小笠原政康
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生誕 天授2年/永和2年(1376年)
死没 嘉吉2年8月9日(1442年9月22日)
官位 右馬助、治部大輔、大膳大夫、信濃守
幕府 室町幕府信濃守護
主君 足利義持→義量→義教→義勝
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長基
兄弟 長将、長秀、政康
子 宗康、光康
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小笠原 政康
概略・・・
政康は応永12年(1405)に兄から家督と小笠原氏の所領を譲られ、駿河の今川氏と共に応永23年(1416に関東で発生した上杉禅定の乱鎮定に出陣、関東の抑え役として将軍義持から重用され、応永32年(1425)に信濃守護職に任命された。・・・信濃の支配権確立にも取り組み、広沢寺・筑摩神社を開基、影響8年(1436)に鎌倉公方と通じて幕府への抵抗を試みた村上頼清と芦田氏討伐を果たし、将軍義教から感状を授かった。永享の乱・結城合戦にも参戦。・・・嘉吉2年(1442)、海野で死去。享年67。長男の宗康が後を継いだ。しかし、嘉吉の乱で義教が暗殺された後に畠山持国が台頭、甥で長兄長将の子の持長が持国の支持を背景に相続を主張、国人も2派に分かれて抗争、小笠原氏は分裂状態で混乱、信濃の支配に動揺をきたし漆田原の戦を起こすことになった。・・・小笠原一族の勢力争い・府中と松尾の抗争は、京都幕府内の勢力争いの代理戦争の影が色濃く出ている。
信濃が再び小笠原氏の領国になるのは長秀の弟政康が守護に任命された応永32年(1425)である。・・・。この政康の歴史記述は、意外にも簡潔なものとなっているが、歴史の前後を眺めると、果たした役割はかなり大きい。政康より前の時代、建武の新政以降、信濃国は北条残党が多く、新政の幕府に対して諏訪神党を中心に反抗の歴史であり、また続いた南北朝期には北条残党が南朝に与した争乱の時代であった。この争乱の収拾は、南北朝が総力をかけた桔梗ヶ原(塩尻)の戦い(1400年)であった。この戦いは北朝・幕府側・主力の小笠原守護家の勝利で幕が引いたが、まだ北条残党は勢力を残していた。政康の守護の時代に結城合戦(1440)が起こった。この合戦に、幕府側の守護小笠原政康は、信濃国の武士を引き連れて参戦している。
以下結城合戦の詳細・・・
小笠原政康は、信濃守護として国人に軍勢催促状を出し出陣を強いた。その様子が結城合戦に参陣した武士の記録『結城陣番帳』に記録。
「(上略)従公方様(義教) 陣中奉行儀、小笠原大膳大夫被仰付、任上意之旨、国国諸侍関東在陣之間、小笠原大膳大夫可任下知之由、被仰出候者也(下略)」とあり、信濃武士の多くを参陣させ、政康は陣中奉行として国人衆を指揮した、とある。
信濃の国人衆は政康の指揮下、幕府軍の陣中警護と矢倉の番として、30番組に編成され1昼夜毎の勤番に就いた。壱番が小笠原五郎(宗康)殿、2番が高梨殿、3番が須田殿、4番が井上殿、8番に村上殿代屋代殿、10番が海野殿、11番が藤沢殿、牧城主10代目の香坂徳本は、12番組であった。14番に諏訪信濃守殿、大原(草)殿代、中沢殿代、甲斐沼殿代の名が並ぶ。16番に諏訪兵部大輔殿、知久殿、伴野殿、今田殿の名がみられる。27番では大井三河守殿、同河内守殿、同対馬守殿、祢津遠江守殿、生田殿、関屋殿で一番を組んでいる。30番まで、信濃勢3千余騎とある。不参加のものもあったが、当時の信濃武士の殆どの名が連ねられている。
この結城陣番帳記載の、北条残党と南朝側の人脈を確認すれば、かっての経緯を棄て、小笠原守護政康の組下に属した事実が確認され、漸く南北朝争乱が終止符を打ったことが理解出来る。この間の政康が行った国人衆を幕府従属させた方法についての記載は確認されていない。武力によって服従させたのか、領土押収の既成事実を安堵して懐柔したのか、定かではないが、結果の後世をみると、後者の方が可能性が高い。
結城陣番帳の詳細資料 参照:伊奈忠次(関東代官頭)の伊奈の由来!?・・・
こうして、信濃統一を成し遂げた政康は、父・長基の遺言のとおり、宗家松尾小笠原家は光康に、守護職は宗康に相続したものと思われる。宗康が、なぜに鈴岡家を分立したか、の詳細は不明。