探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

府中・長次系 ・・幕臣大名小笠原家の系譜

2014-03-20 01:44:44 | 歴史

   府中・長次系

  長次系

 

小笠原長次系・小笠原藩 府中小笠原家別家の扱い

小笠原長次

時代 江戸時代初期
生誕 慶長20年5月25日(1615年6月21日)
死没 寛文6年5月29日(1666年7月1日)
改名 幸松丸(幼名)、長次
戒名 長松寺殿慈恵源恵公大居士 :墓所 福岡県築上郡吉富町広津の天仲寺
官位 従五位下、信濃守
藩 播州龍野藩主→豊州中津藩主
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原忠脩、母:本多忠政の娘・亀姫
正室:松平康重の娘・慶寿院
子 長章、長勝、娘(蜂須賀光隆正室)、
娘(森忠継正室)、娘(岩城景隆正室)
小笠原長次は、江戸初期の譜代。龍野藩主、中津藩初代藩主。忠脩系小笠原家初代。

・小笠原長次:(1627年 - 1632年)
官名:、従五位下、信濃守
譜代 6万石 
播磨龍野藩藩主、豊前中津藩

・小笠原長勝
小笠原家[編集]
譜代 豊前中津藩 8万石 (1632年 - 1716年)
長勝(ながかつ)

・小笠原長胤
長胤(ながたね)
譜代 豊前中津藩 8万石 (1632年 - 1716年)

・小笠原長円
長円(ながのぶ) 
譜代 豊前中津藩 4万石

・小笠原長邕
長邕(ながさと)
譜代 豊前中津藩 1万石

・小笠原長興
長興 (ながおき)
譜代 播磨安志藩初代当主 1万石
小笠原長円の子

・小笠原長逵
長逵 (ながみち)
譜代 播磨安志藩二代当主 1万石
官位:従五位下、信濃守
小笠原忠基の二男


小笠原長為
長為 (ながため)
譜代 播磨安志藩三代当主 1万石
官位:従五位下、 信濃守
小笠原長逵の二男

小笠原長禎
長禎 (ながよし)
譜代 播磨安志藩四代当主 1万石
官位:従五位下、 信濃守
小笠原長為の長男

小笠原長武
長武 (ながたけ)
譜代 播磨安志藩五代当主 1万石
官位:従五位下、 信濃守
小笠原長禎の長男

小笠原貞幹
貞幹 (さだよし)
譜代 播磨安志藩六代当主 1万石
官位:従五位下、 信濃守
小笠原長武の長男 宗藩豊前小倉藩主小となる

小笠原貞孚
貞孚 (さだちか)
譜代 播磨安志藩七代当主 1万石
官位:従五位下 信濃守
小笠原貞幹


府中・秀政系 ・・幕臣大名小笠原家の系譜

2014-03-20 01:39:43 | 歴史

    府中・秀政系

  秀政系

 

府中小笠原家・秀政系 
本家筋・・・

・小笠原忠真
生没年:1596-1667
父:松本藩初代藩主 秀政
幼名:春松丸、忠政
官名:従四位下、侍従、左近将監
正室:円照院 亀姫(父:姫路藩藩主・本多忠政)
信濃松本藩二代藩主:1615-1617 
播磨明石藩主:1617-1632 
*豊前小倉藩初代藩主:1632-1667 

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子:長安・・廃嫡
・・・・・小笠原長安 生没年:1618-1667
父:豊前小倉藩初代藩主 小笠原忠真
官名:従五位下、兵部大輔
正室:梅鑑院(松山藩藩主・松平定長室)
子:宝光院 市松姫(福岡藩藩主・黒田光之室)
子:長宣 小笠原長宣 生没年:1631-1663
  父:豊前小倉藩初代藩主 小笠原忠真
官名:従五位下、大和守
正室:(父:大給松平乗寿)
子:嘉禰(額田藩主・松平頼元室)、真方・分家・真方系へ  
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・小笠原忠雄 生没年:1647-1725
父:小倉藩初代藩主・小笠原忠真
幼名:万松丸、長真、
*豊前小倉藩二代藩主(1667-1725)
官名:従五位下、遠江守、従四位下、侍従、左近将監
正室:長寿院・久姫(父:広島藩藩主・浅野光晟)
子:忠基、貞通(小倉新田藩へ)、長新、義姫(津藩藩主・藤堂高睦室)、清姫(三次藩藩主・浅野長澄室)、染姫(与板藩藩主・牧野康重室)、須免姫(淀藩藩主・ 稲葉正知室)、菊姫(福井藩藩主・松平宗昌室)

・小笠原忠基 生没年:1682-1752
父:豊前小倉藩二代藩主 小笠原忠雄
幼名:豊松丸、清貞、清遥
官名:従五位下、織部正、遠江守
*豊前小倉藩三代藩主(1725-1752) 
官名:従四位下、侍従、左近将監
正室:浅野梅(父:広島藩藩主・浅野綱長)
子:忠貞、幸姫(姫路藩主・松平明矩室)、永姫(棚倉藩藩主・小笠原長恭室)

・・小笠原忠貞 生没年:1706-1741
父:豊前小倉藩三代藩主 小笠原忠基
官名:従五位下、織部正、遠江守
正室:(父:徳島藩藩主 蜂須賀綱矩)
子:永姫(棚倉藩初代藩主・小笠原長恭室)

小笠原忠総 生没年:1727-1790
父:豊前小倉藩三代藩主 小笠原忠基
幼名:只次郎、通称・政之助
官名:従五位下、伊予守
*豊前小倉藩四代藩主(1752-1790) 
官位;従四位下、侍従、左京大夫、兵部大輔
正室:養寿院 能姫(父:新田藩藩主 浅野長賢)
子:富姫(小倉藩藩主 小笠原忠固室)
養子:忠苗

・小笠原忠苗 生没年:1746-1808
父:播磨安志藩二代藩主 小笠原長逵
義父:豊前小倉藩四代藩主 小笠原忠総
通称:保三郎
官位:従五位下、伊予守
*豊前小倉藩五代藩主(1791-1804)
官位:従四位下、右近将監、侍従
正室:正姫(父:高知藩藩主 山内豊敷)
子:春次郎、暇年姫、養子)忠固、養子)富姫(小倉藩藩主 小笠原忠固室)

小笠原忠固 生没年:1770-1843
父:播磨安志藩三代藩主 小笠原長為、義父:豊前小倉藩五代藩主 小笠原忠苗
官位:従四位下、大膳大夫
*豊前小倉藩六代藩主(1804-1843) 
官位:贈正四位、
正室:富姫(父:小倉藩藩主・小笠原忠総、義父:小倉藩藩主・小笠原忠苗)
子:鈴姫 敏子(佐倉藩藩主・堀田正愛/尼崎藩藩主 松平忠栄室)、忠徴

小笠原忠徴 生没年:1808-1856
父:豊前小倉藩六代藩主 小笠原忠固
*豊前小倉藩七代藩主(1843-1856)
官位:従四位下、左京大夫、侍従、伊予守
正室:前田直(父:金沢藩藩主 前田斉広)
子:娘(新庄藩藩主 戸沢正実/小倉藩藩主 小笠原忠幹室)、養子)忠嘉

小笠原忠嘉 生没年:1839-1860
父:豊前千束藩五代藩主 小笠原貞哲、義父:小倉藩藩主 小笠原忠徴
幼名:直之進、貞嘉
官名:従四位下、右近将監
・・豊前小倉新田藩七代藩主 小笠原貞嘉(1851-1854)
*豊前小倉藩八代藩主(1856-1860) 
正室:なし
子:(養子)忠幹

小笠原忠幹 生没年:1827-1865
父:播磨安志藩五代藩主 小笠原長武、義父:豊前小倉藩八代藩主 小笠原忠嘉
別名:貞幹、棟幹、忠幹、鋭吉
・・播磨安志藩六代藩主 小笠原貞幹(1839-1860) 
:豊前小倉藩九代藩主(1860-1865) 
官名:従四位下、大膳大夫、侍従、従五位下、信濃守
正室:(父:豊前小倉藩七代藩主 小笠原忠徴)
子:貞孚(安志藩へ)、忠忱、登代子(清水徳川家当主 徳川篤守室)

小笠原忠忱 生没年:1862-1897
父:豊前小倉藩九代藩主 小笠原忠幹
幼名:豊千代丸、
官位:従三位、伯爵
*豊前小倉藩十代藩主(1865-1869)
・・豊津藩知事(1869-1871) 
正室:上杉純子(父:米沢藩藩主 上杉斉憲)
子:長幹、長丕(安志藩へ)、豊

小笠原長幹 生没年:1885-1935
父:伯爵 小笠原忠忱
官位:伯爵、貴族院議員
正室:
子:忠春、鞠子(夫:伯爵 伊達興宗)、忠幸(安志藩へ)、忠統

小笠原忠春:伯爵→小笠原忠統:伯爵→以後略・・・


参考:宮本武蔵は小倉藩に保護されていた。・・宮本氏(筆頭家老・4000石・武蔵の兄・田原久光の二男)・・宮本玄信(=武蔵、貞次、伊織)。この情報は確認していません。

