探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

府中(松本)の豪族 井深氏

2014-02-14 10:28:32 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!


 井深(伊深)氏の場合・・・

井深城の城主は、井深氏と言われている。

井深城(伊深城)の所在地は松本市岡田伊深、昔は信濃國筑摩郡井深と言われたところ、山を隔てれば、上田・佐久に通じ、また安曇・善光寺にも通じる。

まず、説話から始めよう。

岡田冠者親義の話・・・

木曽義仲の挙兵に際して、最初から義仲軍に参加し活躍した源氏の武将・岡田冠者親義があり、親義の終生の居館跡が、松本市岡田伊深にあったという。居館跡は住宅地に呑み込まれて跡かたも無いが、居館近在に、一族が尊崇したであろう式内社・岡田神社が建つ小高い丘が 、往古の雰囲気を感じさせて残っている。近くにある伊深城は親義一族が築いた山城だとの説がある。

・・・*冠者は成人男子のこと、若武者と言う意味か。
岡田親義が活躍た倶梨伽羅峠の戦い・・・
・倶梨伽羅峠・・石川県河北郡津幡町倶利伽羅と富山県小矢部市石坂との境。この峠を境にして、東に砺波平野が、西に金沢平野が広がる。
・倶梨伽羅峠の戦い・・平安末期の寿永2年5月11日(1183)に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠で源義仲の源氏軍軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。・・
治承4年(1180)、以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵した源義仲は、翌治承5年(1181)に平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に向けて進軍した。寿永2年(1183)、平家は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた。・・5月9日明け方、般若野の地で休んでいた平氏軍平盛俊の軍を、義仲軍の今井兼平軍に奇襲され平盛俊軍は退却。一旦後退した平家軍は、志雄山と砺波山に二手に分かれて陣を敷いた。5月11日、義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ、義仲本隊は砺波山へ向かう。平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は押さえら、大混乱になり平家軍は敵が攻め寄せてこない方向へ逃れ、そこが峠の断崖だった。平家軍は、大半が谷底に転落して壊滅した。平家は敗北し、平維盛は京へ逃げ帰った。
この倶利伽羅峠の合戦には、義仲軍は「火牛の計」という戦法を取ったことでも有名。・・
火牛の計・・「数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つ・・『源平盛衰記』、これは”絵巻”にも描かれているが、後年の創作の疑いがある。

 出世魚・ブリ (鰤)

 松本の岡田地区には、年末年始の”祝いの膳”に特色があるという。年末・晦日には”ブリ”を焼いて食べ、雑煮には”ブリ雑煮”を食するという。・・倶利伽羅峠の戦いに参加した岡田冠者義親が北陸から持ち帰り、伝えたとある。祝いの膳の出世魚は、西は”ブリ”、東は”鮭”の伝統があるが、信濃では松本が境界線と言われる。松本は、東西の食文化が混在するとも言われる。現代にいたっては、各地に新参が増え、晦日には、江戸商家の食風の”年越しそば”が蔓延し、伝統は廃れたかも知れない・・・。

この岡田冠者義親の末裔が、”井深氏”という言い伝えは根強く残っている。真偽は知らず、確かめる術はもはやないのかも知れない。

 

ソニーの創始者・井深大氏の祖先は岡田冠者親義・の話

井深大氏の出自については、会津松平藩の九家老の一つ井深家であることは、会津地方や高遠地方の地方史家ならずとも割と知られている事柄のようである。これは、歴史に興味があるないに拘わらず、天下のソニーを一代にして築き上げた井深氏への興味として知られるようになった経緯があるし、井深氏本人が語るところにも拠る。その部分をを再確認すると
・・・室町時代初期の大塔合戦に井深氏の名が登場する。守護小笠原氏の一族で侍大将として善光寺に入り、現在の長野市後町(後庁=御庁)において、もっぱら政務に携わった井深勘解由左衛門で後庁氏の名もある。大塔合戦敗戦後は小笠原氏の本拠である現在の松本市近くの岡田伊深にある伊深城山を拠点として戦国時代をむかえた。武田信玄の信濃侵攻により主家の小笠原氏が出奔したため武田氏に従属した。・・井深家は会津九家と称された藩内の名門である。戦国時代末期、井深茂右衛門重吉は武田勝頼の人質となっていた保科正光の救出に功を挙げるなど、保科家の重臣であった。その子茂右衛門重光は保科正之の家老となり、正之の埋葬の際は祭式に加わっている。重光の男子3人が分家し、幕末には7家に分かれ、井深本家は当主・茂右衛門重常が家禄1,000石で若年寄を務めた。・・重光の次男・三郎左衛門重喬家の幕末の当主は日新館の武講頭取であった井深数馬(200石)で、次男・虎之助は石山家の養子となり、白虎隊士として自刃。長男の井深基は愛知県西加茂郡や碧海郡の郡長などを務め、孫に井深大がいる。・・・

ここでも、岡田冠者義親と井深氏との関係は見えてこない。
もう一つ、「主家の小笠原氏が出奔したため武田氏に従属した」とあるが、保科氏との関係も不鮮明です。その部分を、少し掘り下げて調べて見ると・・・小笠原長時の敗北により府中を手に入れた武田信玄は、林城ではなく、深志城を安曇・筑摩郡の支配拠点とし、城の改修を行います。松本城にみられる丸馬出しや枡形などの施設は武田氏の築城技術に拠るものと言われ、山城に比べて防御性の低い平城を守るための巧みな施設として設けられたものです。この時に深志城改築に指名されたのは工藤祐長でした。以後の記述は、推測にもとずく私見であり、証左は状況による証拠のみになります。この深志城改築には、信濃の情勢と府中の情勢を知る信頼できる”知恵もの”が必要になります。協力者は、保科正俊であり、長時の家臣であった井深茂右衛門重吉であったのではないかと思われます。工藤祐長は深志城改築後に直ぐに内藤昌豊と名を改めます。そして、これも直ぐに、保科正俊の次男を内藤家の養子に迎えます。この三者には、強い信頼関係が見て取れますが、武田軍の中での顔見知りや地縁血縁程度では強い信頼は生まれず、一つの仕事をともに遂行する過程で信頼関係は生まれるものでは無いか思います。以後に見える武田勝に対する評価は、内藤昌豊と保科正俊は、かなり類似するところが彼等の行動から見て取れます。以上私見ですが。・・・ここで、井深家と保科家は繋がったのではないかと思います。そして、正俊、正直、正光、正之と過ぎ、正之が将軍家光の弟と判明し、最上藩を経て会津藩へ移封となり、井深家は重臣として随行し、歴代の保科・松平藩の家老として仕えたのだろうと思います。

伊深城・井深家・・・

・・伊深城跡

遺跡:所在地:岡田伊深1518
時代区分:室町時代~戦国時代

解説・・・北信濃へ通じる要害の地
伊深城は伊深集落後背の標高911mの山頂にあり、現在は南東側山麓の若宮八幡社から尾根上を登る道が整備されていて、小道をたどると要所要所に小郭があり、良く保存されています。山頂部の主郭には、石尊大権現の石碑があり。主郭からの眺望はよく、木曽谷の入口が見える。築城は、室町時代中頃から戦国時代と推定され、城主は後庁氏。後庁氏は小笠原氏の幕下にありました。この城は天文19年(1550)武田軍の林城攻撃のとき自落。戦国期を通じて府中から東北信への出入口で、稲倉城と共に重要な防衛の要といえます。
・・・後庁氏は井深氏の別称とされています。

井深氏・家系譜 会津時代

(1)井深茂右衛門何某(  -  ):信州高遠城主保科正光の側近
   |
(2)井深茂右衛門何某(  -  )
   |
(3)井深茂右衛門重光(  -  )保科正之・正経・正容に仕ふ
  |万治2年(1659)会津藩家老被 仰付。元禄2月年(1689依願隠居。
(4)井深茂右衛門重隆 平左衛門常方(  -  )元禄2月年(1689家老被 仰付。同10年    (1697)改名。宝永2年(1705)改諱。同3年(1706)依願御免。
  |
(5)井深茂右衛門重矩尹常(  -1735)享保7年(1722)家老被 仰付。享保10年(1725)改諱。   享保20年(1735)卒去。
  |
(6)井深茂右衛門 内記武常(  -  )元文4年(1739)若年寄被 仰付。同5年(1740)改   名。寛保2年(1742家老被 仰付。安永4年(1775)職分御免。
  |
(7)井深宅右衛門重(  -1814):会津九家之内
   |
(8)井深茂右衛門重孝(  -  )会津九家之内
---|---------
(9)井深守之進何某(  -  )婿養子 世禄300石      
---|---------                
(10)井深茂太郎何某(1853-  )・・・明治学院総理

