探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原家 八代当主 政長のこと

2014-02-02 06:36:09 | 歴史

 小笠原政長

小笠原政長
時代 南北朝時代
生誕 元応元年7月11日1319年7月28日
死没 正平20年/貞治4年3月21日1365年4月12日
改名 豊松丸(幼名)、政長
別名 孫次郎(通称)
官位 信濃守
幕府 室町幕府
氏族 府中小笠原氏
父母 父:小笠原貞宗
兄弟 政長宗政坂西宗満ほか
長基

小笠原 政長・・小笠原家八代当主・府中城主・松尾城主

生涯・・・南北朝の争乱において父の貞宗とともに足利尊氏に従い、北朝方の武将として各地を転戦した。興国6年/康永4年(1345)8月、後醍醐天皇七回忌のための供養儀式が天竜寺において執行され、これに際して北朝方の武士が随兵として従ったが、その先陣12名のなかに政長の名前がある。・・・正平2年/貞和3年(1347)、父の死により家督を相続した。・・・観応の擾乱では、最初は尊氏・高師直方についたが、一時足利直義方に敗北。正平7年/文和元年(1351)12月、南朝から直義追討の院宣を得た尊氏が鎌倉に拠った直義を討つために出陣すると、政長は尊氏軍の先鋒として遠江国に出兵し、蜂起した直義方の吉良氏を打ち破った。・・・翌年、家督を長男の長基に譲った。しかし長基は幼少の為実質は実権は握っていたものと思われる。・・・正平10年/文和4年(1355)、信濃に拠っていた信濃宮宗良親王が諏訪氏・仁科氏ら宮方勢力を結集して挙兵すると、長基・政長らは武田氏らとともに鎮圧(桔梗ヶ原の戦い)。この戦いの経過の詳細は不明、しかし以降宮方勢力の行動が沈静化していることから北朝方の勝利と考えられている。・・・政長はその後も領国である信濃の平定に尽力し、正平20年/貞治4年3月21日(1365)に没。享年47歳。

小笠原貞宗・政長は、諏訪大社を懐柔して、諏訪地域の勢力を取り込むとともに、伊那地域の勢力を破っていきました。観応2年(1351)その功により貞宗の息子である小笠原政長は、伊那春近領を領有することになりました。これ以後、上伊那地域は小笠原氏の勢力下として支配されていきました。

政長の戦歴は、断片的にしか語られていない。特に正平2年から正平20年まで(1347-1365)の生涯は、信濃国に於ける南北朝争乱の北朝側の棟梁として在ったはずで、これを顕かにするには、より詳しい南朝側の戦記を対比させることが早道と思われる。

政長の最後・・・宗良親王は入間川・小手指の乱の後信濃に戻り、新田義宗は越後へ還り再起を期した。足利義詮が男山八幡の後村上天皇の行在所を囲むと、義宗は、越後国津有荘で挙兵し越中国から能登へ向かった。先に宗良親王を奉じ「武蔵野合戦」で敗れた金刺直頼は、新田義宗に呼応して信濃国内で南朝党を再結集し、宗良親王を奉じ男山八幡で困窮する後村上天皇の救援に西上しようとした。尊氏は、従軍中の信濃守護小笠原政長を急遽信濃国へ帰還させ、これを鎮圧させようとした。政長は金刺直頼と戦う最中に病気で死去する。、宗良親王は諏訪神党と上杉の諸士を従え、後村上を救援するため西上した。その途上、後村上の男山八幡の行在所が義詮により制圧され、退去したとの報せが入り、空しく信濃国内に戻った。

