愛知県岡崎市朝日町にある若宮八幡宮には、徳川家康の長男・徳川信康の首塚があります。
信康は、永禄2年(1559)3月6日、駿府で生まれました。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごし、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移ります。
永禄10年(1567)織田信長の娘・徳姫と結婚し、家康が浜松城に移った元亀元年(1570)に岡崎城主になり、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗りました。信長は、信康の母・築山御前が今川方の出身であり、武田方と内通しているとの理由で、築山御前と信康の処断を家康に迫り、信康は、天正7年(1579)遠江(浜松)の二俣城で「我れ天道に逆らって父に謀反し勝頼に一味するという汚名こそ死出の防げぞ。このことだけは父上によく聞こえ上げてくれよ」と言い残し、21歳の若さで自刃しました。
その後、重臣の石川数正が岡崎城代となり、供養塔の首塚を建てました。
御由緒
御祭神 仁徳天皇 岡崎三郎信康公
当神社の創立年月日不詳であるが 往古より名栗天神と言い仁徳天皇を奉斎する神社であった。その後天正7年(1579)9月15日 徳川家康公の御長男岡崎三郎信康公は織田信長の御口難により 遠州二股城にて御時21才を此の世の果と御自害され 御首は信長方へ實験の上岡崎へ御差戻しとなった いかに戦国の世とは言へ 子を失った親の気持は計り知れない 家康公は涙をこらへ 清水万三郎に仰せ付け 当地に奉埋する その後岡崎城内には種々の怪異変化が度び重なり 諸人等は恐れ入り 信康公の御霊を当神社に合祀する 当時は信長の権力により 公には出来ず社名を菅生八幡宮と改める その後若宮八幡宮と改め明治5年村社となる(駒札より)
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