以後調べず・・・

伊深城・井深家・・・

伊深城跡

遺跡:所在地:岡田伊深1518
時代区分:室町時代~戦国時代

解説・・・北信濃へ通じる要害の地
伊深城は伊深集落後背の標高911mの山頂にあり、現在は南東側山麓の若宮八幡社から尾根上を登る道が整備されていて、小道をたどると要所要所に小郭があり、良く保存されています。山頂部の主郭には、石尊大権現の石碑があり。主郭からの眺望はよく、木曽谷の入口が見える。築城は、室町時代中頃から戦国時代と推定され、城主は後庁氏。後庁氏は小笠原氏の幕下にありました。この城は天文19年(1550)武田軍の林城攻撃のとき自落。戦国期を通じて府中から東北信への出入口で、稲倉城と共に重要な防衛の要といえます。
・・・後庁氏は井深氏の別称とされています。

 

未完・・・



府中(松本)の豪族 赤沢氏

2014-02-13 19:08:46 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

 

                        ・・ 宗家と庶流 ・・

 

 赤沢氏の場合・・・

赤沢家初代・赤沢清経は、小笠原長径の次男。小笠原家の庶家である。清径が伊豆の赤沢(伊東市)を本貫として住し、以来赤沢を名乗る。やがて、伊豆より信濃埴生に移り住み、子孫は小笠原宗家と婚姻しながら密接な関係を構築していく。宗家・小笠原貞宗の時、建武二年(1335)、信濃で貞宗に与して出陣し、武功により筑摩浅間郷を与えられて、本拠とした。

稲倉城・赤沢氏城主(松本市浅間)・・・

その後、一族は勢力を拡大し北信濃へ進出して、塩崎城をつくり、赤沢氏の主力は塩崎城を居城とした。

塩崎城・赤沢氏系城主(篠ノ井市)・・・

宗家・小笠原長秀が信濃守護になった時、応永七年(1400)、大塔合戦が起こるが、赤沢氏は長秀側で参戦して敗北する。その時塩崎城は合戦の中心になった。永享十二年(1440)に結城合戦に参加した信濃武士の記録(結城御陣番帳)の17番目に「赤沢殿」の名前が残されている。この時、小笠原宗家は政康で、赤沢氏は小笠原政康に臣下していた。政康の死後に起こった小笠原家の内乱では、終始府中小笠原側の重臣として働き、漆田原の戦い(1445)では、赤沢教経が戦死したものの、府中の持長が勝利している。その後赤沢家を率いた朝径は、家督を政径に譲って、京都幕府の管領細川政元の重臣になり、細川家と命運をともにする。

京都・赤沢氏・・細川政元の重臣

京都のあった赤沢氏は、細川氏の近畿・阿波の領内で、赤沢氏系類が足跡を残しているが、朝径と長径は、細川政元の側近として活躍し、永正四年(1507)、政元が暗殺されると、朝径と長径も敗死し、子の政径だけが信濃へ戻る。

その後、小笠原家の内部抗争は、府中小笠原長棟によって統一される。ここに長い小笠原家の内訌は終止符を打つに至るわけだが、時は既に移り、戦国の名将が急速に力を付けてきていた。信濃から隣国の甲斐の武田信玄はは、豊かな信濃を虎視眈々と狙っていた。信玄は手始めに、諏訪神党の拠点の諏訪氏を滅ぼすと、次は府中小笠原の娘婿の、藤沢頼親が攻略の対象になった。二度の侵攻の、最初は信濃武士を動員して防いだが、二度目は信玄の攻略を防ぎきれず、藤沢頼親は敗北した。この少し前、小笠原家の対立を収拾した長棟は、嫡男・長時に相続して、自らはさっさと引退し、仏門に入っている。赤沢家は、終始一貫、府中小笠原家の重鎮・中核として、宗家に仕えていた。府中小笠原家は、信玄に抗戦もむなしく敗北し、一旦は鈴岡の、長時の弟・信広に身を寄せるが、同族である三好長慶を頼って上洛する。

小笠原長時が、京都・三好を頼って逃走する時、赤沢家の一族は二手に分かれて対応をすることになる。赤沢家の当主経智は息子長勝・貞経を伴って長時と共に三好長慶を頼って上洛する。しかし、戦国時代、京都の三好家も戦乱の中にあり、長勝は戦死し、貞径は奥州・相馬氏に寄寓することになる。・・・この赤沢貞径は、江戸時代になって、徳川家康から招集されて、「高家」として召し抱えられたようであり、「弓馬術礼法」(=「糾方内儀外儀」)の師範となり、子孫は将軍家の儀礼を沙汰し、将軍や徳川家臣に「流鏑馬・笠懸の式」を教えたという。なお、鎌倉時代に小笠原から赤沢家に独立し、江戸時代に赤沢から小笠原家に復名したともいう。・・・この家系は現在も小笠原流弓馬術礼法の宗家として存続。

信濃に残った赤沢一族は、武田に臣下して生き残り、武田軍に”赤沢四十騎”の軍役をこなしたという。武田氏滅亡後は、復活した小笠原貞慶に所属するが、後で謀反を起こし、滅亡したと伝えられる。

赤沢家・系譜

小笠原長清

   ┃
 長経        
    ┣━━━┓
  赤沢清経 長忠(惣領家)
-- ┃--

  安経・・・稲倉城初代

    ┃

  経興・・・塩崎城初代 
   ∥
  長興
   ┃
  常興
   ┃
  経光
   ┃
  武経
   ┃
  満経
   ┃
  教経
    ┃
  経隆
    ┃
  朝経 ・・・京都・細川政元に仕える
    ┣━━∥
  政経 長経
    ┃
  経智 ・・・武田に敗北、京に逃れる
---------
    ┣━━━┓
  長勝 小笠原貞経(初経直)
    ┃・・・小笠原に復姓、旗本500俵:小笠原平兵衛家
  経治(初経康)
    ┃
  直経(初貞則)
   ┃
  常春(初常政・貞政)
   ┃・・・以降騎射師範家
  常喜
   ┃

  ・

確認されていない説・・・初期深志城城主

府中小笠原家の居城が、井川城から林城へ移った辺りの時、防衛の支城として「深志城」(=現在の松本城の原型)が作られました、この時の深志城の城主は、”板西孫三郎光長”とされています。この”板西光長”は誰なのか確認出来ていません。これを赤沢氏の項で書くのは、赤沢一族が細川政元の家臣であった時、細川の領国に阿波国板西があり、赤沢一族がここを知行して”板西”を名乗ったとする説が存在します。この阿波国板西説は、この深志城城主と郊戸の庄(飯田坂西家)に関与します。また、義経の時代、義経の四国遠征に案内した近藤六親家という武将が、その恩恵で郊戸荘の地頭になって居着いたという。その近藤は、出身が阿波国板西で、郊戸荘では板西を名乗ったという。やがて廃された”名跡”を松尾小笠原の分家、貞宗の三男・宗満が継いで「さかにし」と名乗った説。やがて府中小笠原の家臣から”板西家”は見えなくなります。いずれも伝承で、確認されていません。

未完・・・





三家分立 府中小笠原家

2014-02-11 15:28:39 | 歴史

府中・・・国府があったところ、単純に松本の旧名と考えてよい。

国府跡・・・国府は日本の奈良から平安時代に令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。・・松本のどこかに国府があったと推定される。・・(推定)長野県松本市大村。・・今の信州大学・信大病院から里山辺・美ヶ原温泉の間に、大村、総社の地名が残るが、ここが国府跡地と比定できるのかも・・?!

