探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

府中(松本)の豪族 犬甘氏

2014-02-20 18:01:22 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

 ・・犬甘氏家紋

犬甘氏 ・・・いぬがいし、と読む。小笠原貞宗が府中入封の頃より、小笠原家に従属。戦国から江戸時代にかけて、一貫として小笠原家の支柱となり、家老として小笠原家を支える。

 ・・犬甘城(蟻ヶ崎城、犬飼城)

所在地: 長野県松本市大字蟻ヶ崎
別 名: 犬飼城
現存遺構: 曲輪、土塁、空堀、横堀?
区 分: 平山城
城 主: 犬甘(イヌカイ)氏
歴 史: 正平年間
(1346-1370) 犬甘氏が築城

 ・・城跡の公園風景

松本の市街地から北西の方角・蟻ヶ崎・宮淵の高台に城山公園、その最高所となる西端の尾根には、犬甘城跡が存在する。西側が奈良井川に向かって断崖。東側は現在、芝生公園の暖斜面。犬甘城跡からは、眼下に松本城を見下ろすことができ、東の山辺方面には林城と桐原城が、南東には埴原城が遠望できる。
犬甘城は、古代からの豪族である犬甘氏の居城として築かれ、戦国時代を通じて重要な城砦であった。

犬甘氏の古族としての経歴はかなり興味を引くものがある。渡来人が祖先というのも面白い。伝承された祭りのなかに・・、あるいは遺跡として、それに繋がるものがあれば、さらに惹かれるのだが・・・。

犬甘氏の祖先・・・
さて、古代の信濃国には十郡があり、松本平には筑摩郡が置かれていた。筑摩郡には、良田(ヨシダ)、崇賀(スガ)、辛犬(カライヌ)、錦服(ニシキベ)、山家(ヤマガ)、大井(オオイ)と六郷あったといい、この中の辛犬郷の地は現在の松本市のあたりとされている。この辛犬郷には、辛犬甘(カライヌカイ)氏という渡来系の有力氏族がいたことが判明しており、のちに犬飼(犬甘)氏という豪族に発展していった。松本の浅間温泉は、天慶2年(939)この地の領主豪族の犬飼半左衛門によって発見され、「犬飼の御湯」と呼ばれたと記録されている。犬飼および犬養姓の起源は、官位の名称とされており、朝廷の狩猟犬を飼育する役職だったという。犬飼氏の飼った猟犬は狼の血を引いて、十分に訓練を積んだ狼犬であった。奈良の長岡宮には十二の門があり、その中に県犬養(アガタイヌカイ)門、海犬養(ウミイヌカイ)門、稚犬養(ワカイイヌカイ)門があった。県犬養氏は県の穀物倉庫の番人、海犬養氏は港の倉庫の番人だったとされ、稚犬養氏は犬を飼育して交配・繁殖させる職業だったという。この氏族は吉野の大伴氏の郎党であったといい、古代豪族は、特殊技能を持った郎党を抱えておくことが勢力の源泉であった。また、『日本書紀』、『新撰姓氏録』によると、犬養部(イヌカイベ)を統率した伴造に、県犬養連(コウリイヌカイムラジ)、海犬養連(アマイイヌカイムラジ)、若犬養連(ワカイイニカイムラジ)、阿曇犬養連(アズミイニカイムラジ)の四氏が存在したことが伝わっている。古代の犬飼たちは開拓地に狼犬を連れて移住していき、入植先では重要となる水源を警備したという。・・・安曇氏とともに信濃国に入植した海犬養氏は、辛犬甘氏のちに犬甘氏と名乗って豪族化していた。信濃国の国府の近くに勢力を持った古代の犬甘氏は、国衙行政の実務に従事した在庁官人である。国衙とは古代の律令制において国司が地方政治を遂行した役所のことで、在庁官人とは朝廷から派遣された国司が、現地で国衙の実務官僚として採用した豪族や有力者らを指す。犬甘氏は国衙領の経営や租税徴収、軍事力の提供を行うことで国司に貢献した。平安中期以降(11世紀~12世紀)在庁官人の多くは、在地領主として、そして武士として成長していくことになる。また、犬飼衆の多くは地方で地侍になっていくが、狼犬を使いこなす特殊技能を活かして忍者のように諜報活動に従事する犬飼衆もいた。実際に戸隠流忍術すなわち戸隠修験の中心である戸隠神社(長野市戸隠)の宮司も犬飼氏という。松本市の北西は、奈良井川と梓川の川中島の内側であったため島内と呼ばれているが、中世には犬甘氏が支配していたため犬甘島と呼ばれており、盛んに開発されたという。当初は、深志城の地に犬甘氏の城館があり、南北朝時代の正平年間(1346-70年)頃に犬甘城を築いて移ったと伝承がある。平瀬城の平瀬氏、桐原城の桐原氏などは犬甘氏と同族といい、犬甘一族によって松本一帯が治められていた。
建武元年(1334)足利尊氏に従った小笠原貞宗は、信濃国守護職に任命され、信濃国府中の井川館に入った。この頃、犬甘城は放光寺城とも呼ばれ、南北朝争乱の時期に小笠原氏がこの城に立て籠もって戦ったという史料があり、そこには「放光寺城の戦い」と記述されている。

