吉)が矢作大橋の上で、蜂須賀小六と出会うというのは、後世の作り話だと分かる・・みたいな。また古文書を読む時、同じ人間が、時には正俊であり、ある時は正利、またある時は昌利だったりする。これは、江戸時代中頃まで日本に印刷技術が無く、本は借りて、借りたものが書き写し、また貸して、また書き写し、同じ「音」の異字で書き写したものと考えられる。書き写しは、形の似た文字でも多々あったようだ。これを写本というのだが、浮世絵が広まった辺りまでは、この様な間違いが続いていたと思われる。

さて、中世の保科家の発祥辺りを調べていくと、保科家は神社(諏訪大社)と仏閣(法華教)と、思いのほか強い繋がりを感じるようになった。本項は、その仏閣の方の話で、市に纏わるところである。

中世の伊那高遠地域は、市の痕跡がかなり残っているという。自給自足経済から貨幣経済への過渡期、市というものが生まれた。まだ物流がそれほどでない時代、当然店舗を構えて物販する需要も供給もない時代、当然市は、月に一度くらいで間に合ったのであろう。例えば月の七日に市が立つ日を決めた。これが七日市場の名の由来だろう。同様に一日市場や八日市場などがある。他地区の○日市場も同じ理屈で発祥する。
高遠地区の建福寺や香福寺では、この市に供給する手工業生産者を隷属的に所有し、手工業的生産品を市で売りさばいていた。寺で、境内や参道を市に解放するだけでなく、自らも経済活動に参画していた。ここには、寺院が市を管理保護し、さらに領主は寺を保護していたという、二重の庇護の様子が垣間見られ、後に消費人口の増加や参詣者の増加に伴い、安定した需要の多いものから店(タナ)が固定し、門前町が形成され、街が出現する。
そこから派生したグループ集団で、番匠(大工)町、板町(屋根師・板萱師)、鍛治町(鍛冶職人)が出来る。

高遠は、この様な町の形成の痕跡が鮮明に残る、面白い町である。
それにしても、寺が生産活動の一翼を担っていたとは・・・

高遠家の歴史 鎌倉期から戦国まで

2013-05-17 19:15:12 | 歴史
高遠家の歴史 鎌倉期から戦国まで

長谷川正次 伊那・高遠戦国史 戦記蹂躙

いま、上記の書が手元にあり、読んでいます。
伊那市高遠の中世は、とりわけ武田家に蹂躙されるまでの高遠は意外と不鮮明で、歴史書の多くは、武田の信濃攻略から始まってしまいます。そうなると、保科家の発祥と台頭の詳細は明らかになりません。テーマである保科家の発祥と成長、高遠・諏訪における保科の台頭と背景。この背景が意外と不鮮明で、諸説が乱れ、定説が見えてこないところに、この書が存在し平明に解説しております。諸説を精査しながら批判し、本筋の高遠史を貫徹していきます。荒川氏との接点は、一部にその説が在ることの紹介に留めています。長谷川さんの高遠史は、現在本流で、一般的なのかも知れません。
とりあえず、まとめてみますが、本来のテーマから、高遠氏の発祥から武田家滅亡までとし、その後の全文は、自分としては読みますが、まとめません。悪しからず。
このまとめの後で、赤羽記、蕗原拾葉を含めて保科家の発祥と台頭と荒川家との接点を書いてみたいと思っています。

高遠氏の発祥
この場合、高遠氏と言っても同じ血流の高遠氏では無いことをまず確認する。
恐らく、鎌倉の頃この地方に始めて高遠の名がついた。そしてこの地方の盟主は、高遠氏と呼ばれる。それは同事平行ではなく時系列に、各系流の高遠氏と見ることが、かなりの精度で正確と思われる。

笠原氏
鎌倉期から南北朝衰退期までは、この地の盟主は笠原氏であった、と言われている。ただ、笠原氏の発祥は、源平騒乱期に、信濃では少数派の平家側に属し、その戦記が源平盛衰記等に記載されていることを確認し、平家が破れてから源氏に靡き、源氏に戦功があって旧領を安堵された、というのが真実に近いのであろう。だがその領主としての規模はあまり大きいのもでなく、かつ居住地の館は天神山にあったのだろう。今の高遠城の近辺に築城したとするのは、後年の作り話である。盟主が交替した後に笠原氏が生き残り、ダウンサイジングして住居していたのは彼旧領の笠原の地であることが、その根拠に思う。
上記の論の骨の構成は高遠記集成であり、傍証は新陽雑志、箕輪記、千曲之真砂、伊那武鑑根元記、新陽城主取替記などであり、伊那郷村記はさらに傍証であろう。

