探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

研究ノート 「高遠一揆衆」の意味

2014-08-15 21:20:17 | 歴史

研究ノート 「高遠一揆衆」の意味

 「高遠一揆衆」 ・・『高遠治乱記』(蕗原拾葉)より

1: 『高遠治乱記』の中に、”高遠一揆衆は、諏訪より高遠・諏訪満継を迎えた。””、「 是は生まれつき愚かなる故に諏訪にては立てず、是れ故、貰い立つるなり」とあり”ます。


2:「高遠治乱記では、この時代に、信定(=満継)に反旗を翻した貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部)を治め、さらに残存する木曽の傍流の領地を削りながら勢力を削いでいった経緯が記載されており、これらの反乱を治めるのに信定(=満継)に功績のあった保科正則に、報償として彼らの領地が与えられて、ついには高遠一揆衆の中で一番の大身になった、と記載されています。」


原文省略 ・・・

この 1:文 と2:文 の中の「高遠一揆衆」の意味が解せません。

そもそも、”一揆”なる言葉は、歴史上において、”百姓一揆”とか”一向一揆”とかで覚え、意味は、圧政に苦しむ農民が、年貢の拒否や低減を求めて、治世者(領主)への武力反乱、あるいは一向宗を信じる農民などが、信者同士の共同生活体を求めて団結し、そのときの領主と利害対立した武力衝突、という風に理解していました。

この意味を前提にして、”高遠一揆衆”を読むと違和感を覚えます。
本来対立する領主を、「迎入れる」行為は、反乱や衝突とは正反対の所為になります。
さらに、”高遠一揆衆”の構成は、農民や庶民ではなく、小領主(豪族)のようです。

こうなると、『高遠治乱記』の筆者は、”一揆”の意味を、”武力的反乱や衝突"と違った意味合いで遣ったと思えてなりません。

 

ウィキペディアでは ・・


一揆 ・・一揆(いっき)とは、日本において何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすること、またはそのために盟約、契約を結んで、政治的共同体を結成した集団及び、これを基盤とした既成の支配体制に対する武力行使を含む抵抗運動。
さらに ・・
室町時代・戦国時代を中心とした中世後期の日本社会は、下は庶民から上は大名クラスの領主達に至るまで、ほとんど全ての階層が、自ら同等な階層の者と考える者同士で一揆契約を結ぶことにより、自らの権利行使の基礎を確保しており、正に一揆こそが社会秩序であったと言っても過言ではない。戦国大名の領国組織も、正に一揆の盟約の積み重ねによって経営されていたのである。例えば戦国大名毛利氏の領国組織は、唐傘連判状による安芸国人の一揆以外の何者でもなかった。
そのため、一揆が原因になることもあるが、政権の転覆を図る反乱、暴動、クーデターなどとは本来ははっきりと区別されるべき語である。
この際の共同体の契約の儀式は、「一揆の盟約を結ぶに際しては、神前で宣言内容や罰則などを記す起請文を書いて誓約を行い、紙を焼いた灰を飲む一味神水と呼ばれる儀式」が行われた、という記録が残ります。

一味神水 ・・またまた、聞き慣れない言葉が出てきました。しかし、当時の当事者には極めて重要の言葉のようです。

そうなると、暴動を伴う一揆は、一揆の形態のひとつに過ぎない、ということです。
一揆の形態のひとつに過ぎない暴動を伴う一揆の方が、どうも一般的な、間違いの"一揆観"のようで、先入観から、どうも自分も、大いなる勘違いをしていたようです。

改めて、「高遠一揆衆」を「何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすること、またはそのために盟約、契約を結んで、政治的共同体を結成した集団」と定義し直して、中世の高遠地方を眺めてみると、違った風景が見えてきます。

