探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

三家分立 府中小笠原家

2014-02-11 15:28:39 | 歴史

府中・・・国府があったところ、単純に松本の旧名と考えてよい。

国府跡・・・国府は日本の奈良から平安時代に令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。・・松本のどこかに国府があったと推定される。・・(推定)長野県松本市大村。・・今の信州大学・信大病院から里山辺・美ヶ原温泉の間に、大村、総社の地名が残るが、ここが国府跡地と比定できるのかも・・?!

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 ・・井川城 跡(転記)

井川城跡は、信濃守護小笠原貞宗が館を築いたとされる場所で、1340 年頃から林城に移るまでの百年間程、信濃の政治の中心であった場所です。井川城は、信濃守護に赴任した小笠原貞宗(1292-1347)が築いたとされ、山城に適した地形にある林城(里山辺)に移るまでの約100年間、信濃の政治の中心だったとされる。

歴史・構造・・

小笠原貞宗は建武の新政の際、信濃守護に任ぜられ、足利尊氏にしたがって活躍し、その勲功の賞として建武2年(1335)に安曇郡住吉荘を与えられた。その後、信濃へ国司下向に伴い守護として国衛の権益を掌握し、信濃守護の権益を守る必要からか、伊那郡松尾館から信濃府中の井川の地に館を構えたとみられる。・・・井川館を築いた時期は明確ではないが、「小笠原系図」では貞宗の子政長が元応元年(1319)に井川館に生まれたと記されているので、鎌倉時代の末にはこの地に移っていたとも考えられるがはっきりしない。・・・井川の地は、薄川と田川の合流点にあたり、頭無川や穴田川などの小河川も流れ、一帯は湧き水が豊富な地帯である。現在の指定地は、地字を井川といい頭無川が壕状に取り囲んで流れており、主郭の一部と推定される一隅に櫓跡の伝承がある小高い塚がある。地域に残る地名には、古城,中小屋のように館や下の丁,中の丁のように役所の存在を示すものもある。またこれらのほかに中道の地名もあり、侍屋敷の町割跡、寺などの存在から広大な守護の居館跡が想像される。・・・(現地案内板 参照)

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 林城 跡(転記)・・・


林城(大城・小城)・・別名:金華山城(大城)、福山城(小城)
城郭構造 山城
築城主 小笠原氏
廃城年 天文19年(1550年)
遺構 曲輪、土塁、石垣
指定文化財 なし
林城は、松本市にあった信濃国守護の館(山城)。長野県史跡指定。

歴史概容・・・
信濃国守護であった小笠原氏は当初は井川館を拠点にしていたが、小笠原長棟が松尾小笠原氏を屈服させた後にこの林城に拠点を移した。・・・天文19年(1550)に長棟の子小笠原長時が武田信玄に攻められ一夜のうちに落城した。

林大城と小城のふたつの山にまたがる。大城(▲846m、比高220m)。城郭跡は腰曲輪、主郭周りに石積み遺構などが確認でる。背後の尾根に、堀切・竪堀などもあり。規模は壮大。小城(▲796m、比高160m)。小城の遺構、石積み遺構、虎口、堀切&竪堀など。林城の居館区にあたる「大嵩崎」集落、谷戸の中。

 武家屋敷があったと思われる大嵩崎集落(転記)

