限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

通鑑聚銘:(第72回目)『中国の史書とは人物鑑定の書だ』

2011-04-03 23:41:16 | 日記
歴史書の古典を読むのがよい、と私は学生に勧めている。といっても日本と中国の歴史書の趣旨は随分とことなる。日本でいう歴史書(日本書紀など)は、事件(それも政治からみのもの)が中心となっている。つまりどういうことが起こってどうなったか、と叙事的である。これは歴史書というものが、後世の人間が過去の有職故実(しきたり)を知るためのものという意識でかかれたためであろう。一方中国の歴史書は、確かに日本のような側面はあるものの、人としての生き方を教えるための書、即ち現代用語でいうところの哲学書としての意識で書かれている。紀元前の書経や春秋左氏伝から始まって、この資治通鑑に至るまで、その意識は綿々と受け継がれている。

その人の生き方が書かれている、という例を今回は取り上げてみよう。

まずは公孫瓚から始めよう。

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資治通鑑(中華書局):巻61・漢紀53(P.1977)

公孫瓚は、すでに劉虞に勝利し(殺して)、幽州を占領してから、士気もたかまり傲慢になり、人民をこきつかった。人の失敗はずっと記憶したが、世話になったことは忘れ、ちょっとした恨みも必ず仕返しをした。ちょっとでも、立派な服装をしている士をみつけると、ありもしない罪に陥れて罰した。また頭のきれる人を見つけると、必ず困難な仕事に振り向け、窮地に陥れるのを楽しんだ。どうしてそのようなことをするのか、と尋ねられると、『服装というものは、職階に相応しいものを着るべきだ。人から恵んでもらおうなどとは考えないことだ。』その一方で、商人やチンピラを可愛がり、義兄弟あるいは婚姻関係を結び、徹底して庶民から絞りとったので、庶民から憎まれた。

公孫瓚既殺劉虞,盡有幽州之地,志氣益盛,恃其才力,不恤百姓,記過忘善,睚眥必報。衣冠善士,名在其右者,必以法害之;有材秀者,必抑困使在窮苦之地。或問其故,瓚曰:「衣冠皆自以職分當貴,不謝人惠。」故所寵愛,類多商販、庸兒,與爲兄弟,或結婚姻;所在侵暴,百姓怨之。

公孫瓚、既に劉虞を殺し尽く幽州の地を有す。志気、ますます盛んに、その才力を恃み、百姓を恤まず。あやまちを記し、善を忘る。睚眥も必ず報ず。衣冠の善士、名、その右にある者、必ず法をもって害す。材の秀なる者あるは,必ず抑困し、窮苦の地にあらしめる。或るひとその故を問う。*C5D0、曰く:「衣冠、みな自ら職分を以って当に貴ぶべし。人の恵みを謝さず。」もと寵愛する所、多く商販、庸児に類とし、兄弟、あるいは婚姻を結ぶ。在る所侵暴し、百姓、これを怨む。
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公孫瓚の傲慢な態度があぶりだされている。このような性格の人間だったので、最後がよくなかった、というストーリーの展開が見えぬところで完成している、とでもいいたそうな書き方だ。



次は呉の孫策。

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資治通鑑(中華書局):巻62・漢紀54(P.1987)

孫策は自分みずから会稽太守となり、虞翻を再度、功曹に任命し、臣下としてではなく友達として付き合った。孫策は狩猟がすきでよくでかけた。虞翻はそれを咎めて『公は気軽にお忍びに出かけるけれど、お付のものはくたくたになる。君主たるもの重々しい態度をしめさないと見くびられる。故事にもあるように、白龍も魚の姿に変えてお忍びで出かけたためにエライ目にあってしまった。また白い大蛇も道で寝そべっていたために、劉邦に切られてしまった。公もご用心を!』孫策は、『君の言うとおりだ』と言いながら、それからも態度を改めなかった。

策自領會稽太守,覆命虞翻爲功曹,待以交友之禮。策好游獵,翻諌曰:「明府喜輕出微行,從官不暇嚴,吏卒常苦之。夫君人者不重則不威,故白龍魚服,困於豫且,白蛇自放,劉季害之。願少留意!」策曰:「君言是也。」然不能改。

策、自ら会稽太守を領し、虞翻を覆命し功曹となし,待つに交友の礼をもってす。策、游猟を好む。翻、諌めて曰く:「明府、喜んで軽出、微行す,従官、厳に暇まあらず。吏卒、常にこれに苦しむ。それ、君人は重からざれば則ち威あらず。故に白龍は魚服し、予且に困り、白蛇は自放したるに、劉季、これを害す。願くは少しく留意せんことを!」策、曰く:「君の言、是なり。」しかるに改むあたわず。。
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孫策は頭の回転が速く、機動的なよい面を持っていた。しかしそれがあまりにも頻繁なので、お付の者が孫策の機敏さに追いつかず、従者がいないまま遠乗りをしてしまうことが多くあった。一国の君主としてはそれでは余りにも敵に狙われやすいから、と虞翻が注意した。しかし、孫策は、その忠告を聞き流しただけであった。結局この軽はずみな行動が彼の命取りになるのであった。