-------------------

 ・・井川城 跡(転記)

井川城跡は、信濃守護小笠原貞宗が館を築いたとされる場所で、1340 年頃から林城に移るまでの百年間程、信濃の政治の中心であった場所です。井川城は、信濃守護に赴任した小笠原貞宗(1292-1347)が築いたとされ、山城に適した地形にある林城(里山辺)に移るまでの約100年間、信濃の政治の中心だったとされる。

歴史・構造・・

小笠原貞宗は建武の新政の際、信濃守護に任ぜられ、足利尊氏にしたがって活躍し、その勲功の賞として建武2年(1335)に安曇郡住吉荘を与えられた。その後、信濃へ国司下向に伴い守護として国衛の権益を掌握し、信濃守護の権益を守る必要からか、伊那郡松尾館から信濃府中の井川の地に館を構えたとみられる。・・・井川館を築いた時期は明確ではないが、「小笠原系図」では貞宗の子政長が元応元年(1319)に井川館に生まれたと記されているので、鎌倉時代の末にはこの地に移っていたとも考えられるがはっきりしない。・・・井川の地は、薄川と田川の合流点にあたり、頭無川や穴田川などの小河川も流れ、一帯は湧き水が豊富な地帯である。現在の指定地は、地字を井川といい頭無川が壕状に取り囲んで流れており、主郭の一部と推定される一隅に櫓跡の伝承がある小高い塚がある。地域に残る地名には、古城,中小屋のように館や下の丁,中の丁のように役所の存在を示すものもある。またこれらのほかに中道の地名もあり、侍屋敷の町割跡、寺などの存在から広大な守護の居館跡が想像される。・・・(現地案内板 参照)

-------------------

 林城 跡(転記)・・・


林城(大城・小城)・・別名:金華山城(大城)、福山城(小城)
城郭構造 山城
築城主 小笠原氏
廃城年 天文19年(1550年)
遺構 曲輪、土塁、石垣
指定文化財 なし
林城は、松本市にあった信濃国守護の館(山城)。長野県史跡指定。

歴史概容・・・
信濃国守護であった小笠原氏は当初は井川館を拠点にしていたが、小笠原長棟が松尾小笠原氏を屈服させた後にこの林城に拠点を移した。・・・天文19年(1550)に長棟の子小笠原長時が武田信玄に攻められ一夜のうちに落城した。

林大城と小城のふたつの山にまたがる。大城(▲846m、比高220m)。城郭跡は腰曲輪、主郭周りに石積み遺構などが確認でる。背後の尾根に、堀切・竪堀などもあり。規模は壮大。小城(▲796m、比高160m)。小城の遺構、石積み遺構、虎口、堀切&竪堀など。林城の居館区にあたる「大嵩崎」集落、谷戸の中。

 武家屋敷があったと思われる大嵩崎集落(転記)

府中小笠原家

歴史・・・
政康の死後、小笠原一族の惣領職をめぐって嫡子宗康と京都にあって将軍家の奉公衆を勤めた持長との間で相続争いが起きた。これは「嘉吉の内訌」といわれ、小笠原氏の内紛としてよく知られている。持長はかつて、結城合戦にも将軍の命を受けて参陣し、将軍義教を殺害した赤松満祐の討伐にも軍功をあらわした。さらに、管領畠山持国とも縁戚関係にあり、実力と政治的背景をもった持長だけに相続争いに頭角をあらわしたのである。
結局、信濃守護職は在国していた宗康に安堵された。理由は、長く京にあった持長では、反抗する北信濃の豪族を治めきれないだろうとされて、宗康が選ばれた。しかし、信濃は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、国人衆も二派に分裂して対立抗争が続いた。文安三年(1446)、宗康は弟の光康に支援を頼み、万が一の場合は光康に惣領職を譲り渡すことを約束して持長方との決戦に臨んだ。そして、善光寺表の漆田原で持長軍と激突、戦いは激戦となり数に優る宗康が優勢であったが、最後の激突で宗康は討ち取られてしまった。持長は宗康を討ち取ったとはいえ、家督は光康に譲られていたため、守護職と小笠原氏惣領職は光康に安堵された。しかし、信濃国から持長の勢力が消え去ったわけではなく、以後も、持長と光康の二頭支配が続き、両派の対立は深刻の度合いを深めていった。

三家鼎立までの小笠原家の宗家は、松尾小笠原家

小笠原貞宗は、信濃小笠原家の礎石を築いたとされる。そして府中小笠原家の創設の人でもあった。貞宗は、三人の子に、以下の相続をする。長男政長へは、宗家松尾小笠原家の棟梁を、次男宗政へは別家鈴岡家を立てて鈴岡小笠原家を、三男宗満へは伊賀良荘の隣の郊戸荘(現・飯田市)を分割し分家して坂西家を名乗らせた。貞宗の時代は、府中は群雄が多く、経済的基盤は脆弱であり、松尾小笠原の伊賀良荘は小笠原一族の経済的基盤であり、宗家であった。この宗家・松尾の意識は、持長の時代までは続いたと思われる。この宗家・松尾の意識を崩したのが、府中小笠原持長であり、京都で育った持長をけしかけたのが畠山持国で、持国は母方の父であった。以後京都は、畠山らの西軍と松尾小笠原と関係の深い東軍に分かれて、応仁の乱の長い戦乱へと繋がっていく。小笠原家の内訌は、いわば応仁の乱の西軍と東軍の代理戦争の性格を、色濃く反映していく。もともと小笠原家は、京都検非違使をはじめとする、幕府の官僚の家であった。その為、京都にも小笠原家を持ち、子弟を幕府の役人に送り込んでいた家柄でもあったため、京都幕府内の抗争をもろに受けたようである。

府中小笠原家・・・系譜

(小笠原宗長)、生没年: 、父:長氏、室:女(父:赤沢政常)、子:貞宗 1292-1347 、   :貞長(京都小笠原氏)

小笠原貞宗 生没年:1292-1347、父:宗長、幼名:豊松丸、通称:彦五郎、官名:治部大輔、信濃守、信濃守護、正室:   子:政長、:宗政、:坂西宗満

(小笠原政長)生没年:1319-1365、父:信濃守護 貞宗、幼名:豊松丸、通称:孫次郎、官名:信濃守、信濃守護 1347-1352、正室:
  子:長基
(小笠原長基) 生没年:1347-1407、父:信濃守護 政長、官名:信濃守護 1352-1366、正室:
  子:長将、:長秀、:政康 1376-1442 
(小笠原長将) 生没年: 、父:信濃守護 長基、官名:信濃守護?、正室:  子:持長

小笠原長秀 生没年: 、父:信濃守護 長基 ・・・大塔合戦、  官名:信濃守護、正室:  

(小笠原政康)生没年:1376-1442、:信濃守護 長基、・上杉禅秀の乱(1416) 通称:右馬助、官名:治部大輔、大膳大夫、信濃守、信濃守護 1425-1442、正室: 子:宗康?-1446、光康(松尾小笠原家へ)

(小笠原宗康)生没年:?-1446、父:信濃守護 政康、通称:松尾五郎、官名:大膳大夫、信濃守護 -1446、正室: 子:政秀(鈴岡小笠原家)

小笠原持長 生没年:1396-1462、父:信濃守護長将、幼名:豊千代丸、通称:彦次郎、右馬助 官名:民部大輔、大膳大夫、信濃守  信濃守護1451-1453、正室: 子:清宗 
小笠原清宗 生没年:1427-1478、父:持長、正室:  子:長朝 
小笠原長朝 生没年:1443-1501、父:清宗、通称:又二郎、官名:民部大輔、正室: 子:貞朝
小笠原貞朝 生没年:1461-1515、父:長朝、幼名:豊松丸、通称:又二郎、官名:修理大夫、信濃守、深志城主、正室:        子:長高(遠江小笠原氏)、長棟
小笠原長棟 生没年:1492-1542、父:深志城主 貞朝、幼名:豊松丸、通称:又二郎、官名:民部、従四位下、信濃守、大膳大夫、 信濃守護、林城主、出家1541-、室:(父:浦野弾正忠)、子:長時、信定・・鈴岡城主、清鑑、貞種、統虎、娘(藤沢頼親室)、娘(村上義清室)

(小笠原信定)生没年:1521-1569、父:信濃守護 長棟、通称:孫次郎、  官名:民部大輔、鈴岡城主、正室: 子:長継

小笠原長時 生没年:1514-1583、父:信濃守護 長棟、幼名:豊松丸、通称:又二郎、右馬助、官名:信濃守、大膳大夫、従五位   上、信濃守護、林城主1541-1550、正室:(父:仁科盛明)、子:長隆、貞次、貞慶


