井深城の城主は、井深氏と言われている。
井深城(伊深城)の所在地は松本市岡田伊深、昔は信濃國筑摩郡井深と言われたところ、山を隔てれば、上田・佐久に通じ、また安曇・善光寺にも通じる。
まず、説話から始めよう。
岡田冠者親義の話・・・
木曽義仲の挙兵に際して、最初から義仲軍に参加し活躍した源氏の武将・岡田冠者親義があり、親義の終生の居館跡が、松本市岡田伊深にあったという。居館跡は住宅地に呑み込まれて跡かたも無いが、居館近在に、一族が尊崇したであろう式内社・岡田神社が建つ小高い丘が 、往古の雰囲気を感じさせて残っている。近くにある伊深城は親義一族が築いた山城だとの説がある。
・・・*冠者は成人男子のこと、若武者と言う意味か。
岡田親義が活躍た倶梨伽羅峠の戦い・・・
・倶梨伽羅峠・・石川県河北郡津幡町倶利伽羅と富山県小矢部市石坂との境。この峠を境にして、東に砺波平野が、西に金沢平野が広がる。
・倶梨伽羅峠の戦い・・平安末期の寿永2年5月11日(1183)に、越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠で源義仲の源氏軍軍と平維盛率いる平家軍との間で戦われた合戦。・・
治承4年(1180)、以仁王の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵した源義仲は、翌治承5年(1181)に平家方の城助職の大軍を横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に向けて進軍した。寿永2年(1183)、平家は平維盛を総大将とする10万騎の大軍を北陸道へ差し向けた。・・5月9日明け方、般若野の地で休んでいた平氏軍平盛俊の軍を、義仲軍の今井兼平軍に奇襲され平盛俊軍は退却。一旦後退した平家軍は、志雄山と砺波山に二手に分かれて陣を敷いた。5月11日、義仲は源行家、楯親忠の兵を志雄山へ、義仲本隊は砺波山へ向かう。平家軍が寝静まった夜間に、義仲軍は突如大きな音を立てながら攻撃を仕掛けた。浮き足立った平家軍は退却しようとするが退路は押さえら、大混乱になり平家軍は敵が攻め寄せてこない方向へ逃れ、そこが峠の断崖だった。平家軍は、大半が谷底に転落して壊滅した。平家は敗北し、平維盛は京へ逃げ帰った。
この倶利伽羅峠の合戦には、義仲軍は「火牛の計」という戦法を取ったことでも有名。・・
火牛の計・・「数百頭の牛の角に松明をくくりつけて敵中に向け放つ・・『源平盛衰記』、これは”絵巻”にも描かれているが、後年の創作の疑いがある。
出世魚・ブリ (鰤)
松本の岡田地区には、年末年始の”祝いの膳”に特色があるという。年末・晦日には”ブリ”を焼いて食べ、雑煮には”ブリ雑煮”を食するという。・・倶利伽羅峠の戦いに参加した岡田冠者義親が北陸から持ち帰り、伝えたとある。祝いの膳の出世魚は、西は”ブリ”、東は”鮭”の伝統があるが、信濃では松本が境界線と言われる。松本は、東西の食文化が混在するとも言われる。現代にいたっては、各地に新参が増え、晦日には、江戸商家の食風の”年越しそば”が蔓延し、伝統は廃れたかも知れない・・・。
この岡田冠者義親の末裔が、”井深氏”という言い伝えは根強く残っている。真偽は知らず、確かめる術はもはやないのかも知れない。
ソニーの創始者・井深大氏の祖先は岡田冠者親義・の話
井深大氏の出自については、会津松平藩の九家老の一つ井深家であることは、会津地方や高遠地方の地方史家ならずとも割と知られている事柄のようである。これは、歴史に興味があるないに拘わらず、天下のソニーを一代にして築き上げた井深氏への興味として知られるようになった経緯があるし、井深氏本人が語るところにも拠る。その部分をを再確認すると
・・・室町時代初期の大塔合戦に井深氏の名が登場する。守護小笠原氏の一族で侍大将として善光寺に入り、現在の長野市後町(後庁=御庁)において、もっぱら政務に携わった井深勘解由左衛門で後庁氏の名もある。大塔合戦敗戦後は小笠原氏の本拠である現在の松本市近くの岡田伊深にある伊深城山を拠点として戦国時代をむかえた。武田信玄の信濃侵攻により主家の小笠原氏が出奔したため武田氏に従属した。・・井深家は会津九家と称された藩内の名門である。戦国時代末期、井深茂右衛門重吉は武田勝頼の人質となっていた保科正光の救出に功を挙げるなど、保科家の重臣であった。その子茂右衛門重光は保科正之の家老となり、正之の埋葬の際は祭式に加わっている。重光の男子3人が分家し、幕末には7家に分かれ、井深本家は当主・茂右衛門重常が家禄1,000石で若年寄を務めた。・・重光の次男・三郎左衛門重喬家の幕末の当主は日新館の武講頭取であった井深数馬(200石)で、次男・虎之助は石山家の養子となり、白虎隊士として自刃。長男の井深基は愛知県西加茂郡や碧海郡の郡長などを務め、孫に井深大がいる。・・・
ここでも、岡田冠者義親と井深氏との関係は見えてこない。
