山岡道阿弥が眠る京都の知恩院の墓所を訪ねました。
墓所は、徳川家の千姫の墓よりもさらに高いところにあり、探しにくいと聞いていたので、知恩院境内の信重院の方に案内していただきました。
山岡道阿弥が伏見城から寄進した知恩院黒門(京都府指定文化財)
三門
三門をくぐり、急な石段を上りきると、御影堂がありますが、現在修復中です。
御影堂
除夜の鐘で有名な鐘楼
方丈庭園
ここまで来ると、ずいぶん上まで登って来たかがこの景色を見て実感できます。
法然上人の御廟
千姫の墓
千姫は、 徳川秀忠の長女で、幼くして、豊臣秀頼の元へ嫁ぎますが、大阪の陣により徳川家の元へ保護されました。その後、姫路城主 本田忠政の嫡男 忠刻のもとへ再嫁しますが、忠刻らの病死により、弟の三代将軍 徳川家光の元へ戻ります。千姫は出家して天樹院と号し、江戸の竹田御殿で余生を過ごしたといわれています。
山岡道阿弥がねむる墓所は、千姫の墓を見下ろす東山の小高い場所にあります。
道阿弥の墓は、信重院により、手厚く供養されており、道阿弥が三井寺・光浄院とともに、知恩院にも縁のある人物であったかを知ることができました。
帰りはひたすら階段を降りて来ます。
山岡道阿弥陀(景友)
天文9年(1540年)、守護六角氏家臣の瀬田城主・山岡景之の四男として生まれる。山岡家はもともと、甲賀郡の毛牧村を本拠地とした地侍で、栗太郡、甲賀郡など湖南地方に広い勢力を築きあげていた。
道阿弥は、はじめ三井寺に入り、三井寺光浄院の住持となり、暹慶(せんけい)と号す。
第15代将軍・足利義昭により幕臣に取り立てられたが、元亀3年(1572年)、義昭の命で還俗し山岡景友と名乗り、幕府より山城半国の守護に任じられる。
織田信長と足利義昭が不和となり、信長と義昭の戦いが始まると、景友は義昭に従い近江石山城に立て籠もって抗戦。元亀4年(1573年)柴田勝家に攻められ、織田方に付いた兄・景隆の説得を受けて降伏・開城。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で、信長が死去すると、瀬田橋に火を放ち、兄と共に安土城に向かう明智軍を防ぎ、その功により秀吉のお咄衆として仕えている。
秀吉から伏見城下に屋敷を拝領した場所は、現在の近鉄「桃山御陵前駅」周辺に当たり、今も「道阿弥町」という名前で呼ばれている。
その後、兄たちが勝家に与し羽柴秀吉により改易されたため、景友が山岡氏惣領となり甲賀における権利の一部を継承した。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、佐久間信栄に従って伊勢国峰城を攻めたが、程なく天下人に台頭した秀吉の家臣となり、領地を安堵され、後に御伽衆にも加えられた。
なお、領地の関係で大津城主の京極高次と親しかった。
その後、再び剃髪して道阿弥と号した。
天正20年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋城に在陣した。
秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に属して伊勢長島城の守備や伊勢桑名城・近江水口城の攻略に功績を挙げ、戦後高野山に籠った高次の説得にも尽力した。これにより近江国内で9,000石と甲賀組を与えられた。
またその後、石高を加増されて常陸古渡1万石の大名となる。
慶長8年(1603年)に死去。享年64。
道阿弥の子孫は江戸時代になっても幕府に仕え、将軍の側近である御書院番などを勤め明治維新を迎えている。
(Wikipedia、三井寺HPより)
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墓所は、徳川家の千姫の墓よりもさらに高いところにあり、探しにくいと聞いていたので、知恩院境内の信重院の方に案内していただきました。
山岡道阿弥が伏見城から寄進した知恩院黒門(京都府指定文化財)
三門
