後漢末の乱世にあって曹操の活躍は三国志のなかでも際立って高く評価されている。例えば、袁紹は名門の出であったが、『寛大であるが、決断力が鈍く、謀略を練るのは一生懸命になるのだが、実行しない』(寛而不断,好謀而少決)と低い評価を受けているのに反し、曹操は『雄大な構想をもち、チャンスがあればためらわずに即実行に移す』(有雄才遠略,決機無疑)と評されている。曹操の評価ポイントは立案力と決断力、それにずば抜けて高い実行力である、ということが分かる。
しかし、見落としてならないのは、何故曹操の周りに才能ある人達が続々と集まってきたのかという点である。私はそれは曹操に包容力があったからであると考える。
その実例を張繍(ちょうしゅう)という人物の取り扱いに見ることができる。その前にまず、曹操と張繍の間にどういう事件が起こったのかを抑えておこう。
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資治通鑑(中華書局):巻62・漢紀54(P.1994)
曹操が張繍を征伐するために淯水に陣を構えた。張繍は、勝ち目がないと悟って曹操に降伏した。ところで、張繍には張済という伯父が居たが、先ごろの戦闘で戦死してしまった。曹操は未亡人となった張済の妻を自分の物にした。それを知った張繍は歯軋りした。更には、曹操が自分の部下の胡車児に特別ボーナスを支給したことを知り、立場が危なくなったと考えた張繍は曹操を襲撃した。戦闘で曹操の長男の曹昂は戦死、曹操にも矢が当たった。曹操の軍の兵士は逃げまどったが一人、典韋は踏みとどまり張繍の兵士と激しい死闘を演じた。典韋は体中ずたずたに傷を負った。張繍の兵士が典韋めがけて突撃したが剛力の典韋の両脇に抱えられて打ち殺されてしまった。典韋は最後の力を振り絞り、目をかっと開き、敵を罵りつつ果てた。
曹操討張繍,軍於淯水,繍舉衆降。操納張濟之妻,繍恨之;又以金與繍驍將胡車兒,繍聞而疑懼,襲撃操軍,殺操長子昂。操中流矢,敗走,校尉典韋與繍力戰,左右死傷略盡,韋被數十創。繍兵前搏之,韋雙挾兩人撃殺之,瞋目大罵而死。
曹操、張繍を討たんとし淯水に軍す。繍、衆を挙げて降る。操、張済の妻を納る。繍、これを恨む。;又、金をもって繍の驍将・胡車児に金を与う。繍、聞きて疑懼し,操の軍を襲撃し、操の長子・昂を殺す。操、流矢にあたり,敗走す。校尉・典韋、繍と力戦す。左右の死傷、ほぼ尽く。韋、数十創をこうむる。繍の兵、前するもこれを搏す。韋、両人を双挟し、これを撃殺す。目を瞋き、大いに罵しり死す。
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張繍が一旦は曹操に降参したのに、隙をみて反乱し、終には曹操の息子(曹昂)と、曹操が一番可愛がっていた忠臣の典韋が張繍に殺されてしまった。曹操も矢傷を負って逃げ去った。
さて、こういう出来事があってから2年後、立場は逆転し、今度は張繍が苦境に陥いり、曹操の方は攻勢に立っていた。そういった中、袁紹から自分と組まないかという誘いがきたので、張繍は許諾しようと考えていた。ところが、知恵者である賈詡が、『袁紹なんかダメだ、曹操と組むべきである』と張繍を説得した。
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資治通鑑(中華書局):巻63・漢紀55(P.2016)
張繍は、賈詡のアドバイスに従い、全軍を率いて曹操に降伏した。曹操は、張繍の両手を握り喜んだ。そして、大宴会を催し、張繍の娘を自分の息子・曹均の嫁にした。さらには、張繍を揚武将軍に任命した。
繍率衆降曹操,操執繍手,與歡宴,爲子均取繍女,拜揚武將軍。
繍、衆を率い、曹操に降る。操、繍の手をとりて,ともに歓宴す。子・均のために繍の女(むすめ)を取る。揚武将軍に拝す。
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曹操は、自分の息子を殺したその張本人の張繍を大歓迎したのだ。それだけに止まらず、張繍の娘を自分の息子の嫁として迎えた。これは、張繍を騙す策略でなく、曹操の本心から出たことは、その後の張繍の活躍に対して、加増されていることからも分かる。この出来事は曹操の度量の大きさを表わす好例として世間に広く知られるところとなったようだ。