もう一つ、「主家の小笠原氏が出奔したため武田氏に従属した」とあるが、保科氏との関係も不鮮明です。その部分を、少し掘り下げて調べて見ると・・・小笠原長時の敗北により府中を手に入れた武田信玄は、林城ではなく、深志城を安曇・筑摩郡の支配拠点とし、城の改修を行います。松本城にみられる丸馬出しや枡形などの施設は武田氏の築城技術に拠るものと言われ、山城に比べて防御性の低い平城を守るための巧みな施設として設けられたものです。この時に深志城改築に指名されたのは工藤祐長でした。以後の記述は、推測にもとずく私見であり、証左は状況による証拠のみになります。この深志城改築には、信濃の情勢と府中の情勢を知る信頼できる”知恵もの”が必要になります。協力者は、保科正俊であり、長時の家臣であった井深茂右衛門重吉であったのではないかと思われます。工藤祐長は深志城改築後に直ぐに内藤昌豊と名を改めます。そして、これも直ぐに、保科正俊の次男を内藤家の養子に迎えます。この三者には、強い信頼関係が見て取れますが、武田軍の中での顔見知りや地縁血縁程度では強い信頼は生まれず、一つの仕事をともに遂行する過程で信頼関係は生まれるものでは無いか思います。以後に見える武田勝に対する評価は、内藤昌豊と保科正俊は、かなり類似するところが彼等の行動から見て取れます。以上私見ですが。・・・ここで、井深家と保科家は繋がったのではないかと思います。そして、正俊、正直、正光、正之と過ぎ、正之が将軍家光の弟と判明し、最上藩を経て会津藩へ移封となり、井深家は重臣として随行し、歴代の保科・松平藩の家老として仕えたのだろうと思います。
伊深城・井深家・・・
・・伊深城跡
遺跡:所在地:岡田伊深1518
時代区分:室町時代~戦国時代
解説・・・北信濃へ通じる要害の地
伊深城は伊深集落後背の標高911mの山頂にあり、現在は南東側山麓の若宮八幡社から尾根上を登る道が整備されていて、小道をたどると要所要所に小郭があり、良く保存されています。山頂部の主郭には、石尊大権現の石碑があり。主郭からの眺望はよく、木曽谷の入口が見える。築城は、室町時代中頃から戦国時代と推定され、城主は後庁氏。後庁氏は小笠原氏の幕下にありました。この城は天文19年(1550)武田軍の林城攻撃のとき自落。戦国期を通じて府中から東北信への出入口で、稲倉城と共に重要な防衛の要といえます。
・・・後庁氏は井深氏の別称とされています。
井深氏・家系譜 会津時代
(1)井深茂右衛門何某( - ):信州高遠城主保科正光の側近
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(2)井深茂右衛門何某( - )
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(3)井深茂右衛門重光( - )保科正之・正経・正容に仕ふ
|万治2年(1659)会津藩家老被 仰付。元禄2月年(1689依願隠居。
(4)井深茂右衛門重隆 平左衛門常方( - )元禄2月年(1689家老被 仰付。同10年 (1697)改名。宝永2年(1705)改諱。同3年(1706)依願御免。
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(5)井深茂右衛門重矩尹常( -1735)享保7年(1722)家老被 仰付。享保10年(1725)改諱。 享保20年(1735)卒去。
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(6)井深茂右衛門 内記武常( - )元文4年(1739)若年寄被 仰付。同5年(1740)改 名。寛保2年(1742家老被 仰付。安永4年(1775)職分御免。
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(7)井深宅右衛門重( -1814):会津九家之内
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(8)井深茂右衛門重孝( - )会津九家之内
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(9)井深守之進何某( - )婿養子 世禄300石
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(10)井深茂太郎何某(1853- )・・・明治学院総理
以後調べず・・・
伊深城・井深家・・・
伊深城跡
遺跡:所在地:岡田伊深1518
時代区分:室町時代~戦国時代
解説・・・北信濃へ通じる要害の地
伊深城は伊深集落後背の標高911mの山頂にあり、現在は南東側山麓の若宮八幡社から尾根上を登る道が整備されていて、小道をたどると要所要所に小郭があり、良く保存されています。山頂部の主郭には、石尊大権現の石碑があり。主郭からの眺望はよく、木曽谷の入口が見える。築城は、室町時代中頃から戦国時代と推定され、城主は後庁氏。後庁氏は小笠原氏の幕下にありました。この城は天文19年(1550)武田軍の林城攻撃のとき自落。戦国期を通じて府中から東北信への出入口で、稲倉城と共に重要な防衛の要といえます。
・・・後庁氏は井深氏の別称とされています。
未完・・・