府中小笠原家

歴史・・・
政康の死後、小笠原一族の惣領職をめぐって嫡子宗康と京都にあって将軍家の奉公衆を勤めた持長との間で相続争いが起きた。これは「嘉吉の内訌」といわれ、小笠原氏の内紛としてよく知られている。持長はかつて、結城合戦にも将軍の命を受けて参陣し、将軍義教を殺害した赤松満祐の討伐にも軍功をあらわした。さらに、管領畠山持国とも縁戚関係にあり、実力と政治的背景をもった持長だけに相続争いに頭角をあらわしたのである。
結局、信濃守護職は在国していた宗康に安堵された。理由は、長く京にあった持長では、反抗する北信濃の豪族を治めきれないだろうとされて、宗康が選ばれた。しかし、信濃は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、国人衆も二派に分裂して対立抗争が続いた。文安三年(1446)、宗康は弟の光康に支援を頼み、万が一の場合は光康に惣領職を譲り渡すことを約束して持長方との決戦に臨んだ。そして、善光寺表の漆田原で持長軍と激突、戦いは激戦となり数に優る宗康が優勢であったが、最後の激突で宗康は討ち取られてしまった。持長は宗康を討ち取ったとはいえ、家督は光康に譲られていたため、守護職と小笠原氏惣領職は光康に安堵された。しかし、信濃国から持長の勢力が消え去ったわけではなく、以後も、持長と光康の二頭支配が続き、両派の対立は深刻の度合いを深めていった。

三家鼎立までの小笠原家の宗家は、松尾小笠原家

小笠原貞宗は、信濃小笠原家の礎石を築いたとされる。そして府中小笠原家の創設の人でもあった。貞宗は、三人の子に、以下の相続をする。長男政長へは、宗家松尾小笠原家の棟梁を、次男宗政へは別家鈴岡家を立てて鈴岡小笠原家を、三男宗満へは伊賀良荘の隣の郊戸荘(現・飯田市)を分割し分家して坂西家を名乗らせた。貞宗の時代は、府中は群雄が多く、経済的基盤は脆弱であり、松尾小笠原の伊賀良荘は小笠原一族の経済的基盤であり、宗家であった。この宗家・松尾の意識は、持長の時代までは続いたと思われる。この宗家・松尾の意識を崩したのが、府中小笠原持長であり、京都で育った持長をけしかけたのが畠山持国で、持国は母方の父であった。以後京都は、畠山らの西軍と松尾小笠原と関係の深い東軍に分かれて、応仁の乱の長い戦乱へと繋がっていく。小笠原家の内訌は、いわば応仁の乱の西軍と東軍の代理戦争の性格を、色濃く反映していく。もともと小笠原家は、京都検非違使をはじめとする、幕府の官僚の家であった。その為、京都にも小笠原家を持ち、子弟を幕府の役人に送り込んでいた家柄でもあったため、京都幕府内の抗争をもろに受けたようである。

府中小笠原家・・・系譜

(小笠原宗長)、生没年: 、父:長氏、室:女(父:赤沢政常)、子:貞宗 1292-1347 、   :貞長(京都小笠原氏)

小笠原貞宗 生没年:1292-1347、父:宗長、幼名:豊松丸、通称:彦五郎、官名:治部大輔、信濃守、信濃守護、正室:   子:政長、:宗政、:坂西宗満

(小笠原政長)生没年:1319-1365、父:信濃守護 貞宗、幼名:豊松丸、通称:孫次郎、官名:信濃守、信濃守護 1347-1352、正室:
  子:長基
(小笠原長基) 生没年:1347-1407、父:信濃守護 政長、官名:信濃守護 1352-1366、正室:
  子:長将、:長秀、:政康 1376-1442 
(小笠原長将) 生没年: 、父:信濃守護 長基、官名:信濃守護?、正室:  子:持長

小笠原長秀 生没年: 、父:信濃守護 長基 ・・・大塔合戦、  官名:信濃守護、正室:  

(小笠原政康)生没年:1376-1442、:信濃守護 長基、・上杉禅秀の乱(1416) 通称:右馬助、官名:治部大輔、大膳大夫、信濃守、信濃守護 1425-1442、正室: 子:宗康?-1446、光康(松尾小笠原家へ)

(小笠原宗康)生没年:?-1446、父:信濃守護 政康、通称:松尾五郎、官名:大膳大夫、信濃守護 -1446、正室: 子:政秀(鈴岡小笠原家)

