★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

死ぬ気で依存的な

2023-05-07 23:05:56 | 思想


孟子之平陸、謂其大夫曰、子之持戟之士、一日而三失伍、則去之否乎、曰、不待三、然則子之失伍也、亦多矣、凶年飢歳、子之民、老羸轉於溝壑、壯者散而之四方者幾千人矣、曰、此非距心之所得爲也、曰、今有受人之牛羊而爲之牧之者、則必爲之來牧與芻矣、來牧與芻而不得、則反諸其人乎、抑亦立而視其死與、曰、此則距心之罪也、他日見於王曰、王之爲都者、臣知五人焉、知其罪者、惟孔距心、爲王誦之、王曰、此則寡人之罪也。

孟子は、長官をつかまえて「あなたの部下が一日に三回も隊列を離れたら殺しますか」と聞いたら「三回も待ちませんよ」と返された。で「なら、同じようなことあるでしょう。村のみんなが道ばたに転がっていたり、逃亡離散する壮年も数千人もいるではないですか、どうするんです」と返す。「それはオレの責任じゃない」。すると更に「仮に、他人の牛羊を預かりその人のために飼育するとしますと、放牧地と牧草を探すでしょう。で見つからなかった場合、牛羊を返しますか、それとも牛羊が死ぬのを眺めているんですか」と問い詰める。長官はたまらず「確かに、そうかんがえれば私は民を王に返すべきだ。私の罪だ」と降参する。で、それを王に伝えた、自分の罪を知っているのは彼だけでした、と。すると、王は「それは私の罪だ」と言うのであった。

ここまで物わかりのよい王でよかった。大概、責任を上と下におしつけて無責任なのは、この長官レベルなのでたしかにこのような次第なのかも知れないが、王だって「おれをみんなで無視している、みんな死んじゃえ」みたいなことを考えがちなのだ。思うに、ここでは牛羊の比喩が効いているのである。人間にはもしかしたら死んでも惻隠の情はわかない場合があるが、動物はいかにも「一見」かわいそうだからだ。修辞の勝利である。

もっとも、実践的には、この長官が部下をどうやって言うこと聞かせられるのかは分からない。「殺すぞ」「死ぬ気でいくぞ」みたいな恫喝をしているのかもしれない。王が立派なやつとは限らず、我々は簡単に命を賭けることはできない。かえって、人文学者なんかは、あんがい、戦争以上の価値を自分のやっていることに感じているから、つい「命をかけろ」みたいな指導をしてしまいがちなのだ。

昨日だかに、昨年度、大阪大学から都に移った、猛烈仕事人哲学研究者が、院生には哲学は死ぬ気でやれとしか言いようがない、みたいな発言をして炎上していたようである。自分がそんなモードで仕事をしているし、弟子たちも同じく死ぬ気モードなので別に問題はないように思えるが、――たしかに最近は、こういう発言に「殺す気か」みたいな反応が出てきがちなのだ。

死ぬ気で遣れ(遣隋使)

気になって、国会図書館のデジタルコレクションで、「死ぬ気でやれ」がどこまでさかのぼれるか調べてしまったことよ。「死ぬ気」だと、人情本が大量にヒットしてしまうのだが、近代労働的「死ぬ気でやれ」が通俗的に広がっているのは、どうも大正期あたりからのような気がする。ちゃんとみてないので分からんが。大正時代か何かの「金儲の近道 相場神髄」の広告で「相場をやるなら死ぬ気でやれ」が面白かったな。死ぬ気でやれというのは、なにか賭け事の匂いするのだ。あっ、そういえば、発火点の先生もたしか競馬の。。賭け事が生きるか死ぬか的涅槃である事情は映画にもなっている『競輪上人行状記』(1963年)を参考にせよ。競輪場で、涅槃交響曲が鳴り響く中、俺に任せて賭けろ念仏(哲学)に賭けろと説教する小沢昭一の末裔が、檜垣氏である。

昭和3年の「実用精神療法」では、よくおこなわれがちな説得療法の例として、病人の見舞いに行って「気を大きく持て」「死ぬ気でやれ」といった例が挙がっている。思うに、院生に「死ぬ気でやれ」というのは、これに近いのではなかろうか。そして場合によっては実際になおる奴もいる。

文学はデカダンスが命であるが、それを研究という労働に当てはめようとすると悲劇的になってしまうことが常である。そういえば、むかし大学院のころ、先生に「ちゃんと規則正しい生活して徹夜しろ」と死ぬ気で怒られた気がする。これに比べると、哲学の分野は案外マジメ一徹が必要なのかもしれん。坂口安吾はよく分かっていて、「学問とは、限度の発見にある」と言っている。学問が文学のような精神を持つ危険性をよく分かっていたのだ。最近雑誌『感情』のバックナンバーを買ったが、――この雑誌、朔太郎と犀星が最初ふたりでヤっていたのがすごい。限度だけがないような人間でも雑誌が創れるのである。

