限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

通鑑聚銘:(第75回目)『袁紹の優柔不断と曹操の雄才遠略』

2011-04-24 15:13:29 | 日記
現在の平穏な民主主義社会では、本当の意味での人の評価はできない、あるいは出来る鑑識眼が養われないと私は以前から考えている。現在の社会とは喩えて言えば、車を運転するようなレーサーのようなものである。アフリカのサバンナであれば走るのは自分の力によるしかないので、脚力がその人の能力そのものである。しかし、走る力をガソリンエンジンに頼るレーサーには脚力は要求されない。むしろ必要とされるのはハンドルさばきのような腕の器用さである。誰もカーレースの順位がレーサーの脚力の順位だとは考えない。明らかにこれら二つは別物だと認識している。

しかし、このような当たり前のことを現在社会では理解できないでいる。民主主義という政治体制、あるいは資本主義という経済体制に乗かかってハンドルさばきだけが得意な政治家・経営者だけがちやほやされている。しかし危機、つまりサバンナの喩えでいうと自分の力以外に頼るものがない世界、では本人のもつ見識や胆力が試される。現在だけでなく、歴史上では常に危機こそ人の価値が露になる時節であったのだ。



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資治通鑑(中華書局):巻63・漢紀55(P.2017)

関中の将軍たちは袁紹と曹操が対立しているのを、どちらつかずにじっと見守っていた。涼州牧の韋端は家来の楊阜を曹操が陣取っている許へ派遣して様子を見させた。楊阜が戻って来たので皆が、どちらが勝ちそうだね?と尋ねた。楊阜は、次のように答えた。『袁紹公は寛大だが優柔不断で、いろいろと策は練るものの実行力がない。それで威厳が感じられない。ぐずぐずするものだから問題が多い。今は羽振りが良いが結局はダメになる。一方曹操公は遠大な長期プランを持っている。決めたら即実行する。信賞必罰で軍隊の規律も整っている。新規に雇った人間でも責任ある地位に就けて能力を存分に発揮させている。天下を取るのはこの人以外にいない。』

關中諸將以袁、曹方爭,皆中立顧望。涼州牧韋端使從事天水楊阜詣許,阜還,關右諸將問:「袁、曹勝敗孰在?」阜曰:「袁公寛而不斷,好謀而少決;不斷則無威,少決則後事,今雖強,終不能成大業。曹公有雄才遠略,決機無疑,法一而兵精,能用度外之人,所任各盡其力,必能濟大事者也。」

関中の諸将、袁と曹のまさに争うを以って,皆、中立して顧望す。涼州牧・韋端、従事・天水の楊阜をして許に詣でさす。阜の還る。関右の諸将、問う「袁と曹の勝敗はいずくに在りや?」阜、曰く:「袁公は寛なるも断ぜず,謀を好むも決すること少なし。不断なれば則ち威なし。少決なれば則ち、後に事あり。今、強しと雖ども、ついに大業をなすあたわず。曹公は雄才にして遠略あり。機を決するに疑なし、法は一にして兵は精し。よく度外の人を用い、任ずるところ、おのおのその力を尽くす。必ずよく大事をなす者なり」
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楊阜の見るところでは、袁紹は単に飾っているだけのぼんぼんであるが、曹操は実務において自分がするべきこと、そして天下を牛耳る方略を理解している人だということだ。

現在(2011年4月24日)福島原発の放射能汚染で東京電力や政府はその対策に苦慮し、右往左往している。普段であれば、その馬脚を現すことがなかったが、いざこのような緊急事態ともなると、地位や権威などといういわば仮の姿ではなく本体が如実に表れてくる。つまり、危機というのは人物の真贋の試金石と言えよう。しかし、残念ながら日本人というのは得てして人当たりの良い政治家・経営者を好み、一見傲慢に見える豪胆な(胆のすわった)政治家・経営者を好まない風潮がある。そして自分達の好き嫌いによる選択の誤りがこのような危機に際して露呈する。

現在のような緊急事態は何も今、新たに起こった訳ではなく、過去にも何度もあった。その時々の人々の行動、判断を見てみると自然と見えてくるものがある。それによって現在どうすべきかが分かる。この意味で歴史とは既に過ぎ去った過去ではなく、現在への指針ともなり、未来を見通すものでもあると私は考える。
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