------------------------- 
小笠原長隆 生没年:?-1581、父:信濃守護長時、子:吉次
小笠原吉次 生没年:1548-1616、父:長隆、子:吉光、長光、  官名:松平忠吉付家老、城主:犬山城主、佐倉藩主、笠間藩主 
小笠原吉光 生没年:?-1607、父:笠間藩主吉次、尾張藩士、松平忠吉に殉死 
小笠原貞慶 生没年:1546-1595、父:信濃守護長時、松本城主、子:秀政
小笠原秀政 生没年:1569-1615 父:松本城主貞慶、官名:古河藩主、飯田藩主、松本藩初代藩主、子: 忠脩、忠真、忠知、松平重直
小笠原忠真 生没年:1596-1667、父:松本藩初代藩主秀政、  官名:松本藩二代藩主、明石藩主、小倉藩初代藩主、子:長安、長宣
小笠原長安 生没年:1618-1667、父:小倉藩初代藩主忠真
小笠原長宣 生没年:1631-1663、父:小倉藩初代藩主忠真
小笠原忠雄 生没年:1647-1725、父:小倉藩初代藩主忠真、官名:小倉藩二代藩主
小笠原忠基 生没年:1682-1752、父:小倉藩二代藩主忠雄、官名:小倉藩三代藩主
小笠原忠貞 生没年:1706-1741、父:小倉藩三代藩主忠基、
小笠原忠総 生没年:1727-1790、父:小倉藩三代藩主忠基、官名:小倉藩四代藩主
小笠原忠苗 生没年:1746-1808 父:安志藩二代藩主長逵、官名:小倉藩五代藩主
小笠原忠固 生没年:1770-1843 父:安志藩三代藩主長為、官名:小倉藩六代藩主
小笠原忠徴 生没年:1808-1856、父:小倉藩六代藩主忠固、官名:小倉藩七代藩主
小笠原忠嘉 生没年:1839-1860、父:千束藩五代藩主貞哲、官名:小倉新田藩七代藩主、豊前小倉藩八代藩主
小笠原忠幹 生没年:1827-1865、父:安志藩五代藩主長武、官名:小倉藩九代藩主
小笠原忠忱 生没年:1862-1897、父:小倉藩九代藩主忠幹、官名:小倉藩十代藩主、豊津藩知事、伯爵
小笠原長幹 生没年:1885-1935、父:伯爵忠忱、官名:伯爵、貴族院議員
小笠原忠春 生没年:?、父:伯爵長幹、官名:伯爵
小笠原忠統 生没年:1919-1996、父:伯爵長幹、官名:伯爵


未完・・・


三家分立 鈴岡小笠原家

2014-02-10 21:23:30 | 歴史

  ・・鈴岡城

城郭構造 平山城
築城主 小笠原氏
廃城年 1590年
遺構 曲輪、土塁
指定文化財 県指定史跡

鈴岡城 :鈴岡城は小笠原貞宗の次男宗政が分家して築城

鈴岡城は、室町時代に松尾城主小笠原貞宗の次男宗政が分家して築城したといわれる。・・・信濃守護小笠原氏は、深志・松尾・鈴岡の三家に分裂して抗争を繰り返し、一時鈴岡家が本家松尾家に代わって南伊那を支配したこともあった。・・・小笠原氏は室町時代に府中、松尾そして鈴岡の小笠原三家に分かれ、信濃守護および小笠原惣領職の座を争った。文安3年(1446)惣領の小笠原宗康は弟の光康とともに小笠原持長と漆田原で戦って討死した。その子政秀は鈴岡城を拠点として伊賀良荘を領して勢力を維持し、松尾小笠原氏とは良好な関係にあったが、やがて伊賀良荘の領有を巡って松尾小笠原氏と対立することとなった。政秀は文明12年(1480)諏訪氏と結んで松尾の小笠原家長を討ったが、明応2年(1493)正月に家長の子貞基によって松尾城で子の長貞とともに暗殺され、鈴岡小笠原氏は滅亡した。・・・ここで鈴岡城は、松尾小笠原家の管理になる。政秀の養子であった府中の小笠原長朝は、松尾城の小笠原貞基と幾度となく戦って甲斐へ追いやった。その後、松尾城に戻ってきていた貞基であったが、天文3年(1534)に小笠原長棟に攻められ再び甲斐へ逃れた。その後、長棟の子小笠原信定が鈴岡城主となった。・・・武田信玄が信濃に侵攻し、松尾小笠原氏の小笠原信貴・小笠原信嶺父子は武田氏の家臣となった。信定は、府中の小笠原長時が敗れた後も抵抗したが、天文23年(1554)武田氏が伊那に侵攻すると敗れて京へ逃れた。信定のあと、鈴岡城は松尾小笠原の所有となっていたが、小笠原信嶺は、主人徳川家康が関東に移封すると、伴って関東に所領を移して、武蔵本庄藩主に治まっている。この移封の時、鈴岡城と松尾城はともに廃城になっている。

鈴岡城の概要

鈴岡小笠原氏の居城として十五世紀後半の戦国時代に用いられた鈴岡城は、竜丘駄科地区と伊賀良殿岡地区の中間に位置して台地の突端部にあり、標高四百九十メートル、北は毛賀沢川の侵食による深さ約六十メートルの谷を隔てて松尾城と相対している。・・城址はこのように天然の地形を利用した平山城で、その中に人工を加えた幾多の空堀や郭等が設けられている。この図にはないが外郭から西北方向の斜面にも三百メートル程の間にいくつかの郭が形成され、全体では東西三百メートル、南北六百メートルにわたる大規模なものであった。 ・・・現在、本丸と出丸は公園として利用されており、二の丸と外郭は畑となっている。また、毛賀沢川にかかる不動ヶ橋を利用して対岸の松尾城址に行くことができるが、松尾城址も現在公園として整備されている。

 

鈴岡小笠原家・系譜

・小笠原宗政・・鈴岡小笠原家の祖、貞宗の次男

宗康     ・守護、漆田原の戦いで、府中小笠原持長に殺される
・政秀     ・守護、松尾小笠原貞基によって殺害される
・長貞     ・幼年、政秀とともに貞基に殺害される

・・・暫く、廃城

・信定     ・府中小笠原長時の弟、鈴岡城へ養子に入る。信玄に抵抗し京に逃げる

歴史・・・

鈴岡城の築城は、宗政が松尾家から分家して鈴岡家を興したころといわれる。以来、鈴岡城は鈴岡小笠原氏の居城となった。松尾小笠原氏が拠点としていた松尾城は、鈴岡城とは毛賀沢川が流れる深さ約60mの谷をはさんだ北側にあった。15世紀後半には3家の対立は激しさを増し、このころの鈴岡小笠原氏は本家の松尾小笠原氏に代わって伊那郡南部を治めるほど勢力を拡大させていた。そして、1489年(長禄3)には、鈴岡城主で鈴岡小笠原氏当主の政秀は府中小笠原氏(小笠原長朝)を急襲して府中を制圧し守護の座についた。しかし、1493年(明応2)、松尾小笠原氏の小笠原定基(光康の孫)は、対立関係にあった政秀を松尾城に招いて殺害したのち、鈴岡城を攻撃し落城させた。いったん廃城となった鈴岡城はその後再興されている。1554年(天文23)、甲斐の武田晴信(武田信玄)が伊那郡に侵攻した際、松尾小笠原家の小笠原信嶺は武田氏に従った一方、鈴岡小笠原氏の小笠原信定は府中小笠原氏(守護家)の小笠原長時とともに武田氏と戦って敗れ、鈴岡城は落城。鈴岡小笠原氏は断絶した。この結果、鈴岡城は松尾小笠原氏の手に渡り、松尾城の支城となった。武田氏滅亡後、小笠原信嶺(松尾小笠原氏)は徳川家康に仕えたが、1590年(天正18)の家康の関東移封に伴って武蔵本庄に国替えとなり、鈴岡城は松尾城とともに廃城となった。現在、城跡のうち二の丸と出丸などは農耕地となっているが、かつての本丸を含む城域が、対岸の松尾城跡とともに松尾鈴岡公園として整備されている。保存状態は良好で、かつての城の原型をとどめており、中世の南信濃の平山城を知る上で貴重な手がかりとなっている。

漆田原の戦・・・室町時代に起きた信濃守護家の後継をめぐる内紛。・・・文安3年(1446)、小笠原宗康は父の小笠原政康から家督を相続していたが従兄の小笠原持長との間で相続をめぐる争いになった。宗康は弟の小笠原光康に自身が万一討死の際は家督を譲り渡す条件で協力の取り決めをして漆田原(長野市駅付近)での持長軍との合戦に臨んだが敗死。持長は宗康を討取りはしたものの家督を手中にすることが出来ず対立は子らの代にまで続いた。この後さらに小笠原家は三家に分裂して行った。

 

・・・未完

 


 

 

 

 

 

 


三家分立 松尾小笠原家

2014-02-10 19:26:35 | 歴史

 松尾城趾跡・転記

 

