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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

文士の悲惨

2025-05-03 23:39:09 | 文学


もっとも水蔭のごときは、他に相当の原稿料をかせぎながら酒色に濫費し、たえず窮迫していたらしいが、新聞社勤めもできなかった他の作家の生活は、悲惨をきわめていた。当時文壇ゴシップの大半はかれらの貧乏物語なのである。たとえば小栗風葉はゆかたを一枚しかもっておらず、それが乾かなかったので外出できなかったという話がある。しかし風葉の生活は放縦をきわめ、自業自得の嫌いがないでもない。 また、広津柳浪は金がなくてお菜がかえず、金魚をすくってきて子どもたちに金魚のフライをたべさせたが、これなども若干の ユーモアで救われている。しかし何とも陰惨なのも数多く、たとえば有名なのでは、石川啄木は貧乏ゆえに肺病の手当てができず、家内中、感染したというのなどは、一文士の待遇の問題をこえたことであろう。

――多田道太郎「芸術家の待遇の歴史」(『複製芸術論』)


きのうテレビで「おっ、ジブリに影響を受けたシュールなアニメやってる」と思ったら「君たちはどう生きるか」だったわけだが(――映画館でこの映画を観ていたが細部を忘れてたのだ)、この映画は案外、宮崎監督が作っているとはいっても「おっ、ジブリに影響を受けたシュールなアニメ」みたいに創られたのではなかろうか。いままでのジブリとは違った動きのところもあるし、宮崎監督の自己模倣みたいな、そして模倣になりきっていないところもあるからである。のみならず、本質的に私アニメなので、自己を模倣しながら自己から空想的に遠ざかる側面が顕著なのだ。そして、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」の昭和12年的状況からの逃避的想像という面でも理解することも出来るわけであるわけであるから、そのシュールさの本質は、二重の逃避としての空想というべきかもしれない。宮崎アニメというのはそもそもそういう面を抱えていたわけだが、その空想を子供のためというロマンという理由で支えなくてもよいと思いはじめた宮崎監督が、自分の逃避とのみ向き合っている感がつよい。こういう内省は「内部世界」というシュールさを帯びる。

宮崎監督は、戦時下で育ちながら、父親が兵器をつくっていたためかよい暮らしを経験していたらしい。これにくらべると、上の文士たちは悲惨である。おそらく、貧乏というのは、逃避が許されない。金を持つようになっても貧乏であることは続くのである。

アイディアルに生きる文士を多田は肯定している。しかし留保条件として、一応飯を食えること、その目処のあることが重要とのべ、「そのためには、文名高しといえど、女房を働かす、その他の工夫が必要である」と述べている。わたくしなぞ、文名低し、女房を働かし、自分も働いている。さいしょのところが少し違うが、私の本質が貧乏文士である所以である。

しかし、文士がかように貧乏であるのは、原稿料が安い、酒と女に使いすぎという理由以外にも原因がある。本読みだから働く暇がないのだ。いま本読みの利点として考えられていることも、よく考えてみると、貧乏の原因になりかねないことばかりである。例えば、まだ読んでねえ重要作があるというだけで死ぬわけにはいかない、と思う本読みの思想は一見かっこよくみえるがそうではない。人間記憶力はだいたいたいしたことないから一度読んでも忘れる。で、読み直すしかなくなる。ドストエフスキーなんか作品の区別がよく分からなくなるので、いずれ全部読みなおさないと逝けなくなってしまうのである。本読みがだいたい読まない人を蔑視しているようにみえるのは、自分が頭がいいとか思っているというより、「源氏物語読まないとか生きてて恥ずかしくないの?」とか「空海ぐらい読んどけよ情弱が」とか「ドスエフスキー読んでないとかほんとに人間なのか」とかいう声が本棚から聞こえるからにすぎない。むかし田島正樹先生が、ブログで、ドストエフスキー読んでないひとは人間ではなく猿並、とほんとに書いていた。わたくしはこの意見には反対だ。猿並ではなく小学生の頃の私並みというべし。

そして、本読みのあれなのは、ドストエフスキーがスキとかいっているだけでなく、コンビニで売っている雑誌なども本だからという理由で収集し始めかねないというあれである。周囲の人間はたまったものじゃないと思う。

革命をマンガで、社会を文学で

2025-04-30 23:41:30 | 文学


すべて此の世で眞に偉大なるものは、提携によつて獲得されたものではなく、常にたゞ一人の勝者が爲し遂げたものなのだ。提携はその遣り方が遣り方だから、始めから将来の分立、またはそれ以上に、到達したものをやがては喪失する萌芽を含んである。偉大な、本當に全世界を驚倒させるやうな精神的革命といふものは、そもそも單一、一體の組織の巨大なる闘争があつてのみ考へ得ることであるし、且つそれに依つてのみ實現化され得るのであつて、決して提携に依る企てとしてではない。

――「吾が闘争」(下巻、第八章)


そりゃその偉大な勝者がマジンガーZで、暗黒代将軍を倒したとか、あるいは、鄰の家のあんちゃんが隣の村の悪いあんちゃんを一瞬で殴り倒したとかだったら、むしろ称賛される勝者なのであろうが、ことはドイツ全体という大きさであった。しかしヒトラーはむしろその大きさが、一人の観念と化した勇者によって出現すると考えたし、そこは非常にいいとこついていた。良心的だが野心的な民主主義者や共産主義者たちが恥ずかしくて言えないポイントである。むかしの左翼運動からあったジレンマ、実践的にみえるやつほど観念的であるという自明の理を、なにゆえ現代の良心的な運動族が無視してるのかというと、そういうことなのである。教育界でも、実践的理論とか言うてるうちに、何もしない人々が増えているが、実践的であることは観念的であり、理論は観念的であるから、当然である。大事なのは、ただの理論、あるいはただの個人であり、それゆえ実行されやすいに過ぎない。

