
「何だつてはなを啜るんだ」
そして三五郎はすこしのあひだ私の顔をながめたのち、初めて私のみてゐる地点に気づいたのである。三五郎は頭をひとつふり、やはりたたみの上をみてゐて呟いた。
「どうも僕はすこし変だ。徹夜の翌日といふものは朝から正午ごろまで睡っても、まだ心がはつきりしないものだらうか。僕は大根畠の排除にちっとも気のりしないで、却ってぼんやりと蘚のことを考へてゐたくなったんだ。女の子と食事をしてゐるときふつとそんな心理になってしまったんだ。しかし、たたみのうへにこぼれてゐる頭髪の粉つて変なものだな。 ただ茶色っぽい粉としてながめようとしても決してさうはいかないぢゃないか。女の子の頭髪といふものは、すでに女の子の頭から離れて細かい粉となつても、やはり生きてゐるんだ。僕にはこの粉が生きものにみえて仕方がないんだ。みろ、おなじ粉でも二助の粉肥料はただあたりまへの粉で、死んだ粉やないか。麦こがしやざらめ砂糖と変らないぢゃないか。しかし頭髪の粉だけは、さうはいかないんだ」
三五郎は何かの考へをふるひ落す様子で頭を烈しく振り、そしてふたたびノオトに向った。
――「第七官界彷徨」
尾崎翠が立派なのは、横文字をふりまわさないことである。そうであるのに、なにか文章に光が差しているのはすごいと思う。うんこが満ちあふれる小説なのに。花田清輝なんか「ぱとろぎい・です・めるへん」とか題し、「やぽんまるち」とか題する人と同じくいろいろ工夫はするわけであるが、なかなかその光がでなかったような気がする。
わたくしななぞ、最近は絶望して、横文字をそのまま放り出す方がよいのではないかと思うくらいだ。
ところで、国文学などをいじくっていると、専門家と名乗る人ほど、読めない漢字も意味が分からない言葉がある事態には自覚的である。学校教育的な意味で簡単なものを間違えたりする人も馬鹿にはしないし、かようなことで人を蔑んだりはしない。が、間違いを指摘されたりすると「お前たちは英語で論文書いてないだろ」みたいなことを俄に言い出す人もいて困ったものである。英語で書いたり読んだりすることの不完全さを自覚する専門家はさすがにそういうことをあまり言わないんじゃなかろうか。
東大の工学部がオールイングリッシュで授業をするとかいうニュースがもたらされ、また定期的な炎上がおこなわれている。だいたい、そこに適応する人はともかく、ほとんどは不完全すぎる英語の実力が壁になって学修が圧倒的におくれるのがなぜ分からないのであろうか。すなわち、そのほとんどは何の成果もなく、下手すると工学部の「坊っちゃん」が「うらなり」君みたいになり、わたくしのような赤シャツ気質に虐められるだけであろう。確かに、そのなかで漱石みたいに精神を病みながら文豪になるやつが一人ぐらいでるかもしれない。東大工学部の人はぜひ田舎の英語の教師になっていただきたい。
確かに、学者同士のコミュニケーションもコミュニケーションみたいになってきていることは確かで、素敵なとか刺激的なとか評してくる学者はだいたいやばい奴と決まっているにもかかわらず、結構な頽廃が進んでいる。授業でも、スライドを使いながらトレメンダスとか言ってれば人気がでたりするのであろうか。私も、今日の授業では、ジョン・ケージのテレビでの「ウォーターウォーク」のパフォーマンスと、マイケル・ジャクソンの「ブカレストコンサート」を並べて、二〇世紀に於いて観客とは、観客と一緒に創るとはいかなる事態か、みたいな与太を展開しているのだから話にならん。バルトが言っていたように、音楽においても読書においても、そこには戦争状態があって、ケージは観客と和解し、マイケルは戦争に勝っただけだ。私の場合は、――わからない。
そういう事――つまり戦争の推移だけを問題にしていても仕方がないのは無論である。読者のうごきに対する考察は、その実作品の読みに関わっていて、それができないと読者がどう感じていたかなんか推測できるはずがない。で、出来ない場合は何かに統計に頼るとういうことがありうるが、ありうるだけである。のみならず、統計的なものの不確かさは結論ではない。まだ、マイケルのコンサートは宗教儀式だとか言っている方がましな場合すらある。