松尾城 (飯田市松尾)
--------------
城郭構造 平山城
築城主 小笠原氏
廃城年 1590年
遺構 曲輪、土塁
指定文化財 県指定史跡[1]
松尾城は、長野県飯田市の古城
--------------
松尾小笠原家・・・松尾城・・康永3年(1344)小笠原貞宗の嫡子政長への譲状によって、小笠原氏が領有した文献がある。この時点で松尾城の存在は不明。小笠原氏は、深志(府中)小笠原氏・松尾小笠原氏・鈴岡小笠原氏に別れて対立したが、松尾城は松尾小笠原氏の居城であった。・・松尾城が文献に現れるのは室町時代中期で、その頃松尾城小笠原定基が鈴岡城小笠原政秀を倒して 信濃守護職、小笠原惣領職を手に入れようとしていた。しかし府中小笠原氏等の連合軍に敗北し、 甲斐武田氏のもとへ逃亡した、という。・・・天文23年(1554)武田信玄の伊那侵攻の後、・・府中小笠原家は長時の弟の信定を擁立し、鈴岡小笠原家を再興した。 その後武田信玄の時代、天文23年(1554)に鈴岡城を落とし松尾小笠原定基の子信貴を松尾城主として、 松尾小笠原家は再興。松尾小笠原氏の小笠原信貴・小笠原信嶺父子は武田氏の家臣となった。・・織田信長の時代には旧領を安堵されたが、本能寺の変の後、徳川氏の家臣となった。家康の関東への国替えにより当時の松尾城主 信嶺も武蔵国本庄城移封され、松尾城は廃城。
・・・現在、城跡は松尾鈴岡公園として整備されている。鈴岡小笠原氏の鈴岡城とは毛賀沢川を挟んで向かい側。沢川と毛賀沢川に挟まれた河岸段丘に建つ連郭式の城郭で、東から本郭(本丸)、二ノ郭(二の丸)、三ノ郭(三の丸)が配置されていた。

松尾城の初代城主
小笠原政康 小笠原家十二代当主 となっている。

異説・・小笠原光康が初代という説もある。
・・・小笠原貞宗の時、戦功があって貞宗は信濃国守護に補任された。任地は旧北条領の伊賀良荘と春近荘である。信濃の春近荘は、広大な伊那春近荘、松本付近の近府春近荘、長野付近の奥春近荘があった。貞宗が最初に居館を決めたのが、近くには伊那春近荘があった、伊賀良荘・松尾であった。ただし、どうも松尾城の所ではなかったようだ。伝承によれば、三州街道の追分・八幡から、秋葉街道を少し下ったところ、今の松尾小学校の道向かいの辺りが比定されるという。しかしここは居館であっても城郭の体裁は無かったようで、守りに不向きであった。この居館から、信濃守護が七代排出している。小笠原政康の時代、長秀に通じる長将の子・持長が府中にあって、幕府管領畠山氏の後見で、小笠原家棟梁の座を主張してきた。ここで松尾館は、戦いのための城郭の体裁を必要としてきた。政康の嫡子・宗康は、守護を相続すると、別家の鈴岡に入り、城郭を強化した。鈴岡城の砦化であり、府中小笠原持長対策でもあった。伊賀良荘を相続した光康も、守りに弱い松尾館を棄てて松尾城を造るに至った。ここの松尾居館の辺りの住所はいみじくも、今でも飯田市松尾城という地名で残っている。小笠原の松尾居館の伝承は残ったが、文字に記録された資料は残されてないと言う。戦火に焼失したのかも知れない。以後松尾城が居館となり、”小笠原家の内訌”の時代を経ることになる。

*秋葉街道・・・古くからの古道で、諏訪茅野を出発点とし、杖突峠を経て鹿塩・大河原(大鹿村)を通り、青崩峠を経て、遠州秋葉神社に繋がる・・・参詣の道。南北朝時代、この街道筋は諏訪神党を中心に南朝。宗良親王を支持する勢力が多く、宗良親王も大河原に拠点を置いて長く住んだことから、別名”南朝の道”とも謂われ、宗良親王に関する遺跡も多い。三州街道の八幡宿(飯田市松尾八幡)から、追分になって、ここにも秋葉街道があり、遠山辺りで秋葉古道に合流する。どちらも秋葉街道の名を譲らないところから、八幡・遠山の秋葉街道は、繋ぎ秋葉街道とか新秋葉街道とかの意味に解したい。なお、秋葉街道は、青崩峠の手前で、自動車の道が消え、青崩峠の向で自動車の道が復活するという、日本で唯一の”途切れ”国道であるそうだ。

松尾小笠原家・系譜

小笠原政康 ・守護
・光康     ・守護
・家長
・定基(貞基)・府中小笠原に敗北、武田方へ逃げる・廃家
・貞忠    ・・松尾小笠原家再興、武田の信濃侵攻による
・信貴
・信嶺    ・・家康家臣、移封で武蔵本庄藩主
-------- 家康の関東移封 ---------------------
・信之    ・・三河吉田城主酒井忠次の子、養子、武蔵本庄藩主、下総古河初代藩主
・政信    ・・下総古河藩二代藩主、下総関宿藩初代藩主
・貞信    ・・下総関宿藩二代藩主、美濃高須藩主、越前勝山藩初代藩主
・清信
・信秀
・信辰    ・・越前勝山藩二代藩主
・信成    ・・越前勝山藩三代藩主
・信胤    ・・越前勝山藩四代藩主
・信房    ・・越前勝山藩五代藩主
・長教    ・・越前勝山藩六代藩主
・長貴    ・・越前勝山藩七代藩主
・長守    ・・越前勝山藩八代藩主
・長育    ・・明治維新で子爵、東宮侍従
・・以下略

・・・未完

   
                  

小笠原家の十三代当主 宗康のこと

2014-02-09 20:49:27 | 歴史

小笠原宗康

-------------
時代 室町時代
生誕 不明
死没 文安3年(1446年)
別名 松尾五郎(通称)
官位 大膳大夫
幕府 室町幕府信濃守護
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原政康
兄弟 宗康、光康
子 政秀
-------------

鈴岡小笠原家の祖。

小笠原 宗康は室町時代の守護大名。信濃守護、小笠原氏当主。小笠原政康の長男。

嘉吉2年(1442年)に父が死去、小笠原氏惣領職をめぐって宗康と従兄(伯父の小笠原長将の子)の小笠原持長との間で争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐(嘉吉の乱)でも功績があり、幕府の実力者・管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。しかし、現状を鑑みれば、在京期間が長く、信濃と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され宗康が信濃守護職に任命された。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。

文安3年(1446)、宗康は弟の光康に後援を頼み、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと約束し、漆田原で持長軍と戦ったが敗れ、戦死した。(漆田原の戦)。

漆田原の戦・・・
漆田原の戦とは、室町時代に起きた信濃守護家の後継をめぐる内紛である。
文安3年(1446)、小笠原宗康は父の小笠原政康から家督を相続していたが、従兄の小笠原持長との間で相続をめぐる争いになった。宗康は弟の光康に自身が万一討死の際は家督を譲り渡す条件で協力の取り決めをして漆田原(長野市駅付近)での持長軍との合戦に臨んだが敗死。持長は宗康を討取ったが家督を手中にすることが出来なかった。その後対立は子らの代にまで続いた。この後小笠原家は三家に分裂。以後、三家は、小笠原家棟梁の座を争い、血みどろの戦いに突入していく。

小笠原宗康は、松尾五郎と呼ばれた。小笠原家の嫡男にもかかわらず、なぜに別家を分立したのか。居館・としての松尾館に飽きたらず、城郭として適した地に城を建てたのかも知れない。府中井川に選択枝がなかったのは持長が理由なのか、しかし詳細は不明。小笠原家の解説の書の多くは、府中小笠原家を宗家(棟梁)とするが、それは正しくない。少なくとも小笠原家三家鼎立の時までは松尾小笠原が宗家であることを、歴史が示している。もっとも、この時点までは、小笠原家の宗家が松尾であることが、了解の事項であったため、敢えて松尾小笠原とはことわった著述がないのは理である。

従って、以後においては、三家分立を前提とし、それぞれの小笠原家に、居館のある土地名を冠にした家名で記述するのが、とりあえずは正しい方であると思う。逆に言えば、宗康以前に小笠原三家を土地名を冠に言うのは不自然である。・・・松尾小笠原、鈴岡小笠原、府中小笠原の三家のことである。四家目の京都小笠原は、多少異質の性格を持つので、三家とは別枠と考えた方が整理がいいように思う。


小笠原家の十二代当主 政康のこと

2014-02-09 14:35:24 | 歴史

小笠原政康

------------------
生誕 天授2年/永和2年(1376年)
死没 嘉吉2年8月9日(1442年9月22日)
官位 右馬助、治部大輔、大膳大夫、信濃守
幕府 室町幕府信濃守護
主君 足利義持→義量→義教→義勝
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長基
兄弟 長将、長秀、政康
子   宗康、光康
-------------------

