『不易流行』とは芭蕉の俳諧の根本精神が表わされている、と言われる。【流行】、つまり時代に応じて俳句が変化していくことこそが、【不易】、つまり俳諧の変わらぬ本質である、と芭蕉は説いたというのだ。
芭蕉の定義はさておき、『不易流行』の意味を私なりに解釈してみる。
世の中の学問には、時代や生活様式と無関係に本質的なものを求める『不易』の学問もあれば、時代と共に変化していくもの、つまり『流行』の学問もある。
『不易』の学問とは哲学や宗教などが該当する。というのは、これらの学問においては、一見新たな知見を従来の思考の上へと加えることができるようだが、本質的には各人がそれぞれの人生をどのように生きるかという根本命題は、各人がゼロベースで考えざると得ないものである。この意味で、哲学や宗教など、広い意味での形而上学、は人間誰もが同じスタート地点から歩み始めるものなのだ。
一方、『流行』の学問と言えば、科学技術が挙げられよう。科学技術とは、先人の思考した結果、あるいは発見したものをベースにしてそこから上へと新たな知見や創造を付け足していくことができる。それで、過去の先人たちの集積知を享受することのできる現代の我々が過去の科学技術をみるとその幼稚さにあきれかえる。更に、人間というのは論理的に考えているようで、まったく頓珍漢な結論を導いていることの多さに気づく。
その意味で以前、セネカが自然現象に関しての当時の "科学的見解" をまとめた Naturales Quaestiones『自然研究』という本を読んだ時、人間の論理思考が、想像以上に脆弱であるということを思い知った。当時の貧弱な観測機器からでは、地球スケール、の気候や宇宙スケールの天体の運動に関する十分なデータが取ることができないので、推論も当然のことながら的外れである。つまり、いくら懸命に論理力を働かせても、一旦間違った方向に進んだ論理が正解にたどり着くことはほとんどなかった。それらの間違った論理が訂正されるには、その後1500年以上もの歳月が必要とされた。
(参照ブログ:『らせん状の思考階段』)
ところで、この Naturales Quaestiones『自然研究』の巻2(50.3) に 雷の話しが出てくる。それは大約、次のような内容である。『雷にはいろいろの種類がある。我々に啓示をもたらすものもあれば、そうでないものもある。啓示には吉兆のものもあれば凶兆のものもある。凶兆のものには回避可能なものもあればそうでないものもある。。。結局雷が我々に示すのは、恐れでもないし喜びでもない。それはちょうど旅が恐怖でも希望でもないように。』
Nec adversa nec laeta sunt quae aliquam nobis actionem significant qua nec terreri nec laetari debemus, ut peregrinationem in qua nec metus quicquam nec spei sit.
The events are indifferent who should inspire fear, nor joy, such a journey would be no good to have hope or to fear no evil
ここの最後の文章の "nec spe, nec metu" (希望ももたず、さりとて恐れも抱かず)というのは、当時既によく知られていた句らしく、同時代のキケロ(Cicero)やリビウス(Livius)の文にも見られる。
さて、私の好きな荘子の外篇・秋水篇に『故に、得て喜ばず、失って憂えず。分の無常なるを知ればなり』(故得而不喜,失而不憂,知分之無常也)という句が見える。意味は、人間が求める財産や地位はたとえそれらが手に入ったにしても、またいつかは亡くなるものであるから、得ても大騒ぎて喜ぶ必要もないし、亡くしても大げさに悲しむ必要もない、との戒めだと私は理解している。
ラテン語の句、 "nec spe, nec metu"(without hope, without fear)と荘子の『得而不喜、失而不憂』の句に、私は同じ『世慣れた大人の処世術』の匂いを感じる。
芭蕉の定義はさておき、『不易流行』の意味を私なりに解釈してみる。
世の中の学問には、時代や生活様式と無関係に本質的なものを求める『不易』の学問もあれば、時代と共に変化していくもの、つまり『流行』の学問もある。
『不易』の学問とは哲学や宗教などが該当する。というのは、これらの学問においては、一見新たな知見を従来の思考の上へと加えることができるようだが、本質的には各人がそれぞれの人生をどのように生きるかという根本命題は、各人がゼロベースで考えざると得ないものである。この意味で、哲学や宗教など、広い意味での形而上学、は人間誰もが同じスタート地点から歩み始めるものなのだ。
一方、『流行』の学問と言えば、科学技術が挙げられよう。科学技術とは、先人の思考した結果、あるいは発見したものをベースにしてそこから上へと新たな知見や創造を付け足していくことができる。それで、過去の先人たちの集積知を享受することのできる現代の我々が過去の科学技術をみるとその幼稚さにあきれかえる。更に、人間というのは論理的に考えているようで、まったく頓珍漢な結論を導いていることの多さに気づく。
その意味で以前、セネカが自然現象に関しての当時の "科学的見解" をまとめた Naturales Quaestiones『自然研究』という本を読んだ時、人間の論理思考が、想像以上に脆弱であるということを思い知った。当時の貧弱な観測機器からでは、地球スケール、の気候や宇宙スケールの天体の運動に関する十分なデータが取ることができないので、推論も当然のことながら的外れである。つまり、いくら懸命に論理力を働かせても、一旦間違った方向に進んだ論理が正解にたどり着くことはほとんどなかった。それらの間違った論理が訂正されるには、その後1500年以上もの歳月が必要とされた。
(参照ブログ:『らせん状の思考階段』)
ところで、この Naturales Quaestiones『自然研究』の巻2(50.3) に 雷の話しが出てくる。それは大約、次のような内容である。『雷にはいろいろの種類がある。我々に啓示をもたらすものもあれば、そうでないものもある。啓示には吉兆のものもあれば凶兆のものもある。凶兆のものには回避可能なものもあればそうでないものもある。。。結局雷が我々に示すのは、恐れでもないし喜びでもない。それはちょうど旅が恐怖でも希望でもないように。』
Nec adversa nec laeta sunt quae aliquam nobis actionem significant qua nec terreri nec laetari debemus, ut peregrinationem in qua nec metus quicquam nec spei sit.
The events are indifferent who should inspire fear, nor joy, such a journey would be no good to have hope or to fear no evil
ここの最後の文章の "nec spe, nec metu" (希望ももたず、さりとて恐れも抱かず)というのは、当時既によく知られていた句らしく、同時代のキケロ(Cicero)やリビウス(Livius)の文にも見られる。
さて、私の好きな荘子の外篇・秋水篇に『故に、得て喜ばず、失って憂えず。分の無常なるを知ればなり』(故得而不喜,失而不憂,知分之無常也)という句が見える。意味は、人間が求める財産や地位はたとえそれらが手に入ったにしても、またいつかは亡くなるものであるから、得ても大騒ぎて喜ぶ必要もないし、亡くしても大げさに悲しむ必要もない、との戒めだと私は理解している。
ラテン語の句、 "nec spe, nec metu"(without hope, without fear)と荘子の『得而不喜、失而不憂』の句に、私は同じ『世慣れた大人の処世術』の匂いを感じる。