探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

府中(松本)の豪族 赤沢氏

2014-02-13 19:08:46 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

 

                        ・・ 宗家と庶流 ・・

 

 赤沢氏の場合・・・

赤沢家初代・赤沢清経は、小笠原長径の次男。小笠原家の庶家である。清径が伊豆の赤沢(伊東市)を本貫として住し、以来赤沢を名乗る。やがて、伊豆より信濃埴生に移り住み、子孫は小笠原宗家と婚姻しながら密接な関係を構築していく。宗家・小笠原貞宗の時、建武二年(1335)、信濃で貞宗に与して出陣し、武功により筑摩浅間郷を与えられて、本拠とした。

稲倉城・赤沢氏城主(松本市浅間)・・・

その後、一族は勢力を拡大し北信濃へ進出して、塩崎城をつくり、赤沢氏の主力は塩崎城を居城とした。

塩崎城・赤沢氏系城主(篠ノ井市)・・・

宗家・小笠原長秀が信濃守護になった時、応永七年(1400)、大塔合戦が起こるが、赤沢氏は長秀側で参戦して敗北する。その時塩崎城は合戦の中心になった。永享十二年(1440)に結城合戦に参加した信濃武士の記録(結城御陣番帳)の17番目に「赤沢殿」の名前が残されている。この時、小笠原宗家は政康で、赤沢氏は小笠原政康に臣下していた。政康の死後に起こった小笠原家の内乱では、終始府中小笠原側の重臣として働き、漆田原の戦い(1445)では、赤沢教経が戦死したものの、府中の持長が勝利している。その後赤沢家を率いた朝径は、家督を政径に譲って、京都幕府の管領細川政元の重臣になり、細川家と命運をともにする。

京都・赤沢氏・・細川政元の重臣

京都のあった赤沢氏は、細川氏の近畿・阿波の領内で、赤沢氏系類が足跡を残しているが、朝径と長径は、細川政元の側近として活躍し、永正四年(1507)、政元が暗殺されると、朝径と長径も敗死し、子の政径だけが信濃へ戻る。

その後、小笠原家の内部抗争は、府中小笠原長棟によって統一される。ここに長い小笠原家の内訌は終止符を打つに至るわけだが、時は既に移り、戦国の名将が急速に力を付けてきていた。信濃から隣国の甲斐の武田信玄はは、豊かな信濃を虎視眈々と狙っていた。信玄は手始めに、諏訪神党の拠点の諏訪氏を滅ぼすと、次は府中小笠原の娘婿の、藤沢頼親が攻略の対象になった。二度の侵攻の、最初は信濃武士を動員して防いだが、二度目は信玄の攻略を防ぎきれず、藤沢頼親は敗北した。この少し前、小笠原家の対立を収拾した長棟は、嫡男・長時に相続して、自らはさっさと引退し、仏門に入っている。赤沢家は、終始一貫、府中小笠原家の重鎮・中核として、宗家に仕えていた。府中小笠原家は、信玄に抗戦もむなしく敗北し、一旦は鈴岡の、長時の弟・信広に身を寄せるが、同族である三好長慶を頼って上洛する。

小笠原長時が、京都・三好を頼って逃走する時、赤沢家の一族は二手に分かれて対応をすることになる。赤沢家の当主経智は息子長勝・貞経を伴って長時と共に三好長慶を頼って上洛する。しかし、戦国時代、京都の三好家も戦乱の中にあり、長勝は戦死し、貞径は奥州・相馬氏に寄寓することになる。・・・この赤沢貞径は、江戸時代になって、徳川家康から招集されて、「高家」として召し抱えられたようであり、「弓馬術礼法」(=「糾方内儀外儀」)の師範となり、子孫は将軍家の儀礼を沙汰し、将軍や徳川家臣に「流鏑馬・笠懸の式」を教えたという。なお、鎌倉時代に小笠原から赤沢家に独立し、江戸時代に赤沢から小笠原家に復名したともいう。・・・この家系は現在も小笠原流弓馬術礼法の宗家として存続。

信濃に残った赤沢一族は、武田に臣下して生き残り、武田軍に”赤沢四十騎”の軍役をこなしたという。武田氏滅亡後は、復活した小笠原貞慶に所属するが、後で謀反を起こし、滅亡したと伝えられる。

赤沢家・系譜

小笠原長清

   ┃
 長経        
    ┣━━━┓
  赤沢清経 長忠(惣領家)
-- ┃--

  安経・・・稲倉城初代

    ┃

  経興・・・塩崎城初代 
   ∥
  長興
   ┃
  常興
   ┃
  経光
   ┃
  武経
   ┃
  満経
   ┃
  教経
    ┃
  経隆
    ┃
  朝経 ・・・京都・細川政元に仕える
    ┣━━∥
  政経 長経
    ┃
  経智 ・・・武田に敗北、京に逃れる
---------
    ┣━━━┓
  長勝 小笠原貞経(初経直)
    ┃・・・小笠原に復姓、旗本500俵:小笠原平兵衛家
  経治(初経康)
    ┃
  直経(初貞則)
   ┃
  常春(初常政・貞政)
   ┃・・・以降騎射師範家
  常喜
   ┃

  ・

確認されていない説・・・初期深志城城主

府中小笠原家の居城が、井川城から林城へ移った辺りの時、防衛の支城として「深志城」(=現在の松本城の原型)が作られました、この時の深志城の城主は、”板西孫三郎光長”とされています。この”板西光長”は誰なのか確認出来ていません。これを赤沢氏の項で書くのは、赤沢一族が細川政元の家臣であった時、細川の領国に阿波国板西があり、赤沢一族がここを知行して”板西”を名乗ったとする説が存在します。この阿波国板西説は、この深志城城主と郊戸の庄(飯田坂西家)に関与します。また、義経の時代、義経の四国遠征に案内した近藤六親家という武将が、その恩恵で郊戸荘の地頭になって居着いたという。その近藤は、出身が阿波国板西で、郊戸荘では板西を名乗ったという。やがて廃された”名跡”を松尾小笠原の分家、貞宗の三男・宗満が継いで「さかにし」と名乗った説。やがて府中小笠原の家臣から”板西家”は見えなくなります。いずれも伝承で、確認されていません。

未完・・・






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