犬甘氏は同族の平瀬氏とともに、小笠原家に従属・・・
室町時代において、犬甘氏は同族の平瀬氏と向背をともにしており、永享12年(1440)の結城合戦では、室町幕府の命を受けた小笠原政康に属して出陣している。そして、応仁・文明の乱を経て、信濃国守護職の小笠原氏の麾下に属するようになった。のちに犬甘氏は小笠原氏の家老となり、犬甘城は小笠原氏の属城として機能した。戦国時代になると、小笠原氏の本拠である林城を中心に、西の前面には深志城、犬甘城、平瀬城、東の山辺には桐原城、山家城、北方には伊深城、稲倉城、南方には埴原城、熊井城といった強力な支城網が構築されていた。しかし、当時の信濃国守護職であった小笠原長時は、塩尻峠の戦いでの敗戦後、甲斐国の武田晴信の侵攻を受けて徐々に領土を蚕食されていき、退勢は覆いがたい状況であった。天文19年(1550)小笠原氏との決戦のため前線基地である村井城に入った武田晴信は、まず林城の出城であるイヌイの城(場所不明)を攻略して勝鬨をあげた。これに戦慄した小笠原長時は林城を捨てて葛尾城(千曲市)の村上義清のもとに亡命、林城の支城である深志城、岡田城、桐原城、山家城などは相次いで自落した。

小笠原家の滅亡と小笠原家臣・・・
小笠原氏の家臣の多くが武田氏に降伏するなか、犬甘城の犬甘大炊助政徳と平瀬城の平瀬八郎左衛門は、居城に籠城して武田軍に対して頑強に抵抗を続けた。『二木家記』によると、同天文19年(1550)村上義清が援軍を派遣するとの風説があり、深志城代となった馬場信春が、家臣を連れて夜の苅谷原崎あたりまで物見に来たとき、前方から犬甘大炊助がが村上義清の援軍と間違えて接近して、大炊助は馬場信春に名を尋ねてから、相手が武田軍だと気が付いて逃げ出すが、馬場勢に追跡され大炊助は犬甘城には戻ることができず、安曇郡の二木重高の城館に逃れたという。城主が不在となった犬甘城は、まもなく武田軍の攻撃のため落城してしまい、犬甘一族は尾根続きの平瀬城に逃れた。その後犬甘城はそのまま廃城になったという。その後、世にいう「戸石崩れ」で武田が敗れると、府中の回復を目論む小笠原長時は村上義清の加勢を得て挙兵し、これに旧臣の二木氏や犬甘氏、平瀬氏が合流した。梓川西岸の氷室に陣取った小笠原長時軍は、平瀬城に入って武田氏の信濃計略の拠点である深志城に迫り、塔の原に進出した村上義清軍とともに深志城を挟撃しようとした。しかし、武田晴信が諏訪に着陣すると、村上義清は、小笠原長時に無断で兵を退いた。村上義清の撤退によって小笠原軍はたちまち弱体化したが、武田軍の先鋒である飯富虎昌隊めがけて、小笠原長時は先頭を駆けて突入した。小笠原軍は奮戦したが、やがて疲れて、二木重高の中塔城に退いて籠城した。退勢を挽回できない小笠原長時は自害しようとしたが、二木重高に諫止されたという。ついに平瀬城が陥落し小岩嶽城も落城した。長期に渡って中塔城での籠城していた小笠原長時は、越後国の長尾景虎を頼って逃れた。これらが遠因となって、のちに上杉謙信と武田信玄が川中島にて激突することになる。

その後の犬甘氏・・・
一方、犬甘氏はその後も小笠原氏に仕えており、犬甘政徳の長男は政信といったが、天正10年(1582)小笠原長時の三男である貞慶に従って木曽義昌と戦った時に討死している。犬甘氏の家督は三男の久知が継承し、この犬甘久知は小笠原貞慶の侍大将として、数多くの合戦で活躍した。また犬甘久知は、小笠原貞慶、秀政、忠真と小笠原氏三代にわたって仕えており、その子孫の犬甘氏も豊前国の小倉藩小笠原氏の筆頭家老として代々続いていた。

