探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原家の十三代当主 宗康のこと

2014-02-09 20:49:27 | 歴史

小笠原宗康

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時代 室町時代
生誕 不明
死没 文安3年(1446年)
別名 松尾五郎(通称)
官位 大膳大夫
幕府 室町幕府信濃守護
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原政康
兄弟 宗康、光康
子 政秀
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鈴岡小笠原家の祖。

小笠原 宗康は室町時代の守護大名。信濃守護、小笠原氏当主。小笠原政康の長男。

嘉吉2年(1442年)に父が死去、小笠原氏惣領職をめぐって宗康と従兄(伯父の小笠原長将の子)の小笠原持長との間で争いが起きた。持長は結城合戦や赤松満祐の討伐(嘉吉の乱)でも功績があり、幕府の実力者・管領畠山持国とも縁戚関係にあり、問題を複雑化させた。しかし、現状を鑑みれば、在京期間が長く、信濃と縁の薄い持長では信濃の国人を治めきれないと判断され宗康が信濃守護職に任命された。だが、小笠原氏は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、それにともない国人衆も二派に分裂して対立が続いた。

文安3年(1446)、宗康は弟の光康に後援を頼み、自身が討ち死にした場合は光康に惣領職を譲り渡すと約束し、漆田原で持長軍と戦ったが敗れ、戦死した。(漆田原の戦)。

漆田原の戦・・・
漆田原の戦とは、室町時代に起きた信濃守護家の後継をめぐる内紛である。
文安3年(1446)、小笠原宗康は父の小笠原政康から家督を相続していたが、従兄の小笠原持長との間で相続をめぐる争いになった。宗康は弟の光康に自身が万一討死の際は家督を譲り渡す条件で協力の取り決めをして漆田原(長野市駅付近)での持長軍との合戦に臨んだが敗死。持長は宗康を討取ったが家督を手中にすることが出来なかった。その後対立は子らの代にまで続いた。この後小笠原家は三家に分裂。以後、三家は、小笠原家棟梁の座を争い、血みどろの戦いに突入していく。

小笠原宗康は、松尾五郎と呼ばれた。小笠原家の嫡男にもかかわらず、なぜに別家を分立したのか。居館・としての松尾館に飽きたらず、城郭として適した地に城を建てたのかも知れない。府中井川に選択枝がなかったのは持長が理由なのか、しかし詳細は不明。小笠原家の解説の書の多くは、府中小笠原家を宗家(棟梁)とするが、それは正しくない。少なくとも小笠原家三家鼎立の時までは松尾小笠原が宗家であることを、歴史が示している。もっとも、この時点までは、小笠原家の宗家が松尾であることが、了解の事項であったため、敢えて松尾小笠原とはことわった著述がないのは理である。

従って、以後においては、三家分立を前提とし、それぞれの小笠原家に、居館のある土地名を冠にした家名で記述するのが、とりあえずは正しい方であると思う。逆に言えば、宗康以前に小笠原三家を土地名を冠に言うのは不自然である。・・・松尾小笠原、鈴岡小笠原、府中小笠原の三家のことである。四家目の京都小笠原は、多少異質の性格を持つので、三家とは別枠と考えた方が整理がいいように思う。


小笠原家の十二代当主 政康のこと

2014-02-09 14:35:24 | 歴史

小笠原政康

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生誕 天授2年/永和2年(1376年)
死没 嘉吉2年8月9日(1442年9月22日)
官位 右馬助、治部大輔、大膳大夫、信濃守
幕府 室町幕府信濃守護
主君 足利義持→義量→義教→義勝
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長基
兄弟 長将、長秀、政康
子   宗康、光康
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小笠原 政康

