日本の古代(紀元2、3世紀)の風俗を記した資料に魏志倭人伝がある。2000字程度で極めて簡潔ではあるが、古代日本や日本人の風俗がよくわかる。例えば、日本には『牛・馬・虎・豹・羊・鵲がいない』(其地無牛馬虎豹羊鵲)という記述がある。この記述が正確かどうか私には分からない。ただ虎・豹・羊が全くいなかったというのは確かだろうと思える。牛・馬に関しては、多分ほとんど見かけなかったほど数が少なかったのではなかろうかと私には思える。また当時の倭人の記述がそのまま今の日本人にも当てはまる記述も見られる。例えば『泥棒が少なく、争いごとも少ない』(不盜竊、少諍訟)。葬式の時には、『喪主は哀しげに泣くが、会葬者は飲み食いをして騒ぐ』(喪主哭泣、他人就歌舞飲酒)。
しかし、魏志倭人伝の記述の全てが正しい訳ではない。その例を挙げると:
当時の倭人は一夫多妻制で、金持ちは4、5人の妻妾をもち、貧乏人でも少なくとも2、3人の女と暮らしていたいた(國大人皆四五婦、下戸或二三婦)と書かれている。それに次いで、『女性は貞操であり、夫に愛人ができても嫉妬しない』(婦人不淫、不妬忌)とある。この情報を誰から、どのような手段で得たか分からないが、これは当時の状況(少なくとも貴族社会)を正しく表わしていないことは大日本史の記述から分かる。それを見てみよう。
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譯文・大日本史(春秋社):巻74(4-P.101)
仁天皇の皇后である磐之媛(いわのひめ)皇后は葛城襲津彦の娘である。仁徳帝の二年三月に皇后に冊立された。二十二年に仁徳帝は若い八田皇女を妃にしたいと思い、皇后に和歌を贈ってそれとなくお伺いをたてた。皇后は『なりません!』と、拒絶の歌を送り返した。三十年九月に皇后が豊楽の祭礼のために紀州の熊野岬に出かけ御綱葉(みつながしば)を採取した。仁徳帝は皇后の留守中に秘かに八田皇女を宮中に呼び寄せた。皇后が熊野から難波に戻ってきてこのことを聞いて、大いに怒って、取って来た御綱葉を海に捨て、船から降りないと頑張った。それで、この場所を葉済(かしわのわたり)と言うようになった。
仁磐之媛皇后,葛城襲津彦女也。帝二年三月,立為皇后。七年,帝為定葛城部。二十二年,帝欲納八田皇女為妃,作歌諭意于后。后答歌沮之。三十年九月,后將豐樂,幸紀國熊野岬,採御綱葉。帝時其亡,召八田皇女納宮中。后還至難波,聞之大怒,投御綱葉於海,不肯下船。因名其處曰葉濟。
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結婚してから20数年たって、皇后の容色も衰えたので仁徳帝も若い女が欲しくなったが、更年期の皇后はそれでも帝が他の女に情を移すのに嫉妬したというのである。この難波での騒動は、その後舞台を大和に移し、一波乱がおこる。憤懣の収まらない皇后は帝に会おうともしないので、帝は手を尽くして納得してくれと懇願するが、それでも皇后は最後まで頑強に突っぱねたと書かれている。全くこの部分の記述が本当だとすると、天皇の威厳など全く感じられない。
【出典】東京国立博物館
続いて紹介する、允恭天皇の忍坂大中姫(おさかのおはなかつひめ)皇后も強情で、嫉妬深い人であった。
反正帝が崩御されたあと、当時皇子であった允恭帝に皇位を継いでもらいたいと群臣達が要望しに来たが、允恭帝は断った。
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譯文・大日本史(春秋社):巻75(4-P.109)
