★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

喜びも悲しみも二十五年ぐらい

2016-10-31 22:39:12 | 映画


細君と一緒に「喜びも悲しみも幾年月」を二日かけてみた。わたくしの好きなメロドラマである。

気付いたこと

1、ここに描かれている生活用品や服装、家の様子にほとんど違和感がないわたくし。おかしいな、わたくしは昭和40年代後半の生まれのはずであるが……
2、夫婦の息子が大学にいけず、やけになって遊び歩いていたところ、高松の不良に刺されて死ぬエピソードはやっぱりひどすぎ……。それを、香川でやる必然性はあるのかっ
3、最後に、長女が結婚するのを見送る「老い始めた」灯台守夫婦であるが、この人たちの年齢は、わたくしどもと一緒ぐらいか……まずいぞ……
4、佐田啓二……確かに晩年であったような気がする
5、秀子様最高

太田南秋祭りに行ってきました2

2016-10-30 22:12:45 | 日記







何か怒られている気がする


何か怒られている気がする2


何かに乗っている気がする


何か調子こいている気がする






平安朝みたいな気がする


裏に回った気がする


木がする


たぬキの気がする




最近、こういうのを調べようという気になっている


御神輿がお帰りです


キョリを置いて

2016-10-29 23:36:35 | 漫画など


『毎日かあさん 13』の「キョリを置いて」という回で、日本の反抗期みたいなのがアメリカではないという話が出てくる。わたくしも昔から、日本の反抗期の不健全さみたいなものは非常に気になっている。日本の反抗期の少年少女が、いわば、子どもが極端な処世術を身につけるみたいな様相を示すのを、身体的なアンバランスに求めすぎるのは反対である。何故かといって、そのような様相は、実は我々の大人の社会の実態だからである。日本では大人になるためには子どもにならなくてはならない。わたくしは、反抗期を親の子どもから社会の子どもになる移行期として考えてみたいのである。

最近反抗期がないやつが増えているらしいが、質的に差がないから移行する必要がないからかもしれない。いや、単に家族にせよ社会にせよ親的なものの支配が強くなっただけというべきであろう……

授業・団子・メンバー

2016-10-28 22:25:05 | 大学


私立高校での研究授業を拝見する。見たところ、現場の高校の先生方はたぶんちゃんとしているのに、それを妨害するメンバーが世の中にいるのである。大学の教員と高校の教員が話してみると、生徒にとって必要なことが何かについてはだいたい認識が一致しているし、方法も分かっている。しかし、そこに思い上がった妨害者が妙な言葉や方法を強制してくるのである。もうはっきりしているが、そういう妨害者は実際には単に学や自己点検の能力がないにすぎない。だから人を強制して自己を形作るしかないのである。言うほどこのことを避けるのは簡単なことではない。年をとると自己を形作る空白を充実と錯覚するほどろくでもない記憶だけは溜まっているからである。

能力のない奴らが立場だけで人を恫喝する。立場と言ってもいろいろあるが、いよいよ家族なども立場になりつつあるので、もう若者たちに逃げ場はない。家族でも職場にでも全く同じ仕組みのハラスメントが起こっているのだから嫌になる。

いま私のゼミ生が、三島由起夫の、ニヒリズムについての小説を研究しているが、どうも三島はニヒリズムの半面しか観ていないような気がする。あと半面、――犬しかかからないようなニヒリズムの病があるのではないか。彼の小説での、犬の形象が問題であった。

昨今は、会議ですら全く無意味になっており、メンバーが重要である。だいたいメンバー表には、肝心な奴が抜けているくせに、パシリに使われているかわいそうな人たちがむりやり名前を書かされている。三島が私兵のメンバーを大事にした理由が分かる気がした。

大学で、学生が売ってる団子とアイスを食べる。うどんか何かを食している学生のと一緒に並んで食べた。和む。

良心ある事務官の人と立ち話する。

イカレた添付ファイルをみて世の中に復讐を誓う。

人生に相渉る林檎の丸木橋を渡らねば……

2016-10-27 12:43:44 | 文学


今日の共通科目「戦後文学と宗教」は、透谷の「人生に相渉るとは何の謂ぞ」、藤村の「初恋」、一葉の「にごりえ」と読んできて、その「想の領域」問題を考えるというもの。

「初恋」は軽く扱う予定だったが、朗読してみると、なかなか良い詩でこんな林檎的初恋なんて経験していないにも関わらず、なぜか教壇でときめくわたくしであった。学生諸君もちゃんとときめけ

「にごりえ」は朗読しているといつも泣きそうになる。今日は初めて透谷の「人生~」を朗読してみたが、なんかすごいな、とりあえず何かすごい。

冬の陽

2016-10-24 13:21:11 | 大学


になってきたでござる。大学は相変わらずでござる。


「富江」下を寝る前に読もうと思う。今日は、午後ドナルド・ディビッドソンで勉強していたから疲れた…

トランプ対ヒラリー3

2016-10-22 19:07:36 | ニュース


「バナナフィッシュ」でつくづくじゃまだと思うのは、頭が切れて銃の名人でもあるアメリカ人の主人公をなぜか慕う日本人の優しい青年…。もっと頭のいい日本人を出して欲しい。


トランプの右手の動きが気になって集中できない。

一昨日、宇多田ヒカルがテレビに出てて、「昔の人が寛容だったとは思えない。ただ、現在は、基礎までたどり着けるような情報を得ないと、――つまり自分からちゃんと勉強しようと思わないと、中途半端な情報によって差別的な非寛容的な社会になってしまう」とかなんとか言ってたけど、さすが宇多田さん。それをニュースキャスターが「自分の言葉でわかりやすく語っていた」と評していた。こういうところが、日本のメディアが信じられないほど堕落しているところである。こんなことをやっているから、「土人」発言とかが出てくるのである。極言すれば、吾々の社会に必要なのは倫理ではなく、理解なのだ。

そういえば、漱石の「土人」発言についてもいろいろと論ずべきことがあるのであろうが、それは授業で話すかもしれない。やめるかも知れない。

松井という知事が「表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。」と言っていたそうであるが、つまりこういうことである。「どこつかんどんじゃぼけ、どじんが」という表現は大げさだったとしても、発言した彼は、表現は違うが同内容の命令を受けているということである。果たしてどういう命令であろうか?

アメリカの若者たちに聞いた所、トランプやヒラリーが大統領になるくらいなら隕石で地球が滅亡した方がまし、とか答えたらしい。さすが、「日本死ね」より、破壊のレベルが違う。アメリカがどんな人物を選ぼうと勝手であるが、日本土人を巻き込まないで頂きたい。

この前、「リトル・マエストラ」とかいうのを深夜映画で観たが、何か何もかも嫌になってきた……。神崎繁氏も亡くなったか…。