高遠・諏訪満継の時代、高遠は国士・豪族の小集団が散在する地であったようだ。この高遠の地を、他国から押領の勢力から防衛する必要に迫られた。そこで、高遠の豪族の小集団は、防衛のために、もともと諏訪神社の神領であったので上社の大祝に高遠の盟主を依頼した。この盟主に選ばれたのが、本来なら上社大祝につくべき諏訪満継であった。おそらく、満継の方が上社大祝頼重より、”大祝継承順位”が高かったのであろうと想像します。しかし、満継は「生まれつき愚かなる故に諏訪にては立てず」に高遠一揆衆の盟主になったという。そうして、諏訪上社大祝は頼重が相続した、というように理解します。ここからは、文明の内訌を、上社・大祝継満とともに引き起こした高遠・諏訪継宗と満継の血縁の継続性・連続性は見えてこない。そうすると、文明の内訌の当事者の一人、継宗はその後どうなったのか気になります。諏訪神社の系譜の中には、この様に血の連続性のない相続が何カ所か出てきます。さらに、祖先の名前が、何代かあとに、そのまま復活したりします。そのため、諏訪神社、大祝や惣領家の系譜・系図は複雑怪奇な難解なものになり、手に負えなくなります。
高遠・諏訪満継とその子・頼継は、大祝を継ぐべき正統性があり、諏訪上社・大祝の返り咲きを生涯の目標とした、というように捉えると、その後の高遠・諏訪頼継の上社への攻撃性が見えてきます。
高遠一揆衆は、高遠が他国からの侵略を防ぐ目的で結集した集団であるため、呉越同舟とは言えないまでも、高遠家・諏訪当主はとは夢見る方向は異なってくる。さらに、他の戦国武将の主従関係よりも弱い繋がりも見えてくる。

以上が、1500年代前半の、高遠地方の豪族達と高遠・諏訪満継・頼継の関係性の風景である。


山吹城 ・・萩倉ノ要害

2014-08-01 10:53:25 | 歴史

↑ 金刺盛澄像

山吹城 ・・萩倉ノ要害

山吹城 ・・やまぶきじょう

諏訪下社・金刺氏の詰城 *詰城(ツメシロ)本丸、根城・最終拠点
山吹城は築城年代など不明。遺構の規模、造りから室町中期頃。上社との抗争から造られた可能性が高い。日常の金刺氏の居所は諏訪大社下社背後にある 下社大祝金刺氏の居城桜城。山道伝いに連絡できる位置ではあるが、 山吹沢の奥まった場所であり、展望は利かない。別名「隠れ城」、 金刺氏の詰城と思われる。
山吹城は大城と小城の二カ所に遺構。大城はかつて全山耕作されていたという。 多数の帯郭が確認できる。規模は、上社武居城と同等か上。
永正十五年(1518)、金刺昌春は諏訪頼満に攻められ、「萩倉ノ要害」に拠ったものの、自落して甲斐の武田信虎を頼って落ち延びた、といわれる ・・・『神幸記』。この萩倉ノ要害について、一般的には山吹城を指すものとされる。


諏訪郡下諏訪町下ノ原

桜城 ・・手塚城とも

桜城は下社大祝である金刺氏の本城と考えられている。
下社秋宮に隣接する霞ヶ城が 鎌倉時代初期に造られ、その後要害の地を求めて鎌倉時代末期から室町時代初期の頃に築城された と思われる。
上代から下社の大祝として勢力を持っていた金刺氏も、永正十五年(1518)金刺昌春が 上社の諏訪頼満に敗れ萩倉の要害に自落し、諏訪から追放され 桜城も廃城となった。昌春は甲斐の武田信虎を頼って行き、 下社再興を画策したが願いは叶えられず、・・・

その後、昌春は、享禄四年(1531)に甲斐国人衆が反信虎連合を結成して反乱が起きた。享禄四年(1531)の飯富兵部等の信虎への反乱時に戦死したようである。これにより金刺氏は滅亡し、昌春の族孫とされる今井善政が武居祝と称して下社大祝の祭祀を継承したとされる。他方、天文十一年(1542)に信虎の子晴信が諏訪氏を滅ぼし、同年に諏訪の領有を巡って晴信と高遠頼継が争った際、昌春の子とされる堯存が頼継に同心して討たれたとも伝わる。