探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原家 十一代当主 長秀のこと

2014-02-06 02:39:49 | 歴史

 小笠原長秀

小笠原長秀
時代 南北朝時代
生誕 貞治5年/正平21年9月18日(1366年9月18日)
死没 応永31年3月15日(1424年3月15日)、59歳
改名 豊若丸
別名 通称は又次郎
官位 信濃守、信濃国守護(応永6年・1399年)
幕府 室町幕府
氏族 府中小笠原氏
父母 父:小笠原 母:畠山基国の女
兄弟 長将、政康

著作に「犬追物起源」

小笠原長秀・・・
長秀は、幼少の時、松尾家?から京都足利幕府に出仕し、足利義満の小姓として仕え、大変信頼されていたことが書中で覗われます。小笠原家の当主で兄の長将が亡くなると、幕府は信濃守護を長将から幕府直轄にしますが、これでは中小豪族の犇めきあう北信濃は治まりません。将軍義満はここで信頼厚い長秀に信濃守護を補任します。1399年、信濃守護・小笠原長秀の誕生です。漸く小笠原家に信濃守護が戻ってきたわけです。

大塔合戦(=大文字一揆)

○直接の原因・・・応永6年(1399)、小笠原長秀は将軍義満から信濃国守護に任命。就任直後には反発した長沼の島津国忠が守護方の赤沢秀国、櫛置清忠らと石和田(長野市朝陽)付近で抗争。
・応永7年(1400)7月3日、京都を出発した小笠原長秀は同族の大井光矩(佐久)のもとを経由し、信濃国の強者・村上満信には使者を送って協力を求め、東北信の国人領主に対して守護としての政務開始を通告。その中心地・善光寺に一族郎党200騎余を従える煌びやかな行列を組んで入る。そして信濃の国人領主達を召集して対面。この対面は、相当に高圧的なものだったと伝えられている。・・・国人領主達が反発。
・守護就任に反感の犀川沿岸、栗田氏や小田切氏、落合氏、香坂氏ら大文字一揆衆は窪寺氏のもとに集まり談合したが、この時は推移を見守ることとした。
・ちょうど収穫の時期の近隣の川中島で、守護の所領として年貢の徴収を開始する。
・川中島は本来小笠原氏の所領であったが、当時は村上氏が押領。押領を既成事実化していた国人領主達は認めがたく、多くの国人領主達を反小笠原に決定づけることとなった。

○戦局・・・守護小笠原氏に反旗を翻したのは、村上氏のほかに中信の仁科氏・東信の海野氏や根津氏を始めとする滋野氏一族・北信の高梨氏や井上氏、島津氏など大半の国人衆で、小笠原氏に加勢したのは一族以外では元々地盤としていた南信地方の一部の豪族たちだけだったとされる。また小笠原一族内でも、長秀の高圧的な態度に反発して参陣しなかった者が続出したとされる・・・後に仲介役となる大井氏など、ほぼ半数が加勢しなかったとされる。
長秀の下に集まった小笠原勢は800騎余りで、善光寺から横田城へ兵を進めた。対する国人衆(=大文字一揆)は、篠ノ井の岡に500余騎(村上氏)、篠ノ井塩崎上島に700余騎(佐久地方の国人衆)、篠ノ井山王堂に300余騎(海野氏)、篠ノ井二ッ柳に500余騎(高梨氏、井上氏一族など須坂・中野地方の国人衆)、方田ヶ先石川に800余騎(仁科氏、根津氏など大文字一揆衆)が布陣したとの記載がある。この時の実際の兵力の対比は、4000対10000だったと言われる(騎と兵の関係式から)。・・この状況に横田城では防御不能と見た長秀は、一族の赤沢氏の居城である塩崎城へ脱出を試みるが、途中で発見され、実際塩崎城に辿り着けたのは長秀以下僅か150騎のみ。途中で、300騎余りが大塔の古城に辛うじて逃げ込んだ。しかし、食料はなく、籠城の準備もないため、悲惨な結果が待っていた。援軍も無い小笠原守護の軍は、取り囲まれて、餓えと孤立で、全員が自害か討死して果てる。・・更に長秀が逃げ込んだ塩崎城も攻撃を受け、同族で守護代の大井光矩が仲介の手を差し伸べたことで辛くも窮地を脱し、長秀は京都に逃げ帰った。
・・・翌年の応永8年(1401)に小笠原長秀は幕府から信濃守護職を解任され、信濃は幕府直轄領となった。
・・信濃が再び小笠原氏の領国になるのは長秀の弟政康が守護に任命された応永32年(1425)である。
・・小笠原長秀には実子がなかった為、府中小笠原持長(長将の嫡男)が自分に相続権があると主張した。ここに文安3年(1446)府中小笠原家と松尾小笠原家の、宗家を巡る争いが始まった。信濃国守護・小笠原政康(松尾)が病死して次の世代宗康(松尾)が相続すると、対立は激化していく。

