★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

不孝

2023-05-22 22:25:32 | 思想


孟子曰、不孝有三、無後爲大、舜不告而娶、爲無後也、君子以爲猶告也。

不孝には三種類ある。なかで子孫を絶やすのが一番大である。舜が親に報告せずに娶ったのは(報告すると反対されるから)子孫が絶えるからだ。君子は報告したのと変わらないとみなすのである。

あと二つは、親に媚びへつらったりして却って親との関係を不義に導くことと、家が貧乏で親が老いているのに働かないことである。

孟子の直面していた課題は、現代とまったく同じであった。多くの人が孝行を親に従うことだと思い、親子関係の現実を打開できない。――親に反対されて独身を貫いたり、親の言うことに従っているうちに、やってることの理を失いかえってこじれる、そんなかんなしているうちに家が没落する、しかも親の従属物でありつづけているから働けない、みたいなことである。これはかえって不孝であるとみなすべきと孟子は述べている。親を政府に置き換えても同じ事であろう。孝行を為すためには政府や親に従っていると碌なことにならない。勝手に産んで増えたほうが不孝にならずにすむ。日本の少子化が問題だとして、――こうなると、明治の初期からあるいはもっと前から我々は不孝を実現しようと頑張ってしまっていることになるのかもしれない。不孝は特に親や目上の人間に対する敬意がない事態に限定する必要はない。よく知られるように、親子の世界は、もっとも殺人の起こりやすいトラブルの巣なのであって、いらぬトラブルを避けることを不孝と言ってもよいと思う。

――とはいっても、親と子の連続性が、出生率の低下や晩婚化で鈍化していくと、われわれはまた、さまざまな逃げ道を考えたり、神話や民俗に何かを探し始める。最近見た映画では「ミッドサマー」とか「ラム」がそうであった。前者では、どこか北欧のコミュニティでおこなわれている、老人の自殺幇助やマレビトとの性交による血の刷新や、穢れを集団的に落とすための生贄の儀式などに、現代の病んだ大学生が巻き込まれる。親と妹を亡くした彼女は、うまくいっていない恋人をその儀式で殺し、どこかしら吹っ切れた様子であった。後者では、娘を亡くした夫婦の牧場で生まれた山羊が獣人で、その子を勝手に娘に見立てて育てるが、最後はその獣人の父親と思しき獣人に夫が殺されてしまう。最後の場面で、残された妻は絶望しているのであろうか。そうは単純にはみえなかった。むしろ、彼女ははじめて個人的な絶望と嘆息を得たようにみえた。

こんな映画を見ても、われわれが明朗さを失っているのは、抱え込んだ人間関係が生殖に関わっているストレスが明らかに関与しているように思われた。

ちょっと話題が違うが、目取真俊氏の『水滴』を久しぶりに読んだ。主人公徳正は沖縄戦の生き残りで、いくらかの人たちを不可避的に見捨ててしまった苦しみから遁れられず、ちょっと体のいい沖縄戦の語り部として生きている。彼の足から出てきた水を、日本兵や見捨てた人たちが飲みに来る。一方で、その水を毛生え薬や強壮剤として売って儲けてた従兄弟が半殺しにあうエピソードがある。芥川賞をとったときに、このエピソードが余分だという批評があったと思う。でもこれは必要なのである。我々は、戦争時も平時も、愚かな人間であるに過ぎない。原爆や沖縄戦の苦しみも終わらないが、我々が愚かな人間であることにもおわりがない。核兵器が仮になくなっても、原爆を落とされても仕方ないと思われるに至った我々の愚かさは特に変わりがない。べつに、少子化が改善されてもそのかわらなさが、よりよい孝行を生み出すわけでもない。