探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

府中(南松本)の豪族 村井氏

2014-02-19 00:48:14 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

村井氏

村井氏は官牧埴原牧の牧人埴原氏の系統といわれる。
勢力の拡大と共に牧場地帯から松本平南部の平坦地、村井に居館を建て村井氏と称した。
埴原城を要害城として築いた最初の豪族という。

 村井城跡地

村井城(小屋城)・・・
場所:松本市大字芳川小屋。泉龍寺近く、村井城の標柱と解説板あります。
・・・村井氏によって築城された。村井氏はこの館を中心に現在の松本市中山、内田、寿、芳川、塩尻市広丘、片丘にわたる一帯に勢力があったといわれる。
まず、木曾義仲の家臣、手塚光盛(諏訪下社・大祝の弟)が居住したと伝承がある。鎌倉期から戦国期にこの地を支配した村井氏が居を構えた。村井城は平時の館で、埴原城を詰城としていた。
村井氏は、府中小笠原家が入封以来、小笠原家臣として仕えてきた模様。天文十七年(1548)に武田信玄が筑摩郡に侵攻を始め、小笠原氏の配下の村井氏は、小笠原長時が塩尻峠の合戦で信玄に敗れて逃亡すると、没落した。・・・信玄はここを府中攻略の前進拠点として改築。信玄が村井城に到着するや、北熊井城を落とし、さらにイヌイの城(埴原城)を陥落させたが、小笠原氏の本城である林城や深志城などは自落。その後、村井城から深志城に移って深志の改築し、侵攻拠点を移した

信玄の軍事拠点
信玄は天文十七年(1548)佐久の前山城を取ると松本平に侵入。小笠原氏攻撃の基地の役割が村井城。「高白斎記」には・・十月朔日癸卯。二日甲辰、酉刻巳の方に向かって、村井の城の鍬立高白致し候。鍬五具、四日御普請初める。二十四日丙寅、上原まで御帰陣。・・村井城の出発点は不詳。一般的には、埴原氏の一族である村井氏の居館であったと・・。村井の位置を確認すると、松本城が松本盆地の北の隅、村井は塩尻と松本の中間で、松本平を押さえるのに中心の場所です。信玄はここを松本を攻略する戦略基地として、さらに将来この地域を統治する中心にしようとして、城を築いたものと推察されま す。しかし信玄が深志城に拠点を移したので、村井城は廃城となったとか。

 

 ・・埴原城跡地・埴原牧跡地

埴原城
埴原城の石垣
城郭構造 山城
築城主 埴原氏(村井氏)
所在地:長野県松本市大字中山字町村

説明
埴原城は町村集落の東背後にある山の尾根、標高1000m付近。町村集落にある蓮華寺の北側には、殿屋敷・梅屋敷・的畑という地名が残り、埴原城の居館の場所とされる。・・・埴原城は、信濃守護小笠原氏の家臣埴原氏(村井氏)の城であった。・・・天文19年(1550年)、武田晴信の攻撃により真っ先に攻撃され落城し、この後林城など小笠原氏の諸城は、続々と落城し、信濃守護小笠原氏はこの地を追われることになった。 武田氏滅亡後、松本平を奪還した小笠原貞慶が改修し、現在の城跡はその時のものと推定されている。 現在も石垣、土塁などが一部残る。

埴原牧(ハイバラマキ)・信濃国牧監併設
信濃十六牧の一。・・・「延喜式」には、信濃十六牧と言われる次の16の牧が記述がある。大室牧・高井牧(高井郡)、笠原牧・平井手牧・宮処牧(伊那郡)、新張(新治)牧(小県郡)、塩原牧・岡屋牧・山鹿牧(諏訪郡)、望月牧・長倉牧・塩野牧(佐久郡)、埴原牧・大野牧(筑摩郡)、猪鹿牧(安曇郡)、萩倉牧]。・・・牧は、信濃と甲斐は左馬寮が、武蔵と上野は右馬寮が所管した。『類聚三代格』所収の太政官符には、延暦16年(797)に、御牧の長官である監牧(=牧監)に筑摩郡埴原の牧田6町を公廨田として賜ったとある。また、埴原からは牧監庁の礎石らしきものが発掘、牧監庁は埴原牧に置かれていたものと考えられる。

上記の事実から、素直に推論すれば、埴原牧を所有管理していた埴原氏が牧監も兼任していて豪族化したと思われる。この埴原氏が埴原城を作り、平地に降りて、金刺氏の村井城を継承したと見ることが出来る。そして、府中に入府した守護小笠原貞宗に、初期の頃から従属したという歴史の流れであろう。

 

 ・・ 熊井城  熊井城は、村井氏の支城のようである。

熊井城(北熊井城)
平山
城主 ;村井氏,武田氏
所在地 ;長野県塩尻市大字片丘北熊井字町村

・・東西に舌状に長く延びた台地上にあり、深い堀が台地を横断、六つの郭を擁する。
本城といわれる主郭は東側と南側が土塁で囲まれている。城の西側に館・侍屋敷を配したと思われる町割りがある。
歴史
築城年代は定かではないが村井氏によって築かれたと云われる。 天文14年(1546年)武田氏が上伊那を平定すると熊井城は自落して武田氏の手に落ちた。・・天文21年(1552年)「高白斎記」に「熊野井ノ城鍬立」とあり武田氏の手によって改修されたとみられる。

南熊井城
平山城
所在地;長野県塩尻市大字片丘字山岸
歴史
詳細不明。小笠原氏の出城で熊井城の出城とみられており、天文14年(1546年)に熊井城とともに落城したという。・・熊井城から約二キロ西方に出城と思われる南熊井城があり、約四キロ離れた東北にも後詰めの城と思われる山城がある。松林寺の東の段丘上に築かれていた。 空堀が東と南にあって段丘から切り離されている。東側はやや高く土塁があったようで、北東隅に社が祀られている。