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大日向家 ・・府中小笠原家・庶流

2014-03-19 00:40:44 | 歴史

    府中小笠原家・庶流

  大日向家

大日向氏

家紋は二引両。裏紋は小笠原出自の三階菱


大日方氏・・おおひなたし、おびなたし
大日方氏は信濃国水内郡に本拠をおいた日本の氏族。守護の小笠原氏の庶流だが、小笠原氏とは敵対関係にあった村上氏に与して小川庄(小川村)を拝領し、本拠とした。後には武田氏に臣従し、水内郡から安曇郡にかけてを領して北信濃に一定の勢力を保った。

出自・・・
詳らかではないが、小笠原長利(大日方長政)が祖とされる。下記はその説・・分裂していた小笠原氏を統一した小笠原長棟には子がなく、後継者とするため弟の長利を養子とした。ところがその後、長棟に長時が誕生して長利と長時は不和となった。・・このため長利は小笠原家を出て、安曇郡広津村大日方(生坂村)に館を構えて大日方氏を称したのが始まりとされる。・・大日方長利は香坂忠宗(香坂安房守)を後見人とし、当時小笠原氏とは信濃を二分して対抗する勢力であった村上氏に臣従した。・・時期については諸説あって定まらないが、村上氏に従属していた小川氏が背いたため、党首の村上顕国は香坂忠宗(香坂安房守)に命じてこれを討たせた。大日方長利はこれに従軍して小川氏の本拠である布留山城(古山城)(小川村)攻略で功を上げた。これによって大日方氏は小川庄を与えられ、大日方長利は大日方長政と名を改め小川・古山城を本城とした。

武田氏への臣従
大日方直忠が当主の時代に、甲斐国の武田晴信(信玄)による北信濃侵攻が始まった。武田軍は仁科方面から山県昌景が侵入して小川・古山城への入口に位置する千見城(大町市)を落とし、守将の大日方長辰(直長とも)は敗死した。・・これを機に大日方氏は、武田氏への恭順派と、抗戦派に二分した。直忠には五人の子がおり、長男の直経は徹底抗戦を唱えたが、残る4人の弟(直武、直長、直龍、直親)は恭順派だった。弟たちは謀議によって文道古城(長野市鬼無里)城主の直経を襲撃し、直経は重傷を負って自害した。これによって天文二十一年(1552)大日方氏は武田氏への恭順が認められた。・・その後大日方氏は武田氏に従い越後上杉氏との川中島の戦いにも参戦しており、川中島平の中央部とも言える広田地区にも所領を与えられて居館を構えた。大日方直長は上杉氏によって陥落した千見城を奪還し、武田信玄から感状を受けている。また天文二十三年(1554)には安曇野で信濃守護小笠原氏と共に武田氏に抵抗していた二木氏が小笠原氏の逃亡後になってから赦免を願い出た際に仲介をして功績を認められている。・・永禄元年(1558)には中条地区の支配権も与えられた。川中島の戦いの頃の軍役は百十騎と伝えられ、大日方一族全てを合わせると三百騎を超えたとも言われており、周辺の屋代氏の七十騎や麻績氏の十騎、室賀氏の二十騎、栗田氏の六十騎等に比して突出した規模であり、その動員兵力は9000人~10000人前後に及ぶものと推定される。・・また、上杉謙信の戸隠攻めに際して戸隠から逃れてきた僧侶を受け入れたため、本拠の小川は後世まで「坊」と称された。

武田氏滅亡後
甲斐武田氏の滅亡後、織田配下の国衆木曾義昌により領地安堵の朱印を受けるが、織田信長の死後に生じた武田遺領の甲斐・信濃を巡る天正壬午の乱による上杉氏の北信濃侵攻によって領地安堵は果たされないまま大日方氏は徳川氏の支援を受けていた小笠原方と上杉方に分裂してしまう。上杉方についた者の多くは、慶長三年(1598)上杉景勝の会津への移封の際に帰農し小川に土着したとされるが、一部は後に松代藩に真田氏が上田から転封して来るとこれに仕えた。現在も小川村を始め近辺には大日方姓は多い。


高天神小笠原家 ・・府中小笠原家・庶流

2014-03-19 00:25:23 | 歴史

    府中小笠原家・庶流

  高天神小笠原家

以下、「戦国 武家家伝高天神小笠原氏」からの引用による ・・・

『高天神小笠原氏は、信濃守護小笠原氏の一族である。府中林城主小笠原貞朝の長子であった長高は、父貞朝が異腹の弟の長棟を寵愛したことから、父子に不和が生じ、長高は府中を立ち退いて尾張国に出奔したという。・・尾張に赴いた長高は、織田氏を頼ったが、「親と不和となる子を我が手に属すること叶うべからず」と織田家は受け入れなかった。しかし、尾張領内に居住することは許されて、知多の名和という在所に居を構えた。その後、父貞朝の死去を聞いて家督を襲わんと、家来を引き連れて府中に帰ったが、既に弟の長棟は城を固めていて、家督相続の件は叶わなかった。・・このとき長高の老臣某が、兄弟で争うことの否を説いたことから、三河国の幡豆の領主吉良氏を頼って三河国へ入り、吉良氏に属した。その後駿河守護である今川氏を頼って、結局長高は今川氏に仕えることになった。そして馬伏塚城を預けられて、府中に帰ることはなく同城で病死したと伝える。

乱世を生きる
長高の跡は長子春儀が継いだ。今川氏の家臣の高天神城を守る福島氏に、謀叛の聞こえがあることを聞いた今川氏は、春儀を高天神城に遣わしその実否を探らせた。春儀は高天神城の三の丸に入り、福島氏の動向に気を配っていたところ、福島氏に謀叛の色が見えた。春儀は時を移さず、本丸に押し掛け福島氏を討ち取った。この功により、福島氏に替わって高天神城を預けられ、以後、高天神城主をつとめた。・・その後、永禄三年(1560)五月、駿河大守であった今川義元が尾張の桶狭間で織田信長の奇襲を受け、討ち死してしまった。義元の死後、子の氏真が継いだが、家を支えることができず今川氏は衰亡の一途を辿ることとなる。・・永禄十一年、氏興は今川氏真を見限り、一族の小笠原与右衛門を徳川家康のもとに遣わし、遠江への道案内をさせた。この頃今川氏真は掛川城に籠っていたが、家康は西宿より城に押し寄せ、氏興は東口天王山より攻め寄せた。氏真は叶わずに和を乞い、城を家康に明け渡して、小田原北条氏を頼って落ちていった。ここに、戦国大名今川氏は滅亡したのであった。・・その後、氏興は徳川家康に属して、元亀元年六月、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が戦った姉川の合戦にも出陣、また、所々の合戦において功を挙げ、馬伏塚城で病死した。・・氏興の嫡子氏儀も家康に属して高天神城主をつとめた。元亀二年、甲斐の武田信玄が高天神へ押し寄せ、ハタカヤ口ホツチカノ山に陣を布いた。一方、武田勝頼は茶臼山に陣を布いて、両手より千騎の軍勢が高天神城に攻めかかってきた。・・しかし、高天神城勢は攻撃をよく防ぎ、時には、城内より打って出て武田勢に一矢を報いるほどであった。高天神城の旺盛な戦意を見て、信玄は陣を払って甲斐国へ兵を引き揚げていった。

高天神小笠原氏の終焉
天正二年(1574)、武田勝頼が再び高天神城に押し寄せてきた。この時氏儀(長忠)は浜松へ事の急を告げ、徳川家康、織田信長に援軍を求めたが、援軍はついに来なかった。そして、武田氏に降れば信濃国を与える、という勝頼からの降伏勧告が出された。氏儀はこの勧告を受けようとしたが、安西越前、福島十郎左衛門らは同心したものの、浜松に人質を出している者たちはそれに反対した、ここに城内は降伏、籠城の二派に分かれ同仕打ちにまで至った。・・しかし、勝頼より、城を明け渡せば浜松まで送り届ける旨が申しだされたことから、ついに、氏儀は高天神城を武田氏に明け渡した。この時、安西越前、福島十郎左衛門の二人は、氏儀の罪を蒙って切腹して果てた。氏儀は富士の下方に退いたが、やがて病を得て死去したという。・・また、別説によれば、高天神城を開城したのち、氏儀は武田氏に属して興国城を賜り、勝頼麾下の将として各地の合戦に参加した。ところが、桶狭間の合戦で武田軍が敗れ、武田氏が衰退をはじめ、ついには織田信長によって滅亡させられた。このとき、氏儀は北条方に心を通わせて、武田氏と袂を分かち、以後北条氏に属した。しかし、秀吉の小田原征伐によって北条氏が没落しったとき、家康方の兵によって氏儀は討たれたともいう。ここに、高天神小笠原氏の嫡流は断絶した。長高が府中から移住して、わずか、四代の歴史であった。・ところで、氏儀の弟に長治がいたという。長治は新陰流を学び、のち源信斎を称した人物である。かれは、小笠原氏没落後、奥山休賀斎のもとに弟子となり、その剣技に磨きをかけ、ついには休賀斎の道統を継ぐまでになった。のちに源信斎は江戸に道場を開いたが、かれの剣技を慕って入門する者三千人を数えたと古記に記されている。』