三門をくぐり、急な石段を上りきると、御影堂がありますが、現在修復中です。
御影堂
除夜の鐘で有名な鐘楼
方丈庭園
ここまで来ると、ずいぶん上まで登って来たかがこの景色を見て実感できます。
法然上人の御廟
千姫の墓
千姫は、 徳川秀忠の長女で、幼くして、豊臣秀頼の元へ嫁ぎますが、大阪の陣により徳川家の元へ保護されました。その後、姫路城主 本田忠政の嫡男 忠刻のもとへ再嫁しますが、忠刻らの病死により、弟の三代将軍 徳川家光の元へ戻ります。千姫は出家して天樹院と号し、江戸の竹田御殿で余生を過ごしたといわれています。
山岡道阿弥がねむる墓所は、千姫の墓を見下ろす東山の小高い場所にあります。
道阿弥の墓は、信重院により、手厚く供養されており、道阿弥が三井寺・光浄院とともに、知恩院にも縁のある人物であったかを知ることができました。
帰りはひたすら階段を降りて来ます。
山岡道阿弥陀(景友)
天文9年(1540年)、守護六角氏家臣の瀬田城主・山岡景之の四男として生まれる。山岡家はもともと、甲賀郡の毛牧村を本拠地とした地侍で、栗太郡、甲賀郡など湖南地方に広い勢力を築きあげていた。
道阿弥は、はじめ三井寺に入り、三井寺光浄院の住持となり、暹慶(せんけい)と号す。
第15代将軍・足利義昭により幕臣に取り立てられたが、元亀3年(1572年)、義昭の命で還俗し山岡景友と名乗り、幕府より山城半国の守護に任じられる。
織田信長と足利義昭が不和となり、信長と義昭の戦いが始まると、景友は義昭に従い近江石山城に立て籠もって抗戦。元亀4年(1573年)柴田勝家に攻められ、織田方に付いた兄・景隆の説得を受けて降伏・開城。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で、信長が死去すると、瀬田橋に火を放ち、兄と共に安土城に向かう明智軍を防ぎ、その功により秀吉のお咄衆として仕えている。
秀吉から伏見城下に屋敷を拝領した場所は、現在の近鉄「桃山御陵前駅」周辺に当たり、今も「道阿弥町」という名前で呼ばれている。
その後、兄たちが勝家に与し羽柴秀吉により改易されたため、景友が山岡氏惣領となり甲賀における権利の一部を継承した。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、佐久間信栄に従って伊勢国峰城を攻めたが、程なく天下人に台頭した秀吉の家臣となり、領地を安堵され、後に御伽衆にも加えられた。
なお、領地の関係で大津城主の京極高次と親しかった。
その後、再び剃髪して道阿弥と号した。
天正20年(1592年)の文禄の役では、肥前名護屋城に在陣した。
秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に属して伊勢長島城の守備や伊勢桑名城・近江水口城の攻略に功績を挙げ、戦後高野山に籠った高次の説得にも尽力した。これにより近江国内で9,000石と甲賀組を与えられた。
またその後、石高を加増されて常陸古渡1万石の大名となる。
慶長8年(1603年)に死去。享年64。
道阿弥の子孫は江戸時代になっても幕府に仕え、将軍の側近である御書院番などを勤め明治維新を迎えている。
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ありがとうございました。
小生も2月17日久し振りに智恩院参拝にいこうと思っています!
私は春までどこにも行けそうにないので
京都の情報お願いします。
その時は御影堂にお参りしました。何回かは見てますが、中へ入ったのは初めてでした。あの時はいろいろ周りました。
千姫の墓も行きました、だけど山岡道阿弥は行ったかどうか忘れてます。
浄土宗は家康から始まって大きくなったんですね。
御影堂はしばらくお参りできませんね。
修復前にも行っておいて良かったです。
知恩院は境内が広いので、目的を定めて
行かないと回り切れませんね。
山岡道阿弥の墓は、千姫のよりも更に上の方に
ありました。