・・・小笠原長基の遺言「「小笠原家の事は宗康と光康に任せる。伊賀良荘は光康に与える。また、もし兄の長秀に実子ができればこの遺言状は無効であり、政康に実子がない場合は兄の長将の嫡男に譲るものとする」・・・この遺言の矛盾は、政康の子・兄宗康・弟光康がすでに存在していた時の遺言で、後の確認で宗康に子ができなかったことから、正しくは政康は宗康の誤記と思われる。尚宗康を継いだのは政秀。

その時の小笠原家相関図

【小笠原三家】

 長基-----長秀

    ----長将---持長---清宗---長朝---貞朝---長棟---長時---貞慶 (府中家)

    ----政康---光康---家長---定基---貞忠---信貴---信嶺 (松尾家)

          |--宗康---政秀 (鈴岡家)

・・・。さらに、宗康の子の光康が松尾小笠原家を継ぐと、兄の宗康は、鈴岡に別家を立てて、鈴岡小笠原家の祖となが、宗康は早世したようで、正秀が鈴岡小笠原家を継ぐ。ここに館だった松尾陣屋は城郭を整え直し、松尾小笠原家を再確認する。三小笠原家の鼎立で、泥沼の小笠原家の内訌が始まる。
・・・この様子は次の様に描かれている・・・小笠原持長は府中(松本)を基盤とし、小笠原宗康は伊賀良を基盤としていました。しかし、小笠原長秀には実子ができなかった為、持長が長将の嫡男である自分に相続権があると主張したことにより、政康の嫡男である宗康との間に相続争いが発生しました。・・文安3年(1446)になると両者の戦闘が開始され、宗康は決戦を覚悟して弟光康に惣領職と所領の一切を譲り、戦闘に全力を注ぎましだ。当初は宗康勢が優勢でしたが、善光寺付近での合戦で持長に破れると、持長軍が優勢となり、宗康は討ち取られてしまいました。・・これにより小笠原家は、府中と鈴岡(小笠原政秀)と松尾(小笠原光康)の3つの勢力に分裂し、以後三家の対立は深まっていきました。・・・

ちょっと道草・・・大塔合戦の時、小笠原長秀側で参戦していた坂西長国について、苗字読みを「バンザイ」とする説があるが、たぶんこれは間違いであろうと思われる。松尾小笠原家の分家・坂西家は、小笠原貞宗の三男宗満が貞宗より、郊戸庄(現・飯田)へ分家し、坂西家を名乗ったことに始まる。坂西家は、信長の信濃攻めの時代まで続き、現飯田城の創生は坂西家で、菩提寺も存続している。坂西の読みは「さかにし」で、二代坂西由政の次男・坂西長国があった。彼は勇猛な人で、かつ人望の厚い武士であったそうな。坂西家と溝口家は、ほぼ松尾小笠原家と運命をともにしながら、行動したようだ。・・・

*騎と兵の関係式・・・騎は馬上の武士、兵はお供の徒兵。騎は全体の1~2割と言われていますが正確な決まりはなかったようです。それに両雄均衡の場合、1発功を上げて、褒美にありつこうとした輩も雑兵として参加したようです。一般に、500の騎兵と言えば、兵力は5倍程度で2500人、雑兵も入れれば3000~4000人の兵力徒見ることが出来ます。

 


小笠原家 十代当主 長将のこと 

2014-02-06 02:11:29 | 歴史

 ・・小笠原長将

 

小笠原長将
時代 南北朝時代
生誕 不詳
死没 不詳
改名 不詳
別名 不詳
官位 信濃守・守護
幕府 室町幕府
氏族 府中小笠原氏
父母 父:小笠原長基
兄弟 長秀、政康

長利

概容・・・

信濃国守護・長将・・短期ではあるが守護職を任じられている。その後業績など歴史に記載がないところを見ると戦死か病死で、早くに亡くなったものと思われる。長将の子の長利は、府中小笠原家の当主として、その後に起こる小笠原家の内訌の主役になっている。