ところで、この部分に対して、胡三省は『爲策死於輕出張本』(策、軽出に死すの張本となる。)という注をつけている。この注によって、孫策の死がこの無防備な外出が原因だと関連が予測できる。以前も『読まれざる三大史書』に書いたように資治通鑑を読むにはこの胡三省は欠かせないといえる。

最後は曹操。

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資治通鑑(中華書局):巻62・漢紀54(P.1988)

以前に郭嘉は袁紹の下に赴いた。袁紹は郭嘉をうやうやしく迎えた。しかし、数十日たってから、袁紹の腹心の部下である辛評と郭図に次のように言った。「賢者というのは主人の器量や力量を正確に計かることができ、その器量れに応じた万全の策を提案することで成果がでる。見たところ、袁紹公は昔の周公の真似をして士にへり下るふりをするが、一向に人の知恵を活用しようとはしない。こまごまと言うが、要点はぼけている。決断力がないので、計画倒れだ。これでは、袁紹公を援けて天下を取ろうとしても無理だな。私は袁紹公に見切りをつけて別の主人を探そうと思うが、君たちはどうして去らないのか?」辛評と郭図の二人は、「袁氏は天下の名門で多くの人が慕って集まってきていて、目下のところ最強である。どうして別のところへいく必要があるのか?」郭嘉はこの二人に言っても無駄だと悟って、黙って去って、曹操の下に赴いた。曹操は、郭嘉と天下の形勢について語りあい、意気投合し喜んで言った。「わしの天下取りを成し遂げてくれるのはこの人だ!」一方、郭嘉も曹操と別れてから、喜んで言った「曹操こそまことに私が求めていた主人だ!」曹操は、早速郭嘉を司空祭酒に任命した。

初,郭嘉往見袁紹,紹甚敬禮之,居數十日,謂紹謀臣辛評、郭圖曰:「夫智者審於量主,故百全而功名可立。袁公徒欲效周公之下士,而不知用人之機,多端寡要,好謀無決,欲與共濟天下大難,定霸王之業,難矣。吾將更舉以求主,子盍去乎!」二人曰:「袁氏有恩徳於天下,人多歸之,且今最強,去將何之!」嘉知其不寤,不復言,遂去之。操召見,與論天下事,喜曰:「使孤成大業者,必此人也!」嘉出,亦喜曰:「眞吾主也!」操表嘉爲司空祭酒。

初め,郭嘉、往きて袁紹を見る。紹、甚だこれを敬礼す。居ること数十日,紹の謀臣、辛評と郭図に曰く:「それ、智者は主を量るに審かなり、故に百全にして功名立つべきなり。袁公、徒らに周公の士に下るをならわんと欲するも,人の機を用いるを知らず。多端にして要すくなし。謀を好むも決なし。ともに共に天下の大難をすくい、覇王の業を定めんとするも,難かな。吾、まさに更に挙げてもって主を求めんとす。子、なんすれぞ去らざらんや!」二人、曰く:「袁氏、天下に恩徳あり、人、多くこれに帰す。かつ今、最強なり,去りて、はたいずくに行かん!」嘉、その寤(さとら)ざるをしり,復た言わず,遂に去る。操、召して見、ともに天下の事を論ず,喜んで曰く:「孤をして大業を成さしめん者は、必ず此の人なり!」嘉、出で,また喜んで曰く:「真に吾が主なり!」操、嘉を表して司空祭酒となす。
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郭嘉はまず、袁紹に会ったが、挨拶だけは丁重だが全く信頼もされず提言も受け入れてもらえなかった。数十日滞在して、見切りをつけて去り、今度は曹操に会った。曹操は、早速郭嘉を招きいれて議論して、郭嘉の凄さをしった。そしてすぐさま郭嘉を雇いいれた。

郭嘉は数十日で、袁紹のリーダーとしての力量がないことを見抜いたが、ずっと袁紹に仕えていた辛評と郭図にはそれが全く分からなかった。この二人は自分の眼で袁紹の力量を計っていたのではなく、単に袁紹の血筋や世間の風評を盲信していただけであった。当然のことながら、この二人も袁紹にひきずられて破滅してしまったことであろう。

このように、歴史的事件ではなく人としての生き方や人物鑑定を実例に即して事実ベースで教えてくれるのが中国の歴史書である。この意味で私は、中国の歴史書、それも本物の史書は中国人のみならず、我々日本人にとっても必読の書であると考える。
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