そういえば、昨日は昔の天皇誕生日だったが、昭和天皇はわしとおなじく蕎麦好きだったらしい。うどん好きは朝敵である。――こんなぐあいで、友敵理論だってそんな単純なところがあるにちがいない。

われわれの目指すところは、上のような悲惨しかもたらさない元気いっぱいの革命運動ではなく、社会である。どういうものかというと、香川県で蕎麦派が多いからといって、うどん好きを殲滅するのがヒトラーのやり方であるのにたいし、社会は、香川県に木曽駒ヶ岳と御嶽山を移植して、うどんと人口の半分を移動させる――そういう提携的な夢を多くのひとに見させるがごとき難問なのである。あるいは、ヒトラーを穏やかな小学校の先生にする、とか、植民地主義主義者カミュを、当時からポストコロニアリズムに転向させるような難問である。――言うまでもなく、こういう構想は特殊な文学的なものである。革命は漫画で、社会の構想は文学である。

Scambi

2025-04-27 20:08:46 | 文学
Henri Pousseur - Scambi (1957)


近年の器楽曲の中には、解釈者に許された演奏上の特殊な自立性によって特徴づけられる作品がいくつか認められる。そこでは、解釈者は、伝統的音楽の場合のように、作曲者の指示を自己の感受性に応じて自由に解釈できるのみならず、しばしば楽音の持続や継起を創造的な即興行為において決定することによって、作品の形に介入することさえ要求される。よく知られているものの中からいくつか例を挙げてみよう。

[…]アンリ・プスールは自作の『交換(スカンピ)』について次のように述べている。「『交換』が構成するのは一つの楽曲というよりはむしろ可能性の場、選択への誘いなのである。それは一六の部分から成っており、これらの部分はそれぞれ二つの異なる部分と組合せることができるが、だからと言って音響生成の論理的連続性が危くされることはない。つまり二つの部分には、同様の始まり方をして別様の展開を見せるものもあれば、同じ終り方ができるものもある。どの部分から始めることも終えることもできるため、演奏の結果として非常に多くの継時的組合せをとることが可能になる。要するに、同時に始められる二つの部分は、時間的に重ね合せられ、より複雑な構造的対位法を生じさせることができるのである。このような形式上の提案がテープに録音され、そのまま販売される場合を思い描くこともできよう。かなり高価な音響装置を駆使するなら、聴き手たち自身が録音されたものに対し未聞の音楽的想像力を働かせ、音素材と時間についての新たな集団的感受性を行使することができるであろう」。[…]

この種の音楽的伝達と、古典的伝統において我々がなじんできた音楽的伝達との差異は一目瞭然である。簡単に言えば、この差異は次のように公式化されうる。つまり古典的な音楽作品は、バッハのフーガであれ、『アイーダ』であれ、『春の祭典』であれ、作曲者が一定の完結した仕方で組織して聴き手に提示するか、あるいは作曲者が構想した形が実質的に再現されるべく、演奏者を導くのに適した慣習的記号に移し変えるかした、音響的現実の総体において存する。一方、これらの新しい音楽作品は、完結した一定のメッセージにおいて存するのでも、一義的に組織された形において存するのでもなく、解釈者に委ねられた様々な組織化の可能性において存するのであり、それゆえ、一つの所与の構造的方向で再生され理解されることを求める完成した作品としてではなく、解釈者によって美的に享受されるその瞬間に完成される開かれた作品として提示されるのである。
[…]
〈開かれた〉 作品の詩学は、プスールが言うように解釈者の中に意識的自由行為を助長させ、彼を無尽蔵の関係からなる網目の能動的中心として措定しようとする。 解釈者は、この関係のただ中で自分自身の形を創設するのであって、享受する作品の確定した組織様態を彼に命ずる必然性により、決定されるのではない。しかしながら、その概略を示した〈開かれ〉という用語のより広い意味内容に依拠する場合に、異論として予想されるのは、少なくとも、どのような芸術作品であれ、解釈者がそれを、作者自身と適合した行為において再創造しないならば、真に理解することはできないのであるから、芸術作品は、たとえ実質的に未完成なまま託されることはないとしても、自由で創意ある応答を要求する、ということである。 それでもこの異議は、現代美学が、解釈関係なるものについての成熟した批判的自覚に達してからはじめて実現した認識を構成するのであり、数世紀前の芸術家は確かに、この現実を批判的に意識するどころではなかったのである。ところが、今日では逆に、そのような自覚が、まずもって芸術家に存在しており、彼は〈開かれ〉を事実上不可避の与件として忍受するかわりに、それを生産のプログラムとして選択し、それどころかできる限り大きな開かれを助長させるべく作品を提示するのである。


――エーコ「開かれた作品」(和田忠彦他訳、1990)


解釈関係というもの自覚した芸術家や模倣者がいかに自我を保つか、こういう問題はあまりエーコによって考えられていないような気がするのではある。エーコを大学時代に90年代に新しいものとして読んだわたくしのような人間が感じ取ったのは、そういうことであったような気がする。で、作品と解釈と切り離すのではなく、作品を人格化して攻撃する作法が広がっていったと思われる。これは不可避的なものである。そもそも人々は、プスールの作品を「開かれた作品」として取らず、何か、人の為業として受け取るわけだ。

