探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

府中(松本)の豪族 平瀬氏

2014-02-21 11:26:45 | 歴史

 府中小笠原氏に反抗か!従属か!

平瀬氏

平瀬氏は、犬甘氏と同族。終始向背ををともにしている。小笠原家に従属し、一貫して小笠原を主家として助けた。

 ・・平瀬城

 

平瀬城
l平瀬城主郭部
城郭構造 山城、居館
築城主 平瀬氏
主な城主 平瀬氏、原虎胤
廃城年 1553年
遺構 曲輪、土塁
指定文化財 なし
平瀬城(ひらせじょう)は、長野県松本市にあった日本の城。

住所;長野県松本市島内

平瀬氏

平瀬城は小笠原氏の家臣平瀬氏の城であった。小笠原長時は天文19年(1550)、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、その後、村上義清を頼り葛尾城に落ちていった。砥石崩れにより武田氏は村上方に敗れたが、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還した。天文20年(1552)平瀬城は武田晴信により落城し、城主の平瀬義兼は自刃した。晴信は平瀬城を改修し原虎胤に守らせた。天文22年(1553年)、筑摩郡は武田氏がほぼ平定したため、平瀬城は廃城となった。

ひらせじょう【平瀬城】

長野県松本市の島内地区にあった山城(やまじろ)。戦国大名で信濃守護の小笠原氏の家臣平瀬氏(犬甘(いぬかい)氏の一族)の居城。奈良井川と梓川が合流して犀川と名前を変える合流点近くの標高716m前後、比高約140mの山頂に本城が、その南の標高約650mの山頂に支城があった。それぞれ、北本城、南支城ともよばれている。この城は平瀬氏によって、小笠原氏の本城である林城の築城と前後して築かれたのではないかともいわれているが、築城年代・築城者は明らかではない・・・北本城、南支城とも保存状態は良好で、北本城には多数の帯曲輪(おびぐるわ)、堀切、虎口、武者走り、馬出、主郭・二の郭の土塁や石垣の一部などが残る。また、城跡からは焼米、石臼、内耳土器などの破片が出土した。南支城跡にも主郭の土塁や虎口、その前面の二の郭跡、南の尾根や東西斜面の堀切跡などが残る。JR篠ノ井線田沢駅から徒歩30分、国道19号沿いの平瀬城跡入り口から徒歩。

平瀬氏はのちに信濃守護として入国した府中小笠原氏の配下となった。その後、平瀬城は平瀬氏の居城として、犬甘城(同市)とともに、小笠原氏の本城の林城の北方を守る城として機能した。

1550年(天文19)、甲斐の武田晴信(武田信玄)は、対立していた信濃守護の小笠原長時への攻勢を開始し府中(現松本市)に進撃すると、村井城を前線拠点としてイヌイの城(埴原城とも推定されている)を攻略し、その後、小笠原氏の本城(林城と井川館)をはじめ、属城の深志城(のちの松本城)、岡田城、桐原城、山家城を次々と陥落させた。このとき、長時は林城から平瀬城に逃れたのち、北信濃の村上義清を頼って落ち延びたが、平瀬城は犬甘城とともに小笠原方の城として踏みとどまった。同年秋、信玄が戸石(砥石)城の合戦で村上義清に大敗すると(戸石崩れ)、義清のもとに身を寄せていた長時は再び平瀬城に入り、武田氏に対する小笠原氏の抵抗の拠点となった。しかし、1552年(天文21)、平瀬城は武田氏に攻められて落城。城主の平瀬義兼は自刃した。信玄は平瀬城を改修して原虎胤に守らせたが、筑摩・安曇を平定して支配を確立すると、その支配の拠点を深志城に一本化したため、平瀬城は1553年(天文22)に破却処分となった。

参考・・・熊倉氏館跡  ・・豊科・熊倉地区・・

熊倉氏は守護小笠原氏に従って 永 享 12 年(1440)に関東結城に出陣しています。松本市島内の
犬甘氏・平瀬氏の一党と思われますが、その後の動静は明らかではありません。

熊倉氏が氏神として祀っていたとみられる若宮八幡や、京都方面から神主として来往した宮崎高祖橘氏の神霊塚碑なども祀られています。