 

 


小笠原秀政  ・・・ 府中小笠原家歴代

2014-03-18 03:47:24 | 歴史

     府中小笠原家 

 小笠原秀政

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小笠原 秀政
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄12年3月21日(1569年4月7日)
死没 慶長20年5月7日(1615年6月3日)
改名 幸松丸(幼名)→貞政(初名)→秀政
戒名 両選院殿義捜宗玄大居士
墓所 長野県松本市埋橋の埋橋剣塚
長野県松本市里山辺の広沢寺
官位 従五位下、信濃守、上野介、兵部大輔
主君 豊臣秀吉→徳川家康→秀忠
藩 下総古河藩主 1590-1601
 →信濃飯田藩主 1601-1613
 →松本藩主 1613-1615
正室:峯高院・登久姫(父:岡崎信康、義父:徳川家康)
   敬台院・万姫・虎(阿波藩主・蜂須賀至鎮室、義父:徳川家康)
子:忠脩(忠脩系へ)忠真、忠知(忠知系へ)、松平重直(能見松平家へ
氏族 府中小笠原氏
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概略
小笠原秀政 生没年:1569~1615年
身分:信濃松本8万石の大名、官位(通称、号):兵部大輔
【流転の日々】小笠原貞慶の息子。母は日野晴光の娘。小笠原家は清和源氏の後裔で信濃の名族だったが、1553年に武田信玄によって信濃を追われている。秀政は貞慶の逃亡先の山城で生まれ、父と共に各地を転々とした。貞慶は1582年6月の本能寺の変後、徳川家康の助けを得て信濃深志城を奪い、徳川家に秀政を人質に出し石川数正に預けた。
その後、貞慶は数正と共に豊臣秀吉の下に走り、讃岐半国を与えられたが、秀吉の怒りを買ったため改易され、家康の下に戻った。1589年に徳川信康の娘・登久姫と結婚する。
松本城・・・秀政が城主だった松本城・・【徳川家の家臣】1590年の小田原征伐では秀政は<榊原康政隊に属して従軍し、その功で下総古河3万石を与えられた。その後、秀政は朝鮮出兵・会津征伐に従軍し、その功で1601年に信濃飯田5万石に移封され信濃守を名乗る。・・1607年に妻が亡くなると剃髪して家督を長男の忠脩に譲った。1613年5月、石川康長が改易されるとその後に入り信濃松本の旧領に戻った。・・【冬の陣】1614年、大坂冬の陣が起こると忠脩を大坂に向かわせ自身は松本城の守備につく。翌年の夏の陣では秀政が3300の兵を率いて出陣し、息子達は松本城の守備を命じられたが、忠脩と次男・小笠原忠真は密かに大坂に向かい父と合流した。これを知った家康はその忠勇を誉めている。
毛利隊と徳川軍前線が戦った辺り・・・【屈辱】1615年5月6日、若江の戦いで井伊直孝軍が木村重成軍と戦闘となり、小笠原軍も木村宗明に攻撃され、秀政は本格的な戦闘に入ろうとしたが、軍監・藤田信吉に止められたため防戦に徹した。それが家康の耳に入り、秀政は激しく叱責されてしまう。冬の陣でも小笠原軍は沼地のために進撃できないという失態を演じたということもあり、秀政は名誉挽回を決意し、同じ境遇に置かれていた本多忠朝を訪ね酒を酌み交わして翌日の奮闘を誓い合った。・・【奮戦】翌日、大坂城南で天王寺・岡山での最終決戦が始まると、毛利勝永・大野治長・竹田永翁軍と衝突し竹田軍を蹴散らしたが、毛利・大野軍の攻撃によって小笠原軍は敗走し始める。・・秀政は体勢を立て直そうと自ら槍を奮って奮戦するが6ヶ所に傷を負い、忠脩が討死、忠真も傷を受け、指揮官すべてがいなくなってしまい小笠原軍は撤退してしまう。秀政は河内久宝寺に逃れ治療を受けたが、夕方に死亡した。享年47歳。遺体は京都で荼毘にふされ、松本に運ばれて葬儀が行われた後、宗玄寺に葬られた(後、改葬されて現在は広沢寺に墓がある)。

生涯
永禄十二年(1569)3月、小笠原貞慶の長男として山城宇治田原で生まれる。この頃の小笠原氏は武田信玄に信濃を追われて流浪していたため、このような場所で生まれたものと思われる。天正十年(1582)、織田信長が死去すると、父・貞慶は徳川氏の家臣となるため、長男を徳川家康のもとへ人質として差し出し、石川数正に預けられた。この頃には貞政を名乗っていた。・・天正十三年(1585)、石川数正が貞政を引き連れて豊臣秀吉のもとへ出奔すると、貞慶も秀吉に仕えざるを得なくなった。貞政は秀吉より偏諱を与えられ秀政と名乗る。天正十七年(1589)1月、父から家督を譲られて小笠原氏の当主となる。8月には秀吉の仲介で家康と和睦し、家康の孫娘・登久姫と結婚することとなった。・・天正十八年(1590)、父が秀吉の怒りを買って改易されると、父と共に再び家康に仕え、家康から下総古河に3万石を与えられた。・・文禄四年(1595)3月、従五位下上野介に任じられ、豊臣姓を与えられる。・・慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは宇都宮城守備に功を挙げ、翌年(1601)に信濃飯田五万石に加増移封される。慶長十二年(1607)、出家して家督を長男の忠脩に譲る。慶長十八年(1613)に父祖の地である信濃松本8万石に加増移封された。・・慶長二十年(1615)の大坂夏の陣に参陣し、本多忠朝を救援する。しかし天王寺口の戦いで大坂方の猛攻を受けて忠脩は戦死し、秀政も瀕死の重傷を負って戦場を離脱するが、間もなく戦傷により死去したとされる。享年47才。・・跡を次男の忠真が継いだ。なお、このときの秀政の戦死が、後世の小笠原氏の改易危機の際に、常に「父祖の勲功」として救われる一因を成した。

竜雲山広沢寺
松本市の南東端、鉢伏山の麓にある広沢寺は、持長が先代当主政康の位牌を安置した竜雲寺が前身で、それを長棟(広沢寺殿)が広沢寺に改名し、林城近くから現在地に移したものである。・・広い寺域の最上段に、大坂夏の陣で戦死した小笠原秀政・忠脩父子の墓がある。小倉第三代藩主忠基がそれぞれ別の所にあった墓をここに集めたという。


松本城の歴代城主
・石川家
家康の家老であった石川数正が秀吉のもとに走ったのは周知だが、秀吉は、徳川家を関東に動かしたあとの信濃松本に、この石川数正を入れる。徳川家の筆頭家老でありながら、翻心した石川家の立場は、徳川政権下になると、非常に微妙なものになるが、子の康長は、一応そのままの信濃松本藩の所領を許されていた。しかし、大久保長安事件に連座して、康長の時に改易。

→小笠原家
信濃飯田より小笠原秀政が父小笠原貞慶(さだよし)の故地に8万石で入封する。戦国時代深志城にあった小笠原家は武田氏に追われ、小笠原貞慶の時に家康の幕下で、故地を回復。城地を「松本」と定めたのは小笠原貞慶であった。小笠原秀政・忠脩(ただなが)父子は大坂の陣で、奮戦戦死してしまう。家康はその功を惜しみ、忠脩の弟小笠原忠真に家督を許し、加増の上、播磨明石に移す

→松平(戸田)家
上野高崎の松平(戸田)康長が7万石で入り、康直に継ぐが、これも播磨明石へ転封。

→松平(越前)家
結城秀康の三男、松平(越前)直政が越前大野より7万石で入るが、半年で出雲松江に。

→堀田家
後を受けたのは春日局コネで出頭し、老中となっていた堀田正盛で、武蔵川越3万5千石から6万5千石の大加増を受け、10万石で入る。下総佐倉へ転封

→水野家
三河吉田から、水野忠清が入り、水野家六代継いで、藩主家は定着するかに思えたが、水野忠恒は奇行が目立ち、酒色に耽っていたりしたうえ、ついに江戸城中松の廊下で、長府藩世子の毛利師就(もろなり)に抜刀して切りつけるという事件を起こし、改易となる。

→松平(戸田)家
代官預かりの期間を経て、先に松本藩主だった松平(戸田)康長の裔、松平(戸田)光慈が6万石で入り、以降は戸田家の支配で、明治の廃藩まで続く。
明治維新に至る


小笠原貞慶  ・・・ 府中小笠原家歴代

2014-03-17 02:38:03 | 歴史

     府中小笠原家 

 小笠原貞慶

 