にもかかわらず、学術的な公式見解としては、解釈と人を切り離す作法が言説や作品を扱うときの前提となった。で、それを機械的に小学校から教えこまれた人々が増えていった。で、人の為業にすると自分がその人にビビってしもうてる現実をみとめる場合、そのときだけ、言説が人の手によっては創られがたいことを主張するようになった。そこにAIのような空気とデータしか読めない現代人の似姿の登場である。

東★紀氏がAIのGrokをブロックしたとか言っていた。オヤジギャグではなくほんとにブロックしてそうであったが、東氏の長所は、AIでも誰かの馬鹿ツイートでも容赦なく人として扱っているところであって、われわれはこのことを忘れがちである。国家もシステムも本も学説も「人」である。ちゃんと喧嘩すべきなのであった。

死と戦後

2025-04-26 23:19:03 | 文学


コウノトリをからかわなかった子に、赤ちゃんをつれていってやりましょう。その子たちはいい子だったからね。」
「じゃ、まっ先にうたいはじめた、あの悪い、いじわるの子は?」と、若いコウノトリたちは言いました。
「僕たち、あの子はどうしてやりましょう?」
「そのお池にはね、死んだ夢を見て死んでしまった赤ちゃんもいるから、それをあの子のところへ持っていってやりましょう。死んだ小さい弟を持って行くんだもの、あの子はきっと泣きだしてしまうでしょう。だけど、ほら、あのいい子のこと、おまえたちも忘れはしないでしょう?生きものをからかうのはよくないことだ、と言った、あのいい子には、小さい妹と弟とを持っていってやりましょう。そして、あのいい子はペーターという名前だから、おまえたちもみんな、ペーターと呼ぶことにしましょうね。」
 こうして、なにもかも、お母さんの言ったとおりになりました。 それで、コウノトリはみんなペーターという名前になり、今でも、そう呼ばれているのですよ。


――「コウノトリ」(大畑末吉訳)


さきほどNHKの「プロジェクトX」で、神戸の高齢パンダの介護番組をやってた。心臓病にかかった神戸の高齢のメスパンダ(おいしいササや林檎しか食べないという人間だったら嫁のもらい手がいないやつである)の健康診断や腹水を抜く治療の奮闘記である。あまりにグルメなパンダなので、粉ミルクと林檎ジュースをまぜた小学生が喜びそうな液体を舐めるのに夢中にさせておいて、腹部から水をぬくという世界初の治療が行われた。おかげでこのメスパンダ、人間でいえば100歳ぐらい生きたそうだ。

しかし、死んだパンダの献花台で号泣するひとたちをみてて、ジュースに依存して苦しみを忘れるパンダと我々が似ていることは勿論、――昔からわれわれは獣と一緒に暮らしてたわけだからもうそういう生活に戻らないと情緒不安定できついんじゃねえかな、まじめなはなし――と思った。

パンダの気持ちはわからないが、我々の死生観がどこまでも死への恐怖が生を萎縮させる馬鹿馬鹿しい状況になっており、多く行きのこるのが正義みたいな、戦時中の、多く死ねば正義、をひっくり返しただけの思想が猛威をふるっている。人が死ぬことを人だけで考えているからおかしなことになるのではなかろうか。ハイデガーでさえ、石とかミツバチと比べて議論をしていたというに。思春期までの体験として、人の死を体験するのが大事とかはよく言われるけど、つまり、――たくさんの動物を看取る経験の上に必要とすべきじゃないかと思う。人の死に対する思考は単独では何処に飛んでいくか分からないものでまったくもって観ていられないというのが、人の歴史ではなかろうか。大衆も、左右どちらも、例えば「犬死」に観念に、実際の犬の死が全く入り込んでいない。

しかしそれは、必ずしも即物的な体験のことではなく、「犬死」における文学的な処理問題である。

戦争責任を問われて
その人は言った
  そういう言葉のアヤについて
  文学方面はあまり研究していないので
  お答えできかねます
思わず笑いが込みあげて
どす黒い笑い吐血のように
噴きあげては止り また噴きあげる

三歳の童子だって笑い出すだろう
文学研究果さねばあばばばばとも言えないとしたら
四つの島
笑ぎに笑ぎてどよもすか
三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア

野ざらしのどくろさえ
カタと笑ったのに
笑殺どころか
頼朝級の野次ひとつ飛ばず
どこへ行ったか散じたか落首狂歌のスピリット
四海波静かにて
黙々の薄気味わるい群衆と
後白河以来の帝王学
無音のままに貼りついて
ことしも耳すます除夜の鐘


茨木のり子の「四海波静」でも扱われている、昭和天皇の「戦争責任」を「言葉のアヤ」「文学方面」に帰する例の発言についてはいろいろ研究があるんだろうが、天皇みずから、戦争責任については、政治や科学でなく、むろん責任者自身でもなく、文学方面で決着していいとの発言であり、むしろ我々にとってよろこぶべき事態である。戦後の文学的戦争責任論争の泥仕合が存在を認められたわけである。