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以下、「戦国 武家家伝犬甘氏」からの引用による ・・・


『戦国時代の犬甘氏


戦国時代、信濃の隣国武田家は国内統一をなして、当主晴信は西上の野望を抱き、その第一歩として信州経略を目指していた。・・・天文十四年(1545)武田晴信は、藤沢氏の拠る福与城を攻撃した。小笠原長時は、妹婿でもある藤沢頼親を援けるため、軍を発したが戦うことなく兵を退いている。天文十七年(1548)二月。上田原において、村上義清と晴信が戦い、晴信は大敗した。村上勢の大勝により四月、村上・小笠原・仁科・藤沢の四家は連合して、下諏訪に討ち入った。ついで六月、小笠原勢が再び討ち入り、さらに七月、三たび討ち入ろうとした。・・・四月の討ち入りでは、諏訪郡代板垣信形の館を囲み、開城の交渉に入ろうとしたとき、連合軍の一翼を担っていた仁科道外が戦線を離脱した。これは、仁科氏が諏訪支配を目指したのに対して、長時がその要求を拒んだことに対する腹いせであったという。・・・間もなく、晴信が甲府より急行し、長時は兵を退いて塩尻峠に陣を布いた。武田群は塩尻に押し寄せ、合戦になったが、ついに長時は大敗して林城に退いた。
翌十八年四月、晴信は村井に陣を布いた。これに対して長時は桔梗ケ原で応戦につとめたが、草間肥前守、泉石見守らを討たれて、長時は林城に退いた。これにより、洗馬の三村入道、山家、坂西、島立、西牧の諸家は晴信に降った。節を曲げず長時に属したのは、犬甘、二木一族、平瀬らの諸士のみであった。ここに至って長時は、林城を守ることもかなわず、林城を棄てて川中嶋に赴き、村上氏を頼った。・・・天文十九年になって、府中の回復を目指す長時は、村上氏の加勢を得て帰郷し、安曇群に入り氷室に陣を布いた。二木一族、犬甘、平瀬らに人数が参集し、人数は多勢となった。かくして、村上勢と深志を挟撃しようとしたが、晴信が諏訪に進出したことを聞いた村上義清は、小県郡の守りが破られることを恐れ、軍を川中島に退いた。そこに、馬場民部、飯富兵部ら晴信の先陣が氷室に攻め寄せてきた。かくして両軍は野々宮において会戦し、小笠原勢は武田勢を撃退することに成功した。

小笠原氏に節を通す
しかし、すでに大勢は定まっっていて、長時は開運の見込みがないとして、自害をしようとはかった。これをみて、二木豊後守重高は諌止して、二木氏の築いた中洞の小屋に逃れることを勧め、重高もそれに随った。以後、晴信は中洞小屋に攻め寄せたが、落とすことはできず天文二十二年まで、二木一族は長時を守ってよく武田方の攻撃を防いだ。・・・ここに至るまで、犬甘政徳は小笠原長時の家老として忠節を励み、天文十九年(1550)七月、長時が甲斐の武田晴信(信玄)のために林城を逐われたあとも、居城の犬甘城に拠って武田氏に頑強に抵抗した。・・・同年十月半ば頃、長時の府中深志回復の挙に、信濃の雄村上義清が援軍を派遣するとの風説があり、武田方の部将で深志城代の馬場信春は物見のため夜半に苅谷原崎に出馬した。このとき、政徳も長時の軍を出迎えるために十騎ほどで出向いたところ、双方は岡田宿で遭遇した。・・・この折、馬場の一隊を村上の援軍と錯覚した政徳は、これに近付いて包囲されるに至った。辛うじて戸口を脱したものの、政徳は深志城からも武田勢が人数を出していたため、居城の犬甘城に帰城することが叶わず、単騎で安曇郡の二木重高の館まで落ち延びた。主を失った犬甘城は、武田軍の攻撃にさらされ、ついに陥落したと伝えている。・・・政徳の長男は政信といったが、天正十年(1582)七月中旬、小笠原貞慶が筑摩郡本山で木曽義昌と戦ったとき、討死したため、犬甘氏の家督は弟で政徳の三男の久知が継承した。ちなみに。同年八月三日付けの貞慶安堵状案によれば、久知の本領は安曇郡犬甘・北方・青嶋および筑摩郡蟻ケ崎にわたって所在し、総貫高は九百貫文に達していたことが知られる。・・・久知は犬甘家相続以後、貞慶の侍大将として、天正十年八月の日岐城攻め以降、会田、麻績および伊那郡の高遠城攻略と、同十三年(1585)まで小笠原貞慶に従って数多くの戦陣のなかに過ごした。

小笠原家家老として近世へ
久知は、貞慶のほか、小笠原秀政、同忠真と小笠原氏三代に仕えて、二木豊後守、草間肥前守綱俊らと小笠原家の城代となり、三職も務めた。秀政時代の『松本家中知行高帳』には、家老筆頭として家中最高の千六百石を給与されていることからも、小笠原氏家中で重きをなしていたことが窺われる。・・・久知のあとは久信が継ぎ、大坂の陣には主家小笠原氏に従って出陣している。その後、寛永九年(1622)小笠原氏は播州明石から豊前国小倉十五万石に所替となった。犬甘氏もこれに従って小倉に移り、『小笠原家分限帳』によれば、家中筆頭の二千五百石を領したことがみえる。』