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小笠原貞慶
時代 戦国時代
生誕 天文15年8月12日(1546年9月6日)
死没 文禄4年5月10日(1595年6月17日)
改名 貞虎、貞慶
・・元服の際には三好長慶の「慶」の字を拝領して改名
主君 織田信長→徳川家康→豊臣秀吉→徳川家康
氏族 府中小笠原氏
父母 父:小笠原長時
兄弟 長隆、貞次、貞慶
妻 日野輝資の養女(高畠長成の娘)
子 秀政

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小笠原貞慶・履歴

小笠原長時の三男。幼名は小僧丸。通称は喜三郎。従五位下・右近大夫。
父・長時が武田信玄との戦いに敗れて没落すると上京して三好長慶を頼っていたが、のちに織田信長に属した。
天正七年(1579)、蘆名氏に寄寓していた長時のもとに赴き、家督を相続する。
天正十年(1582)3月に武田氏、ついで6月に織田氏が滅んで信濃国が乱れると、旧臣たちに招かれて京都から下り、自力で旧領を切り取って名実共に小笠原氏を再興し、深志(松本)城主となった。
天正十二年(1584)に徳川家康に属すが、天正十三年(1585)11月、徳川氏の重臣・石川数正が貞慶の人質を連れて羽柴秀吉のもとへ出奔したため、貞慶も秀吉に仕えた。
天正十五年(1587)、秀吉の命により再び家康に属す。
天正十七年(1589)、家督を子・秀政に譲る。
天正十八年(1590)の小田原征伐には前田利家の手に属して奮戦、その功により讃岐半国を与えられたが、秀吉に追放された尾藤知宣を庇護したため改易された。しかし家康の関東移封に伴って子・秀政が下総国古河に3万石の所領を与えられたので、秀政を頼って古河へと移った。
文禄四年(1595)5月、古河にて死去。50歳。法名は以清宗得大隆寺。

概略・・・
父・長時の頃に甲斐の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、長時は小県郡の村上義清らと武田氏に対抗するが、天文十七年(1548)の塩尻峠の戦いにおいて敗退する。『小笠原系譜』『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』など近世期の系譜史料に拠れば、長時親子は信濃没落後に越後上杉氏を頼り越後へ逃れ、その後、同族の京都小笠原氏や三好氏を頼り京へ逃れたという。
京において長時親子は信濃復帰を望み運動しており、永禄四年(1561)に貞虎(貞慶)は長時とともに本山寺(高槻市)に対し旧領復帰の際には寺領寄進を約束している・・「本山寺文書」。なお本山寺文書に拠れば貞慶は「貞虎」から「貞慶」に改名している。「虎」は越後亡命時代に長尾景虎(上杉謙信)から拝領し、その後京で三好長慶から「慶」を拝領して、「貞慶」に改名したと思われる。
その後、長時とともに越後の上杉謙信のもとへ寄寓し、上杉氏と武田氏の間で川中島の戦いが行われているが、第四次合戦を契機に争いは収束し、長時親子も旧領回復には至っていない。
天正七年(1579)、長時から家督を相続する。長時は謙信の死後に会津蘆名氏のもとに奇偶しているが、貞慶は織田信長に仕えて諸大名への対武田交渉を担当している。天正十年(1582)に甲州征伐で武田氏が滅亡すると、信長から信濃筑摩郡に所領を与えられた。同年6月、信長が本能寺の変で死去した後は天正壬午の乱において徳川家康の家臣となる。中信ではこの頃、伯父の洞雪斎が上杉氏の後援で深志城を押さえていたが、小笠原旧臣は上杉氏の傀儡の洞雪斎から心が離れており、貞慶は徳川氏や小笠原旧臣の支援を得て深志城(松本城)を奪還する。これにより大名として復帰を果たした。その際、長男の小笠原秀政を人質として、家康の宿老であった石川数正に預けた。
天正十三年(1585)、突如、石川数正が秀政を連れて、家康から出奔し、豊臣秀吉のもとへ走り、家臣となった。天正十八年(1590)、小田原征伐では、前田利家軍下で軍功を挙げ、秀吉から讃岐半国を与えられた。しかし、秀吉の怒りで追放された尾藤知宣を保護したため、秀吉の怒りを買い、改易された。
その後は子の秀政とともに再び家康の家臣となり、下総古河に三万石を与えられた。文禄四年(1595)死去。享年50才。茨城県古河市の隆岩寺に供養塔があ。

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小笠原貞慶物語

信長の甲斐攻めの頃・・・
天正三年(1575)2月、信長の武将河尻秀隆から小笠原貞慶に府中回復を呼び掛ける書状が届いた。貞慶は父長時が信玄に駆逐され没落すると上京して、父子共に小笠原一族の三好長慶に頼っていた。『書簡并証文集』によれば、小笠原貞慶に「今度信長の直札を以て申し入れなされ候」とある。この秋に織田信長は信濃国へ出勢する予定であるので、その際に貞慶に還補することは勿論、「別して其許の御才覚此の時に候」と、その実力を発揮する好機であること、信濃国・美濃国境目の「有事」が発生した際には相応の尽力をするよう伝えている。貞慶はこの府中復帰の誘いで信長に臣属する契機となった。
小笠原貞慶は、深志城落城を報らされると直ぐさま飛騨から安曇郡金松寺に身を移した。貞慶は、信濃逃亡後小笠原旧臣と未だに疎遠状態であった。父長時以来の重臣・二木氏すら貞慶の動静が知らされていなかった。さすがに信長は信濃制圧に何の功績も無い貞慶の入府を許さなかった。信長は同月、上諏訪の法華寺に入り本陣とした。貞慶は、府中回復の絶好期でありながら旧臣の援軍も期待できず、府中を回復できなかった。木曽義昌は出仕し、信長の来援を謝し、太刀一腰・馬二疋・金二百料を献上した。信長は義昌に黄金千両を下賜し、更に寺の縁まで見送りに出るほどの”もてなし”をした・・『当代記』。武田氏滅亡を速めた穴山信君(梅雪)も出仕し、甲斐・駿河の本領が安堵された。各在陣衆が兵粮などに困り、深志城の城米があてられ、その不足を北条氏政から白米2千石、家康からも進上され、諸陣に配られた。
同月、「信濃国筑摩郡・安曇両郡之事、一色宛行候訖。全て領知に令す可し、次に木曽郷之儀、当知行に任せ聊かも相違有る可からず之状、件の如し」と、木曽義昌が武田氏征伐の”きっかけ”をつくり、更に出兵の先鋒となった功を賞した。2日後に、法華寺で甲斐・信濃・上野・駿河の知行割が行われた際、徳川家康に駿河一国が宛行われ、木曽義昌には、本知の木曽郷と前からの約束通り府中を含む筑摩・安曇両郡の新知が下された遺がいは、殆どが信長の家臣に与えられた。穴山氏本知分を除く甲斐と信濃国諏訪郡が、河尻秀隆の新知宛行として武田氏の本拠を押さえて与えられた。滝川一益には、厩橋(前橋)城を本拠とさせ、上野と信濃の小県と佐久の2郡を与えた。森長可には、以後川中島の海津城に在城を命じられ、越後の上杉景勝攻略の先鋒として信濃の高井・水内・更科・埴科の北信濃4郡を与え、次の布石としている。毛利秀頼には、信濃国伊那郡を知行させた。帰属した国人衆の旧領を安堵し、各家臣団の新知行地に再編入した。
小笠原貞慶は、府中の小笠原譜代衆をかき集め、上諏訪法華寺にいる信長に謁するため、金松寺から駆け付けたが、「御礼罷り成らず」と門前払いされている。木曽義昌の抜群の軍功の前に屈し、僅かな家臣を連れ京に戻って行った。