十一代長秀に入る前に、その頃の小笠原家と信濃国の状況を・・・

大塔合戦の前の状況
・・・信濃小笠原氏誕生の時代背景
・・早期の小笠原家の庶流(別家筋)に伴野氏と大井氏がある。伴野氏は東信・岩村田を拠点として栄えたが、霜月騒動で没落する。大井氏は、佐久の大井郷を拠点にして栄え、小笠原宗家が守護を勤める時、東信地方の守護代を務めたとされる。
・・小笠原長径の系流は、鎌倉時代の京行政府の枢要な官人を輩出する吏僚一族となる。その一例は六波羅探題の奉行人などで、
その業績で阿波守護職・小笠原の系統になり、細川管領家と深く繋がる。
・・京都の官僚一族であった小笠原家は、はじめに、六波羅の命により、楠木正成が拠る赤坂城の攻撃軍に加わっていた。
しかし京都小笠原系の宗長・貞宗父子は、後醍醐天皇の鎌倉幕府追討の旗を揚げ決起を促すと、綸旨を受けて足利尊氏が裏切り、尊氏が宗長を誘う書状により天皇方に寝返った。・・そして、小笠原宗長は、元弘の変以来、一貫して足利尊氏に属した。・・そして建武の新政がなると、その功績で小笠原貞宗が初めて信濃守護に任じられ信濃へ下向したが、領地や支持基盤も実績もない状況下であった。小笠原宗長・貞宗父子に鎌倉末期までの時点、信濃に所領があったという史料がない。ほぼ孤立無援で、そのなかで佐久の小笠原一族・大井氏が信頼するに足る強力な在地勢力であった。大井氏の協力で、小笠原政長・長基と守護職を引き継ぎ、北条残党を掃討し、信濃全域に勢力を及ぼすに至った。初めは伊那郡の伊賀良荘を領有し、次ぎに南安曇野郡三郷村の住吉荘・近府春近領、島立・小池・塩尻・新村南方を得て、拠点を松尾館から府中の井川館に移し、府中松本を中心に一族勢力を展開した。・・小笠原氏は、その後も足利幕府に協力し所領を拡大し、守護権を名実共に強化し領国支配を布く勢いとなった。・・・応永6年(1399)5月10日、将軍足利義満から「信濃国春近領下地の事一円宛行うところなり」と御教書を得て、春近領全域を領知した。・・・小笠原長秀の信濃守護の補任の時である。
 大塔合戦直前の小笠原氏の所領は
 伊那郡・・伊賀良庄・福地・片切・田島・小井弖(伊那)・二吉(伊那)・赤須(伊那)・名子(伊那)の緒郷
 筑摩郡・・浅間・二子・塩尻・小池(近府春近領)・島立・新村南方(近府春近領)の緒郷
 安曇郡・・住吉庄・大和田郷・大妻南方
 更級郡・・小嶋田郷・船山郷(春近領)
 佐久郡・・沓沢郷
 水内郡・・志津間郷
 高井郡・・志久見郷(春近領)闕所分
 ・・・小笠原氏の所領はの北条得宗家一族の旧所領と国衙領がほとんどである。

 詳細・・
 信濃国内の北条闕所地・・(嘉歴4(1329)年の史料)
 ・伊賀良庄が江間遠江前司(江間流北条氏)後家以下、
 ・四宮庄が金沢時顕跡、
 ・筑摩郡松本の国府周辺の棒荘が北条英時、
 ・安曇郡住吉庄(安曇郡三郷村・梓川村・豊科町)が大妻兼澄の所領、
  ・・・兼澄は承久の乱に際し後鳥羽上皇方で討死、乱後没収され北条得宗一族の所領、
 ・「春近領」とは、鎌倉幕府草創期「春近」という名称で設立した所領で、将軍家を本所とする関東御領のこと、
  ・・・信濃・近江・美濃・上野・越前・肥後などに分布する。
  ・・・信濃国内には、近府春近、伊那春近、奥春近のこと
   ・・・近府春近領は、松本市、塩尻市、旧梓川村にある島立・小池・塩尻・新村南方など6郷、
   ・・・伊那春近領は、現在の伊那市から下伊那郡松川町に及ぶ天竜川沿いの広大な領域、
   ・・・奥春近領は船山郷・志久見郷など諸所に散在、
  ・・・信濃春近領は北条得宗家守護管轄領で、守護の所職と不可分の「狭義の守護領」もあったという。

北条氏守護が国衙に在庁し国司の任も兼任。属する武士も御家人化していた。
・・国衙領は北条氏一族の総所領の50%程度といわれ、その権益は莫大であった。
・・鎌倉幕府倒壊後、伊賀良庄・小泉庄・塩田庄のように早期に建武政権が新知領有の宛行状を発してあれば問題はない、
・・それ以降は、近郷の豪族が浸食し、所領を既成事実化しようとした。
・・・小笠原氏守護方は室町幕府公認の所職権益者として、浸食者の排除にかかる。
以上が、北条の恩恵を受けた信濃武士の、中先代の乱を代表とする戦乱の、裏側の経済的理由の面であり、この幕府への抵抗は、南北朝時代の北朝=幕府への抵抗であり、論理は「敵の敵は味方」という実利主義に基づく。

小笠原氏は南北朝以後、伊那を本拠に、かつての国衙領が多くを占める松本筑摩から北信地方まで所領を拡大していた。大塔合戦は、新任守護の小笠原長秀が、その所領地拡大で、善光寺・上田・佐久盆地の穀倉地帯にまで触手を伸ばしたのが起因とも言われている。国人一揆の有力諸士の支配領域と重なっていた。・・・当然足利義満の厳命が背景にあった。