日々史跡めぐり

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堀河天皇里内裏址

2014-09-20 | 石碑
京都国際ホテル前には「堀河天皇里内裏址」の碑もあります。






堀河院の遺址

二條通と堀川通によって画された東西120米、南北250米地域は、古の堀河院の遺址であって、正式には左京ニ坊九、十町に當たっている。初めそれは、関白 藤原基経(836-891)が造営した大邸宅であった。 彼は主に公式な行事のため本邸を用いた。ここで宴会が催されたときなどには、公卿たちの牛車は堀河の東側に立てられ、牛は二條堀河の橋の欄干に繋がれていたと言う。この邸宅における苑池の美しさは、幾多の詩歌に詠まれている。
基経の死後、堀河院は息子の左大臣・仲平に伝えられ、彼の娘などの手を経て関白・藤原兼通の所有に帰した。兼通の娘の子は円融天皇の中宮であったため、本邸は円融上皇の御所となったこともある。兼通の息子の顕光がここに居住した時分には様々な話題で時人の関心の的となった。
堀河院が最も脚光を浴びたのは、ここが堀河天皇の御所(里内裏)となっていた時期であって、天皇は嘉承二年(1107)七月ここで崩じた。この委細は、『讃岐典侍日記』に見事に叙べられている。 
平成元年七月
文学博士 角田 文衛


堀河天皇

白河天皇の第二皇子、母は藤原師実の養女・中宮賢子
応徳3年(1086年)11月26日、立太子と同日に8歳で父白河天皇から譲位され即位した。即位に伴い、義理の外祖父にあたる関白藤原師実が摂政となり実権を握った。

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コメント (4)
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