さて、この出来事がAD199年にあってから、350年後のこと。南北朝時代(AD557年)江南に陳という国が建国された。その2代目の文帝の時のこと、陳宝応というはねっかえりの領主がいた。文帝に対抗して自己の勢力を拡大しようと秘かに画策していた。それを知った参謀の虞寄が陳宝応に『そんな無謀なことは止めた方がよい。素直に文帝に謝れば今の地位は保全できるはずだ』と、この張繍の話を引き合いに出しつつ諭した。
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資治通鑑(中華書局):巻169・陳紀3(P.5228)
文帝(聖朝)は度量の広い方だ。人の欠点や過ちは見ぬ振りをして、人を暖かく迎える。そして一旦認めたからには、完全に職務を任せてくれる。文帝は、腹の中は実にさっぱりとした方で、せこいことは考えない人だ。ましてや貴方は文帝との間には、張繍と曹操との間にあったような対立もないことだし。。。
聖朝棄瑕忘過,寛厚得人,。。。悉委以心腹,任以爪牙,胸中豁然,曾無纖芥。況將軍釁非張繍,。。。
聖朝、瑕を棄て過を忘れ,寛厚にして人を得る。。。 ことごとく委ねるに心腹をもってし、任せるに爪牙をもってす。胸中、豁然たり,かつて繊芥なし。況んや将軍の釁(きん)、張繍にあらず,。。。
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虞寄は350年前の事柄を引き合いに出して陳宝応を説得しようとしたのである。こういったことが意味を持つためには、先ずはこの張繍と曹操との間の一連の事件に関する評価が定まっていなければならない。つまり、曹操は息子や最愛の腹心の部下まで殺した張繍を赦し自分の味方にした。そのような寛大な処置をした曹操の度量は余人の及ぶところではないことを万人が認めた。次いで、両者(虞寄は陳宝応)ともこの事件のいきさつを十分に知っていなければならない。この二つの条件が重なって、初めてこの故事を引き合いに出しての説得が意味をもつ。
中国の歴史では、このように数百年前、千年あるいは二千年も前の故事を持ち出して説得するほうが、論理的に説得するよりもはるかに説得性が高い、といった事例が山とある。この一事をみてもさすが中国は文の国であると思わざるを得ない。
しかし、見落としてならないのは、何故曹操の周りに才能ある人達が続々と集まってきたのかという点である。私はそれは曹操に包容力があったからであると考える。
その実例を張繍(ちょうしゅう)という人物の取り扱いに見ることができる。その前にまず、曹操と張繍の間にどういう事件が起こったのかを抑えておこう。
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資治通鑑(中華書局):巻62・漢紀54(P.1994)
曹操が張繍を征伐するために淯水に陣を構えた。張繍は、勝ち目がないと悟って曹操に降伏した。ところで、張繍には張済という伯父が居たが、先ごろの戦闘で戦死してしまった。曹操は未亡人となった張済の妻を自分の物にした。それを知った張繍は歯軋りした。更には、曹操が自分の部下の胡車児に特別ボーナスを支給したことを知り、立場が危なくなったと考えた張繍は曹操を襲撃した。戦闘で曹操の長男の曹昂は戦死、曹操にも矢が当たった。曹操の軍の兵士は逃げまどったが一人、典韋は踏みとどまり張繍の兵士と激しい死闘を演じた。典韋は体中ずたずたに傷を負った。張繍の兵士が典韋めがけて突撃したが剛力の典韋の両脇に抱えられて打ち殺されてしまった。典韋は最後の力を振り絞り、目をかっと開き、敵を罵りつつ果てた。
曹操討張繍,軍於淯水,繍舉衆降。操納張濟之妻,繍恨之;又以金與繍驍將胡車兒,繍聞而疑懼,襲撃操軍,殺操長子昂。操中流矢,敗走,校尉典韋與繍力戰,左右死傷略盡,韋被數十創。繍兵前搏之,韋雙挾兩人撃殺之,瞋目大罵而死。
曹操、張繍を討たんとし淯水に軍す。繍、衆を挙げて降る。操、張済の妻を納る。繍、これを恨む。;又、金をもって繍の驍将・胡車児に金を与う。繍、聞きて疑懼し,操の軍を襲撃し、操の長子・昂を殺す。操、流矢にあたり,敗走す。校尉・典韋、繍と力戦す。左右の死傷、ほぼ尽く。韋、数十創をこうむる。繍の兵、前するもこれを搏す。韋、両人を双挟し、これを撃殺す。目を瞋き、大いに罵しり死す。
