日々史跡めぐり

日本のあちこちの史跡、神社仏閣を巡っています

浜松城

2011-11-11 | 
浜松城は、三方ヶ原台地の東南端にあって、徳川家康が築いた。
家康は天文11年(1542)三河国岡崎城内に誕生し、父は松平広忠。母に生別、駿府に少年時代を過ごすが、岡崎に戻り、永禄11年(1568)に三河から遠江に入り、各地を転戦して引馬城をはじめ諸城をしたがえると共に、元亀げんき元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって、自らは浜松城へ移り、駿遠すんえん経営の本拠と定めた。
家康は、29歳から天正14年(1586)45歳で駿府城(静岡市)に入るまで、在城17年に及んでいる。有名な姉川、長篠、高天神城、小牧・長久手の戦いもこの期間に行われ、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦は、家康の生涯における難戦で、関ヶ原合戦以上の戦いであった。
家康にとって、この浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築く試練の年でもあった。
当時の城郭は、南北500m、東西約450mで、三方ヶ原台地の斜面に沿い、天守閣・本丸・二の丸、三の丸がほぼ一直線に並び、梯郭ていかく式の築城法に属している。その他作左曲輪さくざくるわ、出丸でまる等もあった。
この浜松城は、豊臣の家臣、堀尾吉晴氏によって天守が築かれたといわれているが、江戸に幕府が開かれてからは、代々の諸大名にこれを守らせ、浜松藩政約260年の間に再任を含めて25代の城主が在城した。在城中に老中に5人、大阪城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に4人(兼任を含む)が登用されており、なかでも水野忠邦は、天保の改革でよく知られている。そのことから、浜松城が出世城ともいわれるようになった。明治維新以後、城郭は壊され、すっかり荒廃していたが、昭和33年春浜松市民の努力が結実し、旧天守閣跡に新天守閣が再建され、昭和34年6月1日市の史跡に指定された。
(浜松城のリーフレットより)





石垣は野づら積みと呼ばれる堅固な作り

























もう少し秋が深まると、浜松城公園の紅葉が始まります。

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2 コメント

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浜松城! (shikata tsuguo)
2011-11-14 07:06:44
浜松城は、三方ヶ原台地の東南端にあって、徳川家康が築いものですね!
 この城は早く見たいものです。
御殿場の次男一家を12月初旬訪問予定です。
 帰路立寄るかも!
返信する
Unknown (しずか)
2011-11-14 09:21:14
四方さん、おはようございます。

もし来年浜松城にいらっしゃるなら
事前にお知らせくださいね。
家からならそれほどの距離でないので
返信する

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