茨木のり子は天皇の発言にびっくりしたのではなく、そこには、野ざらしの髑髏がバックの合唱隊の唸りのようにきこえているのである。それは、戦前から何も変わらないもの除夜の鐘となる。こういう人ことでないと、人は簡単に、責任と罪を分離し、戦後を謳歌できた。かかる転向犯罪者は多く、例えば、敗戦を境に価値観がひっくり返って大人たちの反対のことを言い出したというおきまりの言い方への信仰もその者達を勇気づけた。しかし、彼らは別に普遍的な何かを見たのではなく、特に学校でそれを感じた世代があったんだろうと思う。事実、価値観が文字通り「ひっくり返った」ことはないからだ。ひっくり返ったような言い方をせざるを得ないのは教育的な現場だ。いまもそうである。大岡信が茨木のり子との対談(岩波文庫『茨木のり子詩集』)で言っていたけど、その「ひっくり返った」勢いがちょうど15歳ぐらいだった連中は青春として体験されたが、茨木のような上の世代はそうではないと。わたくしの小学校のときの担任は、敗戦の時に小学校高学年で大江健三郎の世代。すると、戦後の解放と言うより、元軍人の先生とかへの恐怖みたいなものの体験が印象に残ってると言ってた。大江の小説にもそういう要素がある。だからこそ、大江の戦後は、リアルなのである。

しっかり者の運命

2025-04-24 23:17:07 | 文学


錫の兵隊さんは、炎にあかあかと照らされて、おそろしく熱くなったのを感じました。けれども、それが、ほんとの火のせいなのか、それとも自分の胸の中に燃えている愛のためなのか、はっきりとはわかりませんでした。美しい色も、もうすっかりはげてしまいました。それが旅の途中ではげたのか、それとも悲しみのために消えたのか、それはだれも言うことができません。 兵隊さんは、可愛らしい娘さんを見つめていました。娘さんも兵隊さんを見つめていました。その時兵隊さんは、自分のからだがとけて行くのを感じました。それでもまだ、鉄砲をかついだまま、しっかりと立っていました。その時、ふいにドアがあいて、風がさっとはいって来て、踊り子をさらいました。娘さんはまるで、空気の精みたいに、ひらひらとストーブの中の錫の兵隊さんのところへ飛んで来ました。 そして、めらめらと燃え上がって消えてしまいました。錫の兵隊さんもその時は、もうすっかりとけて、小さなかたまりになっていました。ある朝、女中がストープの灰をかき出しますと、灰の中に、ハート形をした小さな錫のかたまりがありました。踊り子の方は、金モールの飾りだけが、あとに残っていましたが、それはまっ黒にこげていました。

――「しっかり者の錫の兵隊さん」(大畑末吉訳)


このはなしをわたくしは小さい頃に読んだ記憶がない。平家物語なんかだと、死に行く人々が結局藻屑となったり、人しれず腐ったりしていることが明らかであるのに、しっかり者の兵隊が運命に弁慶のように立ち向かっていると、愛する人が灰になって飛んでくるのだからしゃれている。M・マールの本を読んでいると、トーマス・マンの「魔の山」なんか、アンデルセンのおとぎ話の王国に出来た変種に過ぎない気がしてくるわけである。

しかしながら、我々がいくら力んでしっかりしても、我が王国には、何故、恋人の灰が降ってこないのであろうか。

例えば、課題解決のための話し合いなんてのは、絶対に命令を実現しなければならない末端の実行部隊が生き残るためにやることであって、上の方は話し合いなんかしていないのだ。丸山眞男の抑圧の移譲というのは、現代では、話し合いの移譲に変身してしまった。国語の教科書に載っている話し合いの教材って、かかる奴隷化教育のための教材として導入されたものである。

ロマン派のための子守歌

2025-04-23 23:05:36 | 文学


トーマス・マン研究にも知られているヴァルター・A・ベーレントゾーンの著作は、『詩人の工房における日常の客としての死』という実に嬉しいタイトルであり、 素晴らしいリストがあげてある。《一五六編の『メルヘンと物語』のうち、死に対するいかなる指摘もないのは六分の一に過ぎない。少なくとも二四編の物語で、死は唯一のメインテーマとなっており、主として伝記的なほかの二五編の物語では、結末に死が著しく強調されて出てくる。二つの連続物(『幸福の長靴』と『眠りの精オーレ・ルゲイエ』)では、作品全体の頂点となる最後の物語に、死の描写が満ちている。(……)アンデルセンが『メルヘンと物語』で描くさまざまな死に方について、奇妙なもの、彼がとりわけ詳細に描いているものを、若干書き出そう。錫の兵隊と踊り手はともに暖炉の中で死ぬ (しっかり者の錫の兵隊)。四編の風の物語のうち、三編で死が話題になっている。北風は鯨取りを溺死させ、西風は頑張屋が川の流れを漂って滝に落ちるのを見、南風は隊商を全員砂の中に埋める(パラダイスの園)。 小さな子供は水車のある堤防で死を夢見る(コウノトリ)。若い娘は殺された恋人への憧れから死ぬ。 彼女は彼の首を植木鉢の中に埋めたのである(バラの花の精)。インドの女性が死んだ夫とともに焼き殺される(『雪の女王』の鬼百合が語る物語)。ここでベーレントゾーンは脱線を控え、彼にとっても考慮に値する『すげかえられた首』には言及しない 《カーレンはついにまたミサに参列を許された時、喜びのあまり死ぬ(赤い靴)。赤い櫛と金色の羽で体を飾ったスズメの母親は鳥たちにつつかれて死ぬが、その中には自分の子供たちもいる(おとなりさん)。貧しい少女が大晦日の夜、街の真ん中で死ぬ(マッチ売りの少女)。病気のクヌートは故郷への旅の途中、街道の柳の木の下で凍え死ぬ(柳の木の下で)。われわれは洗濯女の最後の一日を体験する (あの女はろくでなし)。

――ミハエル・マール『精霊と芸術』(津山拓也訳)


