道在爾而求諸遠。事在易而求諸難。人人親其親、長其長而天下平。
道はちかいところにあるのに、かえって遠くを求めることがある。親を愛し、年長者を尊敬すれば天下太平になりますっ。
はたして、その近い道というものを、親や年長者に対する尊重であると解すのがよいのかどうか分からないが、これはやはり現実的で実践的な、窮余の策としての倫理である。当たり前であるが、道が遠くにある場合もあるからだ。しかし、それを凡庸な人間たちに説くのが得策かどうかは分からないということである。
しかしまあ、身近なものを道と認識した方がよいのは、中国に限らず日本では特にそうかもしれない。それは親への尊敬みたいな賭けよりも重要なことである。中国には、根本的に自らの文化創造力に対する信頼があるのだ。親への尊敬を優先していても文化が崩壊しない自信がある、というか覚悟がある。しかし我が国は、そんなものはない。だから、しばしば文化は親に対する倫理や現実への逃避として現れる。逃避だから――テキストそのものよりも心が文化みたいな傾向を持ってしまうのもそのせいかもしれない。わたくしは、必ずしも、だから、文字文化以前の空気を読む文化が我々の基層だとは思わないのである。空気を読むより、空気に逆らう心が基層なのだ。
朝のドラマの録画をみていたら、御菓子屋の娘が、東大植物研に出入りを始めた田舎インテリから、牡丹の絵を捧げられていた。いずれこの娘はこの植物学者の妻となるのであった。