小笠原貞慶の松本復帰の頃・・・
30年振りに旧地に復した深志城主小笠原貞慶は、天正十年から十一年にかけて、一つは旧臣たちと寺社への所領安堵および寄進、もう一つは反貞慶の態度をとり続ける地侍の討伐に邁進した。前者に関しては、同年8月3日、筑摩郡の犬甘半左衛門久知への安堵状を皮切りに、数多くの安堵状・宛行状・寄進状を発行している。深志城に入ったものの、深志から川中島迄の間、即ち子檀嶺岳の北西、四阿屋山、聖山、冠着山辺りの筑北地方と安曇から仁科地方小谷迄も上杉の勢力下にあった。徳川家康にしても一時的措置として小笠原貞慶を利用したようだ。反小笠原の勢力が一揆を結び攻撃して来るか、景勝が南下策を採ればひとたまりもなかった。・・・現に木曽義昌が深志城を奪還すべく攻撃してきた。貞慶は深志城から果敢に出撃し、義昌を敗走させた。木曽領筑摩郡本山(塩尻市)から福島口まで追撃し、日が落ちたため陣中大いに篝火を焚き着陣を装い帰城しょうとしたが、義昌も予想していて兵を隠して反撃の準備をしていた。その撤退に乗じられ小笠原孫次郎・犬甘治右衛門政信らの重臣が討ち取られている。家康も、これを報らされ、貞慶の軍事力に期待できずとし、8月30日には、北条氏傘下となった木曽義昌に安筑二郡の安堵状を発し靡かせている。家康も切迫していた。東の北条の動きは速く、高遠の保科氏・諏訪氏・木曽氏などを初め南信地方の諸勢力を臣従させていた。それがため貞慶を無視し、中でも信濃の最大勢力である木曽義昌を逸早く調略した。・・・なお7月中旬、犬甘政信は、貞慶が本山で木曽義昌と戦い、一度勝利しながら帰城の時に背後を襲われ討死したため、犬甘氏の家督は弟の久知が継承した。天正十年7月の犬甘久和宛の貞慶の花押状には「犬甘今度本山に於いて討死、比類無に候、然者、彼の跡目其の方相続申付け被る可き候、家来以下引出、弥奉公為す可き事専用也」とある。・・・一方、貞慶も必死で天正十年(1582)8月初旬から、先鋒として犬甘半左衛門久知と塔原城主海野三河守を任じ、仁科一族日岐氏の制圧に向かっている。小笠原頼貞・赤沢・百束ら諸士が率いる後軍が深志を発ち安曇郡の穂高に陣を布いた。一方会田方面には赤沢式部少輔を出兵させ、青柳方面からも牽制させている。・・・9月には、武田氏旧臣水上六郎兵衛に筑摩郡小松郷を、岩間善九郎には「信州野溝・平田・村井庄之内6百俵、名田被官等事」と安堵している。貞慶は父長時の没落の原因が、その傲慢さ故に家臣団が育成されず寧ろ一族譜代に嫌悪され、その上の戦略の欠如が諸所を破綻させた事を知っていた。・・・貞慶は深志城から犀川筋を重視し、特に信州新町の牧之島に着目した。当時は東筑摩郡生坂村にある名勝山清路が通じてなく、下生坂からねむり峠を越えて込路へ出、大岡村・桐山・後沢、そして日向村・麻績へと大道が通じていた。その道筋を仁科氏一族日岐氏が、犀川沿いに小立野(生坂)地域には川はざま城・中野山城・小池城・高松薬師城、その北方の日岐・上生坂・下生坂にかけては小谷城・日岐大城・猿ヶ城・日岐城(ひき城;東筑摩郡生坂村日岐)・白駒城などで山城や砦で固めていた。兄の日岐盛直は犀川左岸にあった生坂の日岐城主で陸郷(池田町陸郷)に、弟盛武は生坂の万平に居館を構えていた。・・・深志に小笠原貞慶が侵攻し、川中島には越後の上杉景勝が反撃して来た。この時日岐盛直は弟盛武と共に上杉氏に属したため貞慶と対峙した。貞慶は天正十年(1582)8月初旬から日岐氏征伐を開始した。先鋒の犬甘半左衛門久知と塔原城主(明科)海野三河守が出陣した。9日には小笠原頼貞・赤沢・百束ら諸将も出兵し安曇郡穂高に布陣した。一方上杉方の会田・青柳方面からの援軍を牽制するため、会田へ赤沢式部少輔を派兵した。貞慶は日岐氏に対し29日の時点では、「大手口之備え如何にも存分如く候、一両日中に日岐之者ども退散申し候可く候と存事候」と当初は一両日中に落居させると楽観視していた。しかし9月6日付の犬甘氏宛の書状で、明日貞慶自ら日岐に出馬すると伝えている。その後も苦戦が続き、翌天正十一年(1583)8月初め頃、「日岐之大城御責め被成候御積りにて」、大規模な戦略策が採られた。小笠原貞慶軍は三隊に分かれて日岐軍を攻撃した。本隊は小笠原長継、溝口貞康軍合わせて五手で、会田・板橋・西ノ宮そして庄部の赤岩へ進軍した。第二隊は仁科衆二手で、大町・新町そして牧野島口に出て、日岐軍が北上して逃げる際の退路を断つという策であった。第三隊が小笠原貞頼・岩波平左衛門五手と旗本衆20騎が穂高・池田から日岐の北方にあたる草尾に出た。この隊の50騎が、徒歩となり草尾から犀川を船で渡り対岸の日岐崎に上がり20計りを討ち取った。すると後続の兵が続々と犀川を乗り越して日岐衆を追い落とし勢い付いて遂に日岐城を攻略し、万平の居館も陥落させた。降伏した日岐は、以後は小笠原氏に属した。貞慶は日岐丹波守盛武に天正十一年8月付けの花押状を渡している。「今度之重恩を為す、押野之内定納万疋之所出置可く候、此旨以て、忠信を抽す可き者也、仍って件の如し」と、その帰属を許している。天正十八年(1590)に小笠原氏が家康の家臣として関東に転封になると同行した。

その時、小笠原長時は・・・
天正十年の冬、貞慶は会津若松にいる長時を迎えるため、平林弥右衛門を遣わした。長時は、武田信玄により筑摩を追われ越後の上杉謙信を頼った。その後、一族と共に同族の三好長慶を頼って上洛し、摂津の芥川城に十五年間逗留した。権大納言山科言継の日記『言継卿記』に「妾がか所へ罷り向ふ、酒これあり。信濃国小笠原牢人(長時)、三好方これを頼みて芥川に住す。子喜三郎(貞慶)参会す」とある。・・・貞慶は父長時と共に諸国を牢浪し漸く三好長慶を頼ったが、それ以降も含めて30余年牢人していた事になる。永禄六年(1564)、三好長慶が病没し、翌永禄七年に、将軍義輝が暗殺された。そして永禄十一年(1568)9月28日から織田信長に芥川城が攻撃され、30日には落城し、三好氏が没落した。『小笠原歴代記』によれば、長時・貞慶父子は「信長上洛の砌、芥川城没落す。長時51歳。而して越後に御下着す。輝虎別して御懇意により、5百貫宛無役に進めらる。」と再び上杉謙信を頼った。・・・長時は天正六年(1578)の謙信死後は越後を離れ、会津の芦名氏の許に寄寓した。その間、貞慶は奥州・関東を流浪した末、天正三年(1575)頃織田信長に属し、越前から関東諸国への使者的な役割を果たしたようだ。天正八年3月23日、信長の重臣柴田勝家が、「其国御滞留」と記される越中にいる貞慶に、当国の武将の帰属を働き掛けるよう要請している。翌天正九年10月15日には、信長が越後へ出兵しようとして家臣の富田知信に送った書状に「猶貞慶申し可く候也」と、それを届けた貞慶に詳細を聞くよう命じている。・・・貞慶が漸く本領を回復した事を知り、長時は大いに欣喜したが、69才との高齢であば、陸奥の冬の峠越えは耐えがたく、翌春府中に帰ると使者平林弥右衛門に書状を託し帰した。・・・翌天正十一年3月貞慶は、再度平林弥右衛門を迎えに遣わせた。しかし既に、府中帰府の準備していた長時が、その最中に怨恨を抱いていた家臣坂西弾右門に暗殺されていた。府中の正麟寺(蟻ヶ崎) を父長時の開基としてその菩提を弔った。

徳川家臣になる・・・
天正十四年(1586)5月、家康は秀吉の妹・朝日姫を娶る。6月には秀吉の生母が、人質として岡崎城に送られた。10月、ついに家康が秀吉のもとに赴き、臣従の礼を取る。この年、居城を浜松城から駿府城に移した。11月4日の景勝に宛てた秀吉の書状には「関東之儀、家康と談合を令し、諸事相任せ之由仰せ出だされ候間、其の意を得られ、心易くす可く候」と和議を伝え、「真田(昌幸)・小笠原・木曽両3人儀も先度其の方上洛之刻、申し合わせ候如く、徳川所へ返置す可き由、仰せらる候」と、当時の信濃国を統べる勇将達3人は、家康への帰属を一方的に命じられることになる。翌天正十五年3月18日、「信州真田・小笠原、関白様御異見にて出仕候」と、『家忠記』は秀吉の命により駿河の徳川家康に拝謁し臣従を誓わされたという。・・・小笠原貞慶は、秀政に家督を譲り謹慎した。幸い秀吉の取成しがあり、家康の嫡男信康の娘を秀政の妻に迎え家康の譜代衆となった。