この本は、わたくしのような、アンデルセンとマーラーが大好きだみたいなロマン派のための子守歌みたいな本であった。

職域奉公的技巧馬鹿

2025-04-22 23:44:19 | 文学


ある点までは、子どもの漫画に対する主たる関心は、その内容に条件づけられるのではなく、漫画自体の表現形式や表現の実体に直接むすびついている、といえると思う。子どもは漫画の手段を自分のものにしたいのだ。つまり、〈漫画の読み方をおぼえるために漫画を読む〉のであり、その規則や約束ごとを理解するために読むのだ。登場人物の冒険よりも、自分の想像力の作業を楽しむのだ。 ストーリーとあそぶのではなく、自分の頭とあそぶのだ。

――ジャン・ロダーリ『ファンタジーの文法』(窪田富男訳)


この読み方をおぼえるために読む、というあり方は子供に限ったことではなく、成人においても同様で、内容よりも技巧そのものを批評する傾向がある人は少なくない。ネット上の批評の最底辺では、そういった一面的な素人談義が多くの争いを続けている。これは、読者論的なもののなれの果てであるとともに、作品における技術に対する戦後の議論が流産させられたためだ。もっとも、技術の機械化はそういう帰結をいつももたらし、本質的な新しさから目を反らす原因となってきた。

学者のほうでも、「小説や漫画すら読まない」学生を専門書に向かわせるにはどうするかみたいな非常に非本質的な議論があとを絶たない。よくある「文系」教員の勘違いであって、専門書はどちらかというとむしろ頭がよくなくても最初からちゃんと読めばよいところがあるが、小説や漫画はそうでもないむずかしさがある事情を無視している。むしろ、おまえさま小説でも読んだ方がよいのではみたいな学者は結構いる。「専門家」も大学生も、自分テレビみないんで、みたいなノリで、いろんなものを読まなくなっているのが問題であって、結局、――コスパとかタイパがその実、職域奉公の症状であることを覆い隠しているのと同じようなからくりだろうと思われる。

そういえば、うちの業界でも同じような現象があった。いわゆる「文藝ストレイドックス」などを使った学問商売のことである。この作品をもちあげて客を集めようとするやりかたがどれだけ効果があるのか知らないが、――ほんとに文学に賭けてるような若者をしらけさせている可能性はあり、いつものことだが真剣な奴らを離反させるテクニックがすごいと感心させられる。

小説や漫画を、旦那衆の床屋談義から救い出すことが必要である。

墜落の低廻趣味

2025-04-20 23:34:59 | 文学


あくる朝になって、ようやく男の子たちがやってきました。見るとヒバリが死んでいるものですから、おいおい泣きだしました。 そして、たくさんの涙を流しながら、小さいお墓を掘りました。それから、花びらでまわりを飾りました。 ヒバリのなきがらは、赤いきれいな箱の中におさめられて、王様のように、りっぱに葬られました。 あわれな小鳥よ! 生きて歌っているあいだは忘れられて、 鳥かごの中で、苦しい思いをさせておいて、いまになって、花を飾ったり、涙を流したりするとは!
 さて、鳥かごの中の芝土は、ヒナギクといっしょに、道ばたのごみの中に捨てられました。 ヒナギクこそは、小さなヒバリのことを、だれよりも深く思いやって、どうかして慰めてあげたいと思っていたのですが、だれ一人、ヒナギクのことを思い出すものは、ありませんでした。


――「ヒナギク」(大畑末吉訳)


わたくしは、アンデルセンの「ヒナギク」とかワイルドの「幸福の王子」とかが、幼児の頃から文学の最高傑作だと思っている。わたしが病弱だったであろうか。自己犠牲は、ヒナギクや幸福の王子に尽くす燕のように死ぬことであるような気がする訳である。しかし、この価値判断が元気のよい幼児にすり込まれると、いわば体当たりの特攻精神に行くのであろうか。特攻は、自分が人柱となるよりも、なにか人に対する当てつけらしいところがある。人を柱となった高見から人を道具化する。

しかし、人を道具として扱ってしまうひとは保守でも革新でもだめである、とだけ主張しても、かえって、あらゆる自己主張を抑圧しかねない。労働者やマイノリティの側につく運動にはある程度をひとを「使う」面がある。運動者にいわば低廻趣味みたいなものが必要なんだろうと思う。因果を強調する実証だけじゃだめである。

低廻趣味が正常に廻るのだってほんとは難しい。漱石も、人に足を引っ張られたかたちで、低廻していたと思う。自然に後ずさりし、背後に吸い込まれていくのがその実、低廻趣味の精神的実体なのである。そういえば、記憶の底にあった、幼児の時、あのシーンはとても怖ろしかった作品をみつけた。記憶の表面にあったんは「妖怪人間ベム」のほうであるが、底にあったのは「勇者ライディーン」というアニメーションで、主人公がロボットの表面に吸い込まれて運転席までサイケな空間を墜ちて行く場面が恐ろしかった。「マジンガーZ」をみてたころはもっと頭が動物だったが、このアニメのコロは少し頭が人間になってたのであろう。わたくしは、低廻趣味とは、そういう何者かへの同化を経験していないといけないと思うのである。

反「タンポポの花一輪の信頼」

2025-04-18 23:42:55 | 文学




私は、巡礼志願の、それから後に恋したのではないのだ。わが胸のおもい、消したくて、消したくて、巡礼思いついたにすぎないのです。私の欲していたもの、全世界ではなかった。百年の名声でもなかった。タンポポの花一輪の信頼が欲しくて、チサの葉いちまいのなぐさめが欲しくて、一生を棒に振った。