木曽氏
建武の新政期に尊氏に従った木曽家村が旧領木曽の他洗馬(塩尻)と高遠の塩尻に近い部分を安堵されたのは事実であろう。そして次男義親を高遠に住まわせた。以後木曽家は高遠氏として南朝を支持しながら家系を保持した。しかし、北条残党で南朝の諏訪家が急速に武装化して勢力を拡大すると、隣接の木曽高遠家は圧迫されて勢力を減退された。恐らく諏訪家の内訌の時期までは木曽高遠家は勢力の盛衰が在りながら、存続していたものと思われる。だが、松尾小笠原家に臣下していた高遠(木曽)義久は小笠原信定と不和になり、木曽家と府中小笠原の同盟により、木曽義康に滅ぼされる。高遠の木曽領は義康から派遣された千村が代官として管理する。
上記の論拠は高遠記集成、高遠治乱記で傍証が伊那温知集、伊那志略、新源記である。
ここも、盟主の下にゆるい主従関係で従属し、時が変われば逆転が可能な意識の内に、領内の関係性が在ったのではないだろうか。

諏訪高遠氏
この高遠氏は、人により資料が多く残されておるが、一部を除き信頼性の低い。
文明の頃、大祝諏訪頼継は子の信員を高遠城に据え、始祖となる。ただこの始祖については異説も多い。また住居とした場所の特定もない。そののち、「赤羽記に、高遠の城主断絶しけり、地士合議し、諏訪の惣領を貰い立つる。是は生まれつき愚かなる故に諏訪にては立てず、是れ故、貰い立つるなり。」とある。これを正しいとして、高遠治乱記の信広を諏訪頼隣とすれば、継宗が頼隣となり、満継、頼継と続き、辻褄が合ってくる。信員から継宗までの間の系譜は業績の見えない法名の記載で、これを断絶と見るのは理にかなう。
この部分の論拠は、赤羽記、蕗原拾葉、高遠治乱記で、傍証は甲陽軍艦、守谷文書、どうも高遠記集成は木曽系を修飾しすぎのように思う。

上記を考察すれば、現在の高遠城の位置に城を構えたのは、諏訪系の高遠氏の可能性が一番高く、それも継宗が該当する。それまでの諏訪系高遠氏は笠原の跡地で、天神山に居を構えたが、勢力を拡大して膨張し、広く強固な甲山に城を新築したのだろう。

保科氏の発祥と台頭
保科の源流の三系統
1:諏訪神氏の系統で伊那郡保科郷
2:清和源氏井上氏の末裔で、高井郡保科郷
3:清和源氏戸賀崎氏・荒川氏の系統で荒川易氏三男が保科郷に住す。
とあり、高井郡保科は鎌倉期に一部が流れて伊那郡保科郷に住んだと言う説は、1:説に合理する。この頃から伊那保科は諏訪家と関係を持ち、神事に携わるようになる。
清和源氏の高井郡保科は、武家としての系統を持ち神党との繋がりは余りない。また、井上氏を強調して、家系を書き換えた可能性もある。
この場合、荒川易正の養子にいった先の保科の郷は、足利義尚の関係から時期を詮索すれば、村上に圧迫されていた高井郡保科ではあり得ない。
この様に伊那藤沢谷に、高井郡保科と荒川易氏の三男易正が合流する。時期は1500年前後と思われる。また保科正則は高井郡保科を離れる時、16歳であったと飯野保科家の家譜に残るという。
この藤沢保科の時代、1500-1520年頃、三流は整理され、以後系流は、「正」を通字として、一本化する。その時、保科の家系は高井郡の保科家を正統に選び、弾正(=霜台、城)を通称にし、藤沢郷は諏訪神領内からの事実から諏訪神党を誇張した甚四郎も名乗りながら諏訪一族に関係性を持ったのだろう。この家系の調整は、恐らく、年齢の不整合から考えると、正則、正俊までが、名前をそのままに、人格を入れ替えたのでは無かろうか、と考えられる。付録ながら、藤沢邑主の藤沢正満も、どの正則の弟かの問題も出てくる。
そして、整合統一された保科は、正俊の時、同族を吸収しながら膨張したのではないか、そして主導したのは、正俊の父とされる易正?だったのではと考えるのは、神助と呼ばれる所以を考えると、当然の帰結に思う。
この書には、高井郡保科が藤沢谷へ移住した時期を、1493年と断定している。

雑談記  信濃と三河を結ぶ      

2013-05-15 14:03:24 | 歴史
雑談記として控え室の雑談記を時系列に修正してまとめます。
意外と本音の部分。但し脈絡はない。

控え室の雑談記               2012-07-08 01:01:13 | 歴史

諏訪神党(神族)に立ち入る前に。

雑談記     五平餅という、食べ物がある。

餅米を炊き、まるめて表面を焼き、味噌だれを何回か塗り焼いた郷土料理だ。
味噌だれは、味噌と砂糖とクルミをすり込んだ、甘辛く香ばしい味がする。大学時代、N君という学友がいた。大学の文化祭の出し物、売店の件で言い争った覚えがある。つまり、五平餅は、彼の「郷土料理」だ、我の「郷土料理」だ、論争である。違いは、形状ぐらい、だったように思う。彼のは「わらじ型」、我のは「だんご型」。
そして、彼の出身は奥三河っだった。