本能寺の変後の小笠原貞慶
天正十年6月2日、明智光秀のクーデターにより信長と嫡男信忠の政権は脆くも崩れ去った。信長政権が確立しないまま、特に甲信地区は.再び無主動乱の地となった。各地の旧主が自領の回復を計り、北の上杉景勝、南の徳川家康、東の北条氏政が旧領主に調略の手を伸ばした。12日、小笠原貞慶は嫡子秀政を徳川家康の人質に差し出して、徳川家康の支援を得て信濃府中に還着した。かつて小笠原長時幕下にあり、府中北方の伊深城主であった後庁(三村)勘兵衛に「今度石伯(石川伯耆守数正)御取成し故、家康御光を以て入国の行、偏にその方覚悟に候」と促し、本意を遂げれば後庁の名義と洗馬3千貫を宛行うとし忠節を促している。更に2日後14日の信濃入国に際し「当家奉行に相加え候」と貞慶は花押状を送っている。しかし長時の弟・叔父小笠原貞種が上杉景勝の後援をうけて信濃に侵攻して深志城を奪還した。景勝は13日には更級郡の清水三河守康徳を初め、16日には市河治部少輔信房など、主として北信の武将に旧領を安堵し、新たに所領を宛行っている。同様の措置として20日には、小幡山城守景虎に花押状、29日には西条治了少輔にも朱印状を与えている。・・・その間、景勝は梶田・八代の両物頭に、2百騎を預け深志城攻略に向かわせた。川中島より麻績・青柳・会田などの諸士を降ろし府中に入った。深志城の木曽義昌を攻め破り、小笠原貞種を城主として置き、小笠原氏の旧臣の所領が多い安筑地方を治めさせた。上杉氏は、謙信公以来、他領支配が稚拙で、梶田・八代の両物頭は、なんの施策も無く代官的機能も果たさず、貞種を表に立てることも無く、驕り高ぶり専横な言動を専らにし安筑地方の人心を失っていった。・・・結果、安筑地方諸士の輿望を失い、『二木家記』によれば、二木一門や征矢野甚右衛門が、起請文を書き有賀又右衛門、平沢重右衛門を使者にたて、三河の徳川家康の許に寄寓する貞慶の信濃府中への還住を願った。先の3月、信長による甲信制圧に際し、小笠原旧臣と安筑地域の諸士と連携がなされるまま無為に時を逸失し、木曽義昌の後塵を拝した。貞慶は最後の好機と知り、事前に書状で安筑地域の諸士の懐柔策をなし、今回は積極的に所領安堵と新知を宛行い、その他の恩賞を約定した。・・・貞慶が家康の支援を得て、三河から伊那谷に入り、その地の下条頼安や藤沢頼親の兵を合わせ塩尻に着陣すると、安筑両郡の諸将が既に参集し迎い入れる用意を整えていた。その塩尻で挙兵を宣言すると、7月17日夜明け、安筑の旧臣を率いて深志城を攻略に向かうと、貞種ら越後勢は戦うこともできず退去を余儀なくされた。貞慶は深志城に入ると深志の地を「松本」と改め、城下の整備に努めた。「松本」の地名は貞慶が命名したのではなく、既に深志付近にある一地名として古くからあった。貞慶が「深志城」を「松本城」と改称すると、「松本城」周辺に広く伝播され、その範囲が広がった


小笠原長時  ・・・ 府中小笠原家歴代

2014-03-14 19:37:48 | 歴史

     府中小笠原家 

 小笠原長時

 

*悲劇の信濃守護・小笠原長時・・。甲斐武田の敗れ、失意の内に京都へ落ちていく。

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小笠原長時

小笠原長時
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正11年10月23日(1514年11月9日)
死没 天正11年2月25日(1583年4月17日)
改名 豊松丸(幼名)、長時、湖雪斎(法号)
別名 又二郎、右馬助(通称)
墓所 福島県会津若松市の大龍寺
官位 従五位上、信濃守、大膳大夫
幕府 室町幕府信濃守護職
氏族 府中小笠原氏
父母 父:小笠原長棟、母:浦野弾正忠の娘
兄弟 長時、信定、清鑑、洞雪斎、統虎、妹(藤沢頼親室)
妻 正室:仁科盛明の娘
子 長隆、貞次、貞慶

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概容・
小笠原長時は、戦国時代の武将。信濃国守護で戦国大名。府中小笠原氏の当主。林城主。小笠原長棟の長男。

歴史・
大永六年(1526)11月、十三歳で元服する。家督を継いだのは天文十年(1541)、父長棟が出家したときと思われる。以来長時は小笠原一族を率いている。・・隣国の甲斐国では小笠原氏と同じ甲斐源氏の一族である武田氏により国内統一がなされ、長時と同じ年に家督を相続した武田晴信(信玄)は信濃侵攻を開始する。天文十四年(1545)に晴信は高遠頼継・藤沢頼親の討伐を行うため伊那郡へ出兵し、4月に頼継の高遠城を陥落させる。さらに長時の娘婿でもある福与城の頼親を攻めると、長時は龍ヶ崎城(辰野町)において武田方に対抗する・・小平物語。武田勢は甲斐や今川・北条の援軍を得て同年6月には家臣・板垣信方の軍勢が龍ヶ崎城を陥落させ、長時は敗退している・・高白斎記。・・武田勢は伊那を制圧すると佐久侵攻を進め、小県郡の村上義清と対立する。天文十七年(1548)2月には小県郡上田原の戦いで義清は武田勢を撃破し・・高白斎記・勝山記、長時は同年4月に村上義清や仁科氏、藤沢頼親らとは諏訪郡へ侵攻する・・神使御頭之日記。さらに6月にも諏訪西方衆らを迎合して諏訪侵攻を行い・・神使御頭之日記、6月に塩尻峠へ進撃するが武田勢に敗退している(塩尻峠の戦い)。・・天文十九年(1550)7月には本拠の林城も失い、府中小笠原氏は没落した・・高白斎記。同年には同族である京都小笠原氏の稙盛を介して将軍足利義輝に太刀・馬を献上しており、信濃国衆に対する下知を約束されている。没落後の長時は中塔城の二木氏を頼り越後へ逃れたとも・・二木家記、あるいは実弟である鈴岡城の小笠原信定のもとへ逃れたとも言われるが・・笠系体系、正確な動向は不明。・・弘治元年(1555)には同族の摂津国の三好長慶を頼って上洛し、上方に滞在している。・・信濃では村上義清ら北信豪族が越後国の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、武田・上杉間の川中島の戦いが繰り広げられており、永禄元年には甲越和睦の一環として武田晴信が信濃守護に補任されているが、晴信は和睦後も軍事行動を続け、将軍義輝は景虎への信濃介入を認めている。永禄二年(1559)には長慶の仲介で将軍義輝と対面しており・・伊勢貞助記、義輝は上杉謙信に対して長時の信濃復帰への助力を命じている。永禄六年(1564)には三好長慶が病死し、長時はしばらくして上杉氏のもとへ移っている。・・天正六年(1578)の謙信死後は越後を離れた。天正八年(1581)には織田信長に迎えられ、信濃の名義上の旗頭として利用される。信長の京都御馬揃えにも参加した。後、会津の蘆名盛氏に客分として迎えられる。盛氏の下で長時は厚遇され、また軍師として戦略面で盛氏の支援も担当したという。
天正十一年(1583)2月、客分のまま会津で病死した。・・・逆臣に謀殺されたとも言う。享年70才。この前年の天正十年(1582)に武田氏が織田信長に滅ぼされ、蘆名家には同行せず織田家に残り信長に仕えていた三男の小笠原貞慶が信濃に所領を与えられている。

三好氏は阿波国守護細川氏の被官で、鎌倉時代の阿波守護小笠原長清の後裔を称し、小笠原氏と一族意識を持っており、長時は長慶や京都小笠原氏など同族間ネットワークを駆使したことが指摘されている。・・ 永禄四年閏3月義輝御教書「上杉家文書」、また長時・貞虎(貞慶)は本門寺(高槻市)に対して旧領復帰を祈念し寺領寄進を約束している。・・義輝が景虎に長時帰国支援を命じた永禄年九月には甲越間の最大の激闘であったと言われている第四次川中島の戦いが発生しており、これを機に甲越間の北信地域を巡る争いは収束している。なお、京では永禄七年(1565)に義輝が暗殺される政変が発生し、さらに永禄十一年(1568)には尾張の織田信長により三好氏が駆逐され、義昭政権が樹立され、武田氏は信長・義昭政権と友好的関係を築いている


参考:『小笠原牡丹』
小笠原長時:信濃守護職・小笠原長時は草花、特に牡丹の花を愛した。
天文十九年(1550)7月、塩尻峠で武田晴信に敗れて以来、衰退著しい長時は、祈願寺である兎川寺の住職を訪ねた。
・「和尚と会うのも、これが最後となろう。」
・「やはり、いけませぬか。」
・「うむ。無念だが、武田には勝てぬ。信濃を落ち延び、上方で助力を請う。・・・和尚に頼みがある。」
・「承りましょう。」
住職の了承を受けた長時は、一株の見事な牡丹を持って来た。
・「わしは、花が好きじゃ。この地を落ちるは、当家存続のため仕方ないとしても、わしが手塩にかけた花を武田の奴輩に踏みにじられるのは、我慢ならん。・・・そこで、わしが特に気に入りの白牡丹、この寺で育ててはもらえまいか?」
住職は申し出を快く引き受け、長時は居城を出て、山中を隠れ行き、上方目指して去った。
長時の残した白牡丹は住職が大切に育て、住職亡き後も、牡丹の話を住職から聞いた兎川寺檀家の久根下氏が『殿様の白牡丹』と呼んで、密やかに守り続けた。

戦国乱世の兵火を逃れ、400年の時を越えた『小笠原牡丹』は、今も松本城で美しい花を咲かせている。

参考:茶屋四郎次郎

茶屋四郎次郎は、安土桃山時代から江戸時代にかけての公儀呉服師を世襲した京都の豪商。当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する習わしであった。

