齊宣王問曰。「湯放桀、武王伐紂、有諸。」孟子對曰。「於傳有之。」曰。「臣弒其君可乎。」曰。「賊仁者謂之賊、賊義者謂之殘、殘賊之人謂之一夫。聞誅一夫紂矣、未聞弒君也。」
殷の湯王が夏の桀王を追い出し、周の武王が殷の紂王を征伐したというが本当か。曰く、記録にあります。臣下が君主を殺す、こんなことしてよいのかと王が問う。「さあ、仁を損なう者は賊です。義を損なう者は残です。残賊の人は一夫という。周の武王は一夫の紂を殺したそうです、君主を殺したとは聞いてません」
所謂革命是認論である。フランス革命と王朝交代の中国の革命は違うとかいつまでもいっているから駄目なんじゃねえかと思う。問題は仁や義があるかないかである。日本の場合だって、これも昔は実際は革命だったのだが、いつのまにか、なんか一種の人事みたいに天皇が入れ替わるさあ新年度だみたいな感じになっている。三島由紀夫なんかが嫌ったのはそういうもので、新たな天皇による革命のススメみたいなものであった。強い否定が伴わなければ、革命や天は存在しなくなってしまう。これを嫌う我々の風土は、雑草が弱い雑草を押しのけるような世界だけが広がってゆく。
例えば、マイノリティによる革命が、我々にとっては無能な人間をやさしく排除することで、やんわり野原を形成する。だめなやつをしかり飛ばして包摂するよりも、支援して結果的に責任ある仕事から外すみたいなことを教師や上司がやっていると、我こそは有能なりと思っている人間が仕事を押しつけられるのを恐れて目立つのをいやがるようになる。そのかわりにでてくるのが虚栄心だけが止まらない雑草で、あとは地獄の野原である。
マルチタスクが苦手なの、みたいないい訳はかなり行われているけれども、一つのことをやりとげることだって一種のマルチタスクにほかならず、一つだけならできるだけみたいなことはありえない。多様な働き方=仕事の分担は、誰かが人の尻ぬぐいを大量におこなうことで成り立っている。これも、強い革命主体のような存在だけは全否定していることとつながっている。革命は、信じがたいマルチタスクの成果である。これをそれぞれ、ひとつの仕事の成就さえあやふやな状態に解体してしまっていることで、革命が起こらないのはもちろん、何も成果が上がらない野原が出来上がる。
野村克也が江夏豊に「クローザーで野球に革命をおこそうや」、と言った話は聞いたことあるが、投手の分担制は投手の体力的な負担を軽減したけれども、他人が引きおこした状況を引き受ける意味で、マルチタスク状態をひきうけるようなものだ。ある意味で、仕事を難しくしたのであるが、革命とは、他の人が引き起こした。状況を引き受けて勝利に導く意味でクローザーみたいなもので、野村の言ってたことは正しいのかも知れない。江夏の21球は、江夏の自作自演(+高橋のエラー)による革命みたいなかんじだが。
この老先生がかねて孟子を攻撃して四書の中でもこれだけは決してわが家に入れないと高言していることを僕は知っていたゆえ、意地わるくここへ論難の口火をつけたのである。
『フーンお前は孟子が好きか。』『ハイ僕は非常に好きでございます。』『だれに習った、だれがお前に孟子を教えた。』『父が教えてくれました。』『そうかお前はばかな親を持ったのう。』『なぜです、失敬じゃアありませんか他人の親をむやみにばかなんて!』と僕はやっきになった。
『黙れ! 生意気な』と老人は底光りのする目を怒らして一喝した。そうすると黙ってそばに見ていた孫娘が急に老人の袖を引いて『お祖父さん帰りましょうお宅へ、ね帰りましょう』と優しく言った。僕はそれにも頓着なく『失敬だ、非常に失敬だ!』
と叫んでわが満身の勇気を示した。老人は忙しく懐から孟子を引き出した、孟子を!
『ソラここを読んで見ろ』と僕の眼前に突き出したのが例の君、臣を視ること犬馬のごとくんばすなわち臣の君を見ること国人のごとし云々の句である。僕はかねてかくあるべしと期していたから、すらすらと読んで『これが何です』と叫んだ。
『お前は日本人か。』『ハイ日本人でなければ何です。』『夷狄だ畜生だ、日本人ならよくきけ、君、君たらずといえども臣もって臣たらざるべからずというのが先王の教えだ、君、臣を使うに礼をもってし臣、君に事うるに忠をもってす、これが孔子の言葉だ、これこそ日の本の国体に適う教えだ、サアこれでも貴様は孟子が好きか。』
僕はこう問い詰められてちょっと文句に困ったがすぐと『そんならなぜ先生は孟子を読みます』と揚げ足を取って見た。先生もこれには少し行き詰まったので僕は畳みかけて『つまり孟子の言った事はみな悪いというのではないでしょう、読んで益になることが沢山あるでしょう、僕はその益になるところだけが好きというのです、先生だって同じことでしょう、』と小賢しくも弁じつけた。
――国木田独歩「初恋」
孔子と孟子の矛盾は、矛盾ではなく、「益」になるタイミングが違うのである。しかし、そんな益をありがたがって何千年同じような王朝交代を繰り返しているのは真の歴史の動因ではない、「初恋」みたいなものによって時代が動いているに過ぎない。独歩たちの心意気は確かに天下国家を覆そうとするものであったに違いない。