小笠原持長 生没年:1396-1462、父:信濃守護長将、幼名:豊千代丸、通称:彦次郎、右馬助 官名:民部大輔、大膳大夫、信濃守  信濃守護1451-1453、正室: 子:清宗 
小笠原清宗 生没年:1427-1478、父:持長、正室:  子:長朝 
小笠原長朝 生没年:1443-1501、父:清宗、通称:又二郎、官名:民部大輔、正室: 子:貞朝
小笠原貞朝 生没年:1461-1515、父:長朝、幼名:豊松丸、通称:又二郎、官名:修理大夫、信濃守、深志城主、正室:        子:長高(遠江小笠原氏)、長棟
小笠原長棟 生没年:1492-1542、父:深志城主 貞朝、幼名:豊松丸、通称:又二郎、官名:民部、従四位下、信濃守、大膳大夫、 信濃守護、林城主、出家1541-、室:(父:浦野弾正忠)、子:長時、信定・・鈴岡城主、清鑑、貞種、統虎、娘(藤沢頼親室)、娘(村上義清室)

(小笠原信定)生没年:1521-1569、父:信濃守護 長棟、通称:孫次郎、  官名:民部大輔、鈴岡城主、正室: 子:長継

小笠原長時 生没年:1514-1583、父:信濃守護 長棟、幼名:豊松丸、通称:又二郎、右馬助、官名:信濃守、大膳大夫、従五位   上、信濃守護、林城主1541-1550、正室:(父:仁科盛明)、子:長隆、貞次、貞慶


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小笠原長隆 生没年:?-1581、父:信濃守護長時、子:吉次
小笠原吉次 生没年:1548-1616、父:長隆、子:吉光、長光、  官名:松平忠吉付家老、城主:犬山城主、佐倉藩主、笠間藩主 
小笠原吉光 生没年:?-1607、父:笠間藩主吉次、尾張藩士、松平忠吉に殉死 
小笠原貞慶 生没年:1546-1595、父:信濃守護長時、松本城主、子:秀政
小笠原秀政 生没年:1569-1615 父:松本城主貞慶、官名:古河藩主、飯田藩主、松本藩初代藩主、子: 忠脩、忠真、忠知、松平重直
小笠原忠真 生没年:1596-1667、父:松本藩初代藩主秀政、  官名:松本藩二代藩主、明石藩主、小倉藩初代藩主、子:長安、長宣
小笠原長安 生没年:1618-1667、父:小倉藩初代藩主忠真
小笠原長宣 生没年:1631-1663、父:小倉藩初代藩主忠真
小笠原忠雄 生没年:1647-1725、父:小倉藩初代藩主忠真、官名:小倉藩二代藩主
小笠原忠基 生没年:1682-1752、父:小倉藩二代藩主忠雄、官名:小倉藩三代藩主
小笠原忠貞 生没年:1706-1741、父:小倉藩三代藩主忠基、
小笠原忠総 生没年:1727-1790、父:小倉藩三代藩主忠基、官名:小倉藩四代藩主
小笠原忠苗 生没年:1746-1808 父:安志藩二代藩主長逵、官名:小倉藩五代藩主
小笠原忠固 生没年:1770-1843 父:安志藩三代藩主長為、官名:小倉藩六代藩主
小笠原忠徴 生没年:1808-1856、父:小倉藩六代藩主忠固、官名:小倉藩七代藩主
小笠原忠嘉 生没年:1839-1860、父:千束藩五代藩主貞哲、官名:小倉新田藩七代藩主、豊前小倉藩八代藩主
小笠原忠幹 生没年:1827-1865、父:安志藩五代藩主長武、官名:小倉藩九代藩主
小笠原忠忱 生没年:1862-1897、父:小倉藩九代藩主忠幹、官名:小倉藩十代藩主、豊津藩知事、伯爵
小笠原長幹 生没年:1885-1935、父:伯爵忠忱、官名:伯爵、貴族院議員
小笠原忠春 生没年:?、父:伯爵長幹、官名:伯爵
小笠原忠統 生没年:1919-1996、父:伯爵長幹、官名:伯爵


未完・・・



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