正式な名字は中島氏。信濃守護小笠原長時の家臣であった中島明延が武士を廃業し、大永年間(1521~1527)に京に上って呉服商を始めたのがはじまりとされる。・・・武士を廃業した理由に、戦役で”怪我”をしたため、という記録がある。茶屋の屋号は将軍足利義輝がしばしば明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来する。茶屋家は屋敷を新町通蛸薬師下る(京都市中京区)に設け、160年にわたって本拠とした。・・初代清延が徳川家康と接近し、徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになった。三代清次は家康の側近や代官の役割も務め、朱印船貿易で巨万の富を築いた。また角倉了以の角倉家、後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家とともに京都町人頭を世襲し、「京の三長者」と言われた。しかし鎖国後は朱印船貿易特権を失い、以後は呉服師・生糸販売を専業とするようになる。10代延国(延因)時代の寛政十二年(1800)には納入価格をめぐって呉服御用差し止めを受け、文化七年(1807)に禁を解かれたものの以降はふるわず、明治維新後間もなく廃業した。江戸時代初期の豪商に多い「特権商人」の典型とされる。なお、茶屋四郎次郎家の末裔は、2000年に、東京福祉大学を創立している。

歴代・
・初代:茶屋清延、天文十四年 - 慶長元年閏七月(1545-1596)、明延の子で「茶屋家初代」とされる人物。若い頃は家康に仕え、三方ヶ原の戦い等で活躍して橘の家紋を賜ったとされる。本能寺の変の際、堺に滞在中であった徳川家康一行に早馬で一報し、後世に「神君伊賀越」といわれた脱出劇の際、物心ともに支援を行った。この恩により、徳川家康の御用商人として取り立てられる。
・二代:茶屋清忠、生年不詳 - 慶長八年4月(~1603)
初代の長男。父の地盤を引き継ぎ、徳川家御用達商人をつとめた。豊臣秀吉死後、徳川家康の権勢が絶大になるに及び、清忠も「淀川過書船支配」など京・大坂の物流の取締役に任命され、優遇されるようになる。1600年の関ヶ原の戦い後には京都の情勢不穏を家康に進言し、京都所司代設置のきっかけを作った。板倉勝重が所司代に就任すると上方五カ所(京都・大坂・奈良・堺・伏見)町人の御礼支配、京都町人頭にも任命されたが、1603年に死亡した。
・三代:茶屋清次、天正十二年- 元和八年7月(1584-1622)、二代の弟で、長谷川藤広の養子となっていたが、兄の急逝のため江戸幕府の命で急遽跡を継いだ。呉服師の一方で藤広の長崎奉行就任後は長崎代官補佐役などを務める。1612年、朱印船貿易の特権を得ることに成功し、主にベトナム北部に船を派遣し、莫大な富を得た。その財産によって茶道具を蒐集し、本阿弥光悦らの芸術支援にも熱心であったが、38歳の若さで死去した。
・家康の死の原因とも言われる「鯛の天ぷら」を家康に勧めたのは清次とされる。

 


小笠原貞棟  ・・・ 府中小笠原家歴代

2014-03-14 04:19:24 | 歴史

     府中小笠原家

 小笠原貞棟

小笠原長棟

*小笠原長棟は分裂した、伊那小笠原家を屈伏させ、小笠原家の統一に成功した。また、隣国の諏訪家とは講和を結び、領内の治政の安定化に努め、信濃国人衆をまとめ上げた。

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小笠原長棟
時代 戦国時代
生誕 延徳4年3月19日(1492年4月15日)
死没 天文18年10月8日(1549年10月28日)
・・・没年を天文11年とする説があるが、これは仏門に入った年で、没は上記が正しい。
改名 豊松丸(幼名)、長棟
別名 又二郎、民部(通称)
官位 従四位下、信濃守、大膳大夫
幕府 室町幕府信濃守護職
氏族 府中小笠原氏
父母 父:小笠原貞朝
兄弟 長高(高天神小笠原氏)、長棟、定政、大日方長利
子 長時、信定、清鑑、洞雪斎(貞種?)、統虎
女子(藤沢頼親室)、女子(村上義清正室)
・・・・・寛政重修諸家譜による

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小笠原長棟(1492-1549):法名「天祥正安広澤寺」
小笠原貞朝の子。豊松丸、又二郎、大膳大夫、修理大夫、信濃守、信濃守護。
明応元年、林ノ館に生まれる。
小笠原定基を討ち、次男信定を松尾城に入れた。下條氏の元にあった小笠原家伝来の家宝、書籍は長棟の物となった。こうして小笠原長時は一族の内乱を鎮圧した。
子は長時、信定、清鑑、貞種、統虎。

 

概容・・・
小笠原長棟は戦国時代の武将。府中小笠原氏の当主。貞朝の次男。

歴史
林城を本拠とする府中小笠原氏出身。智勇に優れた人物で、天文三年(1534)、対立する松尾小笠原氏の当主長基を打倒し、分裂していた小笠原氏を統一した。さらに敵対していた諏訪氏と和睦するなど、小笠原氏の戦国大名としての基礎と最盛期を築き上げた。 しかし後継の子に恵まれず、弟の長利を養子とした。その後に長時が誕生し、長利とは不和とり、長利は小笠原の家を離れ安曇郡に移り、対立関係にあった村上氏配下の香坂氏に身を寄せて大日方氏を称したと伝えられる。・・・天文十年(1541)に長棟は出家し、嫡男長時に家督を譲った。翌年の長棟の死後、八年で信濃小笠原家は滅亡に至った。

詳細・・・
小笠原貞棟は戦国大名へ・・・。信玄が松本平を狙った時期に、筑摩・安曇両郡の領主は府中小笠原氏でした。・・文亀元年(1501)8月、府中の長朝が没し、子の貞朝が跡を継ぐ。一方同族の松尾の定基は、伊賀良庄を領して南信濃の実力者として君臨していた。同年、尾張守護の斯波義寛が、定基に遠州鎮定の協力を求め、敵に味方しないようにと書状を出しました。永正三年(1506)には、駿河守護の今川氏親が小笠原定基へ書状を送り、三河の戸田憲光兄弟が敵方になったので、協力しないように依頼しています。・・永正三年9月、伊豆の北条早雲(伊勢長氏、新九郎、宗瑞)が、子供の氏綱や三河の戸田憲光とともに同国今橋(豊橋市)城主牧野成時を攻めるに際し、誼を通じて、戦況を定基に知らせています。さらに、9月に早雲は使者を派遣して定基に協力を求めています。このため十月、定基も三河の横林へ、早雲支援の兵を出しています。・・小笠原定基は、隣国の大名から協力を求められる力と関係性を蓄えていたようです。・・府中小笠原氏は明応二年(1493)に松尾とともに、鈴岡を攻めて事実上これを滅亡させています。これで小笠原惣領職をめぐって松尾と府中が争うことになりますが、長朝の時期には一応の平静でした。長朝は永正十二年6月に亡くなり、長棟がその跡を継ぎました。長棟は天文二年(1533)7月に五百騎で伊那に着陣し、28日に知久頼元や高遠頼継の軍勢と戦って勝利し、8月に頼継と会見しています。その後長棟は府中に戻りますが、府中小笠原氏はその勢力を下伊那にまで及ぼしていたのです。・・天文三年前後、長棟はついに松尾小笠原氏を圧倒し、定基を松尾から追放します。政秀伝来の小笠原文書をも手に入れ、松尾城に次男信定を置きました。府中小笠原氏は、安曇郡・筑摩郡、と伊那郡を手に入れ、守護職も手に入れたのです。府中小笠原氏は戦国大名への道を歩み始めなす。・・だが、諏訪氏と小笠原氏の関係は悪化していました。天文六年2月には、諏訪頼重の軍が塩尻を攻め、赤木・吉田の辺にまで放火して侵入します。10月には、頼重は塩尻の城を攻め落とします。諏訪氏に呼応する山家氏は、薄川の谷沿いを領しており、この年に小笠原氏と戦っています。・・長棟は天文七年10月、府中内での戦争が苦戦続きで、諏訪上社に神鷹二羽を小池左馬尉を使いに奉納しています。長棟も、軍神としての諏訪社を大事にしていたようです。翌年の天文八年6月に小笠原長棟と諏訪頼重との和睦。同年11月に頼重の祖父である頼満が亡くなり、16日に荼毘に。長棟は高遠頼継との関係が悪く、翌日になって上社へ弔問しています。ようやく小笠原氏と諏訪氏との関係は好転し、諏訪郡から松本平への攻撃はなくなりました。・・こうして、府中小笠原氏は村上氏と並んで信濃でも最大の勢力を誇るようになりました。


