限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第136回目)『エピキュリアン=享楽主義、の誤解』

2011-04-02 21:41:00 | 日記
以前、『ストイック=禁欲主義、の誤解』の最後に:
 エピクロス派の享楽・快楽主義の誤解やいい足りなかったことはまた後日書きたい。
と書いたままたで長らく放置していたが、その約束を果したい。

私には一般的な意味での宗教心というものは持ち合わせていない。つまり、どこかの宗派に属したり、ある特定の神に帰依したり、お祈りをすることはない。この意味では全ての宗派に対して等距離にある。同じく、思想や哲学に対しても多少の好き嫌いはあっても、それぞれの派から自分の参考になる点を吸収している。この意味で、私は学問的な意味での宗教や哲学の深遠なる(?)教義には興味がない。その理由は宗教や哲学が議論の対象にしている神や人生観は必ずしも万人の共通理解の上に立っていないと考えているからである。

宗教者からの反発があることを承知の上で、神についての私の考えを述べよう。

理性を持った人間ならだれしも最近の火星探査機がもたらした情報で、火星人が存在しないことは知っている。火星人がどのような形をしているとか、火星人はどうやって生活しているかについては誰もまともに議論しようとはしないものだ。数十年ほど前はそうではなかった。科学者達が、まじめに火星人の存在やその姿・形について論じていた。しかし、決してこれらの議論はどれ一つとして決着を見ることがなかった。なぜなら、誰も火星人を確かめた人がいなかったからである。そもそも五感で知覚できないものは認識しようがない、という全く当たり前のことだが、カントが『純粋理性批判』で論理的にその理由を説明した。その論理を援用すると、我々人間が見たこともなく、触れたこともない神について議論するのは、火星人について議論する愚と何らかわるところがない、と私は考えている。

このような考えは、無神論者(atheist)と呼ばれる。今から30年前にドイツに留学するときに、注意されたのは『ヨーロッパで宗教は?と聞かれたら、仏教徒(Buddhist)と答えなさい。正直に宗教は信じていません、と答えたら、この人は信用のできない人だ、と疑惑の目で見られますから。』という点であった。今もそうであるが、大抵の日本人は特に宗教というのは意識していないし、実践もしていない。つまり神の存在を意識していない。これは、キリスト教徒やイスラム教徒の観点から言えば立派な、無神論者(atheist)である。(あるいは、『神は存在するかもしれないが、我々人間にはその存在や機能は理解できない』と考える不可知論者(agnosticism)と言ってもいいかもしれない。)

科学技術が発達した20世紀においてすら、神を意識しないことがその人の人間性を疑わせると思われていたのに、エピクロスは既に2000年以上も前に堂々とこの所信を表明し、数多くの賛同者やフォロワーを集めていた。誤解の無いように言っておくと、エピクロス自身は神自身の存在を否定したわけではなく、人と神の関連性が普通に考えられているようなものではないと主張したのである。つまり、神はこの人間世界の出来事には関係していないし、人間からの要望(祈り、願い)にも無頓着であり、供え物をしても無意味である、と言った。迷信深い当時の人達にとって、エピクロスのこのテーゼは極めて斬新に映ったことであろうことは容易に想像できる。

エピクロスはさらに、死についても全く心配する必要なし、と説いた。彼の論理はこうだ。

『人は死というものが恐ろしいもの、悪いものだと言っているが、そもそもここでいう善悪というものは感覚的なものだ。しかし、死をいうのは感覚がなくなることである。感覚がなくなった死者にどうして恐ろしいということが知覚できようか!死が恐ろしいものでないということを正しく理解できた者は生を十分に享受できる。死自体が恐ろしいのではなく、死を恐れつつ生きることが苦であるのだ。』

Accustom yourself to believing that death is nothing to us, for good and evil imply the capacity for sensation, and death is the privation of all sentience; therefore a correct understanding that death is nothing to us makes the mortality of life enjoyable, not by adding to life a limitless time, but by taking away the yearning after immortality.
For life has no terrors for him who has thoroughly understood that there are no terrors for him in ceasing to live. Foolish, therefore, is the man who says that he fears death, not because it will pain when it comes, but because it pains in the prospect.
【出典】[Letter to Menoeceus]

エピクロスのこの論理の根本にあるのが、先輩・デモクリトスの原子論である。(ちなみに、ドイツに留学していた時(1977年/1978年)に、ギリシャを旅行した。その時に、ギリシャのお札の100ドラクマにデモクリトスが印刷されているのを見てびっくりした。私も名前だけは知っていたがデモクリトスがギリシャでこれほどまで有名であるとは思ってもみなかったからだ。)デモクリトスの原子論によると、全ての物質は原子から出来ている。人間の肉体も、そして精神すらもこの原子からできている。そして死というのは、それらの有機的な結合がばらばらに分解されることだと定義される。分解された原子には、もはや知覚能力はないので、結果的に死ぬと感覚がなくなるというのである。



さて世間でエピクロスの哲学(エピキュリアン)は快楽主義と呼ばれている。さらには、『快楽=享楽』のすり替えが行われ、エピクロスの主張は、人生を安逸かつ享楽ふけることだと理解されている。しかし、エピクロスはそのような煽情的な主張をしたのではなく、人間界と世界、さらには宇宙のしくみを正しく理解することが究極的に快楽な生活につながるということを論理的に説明したのだと私は理解する。

それは、彼の『主要教説』(第5)の次のことばからも明らかだ。

It is impossible to live a pleasant life without living wisely and honorably and justly, and it is impossible to live wisely and honorably and justly without living pleasantly. Whenever any one of these is lacking, when, for instance, the man is not able to live wisely, though he lives honorably and justly, it is impossible for him to live a pleasant life.
【出典】Principal Doctrines

この文からも明らかなように、エピクロスのいう快楽主義というのは、まず自然界と人間界を理性的に把握するだけの知性がなければいけない、という主知主義がベースにある。その知性を正しく活用すると、何が善くて何が正しいことか(善と義)が分かるはずだ。善と義の正しい認識に至って初めて、迷信や我欲に惑わされることのない(ataraxia)人生、つまり快楽に満ちた人生が送れると、いうのがエピクロスの考えであった。

エピクロスのいう『快楽』が、一般的に言われている『享楽』の意味ではなく、『心の平静が乱されないこと』という意味ではストア学派と目指す方向は同じであった。しかし、歴史的に見れば、この二派は互いに競い合い、非難し合っていたことから考えると、いくつかの点において決定的な違いがあったことは間違いがない。これについては、稿を改めて書きたい。
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