小笠原 政康

概略・・・

 政康は応永12年(1405)に兄から家督と小笠原氏の所領を譲られ、駿河の今川氏と共に応永23年(1416に関東で発生した上杉禅定の乱鎮定に出陣、関東の抑え役として将軍義持から重用され、応永32年(1425)に信濃守護職に任命された。・・・信濃の支配権確立にも取り組み、広沢寺・筑摩神社を開基、影響8年(1436)に鎌倉公方と通じて幕府への抵抗を試みた村上頼清と芦田氏討伐を果たし、将軍義教から感状を授かった。永享の乱・結城合戦にも参戦。・・・嘉吉2年(1442)、海野で死去。享年67。長男の宗康が後を継いだ。しかし、嘉吉の乱で義教が暗殺された後に畠山持国が台頭、甥で長兄長将の子の持長が持国の支持を背景に相続を主張、国人も2派に分かれて抗争、小笠原氏は分裂状態で混乱、信濃の支配に動揺をきたし漆田原の戦を起こすことになった。・・・小笠原一族の勢力争い・府中と松尾の抗争は、京都幕府内の勢力争いの代理戦争の影が色濃く出ている。

信濃が再び小笠原氏の領国になるのは長秀の弟政康が守護に任命された応永32年(1425)である。・・・。この政康の歴史記述は、意外にも簡潔なものとなっているが、歴史の前後を眺めると、果たした役割はかなり大きい。政康より前の時代、建武の新政以降、信濃国は北条残党が多く、新政の幕府に対して諏訪神党を中心に反抗の歴史であり、また続いた南北朝期には北条残党が南朝に与した争乱の時代であった。この争乱の収拾は、南北朝が総力をかけた桔梗ヶ原(塩尻)の戦い(1400年)であった。この戦いは北朝・幕府側・主力の小笠原守護家の勝利で幕が引いたが、まだ北条残党は勢力を残していた。政康の守護の時代に結城合戦(1440)が起こった。この合戦に、幕府側の守護小笠原政康は、信濃国の武士を引き連れて参戦している。

以下結城合戦の詳細・・・

小笠原政康は、信濃守護として国人に軍勢催促状を出し出陣を強いた。その様子が結城合戦に参陣した武士の記録『結城陣番帳』に記録。
 「(上略)従公方様(義教) 陣中奉行儀、小笠原大膳大夫被仰付、任上意之旨、国国諸侍関東在陣之間、小笠原大膳大夫可任下知之由、被仰出候者也(下略)」とあり、信濃武士の多くを参陣させ、政康は陣中奉行として国人衆を指揮した、とある。
 信濃の国人衆は政康の指揮下、幕府軍の陣中警護と矢倉の番として、30番組に編成され1昼夜毎の勤番に就いた。壱番が小笠原五郎(宗康)殿、2番が高梨殿、3番が須田殿、4番が井上殿、8番に村上殿代屋代殿、10番が海野殿、11番が藤沢殿、牧城主10代目の香坂徳本は、12番組であった。14番に諏訪信濃守殿、大原(草)殿代、中沢殿代、甲斐沼殿代の名が並ぶ。16番に諏訪兵部大輔殿、知久殿、伴野殿、今田殿の名がみられる。27番では大井三河守殿、同河内守殿、同対馬守殿、祢津遠江守殿、生田殿、関屋殿で一番を組んでいる。30番まで、信濃勢3千余騎とある不参加のものもあったが、当時の信濃武士の殆どの名が連ねられている。

この結城陣番帳記載の、北条残党と南朝側の人脈を確認すれば、かっての経緯を棄て、小笠原守護政康の組下に属した事実が確認され、漸く南北朝争乱が終止符を打ったことが理解出来る。この間の政康が行った国人衆を幕府従属させた方法についての記載は確認されていない。武力によって服従させたのか、領土押収の既成事実を安堵して懐柔したのか、定かではないが、結果の後世をみると、後者の方が可能性が高い。

結城陣番帳の詳細資料 参照:伊奈忠次(関東代官頭)の伊奈の由来!?・・・

こうして、信濃統一を成し遂げた政康は、父・長基の遺言のとおり、宗家松尾小笠原家は光康に、守護職は宗康に相続したものと思われる。宗康が、なぜに鈴岡家を分立したか、の詳細は不明。


 

 


小笠原家 十一代当主 長秀のこと

2014-02-06 02:39:49 | 歴史

 小笠原長秀

小笠原長秀
時代 南北朝時代
生誕 貞治5年/正平21年9月18日(1366年9月18日)
死没 応永31年3月15日(1424年3月15日)、59歳
改名 豊若丸
別名 通称は又次郎
官位 信濃守、信濃国守護(応永6年・1399年)
幕府 室町幕府
氏族 府中小笠原氏
父母 父:小笠原 母:畠山基国の女
兄弟 長将、政康

著作に「犬追物起源」

小笠原長秀・・・
長秀は、幼少の時、松尾家?から京都足利幕府に出仕し、足利義満の小姓として仕え、大変信頼されていたことが書中で覗われます。小笠原家の当主で兄の長将が亡くなると、幕府は信濃守護を長将から幕府直轄にしますが、これでは中小豪族の犇めきあう北信濃は治まりません。将軍義満はここで信頼厚い長秀に信濃守護を補任します。1399年、信濃守護・小笠原長秀の誕生です。漸く小笠原家に信濃守護が戻ってきたわけです。

大塔合戦(=大文字一揆)

○直接の原因・・・応永6年(1399)、小笠原長秀は将軍義満から信濃国守護に任命。就任直後には反発した長沼の島津国忠が守護方の赤沢秀国、櫛置清忠らと石和田(長野市朝陽)付近で抗争。
・応永7年(1400)7月3日、京都を出発した小笠原長秀は同族の大井光矩(佐久)のもとを経由し、信濃国の強者・村上満信には使者を送って協力を求め、東北信の国人領主に対して守護としての政務開始を通告。その中心地・善光寺に一族郎党200騎余を従える煌びやかな行列を組んで入る。そして信濃の国人領主達を召集して対面。この対面は、相当に高圧的なものだったと伝えられている。・・・国人領主達が反発。
・守護就任に反感の犀川沿岸、栗田氏や小田切氏、落合氏、香坂氏ら大文字一揆衆は窪寺氏のもとに集まり談合したが、この時は推移を見守ることとした。
・ちょうど収穫の時期の近隣の川中島で、守護の所領として年貢の徴収を開始する。
・川中島は本来小笠原氏の所領であったが、当時は村上氏が押領。押領を既成事実化していた国人領主達は認めがたく、多くの国人領主達を反小笠原に決定づけることとなった。

○戦局・・・守護小笠原氏に反旗を翻したのは、村上氏のほかに中信の仁科氏・東信の海野氏や根津氏を始めとする滋野氏一族・北信の高梨氏や井上氏、島津氏など大半の国人衆で、小笠原氏に加勢したのは一族以外では元々地盤としていた南信地方の一部の豪族たちだけだったとされる。また小笠原一族内でも、長秀の高圧的な態度に反発して参陣しなかった者が続出したとされる・・・後に仲介役となる大井氏など、ほぼ半数が加勢しなかったとされる。
長秀の下に集まった小笠原勢は800騎余りで、善光寺から横田城へ兵を進めた。対する国人衆(=大文字一揆)は、篠ノ井の岡に500余騎(村上氏)、篠ノ井塩崎上島に700余騎(佐久地方の国人衆)、篠ノ井山王堂に300余騎(海野氏)、篠ノ井二ッ柳に500余騎(高梨氏、井上氏一族など須坂・中野地方の国人衆)、方田ヶ先石川に800余騎(仁科氏、根津氏など大文字一揆衆)が布陣したとの記載がある。この時の実際の兵力の対比は、4000対10000だったと言われる(騎と兵の関係式から)。・・この状況に横田城では防御不能と見た長秀は、一族の赤沢氏の居城である塩崎城へ脱出を試みるが、途中で発見され、実際塩崎城に辿り着けたのは長秀以下僅か150騎のみ。途中で、300騎余りが大塔の古城に辛うじて逃げ込んだ。しかし、食料はなく、籠城の準備もないため、悲惨な結果が待っていた。援軍も無い小笠原守護の軍は、取り囲まれて、餓えと孤立で、全員が自害か討死して果てる。・・更に長秀が逃げ込んだ塩崎城も攻撃を受け、同族で守護代の大井光矩が仲介の手を差し伸べたことで辛くも窮地を脱し、長秀は京都に逃げ帰った。
・・・翌年の応永8年(1401)に小笠原長秀は幕府から信濃守護職を解任され、信濃は幕府直轄領となった。
・・信濃が再び小笠原氏の領国になるのは長秀の弟政康が守護に任命された応永32年(1425)である。
・・小笠原長秀には実子がなかった為、府中小笠原持長(長将の嫡男)が自分に相続権があると主張した。ここに文安3年(1446)府中小笠原家と松尾小笠原家の、宗家を巡る争いが始まった。信濃国守護・小笠原政康(松尾)が病死して次の世代宗康(松尾)が相続すると、対立は激化していく。