参考:(寛政重修諸家譜)
小笠原長棟の項・・・

小笠原長棟・・・
幼名・官名:豊松丸、又次郎、大膳大夫、修理大夫、信濃守、従五位下、信濃国守護
母:海野三郎成頼が女。
明応元年林の館に生る。さきに祖父長朝より一族左京大夫政秀に家伝の式を相伝せしかば、政秀これをとり行ふ。ときに門葉遠江守光康が孫六郎左衛門尉定基(後徹泉齋)信濃国松尾に在て、伊那六郎長政と号す。日々政秀が許にいたりて教をうけ、終に家伝を相伝す。しかるに定基、政秀が領地伊賀良庄をよび書籍等を掠めとらんと欲し、二年正月四日政秀歳首の嘉儀として松尾に至るの時、隙をうかゞひて殺害し、なをその子小次郎長貞も同国名子熊にをいてこをを害す。故に宗康が系統断絶す。このとき家臣等政秀が妻及び家の書籍等を携えて同国下條におちゆく。よりて家伝の書は失はずといへども、代々の影像、足利家の文書等は定基が為にうばはる。長朝これをきゝ兵を率し松尾をせめしばゞ合戦に及び、家臣溝口越前某父子等戦死す。其後政秀が室死してかの書籍財宝下條にわたり、二十余年が間ふかくこれをかくしをけり。定基これをしりふたゝびうばヽむと欲し、偽て下條源太時氏をまねく。時氏松尾に来るのときその途中に兵をふせ、毛賀沢の坂にをいてこれを害し、翌日下條に攻寄しに、時氏が父伊豆守元経防戦してうち死し、其父元弘入道雲石一人生き残りてこれをふせぐといへども、戦ひ甚危かりしところに長棟兵をひきいて援け来り、定基と合戦することすでに三年、定基終に力屈して降参をこふにより、一命をたすけて逐電せしめ、則長棟が二男民部大輔信定をして松尾城にをらしむ。このとき雲石より遠江守貞政入道正○(金偏に夷)、溝口美作守長友をして、さきに政秀に奪はれし所の当家重代の書籍家宝の名剣及び器物等ことゞく長棟にをくりしかば、ふたゝび家に収む。天文十一年二月十五日仏門にいり、十八年十月八日卒す。年五十八。天祥正安廣澤寺と号す。


小笠原貞朝  ・・・ 府中小笠原家歴代

2014-03-12 12:52:40 | 歴史

     府中小笠原家

 小笠原貞朝

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小笠原貞朝


時代 戦国時代
生誕 寛正二年9月18日(1461年10月21日)
死没 永正十二年6月3日(1515年7月14日)
別名 豊松丸、又二郎、修理大夫、信濃守
氏族 府中小笠原氏
父母 小笠原長朝
子 長高、長棟、定政、大日方長利

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概容・・・

*貞朝についても、情報は薄い。

小笠原貞朝は、戦国時代の武将。府中小笠原氏当主。小笠原長朝の子。
父の長朝が没し(1501)、家督を継承する。深志城の築城者とされる。

 

生涯・・・

既に鈴岡小笠原家は滅亡していたが、松尾家の小笠原定基は健在であり、貞朝と定基との対立は続いた。また、尾張守護斯波義寛の要請に応じて遠江に遠征、今川氏親と戦った。
長男の長高を廃嫡し、偏愛していた次男の長棟を後継者とした。廃嫡された長高は尾張に逐電し、その子孫がのちの高天神小笠原氏とされる。子息は多かったが、府中小笠原家は次男の長棟が継いでいる。このことに反発した子息達は、各所に流れて、一家を成している。高天神の小笠原氏が、長朝の異論は出ていないが、大日向氏(最初村上氏に属し、後武田氏に属した)は異論もある。

・・・文明十七年父より弓馬兵法の秘伝をうけた。著作に「和礼儀統要約集」。

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小笠原貞朝の履歴については、小笠原関係書類よりまとめられた蹟が見受けられます。この説明には、かなり不満が残ります。・・・貞朝(1461-1515)の時代は、小笠原一族の宗家争いの時代とともに、諏訪一族の、上・下社・高遠家の間の諏訪家内乱(=内訌)の時代と重なります。この二系流は、お互いに内乱しながら、複雑に絡み合っていきます。小笠原長朝の時代は、まだ甲斐の武田家は、甲斐国自体が群雄してあり、統一されておらず、武田家の力量は小なる時であったようです。しかし、貞朝の時代になると、武田信虎(1494-1574)が生誕し、甲斐は統一に動き出しています。ここで、府中小笠原家と諏訪家との関係を見ないと、どうも片手落ちになりそうです。

諏訪家と小笠原家の関係・・・長朝時代に遡って(長朝・貞朝時代)

時系列事象・・箇条記載・・

・文明十一年(1479)、伊賀良庄に府中小笠原氏が侵攻し、諏訪氏は伊賀良庄の小笠原政秀を支援するため、大祝継満は高遠信濃守継宗とともに出陣した。
・翌十二年、小笠原政秀と叔父光康が争い、光康は府中の小笠原長朝を味方に、諏訪氏は政秀に援兵。
・同年、小笠原長朝は仁科氏を破り、諏訪氏の保護下にあった山家氏を攻撃。
・翌十三年四月、諏訪惣領政満は仁科氏・香坂氏らと協力して小笠原長朝を討つため府中に攻め入っている。
・諏訪氏の惣領政満は、甲斐に出陣。伊那・筑摩郡にまでその勢力を及ぼした。
・文明十四年(1482)、諏訪氏一族の高遠継宗と代官の保科貞親とが対立し、大祝が調停したが不調に終わった。
・その後、保科氏は高遠氏と和解したが、高遠氏と藤沢氏とが対立し、惣領政満は藤沢氏を支援した。府中小笠原長朝も藤沢氏を支援する立場をとり、小笠原・藤沢連合軍は高遠継宗配下の山田備前守が守る山田城を攻めたが失敗する。
・大祝継満は高遠継宗および小笠原政秀との連係を強め、一方の惣領政満は藤沢氏とともに府中小笠原長朝と通じるようになった。
・翌年五月、小笠原政秀の援助を受けた大祝継満は、高遠継宗・知久・笠原ら伊那勢を率いて諏訪郡に侵入し上社近くの片山城に籠城したが、小笠原長朝に攻められて退去した。
・小笠原長朝が安筑両郡の大軍を率いて、片山の古城を東側の干沢城と東西に挟み込むように、その西側に向城を築くと形勢は逆転した。
・小笠原政秀は長朝の本拠地林館(松本市)を奪い、深志にとどまり安筑2郡を合わせて領有し、名実共に小笠原惣領家たらんとした。安筑2郡の国衆は反発し治政不能の争乱状態となった。やむなく長朝と和睦し家伝の文書を譲り受け、長朝を養子とした。

 

 

 


小笠原長朝  ・・・ 府中小笠原家歴代

2014-03-10 21:21:27 | 歴史

     府中小笠原家

 小笠原長朝

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小笠原長朝

生没年:1443-1501
父:小笠原清宗
通称:又二郎
官名:民部大輔
正室:
子: 貞朝1461-1515

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概容・・・

小笠原長朝(1443-1501)
室町-戦国時代の武将。通称は又次郎,民部大輔
嘉吉三年生まれ。小笠原清宗の子。信濃府中(松本市)に勢力をはる。
家伝の弓馬・軍礼を伝承した。文亀元年8月12日死去。59歳。

歴史・・・

応仁の乱が終了した頃になると、諏訪大社上社と下社の争いに府中の小笠原長朝(持長の孫)が介入します。府中の小笠原長朝は下社を支援し、上社を支援する伊賀良の小笠原と戦いました。また、小笠原長朝は筑摩と安曇地方で勢力を広げようとしたため周辺の豪族の反発を受け、安曇地方の北部で勢力を持つ仁科氏(大町市付近)とも争うことになります。・・・小笠原長朝は、仁科氏との戦いや諏訪政満による府中の直接攻撃などを受け形成がしだいに不利になっていきます。そして、ついには鈴岡の小笠原政秀に攻撃を受けて本拠地である林館(松本市)を占領され、府中の小笠原家を滅亡の危機にさらしてしまいました。逃亡した小笠原長朝は、自分が叔父である小笠原政秀の養子となることで許され、再び府中に戻る事ができました。
 
・長享二年(1488)鈴岡政秀が府中の小笠原長朝の井川城を落とす。
・同十二年(1480)、(信濃守護職)小笠原長朝は仁科・西牧・山家氏と対立、山家城を攻撃して山家光家の子孫三郎を討ち死にさせ、また同十三(1481)年にも長朝は山家光家と対峙しています。このことから文明年間(1469-87)頃、小笠原氏が国人領主山家氏と抗争し、山家氏が諏訪神党・上社の一族であることから、諏訪神党を敵に回します。 *小笠原長朝が信濃守護であった事実はありません。この時期の信濃守護は、鈴岡・小笠原政秀で、1490年松尾小笠原定基に殺害されるまで、守護を勤めています。
・文明十二年に、山家氏は小笠原氏に背いたため、府中・小笠原長朝に攻められ、翌年の戦いで山家氏は諏訪氏の支援を受けたものの、この戦いの後山家氏は滅びている。

この一連の戦いで、府中の不安定材料の仁科・西牧・山家氏を翼下に従属させた府中小笠原家は、次の戦いへ戦力を充足させていきます。いよいよ、小笠原家の分裂を解消させて、統一できるか、小笠原家の統一が、信濃統一にも繋がるか・・・基盤は整ってきます。