尚、弟の鈴岡小笠原宗政、坂西宗満も長男・政長に与して、南朝に対峙していたと思われる。

以下、この期間の信濃南朝の戦記・・・

貞宗時代・・・
後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐は、得宗家の有力御家人・足利高氏が裏切り、元弘3年(1333)六波羅探題を壊滅させたて討幕軍が圧倒的に優勢となり、新田義貞が稲村ヶ崎から鎌倉への侵攻に成功し、北条高氏以下一族が東勝寺で自刃して終局を迎える。鎌倉幕府創立140年後に倒壊し、建武新政となる。・・・北条氏に代わり小笠原貞宗が信濃守護になるのが建武2年(1335)。・・・しかし信濃国内には、北条側が御内人の最有力者・諏訪氏をはじめ、北条守護領下、守護代、地頭、地頭代として多くの利権を有する氏族がいた。そこに北朝側・小笠原貞宗が、守護となり、旧北条氏領を占拠し南朝勢力を駆逐していった。信濃国人衆旧勢力・南朝側は、所領の保全・回復をめぐって熾烈な戦いをせざるえを得なかった。その中核にいたのが諏訪氏であった。北条得宗家の重鎮でもあったため、信濃国人衆は諏訪氏を盟主として、「神家党」として結束させた。それが建武2年に起きた中先代の乱であった。その乱以後の争闘が、後醍醐天皇の建武の新政を瓦解させた。・・・諏訪神家党・諏訪神党は、その実利的であるため、政情次第で、離合集散する。例えば市河氏は、「神家党」であったが、元弘3年六波羅探題を足利高氏が攻略すると、その幕下に参じている。建武2年(1335)北条氏残党が常岩で挙兵すると、市河氏は守護方となり討伐に当たっている。
・・・諏訪頼重・時継父子は、北条時行を擁して挙兵する・・中先代の乱。船山郷の青沼とその周辺で、市河氏が守護方として北条方反乱軍と戦っている。船山郷・戸倉町は、守護所。・・国司博士左近少将入道を自刃。南朝側勝利で信濃国人衆の過半を味方にし、鎌倉へ進撃、足利直義を破り鎌倉を制圧。しかし、京から足利尊氏が攻め下ると、金刺頼秀が戦死、諏訪頼重・時継父子・その一族が鎌倉大御堂で、全員が顔を切り自殺。顔を切り・・は北条時行も自害と見せ掛けるため。ここで諏訪頼重以下、300余騎が果てるが、 時行は鎌倉を脱出している。・・・時行の北条再興の夢は、25日間の鎌倉支配で消え去った。時行は伊豆に逃れ、後醍醐天皇が尊氏と決裂すると、後醍醐方として伊豆で挙兵。・・・諏訪時頼のあと大祝を継いだのは頼継であった。このため朝敵となった頼継は諏訪近辺の神野に隠れる。尊氏は大祝の継承を庶流の藤沢政頼に就かせると、頼継の探索を厳しく命じた。・・頼継は、数人の従者を連れて神野をさ迷うが、諏訪信仰の人々による援助で逃れる事ができた。・・この事実が、諏訪家の”文明の内訌”の遠因になる。高遠諏訪家は諏訪頼継が祖と言われる。以後高遠家は、大祝家の正統な嫡流を誇示続けたと言われる。その強烈な諏訪家棟梁の意識は、高遠家ではなく諏訪家を名乗り続け、歴代に大祝”頼継”の名を再現している。・・・その後も信濃の諏訪神家党国人衆は、足利政権の守護小笠原氏側と熾烈な闘争を続けた。・・・佐久の望月家は小笠原勢に城を破却されている。更に北条時行に味方した国人衆の本拠地が攻撃された。小笠原勢の市河一族と村上信貞は、諏訪一族と徹底的に交戦を続け、やがて戦国領主として生き残った。


政長時代・・・
諏訪直頼が、観応2年(1351)、直義方として尊氏方の小笠原政長と善光寺平で激戦。尊氏が南朝方と和睦すると形成は逆転し、直義は不自然死を遂げている。・・・諏訪直頼は観応3年(1352)、南北朝期最期の大反撃をする。新田義宗や上杉憲顕と組み、諏訪・滋野氏を主力とする信濃勢が、宗良親王を擁して金井原・小手指原で尊氏方と戦う。しかし敗退し親王は越後へ逃亡。・・・文和4年(1355)、宗良親王は越後でも南朝方が敗退すると、信濃に逃れる。諏訪氏・金刺氏・仁科氏も必死の結集に努め、再起をかけて府中にむかう。しかし、桔梗ヶ原で守護小笠原長基(政長の子)と激戦の末敗退し信濃南朝軍は瓦解していく。この時、小笠原長政は家督を譲っていたが、桔梗ヶ原の北朝軍の指揮は長政と思って良い。1352年五歳で家督を譲られた小笠原長基は文和4年(1355)の桔梗ヶ原の戦いのとき、僅か八歳。信濃国守護の小笠原家は、引退したと見せかけた、長政によって強固な軍団に塗り替えられていく。以後南朝側の諸豪族は、次々と小笠原守護の組下に組み込まれていく。