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張繍が一旦は曹操に降参したのに、隙をみて反乱し、終には曹操の息子(曹昂)と、曹操が一番可愛がっていた忠臣の典韋が張繍に殺されてしまった。曹操も矢傷を負って逃げ去った。
さて、こういう出来事があってから2年後、立場は逆転し、今度は張繍が苦境に陥いり、曹操の方は攻勢に立っていた。そういった中、袁紹から自分と組まないかという誘いがきたので、張繍は許諾しようと考えていた。ところが、知恵者である賈詡が、『袁紹なんかダメだ、曹操と組むべきである』と張繍を説得した。
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資治通鑑(中華書局):巻63・漢紀55(P.2016)
張繍は、賈詡のアドバイスに従い、全軍を率いて曹操に降伏した。曹操は、張繍の両手を握り喜んだ。そして、大宴会を催し、張繍の娘を自分の息子・曹均の嫁にした。さらには、張繍を揚武将軍に任命した。
繍率衆降曹操,操執繍手,與歡宴,爲子均取繍女,拜揚武將軍。
繍、衆を率い、曹操に降る。操、繍の手をとりて,ともに歓宴す。子・均のために繍の女(むすめ)を取る。揚武将軍に拝す。
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曹操は、自分の息子を殺したその張本人の張繍を大歓迎したのだ。それだけに止まらず、張繍の娘を自分の息子の嫁として迎えた。これは、張繍を騙す策略でなく、曹操の本心から出たことは、その後の張繍の活躍に対して、加増されていることからも分かる。この出来事は曹操の度量の大きさを表わす好例として世間に広く知られるところとなったようだ。
さて、この出来事がAD199年にあってから、350年後のこと。南北朝時代(AD557年)江南に陳という国が建国された。その2代目の文帝の時のこと、陳宝応というはねっかえりの領主がいた。文帝に対抗して自己の勢力を拡大しようと秘かに画策していた。それを知った参謀の虞寄が陳宝応に『そんな無謀なことは止めた方がよい。素直に文帝に謝れば今の地位は保全できるはずだ』と、この張繍の話を引き合いに出しつつ諭した。
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資治通鑑(中華書局):巻169・陳紀3(P.5228)
文帝(聖朝)は度量の広い方だ。人の欠点や過ちは見ぬ振りをして、人を暖かく迎える。そして一旦認めたからには、完全に職務を任せてくれる。文帝は、腹の中は実にさっぱりとした方で、せこいことは考えない人だ。ましてや貴方は文帝との間には、張繍と曹操との間にあったような対立もないことだし。。。
聖朝棄瑕忘過,寛厚得人,。。。悉委以心腹,任以爪牙,胸中豁然,曾無纖芥。況將軍釁非張繍,。。。
聖朝、瑕を棄て過を忘れ,寛厚にして人を得る。。。 ことごとく委ねるに心腹をもってし、任せるに爪牙をもってす。胸中、豁然たり,かつて繊芥なし。況んや将軍の釁(きん)、張繍にあらず,。。。
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虞寄は350年前の事柄を引き合いに出して陳宝応を説得しようとしたのである。こういったことが意味を持つためには、先ずはこの張繍と曹操との間の一連の事件に関する評価が定まっていなければならない。つまり、曹操は息子や最愛の腹心の部下まで殺した張繍を赦し自分の味方にした。そのような寛大な処置をした曹操の度量は余人の及ぶところではないことを万人が認めた。次いで、両者(虞寄は陳宝応)ともこの事件のいきさつを十分に知っていなければならない。この二つの条件が重なって、初めてこの故事を引き合いに出しての説得が意味をもつ。
中国の歴史では、このように数百年前、千年あるいは二千年も前の故事を持ち出して説得するほうが、論理的に説得するよりもはるかに説得性が高い、といった事例が山とある。この一事をみてもさすが中国は文の国であると思わざるを得ない。