
あくる朝になって、ようやく男の子たちがやってきました。見るとヒバリが死んでいるものですから、おいおい泣きだしました。 そして、たくさんの涙を流しながら、小さいお墓を掘りました。それから、花びらでまわりを飾りました。 ヒバリのなきがらは、赤いきれいな箱の中におさめられて、王様のように、りっぱに葬られました。 あわれな小鳥よ! 生きて歌っているあいだは忘れられて、 鳥かごの中で、苦しい思いをさせておいて、いまになって、花を飾ったり、涙を流したりするとは!
さて、鳥かごの中の芝土は、ヒナギクといっしょに、道ばたのごみの中に捨てられました。 ヒナギクこそは、小さなヒバリのことを、だれよりも深く思いやって、どうかして慰めてあげたいと思っていたのですが、だれ一人、ヒナギクのことを思い出すものは、ありませんでした。
――「ヒナギク」(大畑末吉訳)
わたくしは、アンデルセンの「ヒナギク」とかワイルドの「幸福の王子」とかが、幼児の頃から文学の最高傑作だと思っている。わたしが病弱だったであろうか。自己犠牲は、ヒナギクや幸福の王子に尽くす燕のように死ぬことであるような気がする訳である。しかし、この価値判断が元気のよい幼児にすり込まれると、いわば体当たりの特攻精神に行くのであろうか。特攻は、自分が人柱となるよりも、なにか人に対する当てつけらしいところがある。人を柱となった高見から人を道具化する。
しかし、人を道具として扱ってしまうひとは保守でも革新でもだめである、とだけ主張しても、かえって、あらゆる自己主張を抑圧しかねない。労働者やマイノリティの側につく運動にはある程度をひとを「使う」面がある。運動者にいわば低廻趣味みたいなものが必要なんだろうと思う。因果を強調する実証だけじゃだめである。
低廻趣味が正常に廻るのだってほんとは難しい。漱石も、人に足を引っ張られたかたちで、低廻していたと思う。自然に後ずさりし、背後に吸い込まれていくのがその実、低廻趣味の精神的実体なのである。そういえば、記憶の底にあった、幼児の時、あのシーンはとても怖ろしかった作品をみつけた。記憶の表面にあったんは「妖怪人間ベム」のほうであるが、底にあったのは「勇者ライディーン」というアニメーションで、主人公がロボットの表面に吸い込まれて運転席までサイケな空間を墜ちて行く場面が恐ろしかった。「マジンガーZ」をみてたころはもっと頭が動物だったが、このアニメのコロは少し頭が人間になってたのであろう。わたくしは、低廻趣味とは、そういう何者かへの同化を経験していないといけないと思うのである。