妃であった忍坂大中姫はたまたまその場に居合わせていたが、群臣達では帝を説得できないと知り、たらいを手にしていたが、帝に皇位を継ぐように進言した。帝は怒って部屋に入ってしまったが、忍坂大中姫は冬の寒さにも拘わらず数時間もその場に立ち尽くした。たらいの水も凍り、忍坂大中姫もほとんど凍死しそうになった。帝も驚いて部屋からでてきて忍坂大中姫を助け起こした。
后知群臣憂懼,適執盥于帝前,因啓曰:「大王謙遜,天位久曠,群臣百僚,不知所為。願大王勉從群望。」帝背而不言,后惶恐丕退。數刻,時方季冬烈寒,冰溢擬於腕,凍寒幾死。帝顧而駭,扶起。。。
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この決死の訴えが効いて、允恭天皇が即位し、忍坂大中姫も皇后に冊立された。
しかし、何とも凄い人だ。よく言えば精神力の強いと言えるが、悪く言えば自己主張の強い強情な人だ。このあくのつよさは、嫉妬にも表れている。
皇后(忍坂大中姫)の妹で、日本の三美人と言われて古来から有名な衣通郎姫(そとほしのいらつひめ)も允恭天皇に召されて、藤原宮に住んでいた。皇后はたとえ妹であっても、帝が他の女に情を移すことには当初から心穏やかではなかったようだ。
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譯文・大日本史(春秋社):巻75(4-P.110)
皇后が雄略帝を生んだその日の晩に、允恭帝は初めて藤原京へ行き、衣通郎姫と同衾した。それを聞いた皇后は、怒り狂って『結婚してからずっと帝は浮気をしなかったが、今、出産で私が生きるか死ぬかと言う時に、何で私を捨てて妹の所にいくのか!』そして怒りのあまり、火をつけて自殺しようとした。それを聞いた允恭帝はあわてて『すまない、私が悪かった』と謝ってようやく、皇后の怒りが収まった。
后生雄略帝之夕,帝始幸之。后聞而大恨曰:「妾結髮,侍宮闈,今妾在蓐,死生不測,而以是夕幸藤原何也?」乃欲縱火自焚。帝聞大驚曰:「朕過也。」慰諭而止。
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ここで紹介した2件以外にも皇后の嫉妬のために、酷い目にあった女性が幾人もいたことが大日本史の記述から分かる。サルや他の動物も嫉妬することから、人間の場合も男女の痴情ドラマは 2000年の昔からたいして変わっていないもののようだ。
しかし、魏志倭人伝の記述の全てが正しい訳ではない。その例を挙げると:
当時の倭人は一夫多妻制で、金持ちは4、5人の妻妾をもち、貧乏人でも少なくとも2、3人の女と暮らしていたいた(國大人皆四五婦、下戸或二三婦)と書かれている。それに次いで、『女性は貞操であり、夫に愛人ができても嫉妬しない』(婦人不淫、不妬忌)とある。この情報を誰から、どのような手段で得たか分からないが、これは当時の状況(少なくとも貴族社会)を正しく表わしていないことは大日本史の記述から分かる。それを見てみよう。
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譯文・大日本史(春秋社):巻74(4-P.101)
仁天皇の皇后である磐之媛(いわのひめ)皇后は葛城襲津彦の娘である。仁徳帝の二年三月に皇后に冊立された。二十二年に仁徳帝は若い八田皇女を妃にしたいと思い、皇后に和歌を贈ってそれとなくお伺いをたてた。皇后は『なりません!』と、拒絶の歌を送り返した。三十年九月に皇后が豊楽の祭礼のために紀州の熊野岬に出かけ御綱葉(みつながしば)を採取した。仁徳帝は皇后の留守中に秘かに八田皇女を宮中に呼び寄せた。皇后が熊野から難波に戻ってきてこのことを聞いて、大いに怒って、取って来た御綱葉を海に捨て、船から降りないと頑張った。それで、この場所を葉済(かしわのわたり)と言うようになった。