・・・小笠原長基の遺言「「小笠原家の事は宗康と光康に任せる。伊賀良荘は光康に与える。また、もし兄の長秀に実子ができればこの遺言状は無効であり、政康に実子がない場合は兄の長将の嫡男に譲るものとする」・・・この遺言の矛盾は、政康の子・兄宗康・弟光康がすでに存在していた時の遺言で、後の確認で宗康に子ができなかったことから、正しくは政康は宗康の誤記と思われる。尚宗康を継いだのは政秀。

その時の小笠原家相関図

【小笠原三家】

 長基-----長秀

    ----長将---持長---清宗---長朝---貞朝---長棟---長時---貞慶 (府中家)

    ----政康---光康---家長---定基---貞忠---信貴---信嶺 (松尾家)

          |--宗康---政秀 (鈴岡家)

・・・。さらに、宗康の子の光康が松尾小笠原家を継ぐと、兄の宗康は、鈴岡に別家を立てて、鈴岡小笠原家の祖となが、宗康は早世したようで、正秀が鈴岡小笠原家を継ぐ。ここに館だった松尾陣屋は城郭を整え直し、松尾小笠原家を再確認する。三小笠原家の鼎立で、泥沼の小笠原家の内訌が始まる。
・・・この様子は次の様に描かれている・・・小笠原持長は府中(松本)を基盤とし、小笠原宗康は伊賀良を基盤としていました。しかし、小笠原長秀には実子ができなかった為、持長が長将の嫡男である自分に相続権があると主張したことにより、政康の嫡男である宗康との間に相続争いが発生しました。・・文安3年(1446)になると両者の戦闘が開始され、宗康は決戦を覚悟して弟光康に惣領職と所領の一切を譲り、戦闘に全力を注ぎましだ。当初は宗康勢が優勢でしたが、善光寺付近での合戦で持長に破れると、持長軍が優勢となり、宗康は討ち取られてしまいました。・・これにより小笠原家は、府中と鈴岡(小笠原政秀)と松尾(小笠原光康)の3つの勢力に分裂し、以後三家の対立は深まっていきました。・・・

ちょっと道草・・・大塔合戦の時、小笠原長秀側で参戦していた坂西長国について、苗字読みを「バンザイ」とする説があるが、たぶんこれは間違いであろうと思われる。松尾小笠原家の分家・坂西家は、小笠原貞宗の三男宗満が貞宗より、郊戸庄(現・飯田)へ分家し、坂西家を名乗ったことに始まる。坂西家は、信長の信濃攻めの時代まで続き、現飯田城の創生は坂西家で、菩提寺も存続している。坂西の読みは「さかにし」で、二代坂西由政の次男・坂西長国があった。彼は勇猛な人で、かつ人望の厚い武士であったそうな。坂西家と溝口家は、ほぼ松尾小笠原家と運命をともにしながら、行動したようだ。・・・

*騎と兵の関係式・・・騎は馬上の武士、兵はお供の徒兵。騎は全体の1~2割と言われていますが正確な決まりはなかったようです。それに両雄均衡の場合、1発功を上げて、褒美にありつこうとした輩も雑兵として参加したようです。一般に、500の騎兵と言えば、兵力は5倍程度で2500人、雑兵も入れれば3000~4000人の兵力徒見ることが出来ます。

 


小笠原家 十代当主 長将のこと 

2014-02-06 02:11:29 | 歴史

 ・・小笠原長将

 

小笠原長将
時代 南北朝時代
生誕 不詳
死没 不詳
改名 不詳
別名 不詳
官位 信濃守・守護
幕府 室町幕府
氏族 府中小笠原氏
父母 父:小笠原長基
兄弟 長秀、政康

長利

概容・・・

信濃国守護・長将・・短期ではあるが守護職を任じられている。その後業績など歴史に記載がないところを見ると戦死か病死で、早くに亡くなったものと思われる。長将の子の長利は、府中小笠原家の当主として、その後に起こる小笠原家の内訌の主役になっている。

十一代長秀に入る前に、その頃の小笠原家と信濃国の状況を・・・

大塔合戦の前の状況
・・・信濃小笠原氏誕生の時代背景
・・早期の小笠原家の庶流(別家筋)に伴野氏と大井氏がある。伴野氏は東信・岩村田を拠点として栄えたが、霜月騒動で没落する。大井氏は、佐久の大井郷を拠点にして栄え、小笠原宗家が守護を勤める時、東信地方の守護代を務めたとされる。
・・小笠原長径の系流は、鎌倉時代の京行政府の枢要な官人を輩出する吏僚一族となる。その一例は六波羅探題の奉行人などで、
その業績で阿波守護職・小笠原の系統になり、細川管領家と深く繋がる。
・・京都の官僚一族であった小笠原家は、はじめに、六波羅の命により、楠木正成が拠る赤坂城の攻撃軍に加わっていた。
しかし京都小笠原系の宗長・貞宗父子は、後醍醐天皇の鎌倉幕府追討の旗を揚げ決起を促すと、綸旨を受けて足利尊氏が裏切り、尊氏が宗長を誘う書状により天皇方に寝返った。・・そして、小笠原宗長は、元弘の変以来、一貫して足利尊氏に属した。・・そして建武の新政がなると、その功績で小笠原貞宗が初めて信濃守護に任じられ信濃へ下向したが、領地や支持基盤も実績もない状況下であった。小笠原宗長・貞宗父子に鎌倉末期までの時点、信濃に所領があったという史料がない。ほぼ孤立無援で、そのなかで佐久の小笠原一族・大井氏が信頼するに足る強力な在地勢力であった。大井氏の協力で、小笠原政長・長基と守護職を引き継ぎ、北条残党を掃討し、信濃全域に勢力を及ぼすに至った。初めは伊那郡の伊賀良荘を領有し、次ぎに南安曇野郡三郷村の住吉荘・近府春近領、島立・小池・塩尻・新村南方を得て、拠点を松尾館から府中の井川館に移し、府中松本を中心に一族勢力を展開した。・・小笠原氏は、その後も足利幕府に協力し所領を拡大し、守護権を名実共に強化し領国支配を布く勢いとなった。・・・応永6年(1399)5月10日、将軍足利義満から「信濃国春近領下地の事一円宛行うところなり」と御教書を得て、春近領全域を領知した。・・・小笠原長秀の信濃守護の補任の時である。
 大塔合戦直前の小笠原氏の所領は
 伊那郡・・伊賀良庄・福地・片切・田島・小井弖(伊那)・二吉(伊那)・赤須(伊那)・名子(伊那)の緒郷
 筑摩郡・・浅間・二子・塩尻・小池(近府春近領)・島立・新村南方(近府春近領)の緒郷
 安曇郡・・住吉庄・大和田郷・大妻南方
 更級郡・・小嶋田郷・船山郷(春近領)
 佐久郡・・沓沢郷
 水内郡・・志津間郷
 高井郡・・志久見郷(春近領)闕所分
 ・・・小笠原氏の所領はの北条得宗家一族の旧所領と国衙領がほとんどである。

 詳細・・
 信濃国内の北条闕所地・・(嘉歴4(1329)年の史料)
 ・伊賀良庄が江間遠江前司(江間流北条氏)後家以下、
 ・四宮庄が金沢時顕跡、
 ・筑摩郡松本の国府周辺の棒荘が北条英時、
 ・安曇郡住吉庄(安曇郡三郷村・梓川村・豊科町)が大妻兼澄の所領、
  ・・・兼澄は承久の乱に際し後鳥羽上皇方で討死、乱後没収され北条得宗一族の所領、
 ・「春近領」とは、鎌倉幕府草創期「春近」という名称で設立した所領で、将軍家を本所とする関東御領のこと、
  ・・・信濃・近江・美濃・上野・越前・肥後などに分布する。
  ・・・信濃国内には、近府春近、伊那春近、奥春近のこと
   ・・・近府春近領は、松本市、塩尻市、旧梓川村にある島立・小池・塩尻・新村南方など6郷、
   ・・・伊那春近領は、現在の伊那市から下伊那郡松川町に及ぶ天竜川沿いの広大な領域、
   ・・・奥春近領は船山郷・志久見郷など諸所に散在、
  ・・・信濃春近領は北条得宗家守護管轄領で、守護の所職と不可分の「狭義の守護領」もあったという。

