日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

秀吉が奉公した松下屋敷

2011-10-13 | 豊臣秀吉
浜松市頭陀寺町に、少年時代の秀吉が奉公したという松下屋跡があります。



その頃、秀吉は14歳。遠州頭陀寺城城主である松下源左衛門、嘉兵衛之綱のもとで奉公し、出世しましたが、流れ者がゆえに他の家臣から疎まれ、やむなく屋敷を後にすることになります。

平成13年、松下屋敷の一部を発掘したところ、約450年前の館跡が見つかり、その中に当時の硯が発見されました。
写真でもわかると思いますが、墨の真ん中がずいぶんへこんでいます。



(写真「広報はままつ」HPより)


頭陀寺町の「鎌研池」には秀吉に関する次のような話が伝わっています。

当時、この池で鎌を研ぎ、その切れ味を試そうとした藤吉郎は、辺りの葦の葉を切り落としたために、今もその池の葦の葉は片葉になっているといいます。

ブログランキングに参加しています。ご協力お願いします。


人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋の常泉寺

2011-10-10 | 豊臣秀吉
中村公園の豊国神社から東に約100m、妙行寺のすぐ北側にあるのが、加藤清正一族の円住院日誦上人によって秀吉をまつるために創建された太閤山・常泉寺です。

IMG_3389 B

IMG_3392 B

IMG_3391 B

IMG_3402 B

境内には「秀吉手植えの柊」のほか、「秀吉産湯の井戸」、秀吉の像があります。

IMG_3398 B

IMG_3396 B

IMG_3403 B

IMG_3400 B

IMG_3401 B

しかし、常泉寺のあるところが秀吉出生地ではないという説もあります。
秀吉の父・木下弥右衛門の死後、母は築阿弥と再婚しましたが、秀吉は築阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、家を出て、遠州の松下家に入ったとされています。(「太閤記」では築阿弥を秀吉の実父としている)
この地に築阿弥の屋敷があり、そこに秀吉がいたため、秀吉誕生地と間違って伝わったのではないかというのです。

遠州・松下家の記事は後日掲載する予定です。

ブログランキングに参加しています。ご協力お願いします。


人気ブログランキングへ


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加藤清正ゆかりの妙行寺

2011-10-09 | 加藤清正
中村公園のすぐ東側に、妙行寺というお寺があります。

IMG_3376 B

IMG_3377 B

IMG_3378 B

IMG_3379 B

IMG_3380 B

当寺は、元々現在地より100mほど東にありましたが、1610(慶長15)年に始まった名古屋城築城の際に、清正が城の余った材木を寄進、移築、再建したといいます。境内には清正像、「清正公生誕の地」「加藤肥後侯旧里碑」の石碑が置かれています。加藤肥後侯旧里碑は、中村公園内にある八幡社の境内にあったものですが、1870(明治3)年に清正の出生地は妙行寺であるとされ、移建されたそうです。

IMG_3381 B

IMG_3382 B

清正は、幼名を虎之助と言い、11才から秀吉に仕えました。賤ヶ岳の戦いでは、七本槍の一人として、また朝鮮に出兵し、虎狩りをしたことでも有名で、後に肥後の国の領主となっています。この中村公園の前の通りは「清正公通」と呼ばれています。

IMG_3386 B

IMG_3385 B

ブログランキングに参加しています。ご協力お願いします。


人気ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臨渓院

2011-10-07 | 織田信長
臨渓院は、瑞泉寺の塔頭のひとつで、1482年に創建されました。



堂塔は、1565年、織田信長の犬山攻めにより、近隣の寺院とともに消失しましたが、二代目城主・成瀬正虎により再建されました。





山門の東南の高台に、犬山城主・成瀬家の墓所があり、初代正成、正虎、正親、正幸の4基の一族の碑が立ち並んでいるとのことです。

ブログランキングに参加しています。ご協力お願いします。


人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瑞泉寺

2011-10-06 | 織田信長
犬山の瑞泉寺は、信長、秀吉らに崇敬され、尾張徳永家にも庇護された寺です。



山門



犬山城の門を移築したものといわれています。





 

 当寺は名鉄犬山遊園駅のすぐ東にあり、日峰宗舜禅師が創建した臨済宗妙心寺派の古刹である。室町初期応永年間、犬山の継鹿尾観音の一房で大蔵経を学ぶう ち、内田の人、内田左衛門次郎が自分の山に一寺建立を懇請した。現地を見た禅師は、この山に水が出ないことを知り、弟子蜂屋玄瑞(土岐一族)に命じ岩頭を うたせたところ、清泉がわき出た。
 禅師はその人の「瑞」をとって瑞泉寺と名付け、泉から立ち昇る水気が太陽に映えて龍が昇天するさまに似ていたので、山号 を「青龍」と決めたと伝えられる。禅師は師の無因宗因を開山に勧請し、自らはへりくだって二世となった。
 禅師は以来十年の歳月をかけて、応永二十二年(1415)に大伽藍を完成させた。本堂には朝態山の虚空蔵菩薩を勧請して本尊とした。日峰禅師は在住14年 子弟の育成に当たったが、折から本山妙心寺は取りつぶしとなっていたために、派中で再興の意欲が高まり、その推挙をうけて本山再興に当たることになった。
 禅師は後事を義天・雲谷・桃隠に託して永享五年(1433)本山へ上った。そして十年間を費してこの大業を成就し、妙心寺中興開山と仰がれるに至ったのである。文安五年(1448)正月二十六日妙心寺養源院で示寂された。
禅師のあとは義天・雲谷・桃隠から雪江・景川・悟渓・特芳・東陽などの高僧に引きつがれ、明治に至るまで四派輪住の寺であった。
 当寺は永禄八年(1565)の兵火で焼失したが、織田信長より朱印状を得て再建、次いで、秀吉が寺領五十石を寄せ、その後、尾張徳川家も当寺を被護した。塔頭は判明するだけでも二十四ヵ院を擁した。現在は龍済・龍泉・臥龍・輝東・臨渓・妙喜の六ヵ寺がある。
 鐘楼は古く室町時代明応三年(1494)建立と伝えられ、三猿は左甚五郎の作と伝えられる。山門は犬山城内田御門を移したものである。
(瑞泉寺由緒)











左甚五郎の作と伝えられる鐘楼の三猿







境内からは犬山城が見えます。



ブログランキングに参加しています。ご協力お願いします。


人気ブログランキングへ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする