探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原家 九代当主 長基のこと

2014-02-03 09:19:40 | 歴史

 小笠原長基

小笠原 長基

時代 南北朝時代
生誕 正平2年/貞和3年1月27日(1347年3月9日)
死没 応永14年10月6日(1407年11月5日)
改名 豊松丸、孫次郎
別名 兵庫の介

官位 信濃守 信濃国守護 飛騨越中遠江三国管領

幕府 室町幕府
氏族 府中小笠原氏・松尾小笠原氏
父母 父:小笠原政長
  長将、長秀、政康

*嫡子・長男の長将は一旦は小笠原氏の家督を継いだようだが、応永12年(1399)には長秀が信濃守護として下向していることから、早世したものとみられる。長秀が治世に失敗すると、政康が相続し信濃守護を継承する。

*政康・松尾小笠原家創設・政康の子・光康が松尾家。それまで政康の祖父・宗長と長将、長秀、政康と松尾に陣屋を構えていたが、長将が早世、長秀が守護を失敗し京都に逃げたので政康が継承し、松尾城を城郭にしたようだ。政康の子光康の兄・宗康が鈴岡家に分立する。弟・光康が松尾城主になる。この間の府中を含めた松尾、鈴岡の分割相続の理由が、今一つ分からない。府中に貞宗が赴いた理由は、新領となった近府春近荘の周囲が在郷の豪族で既得権防衛で騒がしかったため、実績のある貞宗が府中に言ったのだろう。伊賀良荘の分割・・松尾(宗家・政康)、鈴岡(宗康)、坂西(郊戸荘=飯田)は、顕かに小笠原一族の力を弱くしている。分割相続・・分かつべ所領がなくなる・・下克上の始まりの予兆。

概略・・・

観応の擾乱終結後の正平7年/観応3年(1352)、父政長から家督と信濃守護職を譲られて当主となった。しかしこの時長基はまだ5歳。実権は父が握っていたものと思われる。・・・長基が家督を継承した時期における信濃は、新田氏をはじめとする反幕府・反守護勢力が多く存在し、各地で紛争中。その中でも特に、大河原を拠点として活動している宗良親王の存在は、小笠原氏にとって無視できないものであった。正平10年/文和4年(1355)、宗良親王が諏訪氏・仁科氏ら反守護勢力を結集して挙兵すると、長基・政長は武田氏や上杉氏の助力も得て鎮圧に成功し、南朝方を圧倒した(桔梗原の戦い)。・・・正平20年/貞治4年(1365)3月に父政長が死去し、長基は名実ともに小笠原氏の当主となった。・・・翌年(1366)、幕府は信濃守護を長基から上杉朝房に交代させたが、その後も長基は朝房や国人衆とともに活動を行なっており、信濃における軍事力の指揮権は維持していたものとみられる。その一例として、元中4年/嘉慶元年(1387)、長基は朝房に代わって信濃守護に任じられた斯波義種と善光寺平を争っている。・・・時期は不明だが、家督を次男の長秀に譲った。それと同時に長秀は信濃守護に任じられたが、信濃の統治に失敗し、応永7年(1400)に反乱を起こした国人衆に大敗した(大塔合戦)。なお、この頃の長基・長秀父子の間には何らかの齟齬があったらしく、大塔合戦が勃発したときも京都にいた長基は何の行動も起こしていないとされる。・・・長基は1407年11月に病没。享年61。次男の長秀は大塔合戦の一件により失脚していたため、小笠原氏は三男の政康が継いだ。
 

長基の時代・・・

諏訪上下社の室町幕府への帰属 ・・・桔梗ケ原の合戦は小笠原氏の大勝利で、以後、信濃のおける南朝方勢力は衰退し、幕府政治が浸透していった。・・・ところが信濃国は、鎌倉公方足利氏の支配下に置かれ、関東管領上杉朝房が信濃守護に任命された。小笠原氏は不本意。以後、信濃国は幕府管理下に戻ったが、守護職は斯波氏が応安5年(1398)まで就任。軍事指揮権は事実上、小笠原氏が掌握していた。・・・ ”反尊氏”で、宗良親王を助け、足利幕府と戦い続けてきた南朝方は再興の可能性がなく、遂に下社方は脱落。正平18年(1363)、矢島正忠の守護・小笠原長亮(長基?)と桔梗が原で戦った記録・「沙弥道念覚書」の末尾に「この合戦に下之金刺・山田馳せ加わらず、如何に如何に」と衝撃的な寝返りを述べている。・・・三代将軍・義満の時代なると、南北朝合一がなり、幕府体制は絶対的専制となり上社も対抗するすべを失った。応永5年(1372)、諏訪頼貞が将軍義満から小井川と山田の2郷を与えられている。この時代、信濃国は鎌倉公方の管轄下であった。 至徳3年(1386)、翌年の御射山祭差定には、「聖朝安穏、天地長久、殊には征将軍の宝祚延長を奉為(たてまつらんがため)に、別しては国事泰平、人民豊永の故なり」と記され、「宝祚」とは「皇位」の意であるから、上社は将軍義満を事実上の日本国王と見なしていた。この時点では、既に南朝側のリーダー・諏訪上社は、足利幕府に敵対の意志を放棄したと見よい。時は至徳三年(1386)のこと。まだ野には南朝の残党は居たが、リーダーは不在になった。・・・桔梗ヶ原の戦い(1355)が終わって、二年後守護小笠原政長は没し、名実とも小笠原長基の時代になった。しかし若年の長基は、幕府に見くびられ、信濃守護職は九年で交替させられ、上杉家、斯波家が任命されていくことになる。

小笠原政長が没した(1357)以後、実質的な小笠原家当主になった長基だが、15歳頃(1364)守護職を交替させられている。信濃守護になった上杉家と斯波家の下で、実質的な軍事力を行使したのは小笠原長基であった。しかし、上杉家と斯波家が信濃守護の時代は、統治がうまくいかず、村上家や北信濃の豪族の跋扈を許したようである。この期間は、守護でない長基の時代だが、心中は如何だったのだろうか。そうして、応永六年(1399)、長基の子長秀が信濃守護に任命され、小笠原氏のもとに守護職が戻ってきた。長秀に当主を譲った長基は京都に引退することになる。・・・ここの部分の経緯は、多少複雑なようである。その証拠に、信濃守護・小笠原長秀が赴任して起こった「大塔合戦」は、長秀の大敗北に終わるが、京都にいた長基は、長秀援助で一切動かなかったそうだ。

長基の守護職解任の裏事情・・・

正平20年(1365)頃、京都の幕府管理下にあった信濃国が、鎌倉公方足利基氏の支配下に置かれるようになった。この頃守護職は、鎌倉公方の推薦によって幕府が任命する例となり、関東管領上杉朝房が信濃守護を兼任した。信濃国は東山道からの関東の入口として、鎌倉府防衛の要所であるため、以後も度々鎌倉府の管轄下に入った。守護小笠原長基にとって、不本意な解任であった。しかし幕府は鎌倉府を牽制する狙いもあって、長基に兵粮料所の給付権を与え、その軍事指揮権を保持させ、信濃守護上杉朝房と拮抗させた。兵粮料所とは、平安末期から南北朝期にかけて、戦乱の際にとくに指定されて兵粮米徴収の対象となった公領・荘園所領のことをいう。やがて南北朝内乱が激化すると、以前のように朝廷からの承認を得ず、各国守護が軍費調達、恩賞給付を口実に兵粮料所を濫設した。・・・長基が、守護を解任された後も力を保持できた理由は、上記の事情による。