限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第63回目)『縦書きの横文字、横書きの漢字』

2011-04-10 19:07:38 | 日記
時代劇の女忍者は隠語で『くのいち』と呼ばれる。これは言うまでもなく、女と言う字を『くノ一』と分解して平がな読みしたものである。

この手法を使うと、漢字というのはたいていの場合日本語でも読めるようになる。例えば、
 桜 は 『|ー八ツくノ一』
 妹 は 『くノ一ニ|八』


つまり、桜と言う漢字は、その由来はどうであれ結果的には、単に『|ー八ツくノ一』というストロークを一箇所にごちゃごちゃ書いたに過ぎない。(桜は櫻が正字であるので、このような簡単なストロークに分解できないのは言うまでもないが。)

今かりにこれらのストロークを次のアルファベットに置き換えて見よう。
 | = t
 ー = y
 八 = a
 ツ = s
 く = k
 ノ = n
 ニ = e

そうすると、桜や妹は
 桜 = 『|ー八ツくノ一』 は 『tyaskny』
 妹 = 『くノ一ニ|八』 は 『knyeta』

と表記できる。つまり、分解すると漢字もアルファベットのような横文字と何ら変わるところがない。つまり漢字というのは『縦書きの横文字』である、と考えるも可能である。

一方、アルファベットで綴られている文字も野球の New York Yankees のロゴマークのように一箇所にごちゃごちゃと書くと理論的には漢字のようになる。しかし、それは漢字ではないことは、西夏文字が漢字でないのと同様である。



このように言うと、漢字のアルファベットに対する優位性を唱えているように聞こえるかもしれない。実際、過去にはそういったことを公にしている日本人が数多くいる。(言うまでもなく、中国人はほぼ全員がそうだと思える。)例えば、昭和期の首相の指南役と自他ともに認めていた安岡正篤氏や、『漢字は日本の国字である』と誇らしげに言った白川静氏もそうである。これらの人達は漢字、ならびに漢字を生んだ中国をむやみやたらと尊重していて、西洋を低く見る姿勢がそこかしこに見受けらる。そして、漢字は一字一字が意味をなすがアルファベットは単に音を表す記号(符号)に過ぎないからダメだ、低級だ、と主張する。

しかし、漢字自身がその由来はどうであれ、出来上がった形から上のような操作で、ストロークに分解するとアルファベットの単語と何ら差がないことが分かる。これから考えると、これらの人達(安岡正篤、白川静)の主張にはさしたる根拠がないことが理解できよう。

逆にアルファベットの立場から言うと、動作を表わす単語を核としてその前後にいろいろな修飾語句をつけることで、ある特定の概念群を表現できる。例えば、trajectory という単語を考えてみよう。元来 trans + jecto + orius という成分に分解できる。これらはそれぞれ特定意味を持っている。 trans は『向こう側へ』、jecto は『投げる』、orius は『状態・性質を表わす』。このようにアルファベットの単語と雖も漢字至上主義者が主張するような、単なる発音記号を適当に組み合わせた単純なものではなく、意味をもったコンポーネントを理論的に組み合わせたものである。つまり、アルファベットの単語は、『横書きの漢字』とも言えるのである。

言語は意味を伝達する手段であるなら、それが単に単語で表わされようと、句や節、あるいは文章で表わされようと関係ないことではないかということをいう人もいるかもしれない。しかし、私は意味を持った成分を一文字に組み合わせることは、同じ概念を句や節で表現するよりもはるかにインパクトが強いと考える。なぜこのように句と節の違いにこだわるかを料理を例にして考えてみよう。素材を皿に盛ってから塩味で味付けする場合と、同じ分量の塩を料理の際に煮込んで味付けするのとでは、できあがった味は随分と異なる。それは確かに成分的には、素材と塩の分量がどちらも同じであるにせよ、それが区別がつく状態になっている場合(前者)か、一体となり、つまり不即不離の状態になって、溶け込んでいる場合(後者)かの違いが大きいのだ。これと同様、句や節で表現するのと、一つの単語で表現するのとではその味わいが随分と異なる。つまり意味を持つコンポーネントの合成としての単語には意味がじっくり染み込んだ料理のように味わい深くなると私は考える。

我々、現代の日本人にとっては、漢字は国字であるのは論を待たない。漢字に関する知識の増強は必要である、と私自身も考える。しかし、そうだからと言って漢字を主位にしてアルファベット文字文化(や他の文字文化)を下に見る意見には私は賛成しない。言語というのは、やはりそれぞれの民族が何千年、いや何万年にもわたって磨き上げてきたものであるから、本来的に理性的なものであると私は考える。それゆえ、それぞれの言語には、他の言語には見られない特有の長所があるはずと私は考える。たとえそれが、他の言語から奇妙に、あるいは価値のないように見えたとしても。

参照ブログ
『ビジュアルカテゴリーとモーションカテゴリー』
コメント
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