我々は大学院なんかに入って、夢をみる。上のような雑誌の誕生の如き夢である。しかし、院生というのはやってることも目的も未来もすべて曖昧で一部を除いてまだほとんどの同業者にかなわないし、しかも青臭い青春なんかもしたい気もまだまだあり、つまり月に吠えたりしちゃったりするのであって、――「死ぬ気でやれ」はむしろ、研究をちゃんとやってればなんとかなるみたいな意味になることがかつては多かったんだと思う。デカダンス防止策みたいなものである。

たぶん、「死ぬ気でやれ」という場合「××を死ぬ気でやれ」とは言ってないはずで、「君なりに自由にガンバレ」みたいな意味でもあった筈なのだ。しかし、目的や研究対象を指示せずにただガンバレみたいなのが、合理的じゃなくブラックにみえる雰囲気になってきたんだろう。これは目的に奉仕する共同研究なんかがデフォルトの理系の一部なんかの影響だ。かかる状況では、「死ぬ気でやれ」は目的やノルマを強制することなんで意味が全然違ってくる。いまは文系の院生も早く業績つくってでてけみたいな雰囲気があるから、もう「死ぬ気でやれ」は叱咤激励の意味ではなく、ミッションの強制になってしまうのかもしれない。

でもだからといって、我々が哲学や文学の夢を捨てたら、それこそ我々は生きる意味がない。どちらかといえば我々は、巨人の星を「逝け逝け飛雄馬どんと逝け~」と変換して遊ぶ精神を目指している。ハイデガーの Vorlaufende Entschlossenheit zum Tode とは全然違うもんだと死ぬ気で主張したいところだ。ハイデガー的下世話な次元ではなく、魯迅の「鋳剣」ではないが、革命を死んだあとに首だけが動くみたいなことに求めているのが我々だ。だいたい「死ぬ気でやれ」なんかはまだぬるいんだよな、おれなんかいつも書類の締め切り前日になって「死んでもやるしかない」と死ぬの前提である。

実際、死んでもがんばる、というのは非現実的ではない。空海は死んでねえし、シューベルトの交響曲第九番は死後にがんばっている。発掘したのは他人だが、曲はいまでもがんばっている。いつ聴いてもシューベルトの最高傑作だと思う。

なぜ、そういう精神世界がなくなってしまったのか。たぶん、人間や言葉に依存する脆弱さが原因である。

その妙な強固な依存体質をやめないと、師弟関係みたいな学問世界だけでなく、少子化、高齢化、インクルーシブ教育、すべてがうまくいかない。適切に助け合う関係じゃなくて相互依存的になる。妻に依存し夫に依存し、子供に依存し親に依存し、上司に依存し部下に依存する、いまじゃ発達障害の存在に依存することさえあるからな。子どもの常軌を逸した我が儘な姿が時々見られるけれども、あれは妻を奴隷にしている夫と一緒で、親に依存しているのである(先日も言ったが、岡本太郎の言っている通りなのである――)。こういう事態に対し、他者に寄り添うべしみたいに抽象的に道徳化すると、なぜ日本人が他人から逃げたがるのか分からなくなってしまう。本当は依存されるのがいやなのだ。たぶん少子化もそれが理由のひとつでしょう。たぶん結婚しないのも一緒で。子どもと夫(妻)によりそったら奴隷になってしまうという恐怖がある。学生がコスパとかなんとか言いがちなのもそれでしょう。学校や教師の奴隷になりたくないんだろう。しかし、その発想そのものが奴隷の発想で、やるべきことはますますわからなくなり、便利な何かに縋りがちになるのであった。

むかしからいやだったのは、学校や親に強く依存したいがためにぐれている奴で、さっさと学校から自立すりゃいいものを。こういう輩は、大人になっても、何かを批判的に検証しようとする人間が自分とおなじくだだをこねているようにしか見えないのである。自分を何かの原因ではなく結果みたいに考え、その原因の種類もひとつやふたつの場合、もう暴れるしかなくなるのだ。かかる思春期のぐずりもそんな感じなのだが、教師によるハラスメントも原因は同じであるきがする。重要なのは、そういう依存的でな心からの反抗や叱責は絶対に必要だということだ。それを否定したらもう何もしない方がよいことになってしまう。――そして、実際していないので、日本は全体的に力が死ぬほど落ちているようにみえる。

しかし私は、別にそういうことは気にしない。依存するのは不可避でそれを避けようとするのも、我々が言葉に過剰に拘り続ける限り不可避である。我々を説明する新しい表現が必要だと思うのみである。藤村は「新しき言葉はすなはち新しき生涯なり」と言っている。