概略・・・

 政康は応永12年(1405)に兄から家督と小笠原氏の所領を譲られ、駿河の今川氏と共に応永23年(1416に関東で発生した上杉禅定の乱鎮定に出陣、関東の抑え役として将軍義持から重用され、応永32年(1425)に信濃守護職に任命された。・・・信濃の支配権確立にも取り組み、広沢寺・筑摩神社を開基、影響8年(1436)に鎌倉公方と通じて幕府への抵抗を試みた村上頼清と芦田氏討伐を果たし、将軍義教から感状を授かった。永享の乱・結城合戦にも参戦。・・・嘉吉2年(1442)、海野で死去。享年67。長男の宗康が後を継いだ。しかし、嘉吉の乱で義教が暗殺された後に畠山持国が台頭、甥で長兄長将の子の持長が持国の支持を背景に相続を主張、国人も2派に分かれて抗争、小笠原氏は分裂状態で混乱、信濃の支配に動揺をきたし漆田原の戦を起こすことになった。・・・小笠原一族の勢力争い・府中と松尾の抗争は、京都幕府内の勢力争いの代理戦争の影が色濃く出ている。

信濃が再び小笠原氏の領国になるのは長秀の弟政康が守護に任命された応永32年(1425)である。・・・。この政康の歴史記述は、意外にも簡潔なものとなっているが、歴史の前後を眺めると、果たした役割はかなり大きい。政康より前の時代、建武の新政以降、信濃国は北条残党が多く、新政の幕府に対して諏訪神党を中心に反抗の歴史であり、また続いた南北朝期には北条残党が南朝に与した争乱の時代であった。この争乱の収拾は、南北朝が総力をかけた桔梗ヶ原(塩尻)の戦い(1400年)であった。この戦いは北朝・幕府側・主力の小笠原守護家の勝利で幕が引いたが、まだ北条残党は勢力を残していた。政康の守護の時代に結城合戦(1440)が起こった。この合戦に、幕府側の守護小笠原政康は、信濃国の武士を引き連れて参戦している。

以下結城合戦の詳細・・・

小笠原政康は、信濃守護として国人に軍勢催促状を出し出陣を強いた。その様子が結城合戦に参陣した武士の記録『結城陣番帳』に記録。
 「(上略)従公方様(義教) 陣中奉行儀、小笠原大膳大夫被仰付、任上意之旨、国国諸侍関東在陣之間、小笠原大膳大夫可任下知之由、被仰出候者也(下略)」とあり、信濃武士の多くを参陣させ、政康は陣中奉行として国人衆を指揮した、とある。
 信濃の国人衆は政康の指揮下、幕府軍の陣中警護と矢倉の番として、30番組に編成され1昼夜毎の勤番に就いた。壱番が小笠原五郎(宗康)殿、2番が高梨殿、3番が須田殿、4番が井上殿、8番に村上殿代屋代殿、10番が海野殿、11番が藤沢殿、牧城主10代目の香坂徳本は、12番組であった。14番に諏訪信濃守殿、大原(草)殿代、中沢殿代、甲斐沼殿代の名が並ぶ。16番に諏訪兵部大輔殿、知久殿、伴野殿、今田殿の名がみられる。27番では大井三河守殿、同河内守殿、同対馬守殿、祢津遠江守殿、生田殿、関屋殿で一番を組んでいる。30番まで、信濃勢3千余騎とある不参加のものもあったが、当時の信濃武士の殆どの名が連ねられている。

この結城陣番帳記載の、北条残党と南朝側の人脈を確認すれば、かっての経緯を棄て、小笠原守護政康の組下に属した事実が確認され、漸く南北朝争乱が終止符を打ったことが理解出来る。この間の政康が行った国人衆を幕府従属させた方法についての記載は確認されていない。武力によって服従させたのか、領土押収の既成事実を安堵して懐柔したのか、定かではないが、結果の後世をみると、後者の方が可能性が高い。

結城陣番帳の詳細資料 参照:伊奈忠次(関東代官頭)の伊奈の由来!?・・・

こうして、信濃統一を成し遂げた政康は、父・長基の遺言のとおり、宗家松尾小笠原家は光康に、守護職は宗康に相続したものと思われる。宗康が、なぜに鈴岡家を分立したか、の詳細は不明。