探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

三家分立 鈴岡小笠原家

2014-02-10 21:23:30 | 歴史

  ・・鈴岡城

城郭構造 平山城
築城主 小笠原氏
廃城年 1590年
遺構 曲輪、土塁
指定文化財 県指定史跡

鈴岡城 :鈴岡城は小笠原貞宗の次男宗政が分家して築城

鈴岡城は、室町時代に松尾城主小笠原貞宗の次男宗政が分家して築城したといわれる。・・・信濃守護小笠原氏は、深志・松尾・鈴岡の三家に分裂して抗争を繰り返し、一時鈴岡家が本家松尾家に代わって南伊那を支配したこともあった。・・・小笠原氏は室町時代に府中、松尾そして鈴岡の小笠原三家に分かれ、信濃守護および小笠原惣領職の座を争った。文安3年(1446)惣領の小笠原宗康は弟の光康とともに小笠原持長と漆田原で戦って討死した。その子政秀は鈴岡城を拠点として伊賀良荘を領して勢力を維持し、松尾小笠原氏とは良好な関係にあったが、やがて伊賀良荘の領有を巡って松尾小笠原氏と対立することとなった。政秀は文明12年(1480)諏訪氏と結んで松尾の小笠原家長を討ったが、明応2年(1493)正月に家長の子貞基によって松尾城で子の長貞とともに暗殺され、鈴岡小笠原氏は滅亡した。・・・ここで鈴岡城は、松尾小笠原家の管理になる。政秀の養子であった府中の小笠原長朝は、松尾城の小笠原貞基と幾度となく戦って甲斐へ追いやった。その後、松尾城に戻ってきていた貞基であったが、天文3年(1534)に小笠原長棟に攻められ再び甲斐へ逃れた。その後、長棟の子小笠原信定が鈴岡城主となった。・・・武田信玄が信濃に侵攻し、松尾小笠原氏の小笠原信貴・小笠原信嶺父子は武田氏の家臣となった。信定は、府中の小笠原長時が敗れた後も抵抗したが、天文23年(1554)武田氏が伊那に侵攻すると敗れて京へ逃れた。信定のあと、鈴岡城は松尾小笠原の所有となっていたが、小笠原信嶺は、主人徳川家康が関東に移封すると、伴って関東に所領を移して、武蔵本庄藩主に治まっている。この移封の時、鈴岡城と松尾城はともに廃城になっている。

鈴岡城の概要

鈴岡小笠原氏の居城として十五世紀後半の戦国時代に用いられた鈴岡城は、竜丘駄科地区と伊賀良殿岡地区の中間に位置して台地の突端部にあり、標高四百九十メートル、北は毛賀沢川の侵食による深さ約六十メートルの谷を隔てて松尾城と相対している。・・城址はこのように天然の地形を利用した平山城で、その中に人工を加えた幾多の空堀や郭等が設けられている。この図にはないが外郭から西北方向の斜面にも三百メートル程の間にいくつかの郭が形成され、全体では東西三百メートル、南北六百メートルにわたる大規模なものであった。 ・・・現在、本丸と出丸は公園として利用されており、二の丸と外郭は畑となっている。また、毛賀沢川にかかる不動ヶ橋を利用して対岸の松尾城址に行くことができるが、松尾城址も現在公園として整備されている。

 

鈴岡小笠原家・系譜

・小笠原宗政・・鈴岡小笠原家の祖、貞宗の次男

宗康     ・守護、漆田原の戦いで、府中小笠原持長に殺される
・政秀     ・守護、松尾小笠原貞基によって殺害される
・長貞     ・幼年、政秀とともに貞基に殺害される

・・・暫く、廃城

・信定     ・府中小笠原長時の弟、鈴岡城へ養子に入る。信玄に抵抗し京に逃げる

歴史・・・

鈴岡城の築城は、宗政が松尾家から分家して鈴岡家を興したころといわれる。以来、鈴岡城は鈴岡小笠原氏の居城となった。松尾小笠原氏が拠点としていた松尾城は、鈴岡城とは毛賀沢川が流れる深さ約60mの谷をはさんだ北側にあった。15世紀後半には3家の対立は激しさを増し、このころの鈴岡小笠原氏は本家の松尾小笠原氏に代わって伊那郡南部を治めるほど勢力を拡大させていた。そして、1489年(長禄3)には、鈴岡城主で鈴岡小笠原氏当主の政秀は府中小笠原氏(小笠原長朝)を急襲して府中を制圧し守護の座についた。しかし、1493年(明応2)、松尾小笠原氏の小笠原定基(光康の孫)は、対立関係にあった政秀を松尾城に招いて殺害したのち、鈴岡城を攻撃し落城させた。いったん廃城となった鈴岡城はその後再興されている。1554年(天文23)、甲斐の武田晴信(武田信玄)が伊那郡に侵攻した際、松尾小笠原家の小笠原信嶺は武田氏に従った一方、鈴岡小笠原氏の小笠原信定は府中小笠原氏(守護家)の小笠原長時とともに武田氏と戦って敗れ、鈴岡城は落城。鈴岡小笠原氏は断絶した。この結果、鈴岡城は松尾小笠原氏の手に渡り、松尾城の支城となった。武田氏滅亡後、小笠原信嶺(松尾小笠原氏)は徳川家康に仕えたが、1590年(天正18)の家康の関東移封に伴って武蔵本庄に国替えとなり、鈴岡城は松尾城とともに廃城となった。現在、城跡のうち二の丸と出丸などは農耕地となっているが、かつての本丸を含む城域が、対岸の松尾城跡とともに松尾鈴岡公園として整備されている。保存状態は良好で、かつての城の原型をとどめており、中世の南信濃の平山城を知る上で貴重な手がかりとなっている。

漆田原の戦・・・室町時代に起きた信濃守護家の後継をめぐる内紛。・・・文安3年(1446)、小笠原宗康は父の小笠原政康から家督を相続していたが従兄の小笠原持長との間で相続をめぐる争いになった。宗康は弟の小笠原光康に自身が万一討死の際は家督を譲り渡す条件で協力の取り決めをして漆田原(長野市駅付近)での持長軍との合戦に臨んだが敗死。持長は宗康を討取りはしたものの家督を手中にすることが出来ず対立は子らの代にまで続いた。この後さらに小笠原家は三家に分裂して行った。

 

・・・未完

 


 

 

 

 

 

 



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