北条氏守護が国衙に在庁し国司の任も兼任。属する武士も御家人化していた。
・・国衙領は北条氏一族の総所領の50%程度といわれ、その権益は莫大であった。
・・鎌倉幕府倒壊後、伊賀良庄・小泉庄・塩田庄のように早期に建武政権が新知領有の宛行状を発してあれば問題はない、
・・それ以降は、近郷の豪族が浸食し、所領を既成事実化しようとした。
・・・小笠原氏守護方は室町幕府公認の所職権益者として、浸食者の排除にかかる。
以上が、北条の恩恵を受けた信濃武士の、中先代の乱を代表とする戦乱の、裏側の経済的理由の面であり、この幕府への抵抗は、南北朝時代の北朝=幕府への抵抗であり、論理は「敵の敵は味方」という実利主義に基づく。

小笠原氏は南北朝以後、伊那を本拠に、かつての国衙領が多くを占める松本筑摩から北信地方まで所領を拡大していた。大塔合戦は、新任守護の小笠原長秀が、その所領地拡大で、善光寺・上田・佐久盆地の穀倉地帯にまで触手を伸ばしたのが起因とも言われている。国人一揆の有力諸士の支配領域と重なっていた。・・・当然足利義満の厳命が背景にあった。


小笠原家 九代当主 長基のこと

2014-02-03 09:19:40 | 歴史

 小笠原長基

小笠原 長基

時代 南北朝時代
生誕 正平2年/貞和3年1月27日(1347年3月9日)
死没 応永14年10月6日(1407年11月5日)
改名 豊松丸、孫次郎
別名 兵庫の介

官位 信濃守 信濃国守護 飛騨越中遠江三国管領

幕府 室町幕府
氏族 府中小笠原氏・松尾小笠原氏
父母 父:小笠原政長
  長将、長秀、政康

*嫡子・長男の長将は一旦は小笠原氏の家督を継いだようだが、応永12年(1399)には長秀が信濃守護として下向していることから、早世したものとみられる。長秀が治世に失敗すると、政康が相続し信濃守護を継承する。

*政康・松尾小笠原家創設・政康の子・光康が松尾家。それまで政康の祖父・宗長と長将、長秀、政康と松尾に陣屋を構えていたが、長将が早世、長秀が守護を失敗し京都に逃げたので政康が継承し、松尾城を城郭にしたようだ。政康の子光康の兄・宗康が鈴岡家に分立する。弟・光康が松尾城主になる。この間の府中を含めた松尾、鈴岡の分割相続の理由が、今一つ分からない。府中に貞宗が赴いた理由は、新領となった近府春近荘の周囲が在郷の豪族で既得権防衛で騒がしかったため、実績のある貞宗が府中に言ったのだろう。伊賀良荘の分割・・松尾(宗家・政康)、鈴岡(宗康)、坂西(郊戸荘=飯田)は、顕かに小笠原一族の力を弱くしている。分割相続・・分かつべ所領がなくなる・・下克上の始まりの予兆。

概略・・・

観応の擾乱終結後の正平7年/観応3年(1352)、父政長から家督と信濃守護職を譲られて当主となった。しかしこの時長基はまだ5歳。実権は父が握っていたものと思われる。・・・長基が家督を継承した時期における信濃は、新田氏をはじめとする反幕府・反守護勢力が多く存在し、各地で紛争中。その中でも特に、大河原を拠点として活動している宗良親王の存在は、小笠原氏にとって無視できないものであった。正平10年/文和4年(1355)、宗良親王が諏訪氏・仁科氏ら反守護勢力を結集して挙兵すると、長基・政長は武田氏や上杉氏の助力も得て鎮圧に成功し、南朝方を圧倒した(桔梗原の戦い)。・・・正平20年/貞治4年(1365)3月に父政長が死去し、長基は名実ともに小笠原氏の当主となった。・・・翌年(1366)、幕府は信濃守護を長基から上杉朝房に交代させたが、その後も長基は朝房や国人衆とともに活動を行なっており、信濃における軍事力の指揮権は維持していたものとみられる。その一例として、元中4年/嘉慶元年(1387)、長基は朝房に代わって信濃守護に任じられた斯波義種と善光寺平を争っている。・・・時期は不明だが、家督を次男の長秀に譲った。それと同時に長秀は信濃守護に任じられたが、信濃の統治に失敗し、応永7年(1400)に反乱を起こした国人衆に大敗した(大塔合戦)。なお、この頃の長基・長秀父子の間には何らかの齟齬があったらしく、大塔合戦が勃発したときも京都にいた長基は何の行動も起こしていないとされる。・・・長基は1407年11月に病没。享年61。次男の長秀は大塔合戦の一件により失脚していたため、小笠原氏は三男の政康が継いだ。
 

長基の時代・・・

諏訪上下社の室町幕府への帰属 ・・・桔梗ケ原の合戦は小笠原氏の大勝利で、以後、信濃のおける南朝方勢力は衰退し、幕府政治が浸透していった。・・・ところが信濃国は、鎌倉公方足利氏の支配下に置かれ、関東管領上杉朝房が信濃守護に任命された。小笠原氏は不本意。以後、信濃国は幕府管理下に戻ったが、守護職は斯波氏が応安5年(1398)まで就任。軍事指揮権は事実上、小笠原氏が掌握していた。・・・ ”反尊氏”で、宗良親王を助け、足利幕府と戦い続けてきた南朝方は再興の可能性がなく、遂に下社方は脱落。正平18年(1363)、矢島正忠の守護・小笠原長亮(長基?)と桔梗が原で戦った記録・「沙弥道念覚書」の末尾に「この合戦に下之金刺・山田馳せ加わらず、如何に如何に」と衝撃的な寝返りを述べている。・・・三代将軍・義満の時代なると、南北朝合一がなり、幕府体制は絶対的専制となり上社も対抗するすべを失った。応永5年(1372)、諏訪頼貞が将軍義満から小井川と山田の2郷を与えられている。この時代、信濃国は鎌倉公方の管轄下であった。 至徳3年(1386)、翌年の御射山祭差定には、「聖朝安穏、天地長久、殊には征将軍の宝祚延長を奉為(たてまつらんがため)に、別しては国事泰平、人民豊永の故なり」と記され、「宝祚」とは「皇位」の意であるから、上社は将軍義満を事実上の日本国王と見なしていた。この時点では、既に南朝側のリーダー・諏訪上社は、足利幕府に敵対の意志を放棄したと見よい。時は至徳三年(1386)のこと。まだ野には南朝の残党は居たが、リーダーは不在になった。・・・桔梗ヶ原の戦い(1355)が終わって、二年後守護小笠原政長は没し、名実とも小笠原長基の時代になった。しかし若年の長基は、幕府に見くびられ、信濃守護職は九年で交替させられ、上杉家、斯波家が任命されていくことになる。

小笠原政長が没した(1357)以後、実質的な小笠原家当主になった長基だが、15歳頃(1364)守護職を交替させられている。信濃守護になった上杉家と斯波家の下で、実質的な軍事力を行使したのは小笠原長基であった。しかし、上杉家と斯波家が信濃守護の時代は、統治がうまくいかず、村上家や北信濃の豪族の跋扈を許したようである。この期間は、守護でない長基の時代だが、心中は如何だったのだろうか。そうして、応永六年(1399)、長基の子長秀が信濃守護に任命され、小笠原氏のもとに守護職が戻ってきた。長秀に当主を譲った長基は京都に引退することになる。・・・ここの部分の経緯は、多少複雑なようである。その証拠に、信濃守護・小笠原長秀が赴任して起こった「大塔合戦」は、長秀の大敗北に終わるが、京都にいた長基は、長秀援助で一切動かなかったそうだ。

長基の守護職解任の裏事情・・・

正平20年(1365)頃、京都の幕府管理下にあった信濃国が、鎌倉公方足利基氏の支配下に置かれるようになった。この頃守護職は、鎌倉公方の推薦によって幕府が任命する例となり、関東管領上杉朝房が信濃守護を兼任した。信濃国は東山道からの関東の入口として、鎌倉府防衛の要所であるため、以後も度々鎌倉府の管轄下に入った。守護小笠原長基にとって、不本意な解任であった。しかし幕府は鎌倉府を牽制する狙いもあって、長基に兵粮料所の給付権を与え、その軍事指揮権を保持させ、信濃守護上杉朝房と拮抗させた。兵粮料所とは、平安末期から南北朝期にかけて、戦乱の際にとくに指定されて兵粮米徴収の対象となった公領・荘園所領のことをいう。やがて南北朝内乱が激化すると、以前のように朝廷からの承認を得ず、各国守護が軍費調達、恩賞給付を口実に兵粮料所を濫設した。・・・長基が、守護を解任された後も力を保持できた理由は、上記の事情による。