N君の田舎の奥三河は伊那と隣接。
そういえば、言葉使いの語尾の特徴は、すごく似ていた(方言類似)。

三州街道は信州と三河を結ぶ歴史の街道である。信濃を出て三河の入り口に「足助」という町がある。奥三河である。
三州街道は塩の道とも呼ばれ、かっての、経済の大動脈でもあった。経済の交流は、当然人の交流も頻繁で、両者の婚姻のあっただろうし、食文化を含む文化の交流もあったと思われる。
徳川の武将の酒井忠次も石川数正も信濃国に姻戚を持っていたみたいだ。茶屋四郎次郎も信濃出身で、三河に姻戚があったみたいだ。

五平餅の本家争いは、生活経済圏の共有のなかで生まれた食文化、という結論で、あんがい当たっているように思う。

足助という町、かっての経済動脈の拠点は、鉄道の、東海道線・中央線・飯田線で敷設普及をもって拠点から外れていった。だが足助の歴史を知ると、少しずつ懐かしさが増している。いずれ行ってみたい。
また、N君が、足助七党の成瀬党の末裔なら、さらに愉しいのだが!

控え室の雑談記(2)      2012-07-08 02:32:09 | 歴史

雑談記(2)   塩の話題・南塩と吉良の塩

先日、妹の病気見舞いで松本に行き、夜、旧友の羽柴○○君と食事をしました。約40+@年ぶり。お互い白髪が目立ち、ぼくはメタボ気味。お互い若い頃の「裏や表」を知っている仲、気持ちのいい時間を過ごせました。

そこで出た話題が
「五平餅」「「吉良塩と赤穂浪士」「信濃国=科野国の科という木」
「安曇野の海の関わり」「小笠原家」「諏訪神社とそもそも神社とは」
江戸後期の国学者に、なぜ厩戸皇子=聖徳太子がすこぶる評判が悪いのか・物部守屋
など。

雑談記はそこの話題の一部を少し掘り下げてみた。

自分の興味部分と重なるところが多く、愉しかった。

H君は高校時代こそ名古屋で過ごしたが、お父さんが中日の記者だった関係で、愛知県の各地を転勤したらしい。
三河地方もよく知っていた。


控え室の雑談記 守矢の話      2012-07-10 20:12:04 | 歴史

守矢の話

茅野側から杖突街道を登ると、「守屋神社」があり、そこに鎮座する山が諏訪神社のご神体山の「守屋山」で、諏訪湖を、見下ろす位置にある。
そして、諏訪大社神事を司るのは神長官守矢だ。

知識では、大連だった物部守屋は蘇我馬子と対立し、蘇我氏に厩戸皇子が加勢したことにより敗れて殺された、とある。
対立は、物部が守旧・神社派で、蘇我が進取・仏教派でそれが要因になり、勢力争いになり争った。それで敗れた物部一族はやがて離散し、一部が藤沢郷に住み着いた、という説があるが、確証されていない。---噂。

諏訪大明神絵詞・・・ウィキペディアより転記
洩矢神(もりやしん、もれやしん)は、長野県諏訪地方を中心に信仰を集めた土着神。諏訪信仰の一翼を担う神であり、史料としては『諏訪大明神絵詞』にその存在が確認できる。ミシャグジ神と同一視されることもある。
『諏訪大明神絵詞』などの伝承によれば洩矢神は古来諏訪地方を統べる神であった。しかし建御名方神が諏訪に侵入し争いとなると、洩矢神は鉄輪を武具として迎え撃つが、建御名方神の持つ藤の枝により鉄輪が朽ちてしまい敗北した。以後、洩矢神は諏訪地方の祭神の地位を建御名方神に譲り、その支配下に入ることとなったという。また、その名が残る洩矢神社(長野県岡谷市川岸区橋原)はこの戦いの際の洩矢神の本陣があった場所とされる。
中世・近世においては建御名方神の末裔とされる諏訪氏が諏訪大社上社の大祝を務めたのに対し、洩矢神の末裔とされる守矢氏は筆頭神官である神長を務めた

藤沢(高遠藤沢)・黒河内(長谷)地区は、昔から諏訪大社の荘園であった。
そういえば、物部氏の出身拠点は河内(大阪)であり、黒河内の河内と通じる。黒河内の河内は、昔は「カワチ」と呼んだのか、「ゴウチ」と読んだのか?黒は裏(側)という意味もあるそうで・・・・・いずれも根拠のない話なのだが、少し気にかかっている。

つづく