――太宰治「二十世紀旗手――(生まれてすみません。)」


太宰のタンポポは、うちの職場をとり囲んでいる上のような兇悪な茎のそれではないとおもうのだ。タンポポの花一輪を信頼に、チサの葉一枚をなぐさめに重ねる太宰は可憐というより対象に対して優しいがエゴイスティックである。

そういえば、大学の教室で鍋やっていいのかみたいな話題が自由と関係づけられてたびたび行われるけれども、その鍋を行わせた?音楽学者はどちらかというと右翼ではないかとおもう。彼の鍋をヤル自由はどこか鍋と言うよりも、他人と距離を取ってこの場合は匂いで圧をかける優しい気合いみたいなものだ。太宰もその点、女の自由に対して優しい右翼である。しかし、わたくしはどちからというと、計画設計された真実の押しつけを自由と感じる左翼であって、わたくしは学生と鍋をつついてもその味を妨害する10月革命のことを喋り続けてたりするわけである。わたくしはおれの自由を追窮する。そして学生のレポートをその自由な赤ペンで弾圧する。

わたくしは、太宰やうえの鍋自由主義者よりも言葉による感覚認識に自由を賭ける者である。小学校1年生の国語の教科書には絵がたくさん載っており、そこからいろんな意味をとりだすみたいなことをやってみると、学生の言語的な力がよく分かることが多い。言い古されてはいるが言葉で感覚されないとものは見えないこともおおいのだ。確かに、見えないものがみえるその領野は善悪の彼岸であって、だからこそそこに善悪の賭を行うのが我々のような輩である。

而して、意図的に見えないものを見せようとするフィクションというのは、現実のことがらとまったく関係ないものという意味ではないと見做すし、具体的に言ってみて、とかをあまりに頻繁に言う人というのがお馬鹿だとみなすのである。現実への抽象能力と小説の読解能力は似ているけれども同じではない。小説には倫理が賭けられているからだ。

重語命題

2025-04-16 23:49:34 | 文学


「人生を真面目に考へる」といふ言葉は、畢竟するに「暗い闇夜」の重語命題ではないか。願くはただ「真面目」だけに止めよ。でなければ「考へる」だけに。我々の生活をして、まありに暗黒に、暗黒に、闇を深くする勿れ。

――萩原朔太郎「新らしき欲情」


そうはいっても、春に芽生えるみたいなものは許されると思う。人生を真面目に考へる、というのは状態ではなく、プロセスなのである。

「裸の王様」の態度を讃えよ

2025-04-15 23:43:13 | 文学


「なんにも着ていらっしゃらないって、小さな子供が言ってるとさ。なんにも着ていらっしゃらないって。」
「なんにも着ていらっしゃらない!」とうとうしまいに、ひとり残らずこう叫びました。これには皇帝もお困りになりました。なぜなら、みんなの言うことがほんとうのように思われたからです。けれども、「いまさら行列をやめるわけにはいかんわい。」とお考えになりました。 そこで、なおさらもったいぶってお歩きになりました。そして、侍従たちは、ありもしない裳をささげて進みましたとさ。


――「皇帝の新しい着物」(大畑末吉訳)


しばしば忘れられているが、裸の王様の結末は、――子どもによって真実がバレてしまったのではなく、それでも「今更やめられない」ので、もったいぶって歩いてしまった王様につきしたがった侍従の姿である。問題は、真実を知ってからどうするかというのがこの話のテーマなのだ。

しかも、この王様や侍従たちが間違っているとは限らない。そもそもこういう権力そのものが裸の王様みたいなものであるのは、大のおとななら誰でも知っていることであり、その虚構をなくして、社会が成り立つか懐疑的なのがたいがい大人なのである。もちろん、正しいとは限らないが、うまく虚構を運用することは、その正しさよりも重要な局面がある。この王様と侍従たちは冷静でもあった。ひどいやつになると、子どもを叩き殺してしまう奴だっていたにちがいない。

世の先生たちは、そういうことを屡々忘れそうになる。この前、バスの中で「あいつはむかつくから家の前で★ねを100回言ってやった。」「誹謗中傷もいいとこヤナ」とか会話している小学2年生たちを見かけたが、王様は裸だという発言をいちいち聞くというのは、こういう子どもの奴隷になってしまうことである。

震災のときに、良心的なひとをこき使ったりする「共助」の現象がみられたというのは、何回か聞いたことがあるが、震災でなくても、戦争の時の「協同」とか最近の「チーム何とか」とかみんなそうなっている。問題は、そういう我々は死ねばよい、あるいは逆にとても素晴らしいと判断することではなく、小さい現場を少しでも倫理的にまともにしてゆくことであろう。そうでないと、「自助」だか「公助」だかは夢のまた夢だ。

自分自身の姿と芸術

2025-04-14 23:53:59 | 文学


女性をテーマに男が書いた詩の数々を眺めてみればよい。 女性とはまるで……男が創りあげた詩の世界だけに生を享けた住人のようだ。彼女たちは大抵の場合、美貌の持ち主で、その美しさや若さの翳りに怯えて身を震わせる......。 あるいは、その美しさをたたえたまま、ルーシーやレノーラのように薄命に終わる。あるいは残酷なことに……そんな詩人の慰みものになることを拒めば、完膚なきまでに叩きのめされることになる……。ものを書こうという少女や女性は…とかく言葉に影響されやすいものだ。この世界に存在する自分は、いったい何者なのか、その答えを詩や小説に求めるのである......。自分を導いてくれるもの、将来の展望、無限の可能性を求めては……そのすべてを否定する壁に何度も何度もぶちあたる......。自分が自分であることの全てを否定する壁につきあたる・・・・・・彼女は恐怖と夢を見出す······天賦の美貌だけでは満足できないつれなき美女……、 しかし、そんな彼女がどうしても出会うことができないものは、夢中で努力してとまどいながらも、ときにはそんな姿が読み手に希望を与える生き物―つまり自分自身の姿である。