仁磐之媛皇后,葛城襲津彦女也。帝二年三月,立為皇后。七年,帝為定葛城部。二十二年,帝欲納八田皇女為妃,作歌諭意于后。后答歌沮之。三十年九月,后將豐樂,幸紀國熊野岬,採御綱葉。帝時其亡,召八田皇女納宮中。后還至難波,聞之大怒,投御綱葉於海,不肯下船。因名其處曰葉濟。
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結婚してから20数年たって、皇后の容色も衰えたので仁徳帝も若い女が欲しくなったが、更年期の皇后はそれでも帝が他の女に情を移すのに嫉妬したというのである。この難波での騒動は、その後舞台を大和に移し、一波乱がおこる。憤懣の収まらない皇后は帝に会おうともしないので、帝は手を尽くして納得してくれと懇願するが、それでも皇后は最後まで頑強に突っぱねたと書かれている。全くこの部分の記述が本当だとすると、天皇の威厳など全く感じられない。
【出典】東京国立博物館
続いて紹介する、允恭天皇の忍坂大中姫(おさかのおはなかつひめ)皇后も強情で、嫉妬深い人であった。
反正帝が崩御されたあと、当時皇子であった允恭帝に皇位を継いでもらいたいと群臣達が要望しに来たが、允恭帝は断った。
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譯文・大日本史(春秋社):巻75(4-P.109)
妃であった忍坂大中姫はたまたまその場に居合わせていたが、群臣達では帝を説得できないと知り、たらいを手にしていたが、帝に皇位を継ぐように進言した。帝は怒って部屋に入ってしまったが、忍坂大中姫は冬の寒さにも拘わらず数時間もその場に立ち尽くした。たらいの水も凍り、忍坂大中姫もほとんど凍死しそうになった。帝も驚いて部屋からでてきて忍坂大中姫を助け起こした。
后知群臣憂懼,適執盥于帝前,因啓曰:「大王謙遜,天位久曠,群臣百僚,不知所為。願大王勉從群望。」帝背而不言,后惶恐丕退。數刻,時方季冬烈寒,冰溢擬於腕,凍寒幾死。帝顧而駭,扶起。。。
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この決死の訴えが効いて、允恭天皇が即位し、忍坂大中姫も皇后に冊立された。
しかし、何とも凄い人だ。よく言えば精神力の強いと言えるが、悪く言えば自己主張の強い強情な人だ。このあくのつよさは、嫉妬にも表れている。
皇后(忍坂大中姫)の妹で、日本の三美人と言われて古来から有名な衣通郎姫(そとほしのいらつひめ)も允恭天皇に召されて、藤原宮に住んでいた。皇后はたとえ妹であっても、帝が他の女に情を移すことには当初から心穏やかではなかったようだ。
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譯文・大日本史(春秋社):巻75(4-P.110)
皇后が雄略帝を生んだその日の晩に、允恭帝は初めて藤原京へ行き、衣通郎姫と同衾した。それを聞いた皇后は、怒り狂って『結婚してからずっと帝は浮気をしなかったが、今、出産で私が生きるか死ぬかと言う時に、何で私を捨てて妹の所にいくのか!』そして怒りのあまり、火をつけて自殺しようとした。それを聞いた允恭帝はあわてて『すまない、私が悪かった』と謝ってようやく、皇后の怒りが収まった。
后生雄略帝之夕,帝始幸之。后聞而大恨曰:「妾結髮,侍宮闈,今妾在蓐,死生不測,而以是夕幸藤原何也?」乃欲縱火自焚。帝聞大驚曰:「朕過也。」慰諭而止。
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ここで紹介した2件以外にも皇后の嫉妬のために、酷い目にあった女性が幾人もいたことが大日本史の記述から分かる。サルや他の動物も嫉妬することから、人間の場合も男女の痴情ドラマは 2000年の昔からたいして変わっていないもののようだ。