探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

府中(松本)の豪族 坂西氏

2014-02-25 05:55:00 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

坂西氏

 ・・松本城

写真は、国宝松本城です。ちなみに、国宝の城は、姫路城、犬山城 、彦根城と、この松本城の四つしかありません。しかし、坂西氏が城主を務めた深志城は松本城の前身で、それも、信濃守護の小笠原家の林城を守る、いくつかの支城の一つでしかありませんでした。

深志城城主 坂西氏

深志城主・坂西氏は謎に包まれています。まず、坂西の読み方について混乱が見られます。ある書では”サカニシ”と呼び、またある書では”バンザイ”と呼んでいます。また、歴史書の記載は、”深志城主坂西氏”があり、”城代坂西氏”ともあり、築城者は”島立氏”とあり、”坂西氏”ともあります。さらに、坂西氏の記載に、”官名”がありません。しかし、坂西氏の存在は確かなようで、武田に敗れた小笠原長時が、流浪の果ての最後に、会津芦名家に偶居していた時、逆臣に殺害されますが、その逆臣だけが、坂西禅左衛門として氏名を完結して名前を残しています。長時の、長い流浪に随伴して、向背を伴にした坂西氏は、小笠原家のかなりの重臣で、親族か、それに類する立場であったことは確かなようです。

坂西氏を探求・・・

宗家と庶家 ・・・小笠原家

小笠原家一門に坂西家というのがある。
郊戸荘坂西家は「バンザイ」と読むらしい。郊戸荘は、現在の飯田市の”旧飯田市街地”の辺りを指し、松川と野底川の挟地の台地で、河岸段丘の上にあり、天竜川を見下ろす側は、崖状を示す天然の要塞をなす所に城・・飯田城(長姫城)をもつ。家名の発祥は、小笠原家七代当主・貞宗の三男・宗満が、郊戸にあった名跡・坂西(バンザイ)家を継承したと記す。この家系は累々と年代を重ね、時折歴史に名を残している。まず、大塔合戦の時、坂西長国が守護長秀側で参戦して戦死している。諏訪家の文明の内訌では、坂西”孫六”の名で活躍している。そして最後は、信長の武田侵攻の時、坂西織部は、南信の防御の要・飯田城で城将として敗戦している。何れも、郊戸荘坂西家の系流を継ぐ者である。・・・寂しいことであるが、この郊戸荘の地名は、地方史に関心のある地元の人達だけが、かすかに記憶される地名で、郊戸は"死語"になってしまったようです。

宗家は、一門の主人たる家であり、別家は、宗家の当主の兄弟の分割相続であり、かつ宗家にことあらば、宗家を継承しうる資格を有すという。庶家は、正統なる婚姻にない子弟の家と、別家からまた独立した家を示し、一門一族であるが、やや格を下にする。

さて、ここで歴史書に混乱しているのが府中・小笠原家の家臣・坂西家のこと。こちらの方は、”サカニシ”と呼ぶらしい。歴史を辿ると、貞宗以来の古参の家臣らしく、小笠原家が府中へ移封以来、小笠原家と向背を伴にしている。今の松本城が、昔林城の支城であった深志城の創建の時、つまり初代深志城の城主は、島立氏という記録が残るが、その後坂西氏が城主という記録もあり、時系列の関係のようだ。小笠原長時が、武田に敗れて、放浪のときに、家臣では溝口氏と坂西氏が同行したらしい。

この、府中坂西氏は出自が謎である。

この、郊戸(飯田)坂西氏の一族が、府中坂西氏と同族であったとは思えない。なぜなら、松尾と府中は、”宗家”という一族の棟梁を巡って激しく対立を繰り返してきた経緯があり、郊戸坂西氏は、松尾小笠原家の別家という立場から、一貫して松尾小笠原家の家臣団の中心だった。その郊戸坂西氏が府中に同心する可能性は極めて低いと思うからです。

可能性としては、赤沢小笠原氏が、京都の細川家に仕えた時、細川家領内の近畿・阿波の知行を代行した経歴があり、阿波の坂西地方の”坂西家”を継承したという事歴が残っており、細川家が近畿から駆逐された時に、赤沢流坂西氏が信濃に戻った可能性はあると思います。

だが、上の二つの可能性は、府中坂西氏が小笠原家の庶家・同族を意味しますが、府中坂西氏は、小笠原同族を誇示した例が見つからず、重臣ではあるが他流ではないかと思われます。
以上の観点から推測すると、郊戸の地頭・近藤六親の系譜の坂西家は、小笠原貞宗の時に、貞宗に臣下し、貞宗が府中に守護として赴任する時に、重臣として随行して、郊戸を引き払い、府中に居を移した、と考えるのが妥当ではないかと思われます。郊戸の地頭で名跡であった坂西家を、貞宗の三男・宗満が継承して”バンザイ”を名乗り、府中に行った坂西氏は”サカニシ”を名乗った、・・・これが一番辻褄が合いそうです。

深志城の城主は、小笠原氏の将・坂西孫三郎光長の拠った地で,1454年深志城に入るとの記述があります。永正一年(1504)小笠原貞朝とその将・島立右近貞永が坂西氏の旧址に城を築き深志城と称した、とあります。場所はともかく、城の名前は島立氏からのようです。その後、島立氏は、本来の領地の島内に城を築き、領内に戻ります。深志城は、また坂西氏が城主となったのでは、と思いますが、時系列的順序は定かではありません。どうも府中坂西氏の役目は、武闘の将と言うよりは、年貢などの税を扱う内政の管理者だったのではないかと思われる節があります。この頃の深志城は、規模は小さく、現在の本丸、あるいは二の丸を含んだ地域内に館を建て、堀を廻らせた程度のものであったと思われます。
・・・桐原の城主は深志城の坂西の甥です。・・・桐原大内蔵真智が初代城主で以後、桐原市正真実・蔵人真貞・織部真基と続き、真基の代に 武田氏に敗れ ... 二木家記」と笠系大成附録「増補二木家記」に詳しく書かれている・・・この中で深志城の坂西太郎の名前があります。

今回は、府中・坂西家は謎の部分が多く、資料が少ないため、独断の推論で書かせて貰いました。・・・輪郭を明確にするためにも、反論・異論を貰えれば、もっと精査してみたいと思います。