――アドリエンヌ・リッチ"When We Dead Awaken: Writing as Re-vision," College English 34, no. 1 (October 1972): 21.(小谷真理訳)


ジョアナ・ラスの『テクスチュアル・ハラスメント』に引用されていた。ラスはSF作家である。これはけっこう興味深いことに思えるのであるが、アンデルセンの場合、その美女たちが、あまり上のような「男の作り上げた詩の世界」の一部にはみえない。すくなくとも私にはあまりみえない。どちらかというと、作品の中の美女よりも現実の美女のほうが作り上げた詩の世界のそれにみえる。最近のルッキズム批判を適用したら、醜いアヒルの子は白鳥の集団からも醜いといじめに遭って死ぬかもしれない。しかし、そもそもその醜いアヒルの子が白鳥の集団においてもリンチに遭うかも知れない予感は、読書する我々にそもそも存在しているような気がする。フィクションは作り上げられているだけでなく、現実と読書によって繋がっている。

それをもう一回、フィクションであるという次元に差し戻して観察するのが、学問のやり方ではあるのだ。しかし、学者をやっていると分からなくなりがちであるが、作者の死やらテクストに即するやら、人の論文を「参考文献」としてモノ扱いするみたいな、その態度というのは普通に非常識なのである。非人間的と言ってもよい。たしかに一周まわって人間的であるのはわかるが、学者本人が非人間的になってしもうてる可能性はすてきれない。

それが文学作品や論文といった「作品」でなくてもそうである。人文の分野は、ルネサンス的に展開するのであって、急に古いのが復活するのが醍醐味だ。しかし、研究の発展みたいなイデオロギーが大手をふるいすぎると、先行世代が否定したところに逆行した側面が、単なる進歩みたいな顔をしていることが屡々である。不可避的なことでもあるが、その態度の問題性は常にある。

わたしは、三十代の頃から、文学研究は、作品の非人間的な倍音を聞くことが重要だと主張している。そういえば、わたしが直接知るボーカロイドの開発者や作曲家には、案外合唱をやっていた人が多い印象がある。全体的な傾向はしらないが、重要なことのように思える。おそらく合唱が人間の声の有限性を痛感させるからではなく、声のハモり自体がどこか非人間的な感じがするからだ。そこに憑かれた人々は作品を単なる作品とは思えず、ドームに響きただよう何ものかだと思う。それを機械で実在させようとしているのが、合成音声の人たちであろう。しかし彼らの感性がその「何ものか」並にすごいとは限らない。我々はつねに有限な人間である。チッチの言う「自分自身の姿」とはいったいどういうものであろうか。

陛下の口から悪口0.5秒前

2025-04-13 23:44:43 | 文学


昔の悪口には面白いのがずいぶんある。
 今は恐妻家、女天下というが、昔は「からすの昆布巻」(かかあまかれだ)
「ずいぶん歩いたがまだよほど遠方なのかね」
「なーに、台屋のお鉢だ」(じき底、すぐ底)
 吉原の料理屋からとる飯櫃は上げ底になっていた。いちいち説明をつけると長くなるが、現代人にはぴったりこない。


――三代目三遊亭金馬「昔の言葉と悪口」


陰口はよくないとまあ思うわけだが、2ちゃんねるより前当たりから、現実世界で適切に陰口をたたく技術のための言葉の豊かさと繊細さが我々の社会から失われたと思う。で、ネットに書き散らすようになった。ネットに書けるから現実で言わなくてもよくなったのではない。

そういえば、70年の万博での昭和天皇の演説は例の祝詞口調だったが、いまの天皇の演説は丁寧だが普通である。この調子では、陛下もそろそろ悪口を叩きそうな勢いだ。而して、なんだかもう天皇は祝詞口調でいこうぜとかおもってしまったわ。でも、いまの陛下はわたくしと容貌が似てるし、細君のほうが大きいという点までわたくしに似ているのでいいとおもう。

目的意識と自然抵抗

2025-04-12 23:11:00 | 文学


「それに、人間の一生は、かえって、わたしたちの一生よりも短いんだよ。わたしたちは、三百年も生きていられるね。けれども、死んでしまえば、わたしたちはあわになって、海の面に浮いて出てしまうから、海の底のなつかしい人たちのところで、お墓を作ってもらうことができないんだよ。わたしたちは、いつまでたっても、死ぬことのない魂というものもなければ、もう一度生れかわるということもない。わたしたちは、あのみどりの色をした、アシに似ているんだよ。ほら、アシは、一度切りとられれば、もう二度とみどりの葉を出すことができないだろう。
 ところが、人間には、いつまでも死なない魂というものがあってね。からだが死んで土になったあとまでも、それは生きのこっているんだよ。そして、その魂は、すんだ空気の中を、キラキラ光っている、きれいなお星さまのところまで、のぼっていくんだよ。わたしたちが、海の上に浮びあがって、人間の国を見るように、人間の魂は、わたしたちがけっして見ることのできない、美しいところへのぼっていくんだよ。そこは天国といって、人間にとっても、前から知ることのできない世界なんだがね」


――「人魚の姫」(矢崎源九郎訳)


人間には短命なのに魂があり、人魚には長命なのにそれがない。このあと人間から愛されれば魂を授かるみたいなはなしがでてきて、人魚の悲劇がはじまった。なぜなら、たぶん人間にも魂はないからだ。問題は魂を得るということの重大さなのである。その人魚の一生は目的にむかってのものではなかった。水草のように上へ生長して行っただけだ。

わたしの人生と言えば、病との闘いが原点だから、健康や幸福が人生の「目的」という考えはそもそも理解できない。病への抵抗が問題であって「目的」ではないからだ。闘いが出来なくなるのが終了というだけだ。だから、昔の左翼とか右翼が党派に命をささげるみたいなのもその意味で分からなくはないわけだ。原点に貧困や差別への闘いがあった場合は。歴史上問題になってきた、官僚制的な党派主義というのは別の問題だ。

そういう「目的」は、仕事の世界では「プライベートの幸福」とかいわれる。しかし、そういう「幸福」などほとんどどうでもいいんだが家族はつくるべし、ぐらいがかつての家族の「幸福」な実態だったにちがいない。家族は半分桎梏に決まっているわけで、幸福であろうとすると誰かに無理を強いたりするしかないのである。それがいやなら一人で生きるしかなくなるわけだ。かくして上のプライベートが特別の幸福を示しているように錯覚されて行く。

仕事の上では、そのプライベートを心理的に侵害するものとしてハラスメントという言葉が発明されたが、その実「権威主義」の裏返しである。自分を卑小な物体にしておかないといけないからだ。というわけで、権威が特定の属性にくっつくような形式論理も理解できない。中年男が党派みたいにみえるというのはわかるが、そんなところを「目的」(標的)にしても、どうせ弱そうな個人を虐めるだけで終わる。おじさんの不機嫌はあまりよろしくないみたいな風潮があるが、その理由と関係なくニコニコを強いるのは端的に暴力なのである。確かに快活さは人に影響を与えるので職業上大事なこともあるが、そういう風潮を、自分の怒りや批判を押さえる方向で把握する、良心的な人々への抑圧にしかなっていない。馬鹿というのは、男女年齢問わずいるわけで、権力を持っている親父たちの問題とごっちゃにするのはさすがに権威主義が過ぎる。

そういう人間が大勢をしめると、例えば、いまの地震対策は地震対策じゃなくて「自分の安心安全」を保持したい「目的」の群れの精神運動になってしまうわけである。健康志向もそれである。問題は人生観のほうで、科学的に対策が練られるほど本質から遠ざかり、最後は生き残るための差別に行き着くね、行き着くね、というかそれが原点であろう。

目的意識と自然生長、というプロレタリア文学の有名なテーゼがあるが、目的意識と自然抵抗とすべきであった。

人魚姫はコスパよく泡になったのか

2025-04-10 23:51:15 | 文学


しかし、その瞬間、お姫さまは、それを遠くの波間に投げすてました。すると、ナイフの落ちたところが、まっかに光って、まるで血のしたたりが、水の中からふき出たように見えました。お姫さまは、なかばかすんできた目を開いて、もう一度王子を見つめました。と、船から身をおどらせて、海の中へ飛びこみました。自分のからだがとけて、あわになっていくのがわかりました。
 そのとき、お日さまが海からのぼりました。やわらかい光が、死んだようにつめたい海のあわの上を、あたたかく照らしました。人魚のお姫さまは、すこしも死んだような気がしませんでした。


――「人魚の姫」(矢崎源九郎訳)


人魚姫の話を読んで、恋愛はコスパが悪いなどと言う人はいないであろうが、いやいるかもしれない。考えてみたら、人魚が人間と結ばれると泡になってしまうみたいな条件は、話を一気に悲劇的にするためにコスパがよいといえるかもしれない。アンデルセンのせっかちさは誰もが感じるところではある。

そういえば、「Z世代はコスパ病」みたいなこと言う人はけっこういるが、コスパみたいな言葉によってそういう観念を所持する人が多くなったことは確かにあるかもしれない。しかし、損得で行動を決めたりする人なんかむかしからたくさんいた。そして勉強や学問に関しては、非常にいまいちな人の特徴そのものだったではないか。いまでもそうだろう。

コスパもそうだしコミュニケーションもそうだが、我々の社会に即してそれをどのような日本語に置き換えるべきか考えなくなってから、なにか倫理的判断の吟味のないままそれが武器として振り回される現象が起きてる気がする。

昭和的根性論の象徴みたいになってる反復練習や千本ノック的なやりかたは、科学がなかったからやっていたのではなく、集団の組織化や習熟にとってコスパがよさそう、あるいは実際によい場合もあったからやっていたのであって、その形式的な実践が暴走したりするのは、コスパを意識しすぎてなにもかもうまくいかなくなる現在の人々と全く同じなのだ。そして、ほんとは、コスパが悪いとかいうて合理的に振る舞おうとする人はいつもこれ以上失敗して傷つきたくないとか、そういう心理なんじゃないのか?昭和とか科学性とか言い訳にすぎない。

コスパがよいというのに一番近いのは「要領がよい」というやつではなかろうか。しかし、「要領」とは、辞書的な意味で言っても、要点のことであって、「要領がよい」というのは、本来、うまく物事が作動するための構造をつかむみたいな能力に優れているということである。すなわち、これは結構倫理的で知的な作業なんだと思うが、通俗的な「要領の良さ」が「ずる」に近くなるのは、その倫理性と知性が欠落しているからである。例えば、作品の要約をつくるのは倫理的で知的な作業で、これが出来ないのにいきなり批評に飛躍すると悪口やエゴの発露になってしまうのと同じである。要約や梗概を創る練習を軽視して、対話とかやっててもどんどん何かが劣化して行くのは当たり前ではないだろうか。